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内田 洋子 著 『ボローニャの吐息』

d0331556_05282893.jpg ヨーロッパの日常生活風景を描いた本を読むのが好きだ。今回はイタリア。ミラノ、ヴェネツィアの知られざる日常風景は興味深い。
 著者はイタリアのミラノに在住していて、イタリア各地を歩く。そこで暮らさなければわからないことが書かれていて、読んでいて、そうなんだ、と知らされる。イタリアの人の好み、風景から思うことなど書かれる。

 イタリアの男性化粧品メーカーが、調査している。


 <髭。あるとない、どちらが好きか>
 イタリア女性の八割が、「あるほうが好き」と答えている。



 毎年、年末になるとミラノ市からミラノ市民へのプレゼントとして芸術作品が市庁舎があるマリーノ宮で無料展示されるという。


 この数年、十二月になると、市庁舎の大広間に絵画展示される。早朝から夜八時頃まで開いていて、誰でも自由に観賞できる。選ばれる絵画は、一般公開されていない幻の名作だったり、遠方にあって容易く鑑賞できないものだったり、訪問者たちは少人数に分かれて入館し、グループごとに選り抜きの美術史の専門家たちがついて、丁寧な説明を受けながら間近で観賞できる。

 今回の贈り物は、ラファエロ作の絵画『エステルハージの聖母』である。


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 「いまのミラノは、そしてイタリアは、新しく生まれ変わろうとしています。そのための勇気と励ましを、どうぞ名画から受け取ってください」
 市からの計らいは粋である。



 こういうのっていいなあ、と思う。自治体が住民にこういうサービスが出来るなど、ヨーロッパならではないか、と思う。さすがヨーロッパだ。
 エーゲ海の南東端で思ったことが書かれる。そこは今でも歴史が取り残された感じのする場所だった。


 <常に最新を追う毎日は、いったい何の役に立っているのだろう>
 ミラノや東京での生活を思う。
 季節が夏のまま止まっているように、島の時間は数世紀前から進んでいないように見える。


 居心地の悪さや不便は、年を取るうちに愛着へと変わった。今さら現代的な家屋に移る気はない。新しいものは便利かもしれないが、空々しい軽薄さがあってすぐ飽きてしまう。



 こういう本を読んでいると、今でもヨーロッパは必ず歴史を感じさせるものがある。今と過去がうまく同居している。そしてそこに残された過去は、今の状態がこれでいいのかと考えさせる。
 歴史を残すというのはきっと不便なことなんだろう。でも長い年月残ってきたものは、残ったと言うことに意味がある。歳月の荒波に揉まれて、残ったものには、それだけで価値があると思うのだ。それが建造物であろうが、習慣、風俗であろうが、そこに根付いたものには何か意味があるのではないか、と思ったりする。


 結局、私のくしゃみと喉のイガイガは、薄着でひいた風邪のせいではなかった。
 「ポプラでしょう」
 後日、普通の薬局に行って相談すると、即座に薬剤師が診断を下した。
 花粉症。
 冬場ん濃霧が晴れたかと思うと春霞がたなびき、その典雅さを楽しむ間もなく花粉が飛び始める。この時季になってまだ霧が出るのか、と薄白く曇った屋外を驚いて見るとそれは花粉なのである。
 五月になると、山から野から、森林から街路樹からいっせいにポプラの花粉が飛んでくる。その量たるや、視界がきかなくなるほどだ。車のフロントグラスが真っ白に曇り、慌ててワイパーを動かすと、濡れた花粉が団子状に固まって目の前を往来している。路面は花粉に覆われ、霜が降りたようだ。公園を散歩する犬たちまでがくしゃみを繰り返す。花粉が綿菓子のように濡れた花頭に付き、犬たちは煩わしそうに両脚でこすり上げている。
 うちは六階なのに、窓を開けるととたんにポプラの花粉が飛び込んできて、白いふわふわの綿玉となり家じゅうを転がる。ハックショーン。


 ミラノの花粉状況?が書かれていて、ポプラの花粉がこんなにひどいものだとは知らなかった。花粉が綿玉みたいになるところに私などいられないかもしれない。

 ヴェネツィアの“色”の記述が興味深かった。


 「皆さん、ここは水の都と思っているのですが、中世からずっと紙の町だったのですよ」
 言われてみてなるほど新刊書店は数少ないものの、古本や古書を扱う店は多い。堂々としたファーサイドの建物があり近づいてみると、公文書館だったりする。
 店主はペン先をインク瓶に浸けると、
 「お試しください」
 と、手漉きの紙を置いた。
 茶系のインクで、色が厚くのったところは鈍く光る骨董の家具のような奥行きがあり、あるいは濃く入れた紅茶のようである。だんだん掠れて色が浅くなってくると赤みが勝ち、紙の味わいがインク越しに透けて見えるのだった。
「セビア(イカ墨)ですよ」
 店には<闇>や<外海>など、これまでどれほどの物語が記されてきたことだろう。色の数だけヴェネツィアが、インク壺とガラスペンの向こうにある。真っ白な手漉きの紙が、新しい物語に出会うのを静に待っている。

 長らくヴェネツィアは、ヨーロッパの玄関口だった。東洋と西洋が初めて遭遇したここは、海でもなければ陸でもない。流れるようで流れず、留まるようで安定はない。そういう場所に、世の中のすべてが集まった。入ってくるもの、出ていくもの。物資であり情報であり、人材であった。チャンスがあった。
 すべてが生まれる場所は、またすべてが果つるところでもある。
 海の向こうから届いた植物や食材は、そのまま世界の往来の流れを記すための染料の元ともなった。色の変遷はヴェネツィアの歴史でもある。



 こうして交易の中心であったヴェネツィアは人々が行き交う。人が移動するということで歓迎されないものも入ってくる。ペストである。ヨーロッパ中世の歴史はペストの歴史でもあった。
 仮面屋という工房で、そのペストの歴史を垣間見ることが出来た。


 フランコは壁からその仮面を外し自分で顔に着け、私のほうに近づきながら顎をしゃくってみせた。鼻の先がぐいと上がり、私は二、三歩後ずさりした。怪鳥に突かれるようで、恐ろしかったからだ。白い仮面に開いた眼孔から、フランコの緑色の目がじっとこちらを見ている。
 「そばに寄り過ぎるとうつるし、ひどく臭っただろうからね」
 中世から近世まで、欧州は繰り返しペストの大流行に見舞われた。交易の中心だったヴェネツィアは、異国からの文化や物資とともに疫病の伝播も担い、繁栄と絶滅を交互に経験してきた。荘厳な教会の大半は、犠牲者の慰霊と加護のために建立されたものである。
 疫病の蔓延する町で医者や聖者たちは、この鼻の長い仮面を着けて、距離を置きながら病人を介護し、遺体を処理した。鼻先が下方に湾曲しているのは、病人の吐息を直接吸い込まない工夫だったのだろうか。

 外した仮面の長い鼻は空洞になっている。作業台の下からフランコは木箱を出してきた。ガラス瓶が並んでいる。<ローズマリー><ラベンダー><八角><ニンニク><ヒノキ><ミント>など蓋に記してある。
 フランコはおもむろに瓶から香草をつみ出して小皿に入れ、指先で混ぜ合せたものを仮面の長い鼻に詰め込み、着けてみてごらん、と緑色の目を私に向けた。
 仮面を着けたとたん、匂いは鼻孔に抜け喉を通って五臓六腑に沁み渡った。
 「こんなものでは、とても足りなかっただろうがね」
 口で息をしている私から仮面を外すと、口にかかるあたりに濡れたガーゼを当て、もう一度着けてみるように、と手渡した。
 強烈な酢と香油が口元から目頭を刺し、むせ返った。
 「香草も香油も、ヴェネツィアには売るほどあったからね」
 同じ材料が平和な時代には絵画や印刷を彩るものに使われ、ペストが蔓延すると臭気剤しや殺菌剤として利用されたのである。
 芸術と病は、同じ天然の染料で繋がっていたのか。
 ヴェネツィアの色。



 染色の材料が時に香料にもなる。その香料が強烈な腐敗した死体の臭いをまぎらわすために、消臭剤となった。
 ペストの遺体を扱う医者などが異様な格好をしていたのは聞いたことがある。ネットで調べてみるとその写真があった。


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 大学時代「ギルド」に興味を持ったことがある。ギルドは職人仲間の集団だけをいういのではない。大学にもあった。むしろ大学の発祥はボローニャで、学生たちの組合から始まったはずだ。その世界最古の大学のボローニャには著名な学者たちがいた。


 大学の街である。ボローニャ大学の創立は、十一世紀に遡る。欧州で最も古い大学だ。後続する世界の大学は、ボローニャ大学を見本にして創られてきた。『大学の母』である。その九百年余りの歴史の中で、『神曲』を著したダンテや地動説のガリレオ、コペルニクスなどの多数の天才を輩出し文化の礎を築いてきた。近くは、『薔薇の名前』で知られるウンベルト・エーコも教授を務めていた。


 そして今も昔もボローニャでは多くの人がここから入ってきて、出ていく。


 ボローニャは内陸部に位置しながら、半島の両側にある海から路線が交錯する、重要な中継地点でもある。四方八方から集まっては、また拡散していく。受け入れて、抱き込まず、送り出す。自由な流れがある。世の知性がこの街に集まるのは、この風通しの良さによるところも大きいのだろう。多種多様な人々が各々の理由で旅をし、ボローニャを通り抜けていく。駅は、大きな海峡を前にする入江のようだ。


内田 洋子 著 『ボローニャの吐息』 小学館(2017/02発売)

by office_kmoto | 2017-08-29 05:56 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

酒井 順子 著 『地下旅!』

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 今は歩いて10分ほどで最寄りの地下鉄の駅に行ける。昔は地下鉄を乗るにも、JR(当時は国鉄だった)に乗るにしても、まず駅までバスを乗らなければならなかった。家がちょうど地下鉄とJRの中間地点にある。その中間地点に新たな地下鉄が通って、便利になり、今はどこに行くにしてもこの地下鉄を使う。
 で、地下鉄派かJR派かと聞かれれば、私は地下鉄派である。高校の通学から地下鉄を使うようになり(この頃はバスで地下鉄の駅まで行った)、それ以来地下鉄派なのだ。

 この本で著者が乗った地下鉄の路線はどこかで利用している。それぞれの路線図が記載されていて、さてどこの駅を利用したっけ?と思い出すのは楽しかった。
 最初はそれぞれの路線で利用した駅を思い出し、その思い出など書いてみようかと思ったが、書いているうちに、なんだけ面倒になりやめた。

 普通の生活においては、反対に「閉ざされた空間だからこそ、地下鉄は落ち着く」という気分が、私にはあります。あまりにもたくさんの情報に囲まれて過ごしているからこそ、地下鉄に乗った時の窓の外に何も見えないシャットダウン感は、落ち着く。ほんの十分ほどの乗車であっても、安全地帯に逃げ込んだような気持ちになることができ、地下鉄内での読書は至福の時間なのです。

 地下鉄の中で本を読むのが、好きです。外の景色は見えないから、集中力がそがれる心配は無し。地下鉄特有の音も、周囲のおしゃべり声をかき消す役割を果たしてくれて、読書に没頭することができるから。

 私も地下鉄に乗ると、必ず本を読む。よく読める。やはりこれは地下鉄だからこそ、という気がする。最近はスマホを見る人がかなりいるが、なんでスマホなんか見るんだろうと思ったりする。こんな素晴らしい読書空間があるのにもったいないなと余計なことを思うことも度々だ。
 地下鉄は外の風景が見ないというところがいい。電車にしても、バスにしても、地上を走る乗り物だと、どうしても外を眺めてしまう。よく小さな子供が席に着くと、靴も脱がずに、母親に靴を脱ぎなさい、と叱られながらも窓に顔をつけている姿があるが、あの気持ちになってしまう。だから落ち着いて本が読めなくなってしまう。バスは好きなのだが、本が読めないのが私にとって問題なのだ。
 もう一つ東京の地下鉄の特徴をうまく言っているな、と思うもの。

 さらに地方の人はよく、
 「東京生活って、駅まで歩いたり電車に乗り換えたり、やたらと歩くので驚いた!」と言うのです。確かに我々は、車移動ばかりの人に比べると、駅においてかなり運動もしているもの。

 地下鉄を乗り換えるとき、接続が便利だと思って利用している。路線図では簡単に乗り継ぎが出来るように書かれているけれど、実際歩いていると、結構歩かされているものだ。歩いている内に結構歩くんだな、と思うことがよくある。

 平和な空気が流れるカフェにおいてコーヒーを飲みながら思ったのは、中目黒という街全体が、「なかったら死ぬ、というわけではないけれど……」というものに溢れていることなのでした。素敵なインテリアグッズも、のんびりできるカフェも、なければないで生活はまわっていくのです。しかしそれらがあると、ちょっと嬉しかったり、ちょっと楽しかったりする。

 これは日比谷線で、中目黒について書かれた文章。今年桜を見に目黒川に行ったけれど、人が多くてまわりの店を見る余裕はなかった。この「なかったら死ぬ、というわけではないけれど……」という文章は酒井さんらしい。
 同じように有楽町線で著者がディズニーランド帰りの客を見て感じたことが書かれている。

 そう、「カワイー!」という言葉を好きなだけ言うことができるのが、ディズニーランドという場所なのです。気の利いた感想など考えなくとも、何を見ても「カワイー!」と叫び、スペース・マウンテンに乗ったら、頭を空っぽして「キャーッ」と叫ぶ。

 いかにもディズニーランドに行きましたよ、とミッキーの耳を頭に付けた女の子をよく見かける。まだ夢の国から帰還していない感じだ。
 最後に大江戸線の概要をよんでへえ~そうなんだ、と思ったこと。
 何でも大江戸線は日本の地下鉄路線のなかでもっとも駅数が多く、単一の地下鉄路線としては日本最長なんだそうだ。築地のがんセンターへ行くとき、何度も利用した。ただ車内が狭く、向かい側と近い。その間に人が立っていると、移動するのが大変だった。聞いた話では、何でもこの路線を作るにあたり東京都は金がないから、電車をコンパクトに作ったと聞いたことがある。

酒井 順子 著 『地下旅!』 文藝春秋(2013/02発売) 文春文庫


by office_kmoto | 2017-08-24 05:59 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

村上 春樹 著『象の消滅―村上春樹短篇選集 1980‐1991』

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 中断していたこの本を読み終える。
 ここに収録されている短編はほとんどオリジナルで読んでいる。
 物語は自分では普通の生活を送っていると思っているのだが、相手はそう思っていない、という主人公たちの話が多い。“ちょっと変わっている”と思われているのだ。けれど私は彼らが変わっているとは思えないところがあって、そういう生活をしている彼らに妙な共感を覚えてしまう。きっと私は彼らと似ているところがあるのだろう。それが相手には癪に障る。そういうことらしい。
 でもどうなんだろう。彼らは多少他の人より几帳面で、寡黙なだけだ。
 私は村上さんの描く主人公たちの几帳面で、寡黙さが好きである。たぶん村上さんがそういう性格なんじゃないか、と思ったりする。

 「そうかしら」と女は僕の頭にやわらかな楔を打ちこむように、静かな口調で言った。「あなたそれほど自分の能力に自信がもてるの?あなたの頭の中のどこかに致命的な死角があると思わないの?そうじゃなければあなたは今頃もう少しまともな人間になっていると思わない?あなたくらい頭が良くてひとかどの能力を持った人ならね」
 「死角」と僕は思った。たしかにこの女の言うとおりかもしれない。僕の頭の、体の、そして存在そのもののどこかに失われた地底世界のようなものがあって、それが僕の生き方を微妙に狂わせているのかもしれない。(「ねじまき鳥と火曜日の女たち」)

 だから、

 存在していることは知っている。でも存在しないものとして対応している。(「TVピープル」)

 朝には何もかもうまくいきそうに感じられる。今日はこの本を読んで、このレコードを聴いて、手紙の返事を書こうと思う。今日こそ机の引き出しをかたづけて、必要な買い物をして、久し振りに車を洗おうと思う。でも時計が二時をまわり三時をまわり、だんだん夕方が近づくにつれ、何もかもが駄目になっていく。そして僕は結局いつも、ソファーの上で途方に暮れてしまうことになる。(「TVピープル」)

 ここにある物語はそんな彼らの生活にある日突飛なことが起り、そのことで彼らの生活を際立たせる。そしてその生活そのものは決定事項みたいに、たとえ突飛なことが起こっても基本的に変わらない。
 私がこの短篇集で好きなのは「午後の最後の芝生」である。これは以前読んだ時もいいなあ、と思ったもので、改めて読んでみても「僕」の性格がいい。ちょっと病的な几帳面さは自分にも似ているところがあり、彼の行動が納得できるのである。
 この短編を読む前に庭の掃除をしていたのだが、箒を動かしているときに、少しでも掃き残しがあると気になり、そこに行ってきれいに掃く。そんなことを繰りかえしていたので、自分と同じだな、と苦笑したものである。
 でもだからといって生活のあらゆる面で几帳面で神経質じゃない。結構いい加減なところもある。たぶんこの「僕」もそうなんじゃないか、と思ったりする。ある一点で譲れない、それだけのことことなのだ。

 最後にきちんと本を一冊読んだのはいつのことだろう?そしてその時私はいったい何を読んだんだろう?どれだけ考えても、その本の題名さえ思い出せなかった。人生というのはどうしてこんなにがらりと様相を変えてしまうのだろう、と私は思った。憑かれたように本を読みまくっていたかつての私はいったいどこに行ってしまったのだろう?あの歳月と、異様とも言える激しい熱情は私にとっていったい何だったのだろう?(「眠り」)

 この文章を読んだとき、そうだよなあ、と思ったものだ。高校時代から今までかなりの本を読んできているけれど、内容を忘れてしまって、読んだことさえ忘れている本がたくさんある。そう思うと、あれほど夢中に本を読んできた時間って何だったのだろう、と思うことが確かにある。特に高校時代に授業中でさえ隠れて本を読んでいた。あの「異様とも言える激しい熱情は私にとっていったい何だったのだろう?」と思う。

 記憶というのは小説に似ている。あるいは小説というのは記憶に似ている。
 僕は小説を書き始めてからそれを切実に実感するようになった。(「午後の最後の芝生」)

 記憶というものは、厄介で面白い。こうして私につまらぬ文章を書かせるのも、記憶の琴線に触れたものがあるからで、小説だって記憶があるから書ける。似ているのではなく、そこから発生しているのではないか。

村上 春樹 著『象の消滅―村上春樹短篇選集 1980‐1991』 新潮社(2005/03発売)


by office_kmoto | 2017-08-21 06:03 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

北尾 トロ 著 『恋の法廷式』

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 傍聴人を数多く集める裁判ベスト3は、大事件(大きく報道されている事件)、有名人が被告人、下半身もの(売春防止法違反、強制わいせつなど)が相場。

 ということらしい。それでトロさんが傍聴する裁判は、このようにあとがきに書いてある。

 懲役2年か3年。ぼくが傍聴する刑事裁判の平均的な量刑は、おそらくそんなところだろう。罪状は詐欺や窃盗、強盗、大麻取締法違反、覚せい剤関係、ストーカー、恐喝……。実刑より執行猶予がつく事件が多い。

 でもこうしたセコイ事件、報道されない事件こそ時代の鏡だという。いわゆるニュースになる裁判とは意外に少なく、裁判のほとんどがこうした事件で9割近くじゃないかとトロさんは言う。
 それでこうした裁判に共通しているのは被告人の強い勝手な思いこみが事件を生む。当人の沸点が低いさが理性を吹き飛ばしてしまう。それがトロさんの言う<笑撃的シーン>を期待となる。実際読んでいるともうちょっと考えれば何とか踏みとどまれるだろう、と思えるのだが、そこはやはり裁判沙汰となると違ってくる。そこでトロさんは、

 人は感情の動物だと言われる。感情こそ、人の行動の最大の動機になり得るからだ。ならば被告人の犯行時の気持ちを多少なりとも理解するには、証拠ばかりではなく、その場を支配した感情について考えるのが近道ではないか?裁判は証拠の有効性を最優先しなければならず、検察も弁護人もそこに縛られている。でも、傍聴人であるぼくにはそれが可能なはずだと考えた。

 だからトロさんは被告人の当時の心情について自由につっこみを入れる。その常識人としてつっこみが笑いを誘うのは、やはり彼らがちょっとおかしい、というところにある。
 でもトロさんの突っ込みは最初の頃の傍聴記からすると、鋭さが鈍っている。最初は本当に面白かった。
 で、面白かったものを書き出してみる。

 胸が大きかったり、お尻がバーンとしてセクシーな女性を表すとき、よく使われる漢字は「巨」である。巨乳や巨尻は単にパーツが立派というだけでなく、ウエストのくびれがあることが前提となった言葉。「巨」の看板を掲げるためにはメリハリのあるボディが必須となる。
 しかし「爆」は違う。「巨」の上を行くスタイルの良さを想像してはならない。「爆」は大迫力の胸や尻を示しつつ、くびれなしを保証しているのだ。全身が飽満であってこその「爆」である。くびれなど何の値打ちもない世界だ。
 「爆」を売り物にする風俗店の存在意義は希少価値だろう。日本人はスリムだから人材豊富とは言えないし、風俗店で働くとなればなおさらだ。「爆」にダイエットはあり得ない。豊満ボディを利用して金を稼ぐと言えばラクそうだが、売れっ子になるは体形維持が欠かせず、食費をケチるわけにはいかない。

 検察が「あなたは売春していましたか?」と皮肉ると、「はい」と答えた。不思議な感じがするかもしれないが、売春防止法違反で捕まるのは働かせた側と買った側なので、証人は自由の身なのだ。

 ところでひとつ、出会い系サイトで知り合った男から金を奪った女の話が気になる。
 被告人は出会い系サイトで知り合った五十代の男性に、親が事故にあい、手術が必要だと嘘をつき、50万円を振り込ませた、トロさん好みの洗練されたファッションの女の裁判。
 この50万円がミソ。100万円ならちょっとためらう金額だろう。少なくとも出会い系サイトを利用したことがバレて家庭の危機になるのと、50万円をドブに捨てるのとどちらがいいかを考えれば、50万円というのが人生の勉強代としてギリギリに諦めのつく金額なのだという。
 しかしトロさんの友人である女性はこの女の心情を語る。

 「違うね。答えはこうです。被告人は被害者にヤラセてないのよ。少なくとも50万円せしめる前はそうだったと思う。だから(男は)出す」と言う。

 出会い系で知り合いながら、させてくれそうで最後の一線を越させない相手。それこそが男の欲望を最大限に高める。そのためにできることは何でもしたくなり、大金である50万円が、目的成就と人助けを兼ねた、出しても良い金額に思えてくる。

 なるほど。鋭い!
 
 で、これ、何か思い出しません?元アイドルの国会議員。この女性議員、一線は超えてない、と言っていた。だからこそ相手の市議会議員は、かつてのアイドルと一線を超えてみたいから、妻子がいても女性議員のために頑張っちゃったのだ、と言えません?そして彼女が国会議員になって、一線を超えさせてもらったのだろう。

 と思える。

 まあどうでもいいけど……。

北尾 トロ 著 『恋の法廷式』 朝日新聞出版(2017/08発売) 朝日文庫


by office_kmoto | 2017-08-18 15:50 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成29年8月日録(上旬)

8月1日 火曜日

 曇りのち雨。

 椎名誠さんの『本の雑誌血風録』を読む。


8月2日 水曜日

 曇り。

 さつきの消毒をする。

 椎名誠さんの『新宿熱風どかどか団』を読む。


8月3日 木曜日

 曇り。

 整形へ首の牽引リハビリ。

 夕方築地場外市場に火事がある。一昨年から今年の初めまで何度も築地のがんセンターへ行っていたので、帰りや昼などこの場外市場も何度か歩いた。だから火事があった場所も知っている。思わずやっちゃったなあ、と思う。築地が豊洲に移転する話が頓挫したままになっているけど、この火事が豊洲移転に何らかの影響を与えるかもしれない。もしかしたら豊洲移転に弾みをつけてしまうかもしれないな。
 火事のニュースをやっている時に、安倍首相が改造内閣の会見を行うのと重なってしまった。ここのところ支持率が大幅に低下しているため、この改造を行ない、会見を行って支持率アップを目指したようだが、この火事のため影が薄くなってしまった。まったくこの人、残念な人だ。

 夜7時半過ぎ、義理の妹の長男に女の子が生まれた。


8月4日 金曜日

 曇り。夜遅く雨。

 床屋に行く。

 森まゆみさんの『昭和の親が教えてくれたこと』を読む。

 築地の火事の火元はどうやら有名なラーメン屋のようだ。ここを何度か通ったとき、食べてみたいな、と思ったが、いつも人がいっぱいで、それを見るだけで、そのうちに、なんて思っていたら、こんなことになってしまった。
 歩道や通りにちょっと出ているテーブルで立ちながら食べるところで、アジア的な感じだった。
 火元となれば、これだけの火事を起こしたのだから、たぶん再開されないかもしれない。残念。

 昨日父親から、実家に置いてきた朝顔が花をたくさんつけてきれいだ、という電話があり、話のついでに築地の火事の話にもなった。父親もこの場外市場を歩いていたので、気になったのだろう。でも父親も私ももう築地に改めて行く気にはなれない。
 悲しく、つらい思い出がある町というのは、行くことが出来ないものだ。私はここ以外にも足を運べない町があるが、ここもその一つとなってしまっている。


8月9日 水曜日

 晴れ。

 台風が来ていたが、東京はほとんど影響がなかった。そして今日は台風一過。気温37.1度と今年最高を記録。

 北尾トロさんの文庫が発売されたようで、メールでそれを確認した。それで散歩がてら、駅前の本屋さんで買おうと思い出かける。しかしなかった。やれやれ文庫の新刊もないのか、と思いつつ、仕方ない、ネットで注文することにする。
 ブックオフオンラインで見てみると、ここでも新刊は買える。もちろん定価である。これはいいや、と思いつつ、送料無料にするために、欲しかった南木佳士さんと佐伯一麦さんの古本を加えて、注文する。
 本屋で買いたくてもその本がないから、結局こういうことになってしまうんだよなあ。1冊の欲しい本を買うために、わざわざ遠出する気にもならない。ましてこの暑さである。
 買った本をすぐ読みたいところがあるが、図書館で予約している本があるので、それからになるから、それらが読み終えた頃、ちょうど届くので、それで問題ない。


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 昨年お隣さんから頂いたサギソウをダメにしてしまった。そして今年もまた一鉢頂いて、それが花を咲かせる。今度の鉢は蕾をたくさん持っていて、楽しみだ。そして今度こそきちんと管理して、来年も咲かせなければならない。

 北杜夫さんの『楡家の人びと』をやっと読み終える。


8月10日 木曜日

 曇り。

d0331556_06461477.jpg 群ようこさんの『午前零時の玄米パン』 (本の雑誌社1991/06発売)を読む。
 高校時代から本を読み始め、本が増えた。このままだと本が増えつづけるので、何度か売り払ってきた。だから今の本棚には当時読んだ本が残っているのは少ない。その少ない本のうちの一冊がこの本である。実はなぜこの本が残っているのか自分でもよくわからない。もしかしたら処分し忘れたのかもしれない。
 この本を読んだのは、先に読んだ椎名誠さんの本で、群ようこさんの話が面白くて、事務所に彼女の話を聞くために多くの学生たちが集まっていたという。
 それを読んで、どれ読んでみようという気になった。
 たしかに面白かった。我々男が知り得ない女性のあからさまな生態が書かれていて、「ふ~ん、そうなんだ」と思いつつ読んだ。彼女の自意識過剰が他の女性と比較で面白味を生んでいる。


 これでも?彼女は道でナンパされた、という。しかしナンパを仕掛けてくるのはくたびれた中年のおっさんばっかりだった。
 ある日、上野の都美術館の前にいた青空はるおによく似たおっさんが、彼女の手を握り、まじまじと顔を見て、


 「うーむ、まるで岸田劉生の麗子像のようだ」

 誰がそんなこといわれて喜ぶか!手をふりきって帰ってきた。


 これは大笑いした。この本の最後のページに著者の近影があるが、それを見てみると、外観としてそう見えるかもしれないな、なんて思った。

 一昨日注文したブックオフオンラインから北尾トロさんの新刊が届いた。ブックオフで新刊を買うのはなんか変な感じ。

 マイケル・サンデルのDVDの続巻を見る。サンデルによるジョン・ロールズの政治哲学はわかりやすかった。
 競争社会にあって、富裕層、貧困層、持てる者、持たざる者に関係なく、同じスタートラインに立てるのが望ましい。そこから努力し、競争に勝ち抜いていく。その結果の果実として、高収入(サンデル教授は便益と言っている)を得ることになる。
 しかしたとえスタートラインが同じであって、個々の能力が遺憾なく発揮できても、スタート以後にも恣意的なアドバンテージがどうしても働いてしまうという。どういうことかと言えば、競争や努力の過程で、その者の生まれた環境などにどうしても左右されてしまう。生活にゆとりのある家庭に生まれた者は、ゆとりのない者より、勉強しやすいはずだ。そして彼らの生まれた環境は彼ら個人の能力で得たものではない。つまり完全なる機会均等・平等はあり得ないということである。それはどうしようのないことである。ここでジョン・ロールズ限定された格差社会を肯定する。それを肯定するための限定とは何か。
 絶対的な平等な機会均等はないとするなら、結果を平等にすればいい、と言うのだ。競争に勝って高収入を得た者はそこから高額納税者となればいいだけのことだ。ただそれだけである。ここから分配の正義、道徳的正義は一致しもなくてもいいという考えになる。
 これはなるほど、とすっきりと私の頭の中で入ってきたのである。


8月11日 金曜日

 曇り。

 借りてきたマイケル・サンデルのDVDを返し、最後の巻を借りてくる。ついでに城東電車の沿線案内のカラーコピーを取ってくる。城東電車の資料を集めている。これは城東電車の路線地図と古蹟名所案内、普通賃金表になっている。古蹟名所案内、普通賃金表は路線図の裏にあり、そこに大正14年12月10日と印が押されているからその当時のものだろう。発行者は城東電氣軌道株式會社である。これはなかなか興味深いもので、城東電車を知る上で貴重なものじゃないか、と思っている。
 あと予約していた本2冊と、群ようこさんの古い本を借りてきた。


8月12日 土曜日

 雨のち曇りのち晴れ。

 原口 隆行【著】『日本の路面電車〈2〉廃止路線・東日本編―思い出に生きる軌道線』(JTBパブリッシング2000/04発売 JTBキャンブックス)の城東電気軌道の項目を読む。その歴史がわかりやすく説明されていた。それと昨日コピーを取ってきた路線図を見てみると、さらによくわかった。
 その路線図をスキャナーで読み込んで、パソコンに取り込む。

 先日ブックオフオンラインで注文した南木佳士さんと佐伯一麦さんの本が届く。こちらは古本である。しかしちっとも古本らしくない。南木さんの本なんか、初版の新品である。これで108円とは驚きである。ここで買うのは間違いがなくて安心だ。

 明日からお盆である。そのため仏壇の掃除と飾り付けをやる。


8月13日 日曜日

 曇りのち晴れ。

 墓参りへ行く。

d0331556_06472450.jpg 群ようこさんの『別人「群ようこ」のできるまで』 文藝春秋1985/12発売)を読む。
 この本は本の雑誌社の最初の社員である群ようこさんの話である。だから『本の雑誌血風録』の別話と読んでもいいかもしれない。
 もともと椎名さんのこの本を読んで、群さんのこの本を読みたくなった。
 群さんのペンネームの由来については、先の椎名さんの本のところで書いた。ここにはそのことが詳しく書かれているので引用してみる。
 群さんが書評のコラムを依頼された時、群さんがペンネームを付けて欲しい目黒さんに頼んだことに始まる。


 「ボク、ペンネームつけるの大好きなんだ」
 といった。そして、
 「実は、十個のペンネーム持ってるの」
 と教えてくれた。
 「車の雑誌に書くときのペンネームなんか車道郎(くるまどうろう)っていうんだよ」
 そういって笑った。ペンネームを考えるのはとても時間がかかるのかと思ったら何と五分で決まってしまった。まず苗字のほうは、目黒さんがペンネームのなかで一番に気に入っているという群一郎の群をのれん分けしてもらった。問題は下のほうの名前である。目黒さんはすぐ、
 「よし!ようこにしよう」
 と明るくいった。
 「どうしてようこなんですか?」
 「ボクの初恋の人の名前なの」
 あくまでも目黒さんの個人的な思い入れで、私のペンネームはいとも簡単に決まってしまったのである。そのとき単純に、
 「わ、もう一人別の自分がいるみたいで面白いな」
 と無邪気に喜んでいたのだが、まさかこの名前で仕事をするようになるとは思ってもみなかった。今になれば、
 「もうちょっと知的な名前のほうがよかったな」
 という気もしないではない。たとえば漢字で慶子とか麗子とか、こみいった漢字だと重々しい雰囲気がただようではないか。ようこでは、いつまでも幼稚園児みたいな女がキャピキャピとはしゃいでいるような気がしてくる。一度目黒さんに、
 「たった五分でペンネームを作っちゃうんだから」
 と冗談まじりにいったことがあった。



 ようこという名の単純さに残念がりつつも、もう一人の自分が別人としてあるような、楽しい気分になるのであった。

 このあと群さんが本の雑誌社を退職する時、私が辞めたらこの会社どうなるんだろう、と思ったことが書かれていた。群さんは自分が退職したら会社は立ち行かなくなるのではないか、と思ったのだ。その気持ち、自分も持ったことがあり、その時と重ね合わせ、例の如く自身の経験をこのまま書き綴っていたら、またいつものところ行きつきそうになるのを感じた。
 その時点で書いたことを、一気に消去する。こういうときパソコンで文字を書いていると楽である。きれいに消えてくれる。少なくとも文字に関しては。
 いったいいつまで4年前のことを引きずっているんだ、と情けなくなる自分がそこにはあるが、幸い4年経ったおかげで、泥沼に落ちこむ前に留まることが出来る。自制できる。つまらぬことはもう書かない方がいい。


8月14日 月曜日

 雨。

 朝雨が降りそうで降らない感じの中、実家へ散歩がてら出かけてみる。置いてきた朝顔はもう花が終わりそうであった。我が家の朝顔もよく咲いてくれた。


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 今年は昨年、ピンク系統の花を咲かせた種だけを蒔いたので、こんな感じになった。

 近所のお気に入りのパン屋で昼飯用のパンを買って帰る。途中、雨が降ってきた。考えてみれば雨模様だと外に出ないので、こうして雨に降られるのは久しぶりだった。歩いていてからだに熱を持っていたためか、濡れても気持ちがよかった。

 南木佳士さんの『生きてるかい?』を読む。


8月15日 火曜日

 雨。

 まったく夏だというのに、陽が出る日がほとんどない日が続く。雨の中わざわざ散歩に出かけることもないので、家にいる。ということで本を読んで、それからサンデル教授のDVDを見る。これでやっと全巻見終えた。

 北尾トロさんの『恋の法廷式』を読む。

by office_kmoto | 2017-08-16 06:52 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

日比 恆明 著 『玉の井―色街の社会と暮らし』

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 前回前田豊さんの『玉の井という街があった』を読んだ。この本はいわゆる旧玉の井のことが中心に書かれていた。旧玉の井とは昭和20年3月10日の東京大空襲までのことである。
 しかし終戦後焼け残った長屋を改造して場所をずらして玉の井は復活している。
 この本は玉の井の歴史を実地調査した本で、その調査は微に入り細を穿つ。そのため上下二段の400ページ以上の分厚い本になっている。元々は著者の路地裏歩きが昂じてなった本であった。
 玉の井が有名になったのは永井荷風の『墨東綺譚』の影響である。

 永井荷風の『墨東綺譚』によって、私娼窟であった玉の井の地名はその場所は全国に知られるようになった。東京の場末にあったドブと屎尿のにおいが漂う歓楽街のイメージが、荷風の筆によって叙情的に表現された。もし、荷風がこの小説を著さなかったとしたならば、玉の井という銘酒屋街は歴史に残ることはあっても、全国的に知られることはなかったであろう。

 小説では小説家の主人公とお雪さんを叙情的に描いているが、実際は玉の井という所はひどいところであったらしい。それは前田さんも書いていた。

 このように、下水道の施設が昭和四十五年以降であったことから、赤線時代の玉の井には下水道はなく、生活排水ドブに流し、排泄物は汲み取り式に頼らざるを得なかった。狭い町内には300名以上の女給が住み、毎夜女給の人数の数倍の遊客がカフェーを利用するのだから、排泄される屎尿は膨大であったのではなかろうか。肥壺には屎尿があふれ、そのにおいを消すために消臭剤が撒かれることから、屎尿の臭気と消臭剤の香りとが混じり合い、一種独特のすえたにおいがした街であった。

 玉の井という街の変遷は法律・法令のあり方を見ると面白い。
 江戸時代には幕府が認めた特定の地域で廓を設置し女性が春を売ってもいいとした公娼制度があった。
 明治になって女性解放訴える外国からの圧力があり、近代国家の面目を保つために明治政府は、明治5年に「娼妓解放令」を太政官布告として出す。これにより金銭で売り買いされていた女性達は解放され、自由の身となった。しかしこれは売春を禁止したものではない。すなわちこれは女性の自由意志なら売春を認め、そのまま継続して営業してもよいということで、実体は骨抜きでしかなかった。
 明治6年、東京府は、吉原、品川、新宿、板橋、千住の五ヵ所を指定し、この場所なら遊郭の営業を可能とした。逆にこれ以外は私娼窟となる。
 明治33年に出された「娼妓取締規則」で、遊郭で働いている娼妓は、遊郭に売られても、自己申告で自由に廃業できることとなった。しかしこれは裏を返せば、廃業届を出さなければ、自由意志で娼妓を続けることが出来るとも解釈される。ただこの規則で娼妓の立場は改善されたのも事実であった。この「娼妓取締規則」は公娼制度が廃止されるまで延々46年間続くことになる。
 玉の井はお上が管理する公娼地域外であったから、この規則の適用除外地域となり、銘酒屋などが、非合法で売春を行っていた。警察も見て見ぬ振りをしていた。
 そして終戦となりGHQは昭和21年1月21日に「日本に於ける公娼制度廃止に関する件」という覚書を発し、公娼制度を廃止するよう求めようとする。しかし警視庁はこの覚書が発せられる前に手を打って、同年1月12日に「公娼制度廃止に関する件」を通達する。これは公娼制度は廃止するけれども、業者はそのまま営業することを黙認した。すなわち公娼をなくし、すべて私娼窟とすることにしたのだった。接客婦が売春をするのは自発的であり、それであるなら構わないという内容であった。警察にすれば公娼であろうと私娼であろうと同じということである。少なくとも接客婦が自発的に客と遊ぶのであれば、自由意志による売春なのだから、それを強制はしていないということであった。こうしておけばGHQの指摘に該当しない、ということだった。
 以後、GHQが昭和21年1月24日「公娼制度廃止命令」、警視庁が同年1月25日に「貸座敷・引手茶屋・娼妓取締規則の廃止」、昭和22年2月2日内務省より「娼妓取締規則の廃止」と次々と法令規則等が変わっていくほど混乱していた。
 昭和23年5月2日「警察犯処罰令」の失効、同年6月15日「行政執行法」廃止で、売春・淫売などを取る裏づけなくなる。そのため私娼窟を取り締まる法律がなくなったので、カフェーなどがびくつくこともなくなり、また新たにカフェーを開業する者も多かった。
 昭和23年9月1日なり、やっと「風俗営業取締法」が施行され、東京都も「風俗営業取締法施行条例」同時に施行した。これは風俗営業店として許可を得れば、堂々とカフェーを営業すること出来るというもの。この法の風俗店の定義には「待合、料理、カフェーその他客を接待して客に遊興又は飲食させる営業」とだけしかなく、売春どうこうという文言はない。ということはここでも拡大解釈が可能になり、赤線として指定された地域であれば、女給が特別な接待と遊興をしても黙認された。
 またこの「風俗営業取締法施行条例」と時期を合わせて同年9月16日に東京都は「食品衛生法細則」施行する。ここでも「カフェーなどの設備を設け食品を調理し又は客に飲食させる営業」としか規定してなく、女給が身体を売る営業は書かれていないため、売春は黙認された。
 昭和24年5月31日に、東京都は「売春等取締条例」を施行したが、この条例は赤線地域以外の場所、たとえば青線地域やどこの組織のも属さない立ちんぼのような売春婦を、風紀上、教育上良くないということで町から締め出すもので、赤線地域は昭和33年まで安泰であった。
 結局、戦後のカフェーは、あくまでも女給の自由恋愛を前面に出し、営業されていたのである。カフェーはあくまでもその恋愛場所を提供する場所なのであった。そういう建前で売春が肯定されてきた。
 しかし社会も安定し、経済成長も始まる時期、女性の社会進出、地位向上などで売春が半ば公然と行われていることに目をつぶっていられなくなってくる。昭和28年第15国会で「売春等処罰法案」が提出されたが国会が解散したため審議未了となった。翌年19国会でも「売春等処罰法案」が提出されたが、会期末を迎え、次回国会に持ち越され、第20国会では法案が廃案となる。しかし昭和31年に政府は「売春防止法案」を提出し、可決され、同年5月24日に公布された。
 公布されたものの施行は昭和32年4月1日となり、その罰則規定は昭和33年4月1日するものとして規定された。この法律も罰則規定の施行も通常より猶予期間が長い。これは全国にある39,000軒もあるカフェー業者、12万人もいる女給の転廃業を円滑に行わせるのにはこのくらいの時間が必要だという配慮だった。
 昭和33年4月1日が「赤線最後の日」となる。もっともこの前にカフェー業者、女給達は転業を行っていて、一気に灯が消えたというものではない。中にはこの法律の廃案に希望を持っているカフェー業者もいたらしい。
 ところでこの赤線だが、食品衛生法で保健所から認可を受けたカフェーは「特殊飲食店」呼び、「特飲店」と略された。そしてこの特飲店が密集している地域一帯を「特殊飲食店街」、略して「特飲街」と呼ばれた。その別名が「赤線」あるいは「赤線地帯」と呼んだ。その「赤線」の語源だが、諸説あるらしい。所轄の警察署の地図に特飲街を赤線で囲んだことから、そう呼ばれるようになったのが通説のようだ。昭和23年に東京都は、品川、武蔵新田、新宿、新吉原、千住、洲崎、亀戸、鳩の街、玉の井、亀有、立石、新小岩、東京パレス、八王子田町、立川羽衣町、立川錦町、調布(昭和25年に追加された)の17ヵ所を赤線と指定した。その指定経緯は既成事実としてあった売春地帯を赤線として認めたものであろう、と著者は推定している。
 ではカフェーでの女給の仕事の仕方はどんなものだったのだろう。ここには詳しく書かれている。
 まずは午後九時過ぎまでショートで遊ぶ客を取る。そしてショートの客を2、3人捕まえて(もっと多い人数を取る女給もいたらしい)ひとまずその日の稼ぎを確保してから泊まりの遊客を取ることになる。泊まりの客を捕まえるのは午後九時過ぎからだが、人気のある女給は早い時間に泊まりの客を確保していた。女給全員に泊まりの客が決まると、午後十時前でもカフェーは玄関を閉めてしまう。
 ところでカフェーの遊び方として「ショート」「ロング」「泊まり」があった。「ショート」とはその名の通り短時間で遊ぶことで、「チョン間」とも言う。カフェーに登楼してから15分から30分で一回だけ射精する。
 「ロング」カフェー前で客と女給が「一時間だけ」とか「二時間だけ」とか時間を単位交渉して遊ぶやり方である。
 「泊まり」は文字通り女給部屋で一泊していく遊び方である。女給部屋に入ると荷物を置き、銭湯へ行く。その後一回戦してから睡眠する。翌朝客の体力が回復したらもう一回戦したあと帰ることになる。つまり泊まりは二回戦まで挑むことが出来る。
 その代金も書かれている。昭和30年頃の遊び代の相場は以下の通り。

 ショート 300円~400円
 ロング  500円~800円
 泊まり  800円~1,000円

 これだと実感がわかない。世の中には便利な本がある。朝日新聞から出ていた『値段の風俗史』という本である。この本に公務員の基本給が昭和32年で9,200円とある。これを30日で割ると1日300円程度。ショートの代金と見ていいのだろう。
 女給の一日は泊まりの客を見つけることで終わる。しかし毎日泊まりの客を捕まえることが出来るとは限らない。泊まりの客が見つからなければ必死に客を捕まえようとする。恥も外聞もなく強引な客引きをしたり、あるいはダンピングまでして客を捕まえようとする。客の方もそのことをよく知っていて、カフェーの営業時間外で女給を捕まえれば安く遊べるという下心を持って歩いていた。
 とにかくこの本は玉の井のあらゆることを聞き歩いているので、そこでわかったことがほとんどすべて書かれている感じだ。
 たとえば銭湯での女給達の姿態なども、まあ、細かい。

 女湯に入った女給達が身体を洗う動作は、「特定の部分を念入り洗っていた」という。つまり、下半身の間を何度も丁寧に洗っていたのを目撃したそうだ。女給達がこれから商売を始める前に、商売道具を念入り洗っていたのである。素人の女性から見ると奇異な行動に思えたかもしれないが、女給達にとっては大切な所であることから丁寧に洗わなければならなかったのである。奥の方まで念入りに仕上げていたという。

 布団屋の話も、

 昔は布団は打ち直すことで何年も使い続けていた。一般の家庭であれば、真綿の布団は三、四年に一回程度打ち直しで十分であり、上手に扱えば十五年ほど使えると言われていた。だが、カフェーの布団は、一般家庭のように一人が静かに睡眠するような使用方法とは全く違っていた。カフェーでは大人の男女が布団の上で相撲を取るのである。一日に何組もの男女が布団の上で相撲を取っていた。相当な荷重が加えられるので、布団の損耗は激しいものとなり、真綿のへたるのが極めて早くなっていた。

 確かにカフェーにある布団がせんべい布団であったら遊客に「シケた店」と思われ、再び足を運ぶことがなくなってしまうだろうから、カフェー側もそれなりに気にして布団の打ち直しをしていたらしい。だろうな、と思う。それにしても「相撲」とは言ったものである。
 ネットで玉の井界隈を歩いて写真に収めているものを見ていると、今でも探せば玉の井のカフェー跡を見ることが出来るみたいだ。そのデザインは独特なのですぐわかりそうだ。

 赤線にあったカフェーの建物は独特のデザインで装飾されていた。タイル貼りの柱、丸や扇形の飾り窓、一階の屋根先に取り付けられた大きな庇など、アールデコでもなく、誰がデザインしたというものでもない独特の装飾で飾られていた。いわゆる「赤線建築」とも呼ばれ、戦後の一時期を象徴するようなデコレーションであった。

 戦火で焼け残った長屋を改造してカフェーにするのだが、この本では絵で、長屋からカフェーに変わる姿があるので、それを参考にすれば、カフェー跡は残っていれば見つけられるかもしれない。一度この界隈を歩いて見たいな、と思っている。細かな地図も掲載されているので、探せそうな気がする。
 さて著者のあとがきに、「下町に人情があるか」という話が載っている。これは著者が昔の玉の井を探索しているうちに、たぶん感じたことなんだろうけど、今や「下町」と言えば人情溢れるところと結びつけられるが、ことはそう生易しいことじゃないと知ることが出来る。

 下町での住人同士の交流が多いのは、一つには人口が密集していることが原因である。都内でも有数の人口密集地域であり、どこを歩いても知り合いに出会う。家と家とが接近していて、長屋などでは壁一枚隔てただけで隣家である。ともすれば、夕食のおかずが何であるかも判ってしまうような環境である。収入から支出まで知られてしまうかもしれず、プライバシーはあってないようなものだ。こんな環境に逆らって近所付き合いを止めてダンマリを決め込むと、今度は逆に町内の情報が入らなくなり、生活が成り立たなくなる。このため、表面的には町内の住人と親密に付き合うことにより、居心地を自ら良くしていくことにならざるを得ない。人情があるのではなく、密度の濃い環境ではこのような生活防衛をしなければ生きていけないのが実情である。

 狭い地域で密集して暮らしていくために濃密な人間関係を結ばざるを得なかったわけで、それを人情溢れる下町などと一括りで語るものじゃないのかもしれない。

日比 恆明 著 『玉の井―色街の社会と暮らし』 自由国民社(2010/10発売)


by office_kmoto | 2017-08-14 06:17 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

小玉 武 著 『「係長」山口瞳の処世術』

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 この本は出版されてすぐ読んでいるのだが、これほど訳のわからない本だったという記憶がない。
 どうもこの本はスタンスがはっきりしない。山口瞳という作家の評論なのか、それとも山口瞳から学んだ仕事の取り組み方を書いたものなのか、いずれにしてもすべて中途半端なのである。
 それにしてもたぶんこの本を読む人は、山口瞳という作家のことをさらに知りたくて手にする人がほとんどなんじゃないか、と思うからビジネス書的側面は正直鬱陶しい。
 さらにこの本を読む人は、山口瞳に詳しい人だと思うので、山口さんの作風、作品から見える山口さんの人柄、その根底にあるものをある程度わかっている。だから今さらそれらを書き込まれても、どうもなあ、と思ってしまった。
 山口瞳さんの処世の礎がサントリー時代のサラリーマン時代にあったと何度も書いているが、今さら読むまでもなかったのだが、とりあえず書き出してみる。
 曰く、

 庶民派と無頼派の間を揺れ動き、そんな熱い情念にさいなまれ続けた。だからこそ、生活の糧を得る<生業>、つまり職業と職場というものをただの一度も軽視することがなかったのだろう。<処世>と<人間関係>の意味を知るリアリストでもあった。

 サントリーの宣伝技術課係長時代こそ、山口瞳にとって、部下の指導ばかりでなく、仕事のすすめ方、社内外との交渉術、そして組織における身の処し方を、体験的に修得するまたとない場となったのだ。そこで身につけたものは終生かわることなく、山口の処世の礎となったのである。

 山口瞳は不思議な作家である。権威や権力を嫌う<無頼>でありながら、生きていく上での「型」を大事にする。仕事のやり方、人とのつきあいかたも、酒の飲み方も、そして礼儀作法も、生きるためには「型」こそがまずもって大事だと思っていた。この「型」が定まらなくては、人生は、迷惑を繰りかえすだけだ、と言うのである。

 山口瞳は作家としてデビューする以前、実に十数年間もサラリーマン時代を過ごした。
 山口瞳は勤人という言葉を好んで使っているけれども、その十数年間の勤人稼業こそが、自ら書いているように、経験を通じて得られた知恵を蓄積できた貴重な時間だった。だからこそそうした経験を決して軽々しく扱わない、「生活主義者」とでもいうべき人間・山口瞳を作ったのだった。

 ゆっくりではあったが、とにかくマジメにやってきたからこそ、自分のようなものでも、二十年近くも会社に勤められたのだと言っている。それにしても、どこか牧歌的だ。まあ、「ゆっくり、ゆっくり」ということこそ、山口瞳の会社渡世、開き直りの<処世術>ということだったのである。いまこそ本当は必要なスキルであるのかもしれない。

 山口作品の根本にあるものの多くはサントリーの係長時代に体験し、悩み、考え、処世の方法として身につけた「知恵」である。そして、それが結実した言葉が「人生仮免許」*なのだ。

 この本で唯一感心したことは、開高健さんと山口瞳さんの女性のとらえ方の違いは、うまいこと言い当てているなあ、と思った。

 開高健が「女」の内面と感性と官能に感心を示したのに対して、山口瞳はどちらかというと、「女」の属性、生き方とその能力と特性に鋭い観察眼を働かせた。開高が描こうとする女はどちらかというと抽象化された「女」であり、山口瞳が凝視する女は、職場や街中で見られる具体的な属性を持つ「女」であった。

 確かに山口さんならやはり具体的に相手にする女性の属性を重視するだろうと思う。

 *「人生仮免許」とは今は伊集院静さんが書いている新成人に送る言葉にある。毎年成人の日に出るサントリーの広告である。「人生仮免許」は1978年1月15日の新聞に掲載された。

 二十歳の諸君!今日から酒が飲めるようになったと思ったら大間違いだ。諸君は、今日から酒を飲むことについて勉強する資格を得ただけなのだ。仮免許なのだ。
 最初に、陰気な酒飲みになるなと言っておく。
酒は心の憂さを払うなんて、とんでもない話だ悩みがあれば、自分で克服せよ。悲しき酒になるな。
次に、酒を飲むことは分を知ることだと思いなさい。そうすれば、失敗がない。第三に、酒のうえの約束を守れと言いたい。諸君は、いつでも、試されているのだ。ところで、かく言う私自身であるが、実は、いまだに、仮免許がとれないのだ。諸君!この人生、大変なんだ。

小玉 武 著 『「係長」山口瞳の処世術』 筑摩書房(2009/03発売)


by office_kmoto | 2017-08-11 06:06 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

フレデリック・フォーサイス 著 /黒原 敏行 訳 『アウトサイダー―陰謀の中の人生』

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 この本はフォーサイスの自伝である。もともとこの人胡散臭いところがある人なのだが、おそらく『ジャッカルの日』『オデッサ・ファイル』『戦争の犬たち』まではまともな小説家だったろうと思っている。少なくともこの初期の三部作は傑作だ。
 だからというわけでもないが、私は基本的のこの三部作の頃が一番興味があった。裏話が聞けて、その点は面白かった。
 書名の「アウトサイダー」とはフォーサイス自身の人生をふり返って、そう言っている。

 それらはすべて、わたしは内側(インサイド)から見た。にもかかわらず、わたしはつねに第三者(アウトサイダー)だった。

 社会に所属するためには、自分が何者なのかを公表し、社会に順応し、社会のルールに従わなければならない。それに対して作家は一匹狼でなければならず、従ってつねにアウトサイダーでなければならないのだ。

 人々がますます権力と金と名誉の神に取り憑かれたように仕えるようになっている世界において、ジャーナリストや作家はそこから距離をとらなければならない。手すりにとまっている鳥のように、世界で起きていることを見つめ、心にとめ、精査し、解説する。けっして当事者の仲間になってはいけない。アウトサイダーでいなければならないのだ。

 さて、
 1944年も初夏、ケント州東部に住む五歳の子供であったフォーサイスは、ホーキンジ基地にあるスピットファイアという戦闘機に乗せてもらった。当時スピットファイアに乗って戦った男というのは、そんなサッカー選手や芸能人を凌駕するヒーローであった。

 パイロットたちはわたしをたいそうかわいがってくれた。たぶん自分の息子や小さな弟のことを思い出したのだろう。一人がわたしの両脇をつかみ、高々と抱きあげて、スピットファイアMk9の操縦席におろしてくれた。

 この時フォーサイスはいつか自分も飛行機のパイロットになるという夢を持つ。
 以来フォーサイスはフランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語と学び、修学を終える以前にほとんどを修得していく。すべてはパイロットになるために。そしてさらに上を目指すのは、学ぶのではなく、パイロットになるという夢を叶えるために、空軍に入隊する。そこで訓練をし、パイロット記章を受ける。

 パイロット記章は自分一人の手で勝ちとった自分だけのものだ。子煩悩な父親からもらえるものでも、高級紳士服飾店街のサヴィル通り(ロウ)で買えるものでもない。福引きであたるわけでも、金持ちの娘と結婚すれば持参金といっしょについてくるわけでもない。万引きで手に入るものでも、チームで行う何かの試合で獲得できるものでもない。一生懸命勉強して、必死に練習して、努力して、大空の高い雲の上で、たった一人で戦闘機を乗りこなせるようになって、やっと手に入れるものなのだ。

 しかし職業軍人にならなければそれ以上は進めなかった。兵役に就きたいわけではなく、ただ空を飛びたかったのだ。

 そこで第二志望の職業をめざすことに決めた。わたしは以前から、この広い世界には見るべきものがたくさんあるはずだと思っていた。五十七年たったいまでも、そのとおりだと思っている。見るべきものはたくさんあり、その九十パーセントがすばらしいものだ。わたしには世界を旅するお金などなかった。だが、出してくれるところがあるのを知っていた。大手新聞社だ。わたしは海外特派員になろうと思った。
 わたしはもう夢をかなえたのだ。ホーキンジ基地でスピットファイアの座席に座った少年は、スピットファイアで飛びこそしなかったが、自分にやれることをやった。空軍のパイロット記章をわがものにしたのだ。だから空軍をやめることにした。

 父親からの伝手で、ノーフォーク州ノイリッチに本社がある地方紙のイースタン・デイリー・プレス紙に入る。その後イギリスジャーナリズムの中心地フリート街を目指す。地方紙の記者ではなく、海外特派員になって世界を見たかったのだ。ローター通信に入社し、フランス語が堪能にしゃべれるということでパリ行きが決まる。ここから『ジャッカルの日』につながるネタをつかむことになる。
 当時のフランスはアルジェリアの独立をめぐって混乱と危険な状態であった。大統領に就任したシャルル・ドゴールは最初は極右勢力と同じ立場を取っていたが、アルジェリアの独立はやむを得ないことであり、状況は絶望的と悟り、秘密裏に戦争を終わらせようとする。そのことが明らかになると、駐留フランス軍の大部分が政府にたてつく反乱軍となり、1961年に秘密軍事組織(OAS)を結成する。その目的はドゴールを暗殺してその政権を崩壊させ、フランスに極右政権を樹立することにあった。
 しかし、

 警護員の話を聞いたり、大統領を何重にもとりまく警備の輪を見たりするうちに、わたしはOASによる暗殺は成功しないと徐々に確信するようになってきた。
 警護員の口がけっこう軽いおかげでわかってきたのは、OASには防諜部員がかなり多数潜入しているということだった。四人のメンバーが密談すればたちまち中身が防諜部に知れる。そのうち一人が防諜部員だからだ。
 そうした厳重な警備の輪をすり抜けて、大統領に銃弾を撃ちこもうとするなら、OASにできることはただ一つ、まったくのアウトサイダーに仕事を頼むことだけだ。つまりフランス政府に知られていないプロの暗殺者だ。

 まさしくこれは『ジャッカルの日』である。
 さてフォーサイスはローターの本社から東ベルリン支局員を命じられる。まだ<ベルリンの壁>が存在し、東ドイツがあった頃の話だ。この頃ケネディが暗殺され、ナチスの強制収容所を見たりする。

 わたしは久しい以前からあることを疑問に思っているが、いまだに答えが得られていない。生まれたばかりの、自分では何もできない、ぷくぷくした身長五十センチくらいの赤ん坊。かわいい盛りの三歳児。教会の朝の礼拝で澄んだボーイソプラノを響かせて「テ・デウム」を歌う、天使のような金髪巻き毛の十歳の聖歌隊員。父親の農作業を手伝うその同じ少年。あるいは、会計士や建築家をめざして勉強する十五歳。
 そんな子供が、何年かたてば、人を柱にくくりつけて鞭で打って殺したり、子供を生きたまま焼却炉に投げこんだり、何組もの家族をガス室に入れたりするような冷酷で残忍な怪物に、いったいどうしてなってしまうのだろう。
 だが、そういうことは起きてきた。ドイツだけではない。世界中で、遠い昔から何世代にもわたって起きてきた。世界のどんな独裁者のどの拷問室にも、そうした獣のような人間たちがいる。しかし彼らも最初はみな、かわいい赤ちゃん、よちよち歩きの幼児だったのだ。

 そして次にフォーサイスは1967年も春、BBCの海外ニュース・チームに加わった。アフリカのビアフラに関わることになる。このビアフラ問題をこの本では結構ページを割いているが、東ベルリン支局員の時同様、悲劇、残虐の根本や背後にあるものを考えてしまう。

 自然災害は別として、人道上見過ごしにはできない大きな悲劇は、二種類の協力者がいなければ起こりえない。ヒトラーはナチス親衛隊という制服を着たサディストの集団だけに頼っていたのでは、ホロコーストはやれなかった。その背後でさまざまな地位の役人たちの軍団が組織的に支援しなければ可能ではなかった。
 誰かがたえず制服やブーツや銃や弾薬を供給し、給料を払い、食料を与え、有刺鉄線を納入しなければならなかった。誰かが拷問の道具や毒ガスの薬剤をそろえておく作業を監督しなければならなかった。この連中は引き金を引いたり、ガス室でガスを発生させたりしたわけではないが、それを可能にした。実行した者とデスクワークで協力した者のあいだにはその違いがあるだけだ。

 これは考えてしまう。当事者でないが、協力者であった、あるいは支援、支持したことがある場合、同様な責任を負うべきと考えるが、当時の人たちの意識の問題だとしてしまうのが今の日本人であろう。こういう人たちがいたのだ、という問題意識を世代間で持たなければいけない。

 その子は外の草地に立っていた。七、八歳の、木の枝のように痩せた少女の残骸のような子供で、綿の薄いシュミーズは泥で汚れていた。左腕で抱えている赤ん坊は弟なのだろう。何も身につけず、生気のない目をして、腹がふくらんでいた。女の子はわたしを見あげ、わたしは女の子を見おろした。
 女の子は右手を口に持っていき、おなかがすいた、何か食べ物をくださいという仕種をした。それから手を窓のほうへ伸ばしてきて、声を出さずに唇を動かした。わたしは手のひらが桃色の小さな手を見たが、食べ物を持っていなかった。
 わたしの食べ物は、白人が住んでいるかまぼこ形兵舎の背後にある炊事場から日に二回運ばれてきたが、夜は赤十字のカール・ヤッギといっしょにスイスから運びこまれる栄養たっぷりの美味い食べ物を食べていた。だが、それはまだ三時間先だ。夕食の時間まで、わたしはキング・サイズの煙草しかなかった。もちろん煙草は食べられないし、ビックのライターに栄養などない。
 愚かしいことだが、わたしは、ごめん、本当にごめん、食べ物は持っていないんだと説明しようとした。わたしはイボ語を知らないし、女の子は英語がわからない。が、そんなことは関係なかった。女の子は理解した。伸ばしていた腕をゆっくりと身体の脇へおろした。女の子は唾を吐いたり、毒づいたりしなかった。黙ってうなずいた。窓辺にいる白人は自分と弟のために何もしてくれないのだと理解した印に。
 わたしは長い人生で、これほどの諦め、これほどの威厳をほかに見たことがない。女の子あらゆる希望を失い、ぼろぼろの姿で、こちらに背を向けた。赤ん坊を抱いた女の子は草地を横切って森に向かっていった。森のなかで、女の子はひときわ濃い影を落とす木を選んでその根方に座りこみ、死ぬのを待つのだろう。そのあいだ、優しいお姉さんらしく、ずっと弟を抱いているのだろう。
 わたしは女の子が森のなかに消えるまで見送っていた。それから机について、頭を両手で抱え、タイプ用紙がびしょ濡れになるまで泣いた。

 これを読んだ時私も涙が出て来る。女の子が何も食べ物がもらえないとわかって、まだ唾でも吐いてくれた方がましであったろう。この時ほどフォーサイスは自分がアウトサイダーだと実感したのではないか。
 さてフォーサイスはBBCでその現実を取材したが、BBCはイギリス国家のお抱え放送局であったから、フォーサイスの取材はタブーであった。しかし事実を知らせるためにフォーサイスはBBCを辞め、フリーでビアフラに取材に行ったりしたが、その報道が“反乱勢力”の広報係になった非難され、干されしまう。

 わたしは小説を書いてこの苦境から抜け出そうと考えた。

 ネタはあった。パリに勤務したときにOASがドゴールを暗殺しようとしたこと。その暗殺が成功しないこと。成功のためには暗殺者を雇うことなど、三十五日間タイプライターを打ち続けた。出来上がったのが『ジャッカルの日』である。
 しかしフォーサイスは本の出版のことは何も知らなかった。出版社名簿見て、原稿を持ち込み断られる。しかしこの人、これまで苦境時必ず助けてくれる人が現れる。今回もそうだ。ハッチンソン社のハロルド・ハリスが原稿を読んでくれ、契約したいという。そして、

 「わたしはあなたと小説三作執筆の契約を結べないかと思っているんですが、何かほかにアイデアはありますか」

 フォーサイスはこの『ジャッカルの日』以外にナチス、傭兵のことをテーマにした小説のアイデアを披露する。いずれもこれまでの取材の中で得たテーマであった。これが『オデッサ・ファイル』と『戦争の犬たち』となる。
 『オデッサ・ファイル』を執筆するにあたり、ニュルンベルク裁判の知識の宝庫であるラッセル卿に会い、ウィーンを本拠地とするナチス残党狩りの中心人物であるユダヤ記録センター所長のジーモン・ヴィーゼンタールに話を聞くこと勧められる。
 ヴィーゼンタールからオデッサが架空の存在でないこと。そして戦後のドイツ社会に紛れ込んで別の名前で公職についている人物が多くいることを知る。そしてエドゥアルト・ロシュマンを選ぶ。

 一九四四年、連合国の指導のもと、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発足したとき、初代首相に就任したコンラート・アデナウアーは間違いなくナチスに反対した人物だったが、その彼はとんでもない難問を抱え込むことになった。
 元ナチス党員は全国のなかに広く存在していたので、全員を公職から排除すれば国が立ち行かなくなってしまうのだ。そこでアデナウアーは悪魔と契約を結ぶに似た決断をした。公務員を採用したり昇進させたりするときに過去の経歴を調べるのは、実際的でもなければ望ましいことでもないとしたのだ。ヴィーゼンタールによれば、公的機関のどんな部署にも、自分はナチスの犯罪行為に手を染めなかったが、実行者を手助けした者たちがいる。だからある人物の身上調査をしようとすると、あからさまに敵意を向けられることはないけれど、ドアを閉ざされる。ナチス残党の捜索に自発的に協力する警察官は、自分の将来を犠牲にするはめになる。

 私は個人的にフォーサイスの初期の三部作で『オデッサ・ファイル』が一番好きなので、その裏話は非常に興味がある。
 『オデッサ・ファイル』に出てくるザロモン・タウバー老人は実際にロッシュマンが所長をしていたリガの強制収容所から生還した老人で、この老人をモデルにしたこと。そしてそのロッシュマンの逃亡先のアルゼンチンでのその後が興味深い。

 一九七五年に、ブエノスアイレスの南の海岸沿いにある薄汚い映画館で、一人のアルゼンチン人がスペイン語に吹き替えられた『オデッサ・ファイル』を観ていたとき、エドィアルト・ロッシュマンが近所に住んでいることに気づいた。ロッシュマンは自分はもう絶対に安全だと思って、本名で生活していたのだ。男はロッシュマンを告発した。
 当時のアルゼンチンでは、独裁者ファン・ペロンの妻イザベルが大統領に就任して、同国でときどき短期的にできる民主的政府が成立していた。同国は正しいことをしようと、ロッシュマンを逮捕させ、それを受けて西ドイツ政府が引き渡しを要求してきた。
 西ドイツ大使館とアルゼンチンの司法省のあいだで法的手続きが進行するうちに、裁判官のおかげで保釈されていたロッシュマンは怖気づき、親ナチスの独裁者ストロエスネルが大統領として君臨する隣国のパラグアイへの逃亡をはかった。ロッシュマンは国境の川までたどり着き、フェリーに乗りこんだ。
 ところが、川の真ん中で重篤な心臓発作を起こしてしまった。目撃者によれば、ばたりと倒れたときにはもう事切れていたという。

 ロッシュマンの死体は引き取りを巡って、パラグアイとアルゼンチン四往復しその間熱帯の陽射しにあぶられて臭いがひどくなったという。やがてウィーンから捜査員が二人来てロッシュマンの死体を確認した。その時決め手となったのは、イギリス軍から積雪地帯の国境を越えたとき、凍傷となって足の指を切断したその傷痕だった。
 『戦争の犬たち』のアイデアは、

 それは、植民地時代が終わった直後のアフリカには、独立したものの国内が混沌としていて、統治も国防もうまくいっていない小さな共和国がいくつかあり、そういう国は、少人数のプロの軍人がしかるべき武器と数十人の忠実な兵士をそろえて行動を起こせば、転覆させて乗っ取ることが可能だということだった。アフリカを舞台に三つめの小説を書こうと考えたとき、頭のなかにはモデルとなる国の候補が三つあった。
 その最有力候補が赤道ギニア共和国だった。

 この三部作はフォーサイスに莫大な印税を与え、以後そのお金を減らさないように、税金の安い国に移住したり、あるいは投資したりするが、自身でも言っているようにお金には疎いところがあって、投資されずに使い込まれてしまったりして、一文無しどころか負債を抱える羽目になったという。結局自分にできることはまた小説を書いてお金を得ることしかなく、それをしたという。フォーサイスが以後何作も書くようになった理由はこれなのかもしれない。

フレデリック・フォーサイス 著 /黒原 敏行 訳 『アウトサイダー―陰謀の中の人生』KADOKAWA(2016/12発売)


by office_kmoto | 2017-08-08 05:55 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

神吉 拓郎 著 『東京気侭地図』

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 この本に描かれているのは昭和五十五年の東京だそうだ。なるほど読んでいるとそうんな光景だったな、と思う。

 上野の駅の構内は、少々複雑になっていて、便利という観点からは、かなりかけ離れているようである。あっちを直し、こっちに手を入れているうちに、そうなったかもしれないが、ホームに高低があったり、妙な別れ道があったりする。地下街は、一種の迷路になっているし、馴れた人なら、なんでもないのだろうが、それを忘れた頃に行くと少々まごつくことがある。(上野の駅)

 私もこうした上野駅を知っている。確かに迷路みたいだったし、構内が暗く、上ったり下がったりしていて、天井が低く頭をぶつけそうだった。
 でもいつだったかな、上野駅構内を歩くときれいになって、広く明るくなっていたので驚いたことがある。

 戦後、この崖下には、長いこと浮浪者が住みついていた。焼け跡のバラックが建て直されて、なんとか町らしくなったあとでも、ここの掘っ立て小屋だけは、依然としてそのまま残っていて、住人たちも、どこへ動こうとする気もないようだった。日当りはいいし、よっぽど居心地がよかったのかもしれない。駅のフォームからも、通り過ぎる電車の窓からも、この掘っ立て小屋の生活は、よく見えた。(お茶の水望景)

 在職時代、外堀通りを自転車で登っていた頃、ちょうど息が切れるところで、聖橋の下であった。ここでよくホームレスを見かけた。今でも彼らはいるようだ。確かにここは日当たりがいいし、橋の下では雨宿りも出来る。

 東京の新名所といわれる所は、たいてい旧名所の上に出来ている。
 新宿の高層ビル、中野サンプラザなどと、昔の名所の上に、今、申し合わせたように高いビルディングが立っているのは、なんだか記念碑が立ったのを見るようで、若干の皮肉を感じさせないでもない。
 どっちにしても、ぼくは高層ビルは嫌いである。いろいろな事情を少しずつ無視して高くなって行くのが高層ビルだと思い込んでいるので、このビルにも別に上ってみたいとは思わない。(池袋サンシャイン)

 高層ビル群はビルだけでなく、周りの敷地も広くとる。だからどうしても敷地の広い旧名所跡地に建つことになるのだろう。

 アメ横の名のおこりは、戦中戦後に幅をきかせた芋アメに由来している。
 当時は、まともな砂糖なぞありはしないから、甘味は貴重で、それを満たすために、サツマイモから、さかんに芋アメが作られた。
 芋アメは、たいてい石油罐に入れられていて、見た目はコールタールそっくり、芋のあくのせいで、真っ黒だった。それを加工して、飴にして売った、その、芋アメ屋が沢山出ている、というのが、アメ横の名のそもそもの起りである。(天下のアメ横)

 これは知らなかった。アメリカ軍の横流し品がここで売られるからそういう名がついたのだと思っていたのだ。もちろんそれもあるんだろうけど。

 そう気がついて、ひと息入れようと思っても、地下道の途中というのは、ひと息入れるに適当な場所がなかなかない。見通しが利くばかりで、ベンチなど置いていないし、物陰もない。どこまでものっぺりとしている。誰も彼も歩いているから、その中で立ちどまっていると、大変目立ちそうである。さりとてしゃがむわけにも行かず、壁にもたれていても病人と間違えられそうでもある。
 立ちどまるということが、これほど目立つ行為だと知ったのは、初めてだ。(地下道大散歩)

 確かに地下鉄の地下は歩くだけのものだ。変に立ち止まれない。けれど最近の地下鉄歩道には、休憩場所も出来ているし、小さなカフェもあったりする。もっとも埃が舞う地下でコーヒーをあまり飲みたいと思わない。天井も低いし、息苦しそう。落ち着かないんじゃないかなあ。

神吉 拓郎 著 『東京気侭地図』 文藝春秋(1981/07発売)


by office_kmoto | 2017-08-05 06:55 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

本多 孝好 著 『dele ディーリー』

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 真柴祐太郎はそのサイトを見た。サイトのトップページに、

 『あなたの死後、不要となるデータを削除いたします』
 『遺された家族に無用な心配をかけないように……』
 『管理者がいなくなったデータの流出リスクに備えて……』

 と。
 祐太郎が勤めた会社が『Dele.LIFE』。そこの所長が坂上圭司。圭司が操っている銀色のノートパソコンを圭司は“モグラ”と呼ぶ。

 「死後、誰にも見られたくないデータを、その人に代わってデジタルデバイスから削除する。それがうちの仕事だ」

 仕事の依頼は『Dele.LIFE』のサイトを通じて直接依頼される。データの消去の依頼契約が成立すると、クライアントはサイトから圭司が作ったアプリをパソコンやスマホにダウンロードして、起動させる。そのアプリはそれらのデイバイスに常駐し、『Dele.LIFE』のサーバーと交信する。クライアントが設定した時間を超えてそのデイバイスが操作されなかったとき、サーバーが反応し、モグラが目をさます。そうして圭司はクライアントの死亡を確認できた時、そのデータを消去する。
 圭司は車椅子なので、クライアントの死亡を確認する役目が祐太郎であった。
 圭司はクライアントの依頼を淡々とこなす。

 「深い、浅いじゃない。わからないと言っているんだ。依頼人が生前、何を考えていたかなんて、どうせわからない。わからないから、気にせず消していけばいいんだ。それが依頼人の望みだってことだけは、はっきりしているんだから」

 しかしクライアントの生存を足で確認する祐太郎は、いやがうえにも残された家族と接触することになる。そうなると消されることを望むデータを淡々と消していいものか疑問を感じる。残された者は亡くなった者の形跡をどこかで求め、探す。そのことで彼らを偲び、自分たちの生きる糧にすることもある。データを消してしまえばその人の人生がゼロになっていしまう。
 確かにデータを消すことで守れるものもあるが、残すことで守れるものもある。そんな思いが祐太郎にはあった。特に故人とその家族、関係者のつながりを思うと余計にそう感じるのであった。だから祐太郎は圭司と衝突する。
 消去を依頼されたデータをモグラから見ることが出来る。そこに何があるのか。そのデータを見て確認したい、というのが祐太郎の気持ちであった。もちろんデータを覗くことは契約違反である。しかしデータを消去することは簡単だ。いつでも出来る。ただ残された者の気持ちを考えてから消去してくれ、という祐太郎に圭司はいつの間にか淡々と消去出来なくなっていく。祐太郎の優しさに感化されていく。
 クライアントがどういう気持ちで自分のパソコンやスマホのデータを消去してくれと依頼してきたのか、その消去してくれというデータは残された者に必要なのかどうか、クライアントと残された者の気持ちを考えるようになっていく。

 デスクの上でモグラが静かに眠っていた。祐太郎は、そこにつながっているいくつものデータに思いを馳せた。消されることを待っているいくつものデータ。それはそれぞれの人の一部でもあるはずだった。ならばそれらは、いつか消える運命であるべきなのか。いつまでも残せる技術を手にしてしまったからこそ、人は思い悩むのか。

 「終活」という言葉をよく耳にする時代である。残される人に迷惑をかけないための活動だが、たしかに妙なものをたくさん残されても困る場合もある。ましてデジタル化されたデータは永遠に残るし、場合によっては拡散してしまう場合もある。だったらさっさと消してくれということになるかもしれない。逆にこれだけは覚えていて欲しいという故人の思いもそこにはあるかもしれない。
 記録は記録だが、それが人によって記憶になり、思い出になるところが、この本の悲しい物語になる。
 なかなか面白い本であった。

本多 孝好 著 『dele ディーリー』 KADOKAWA(2017/06発売)


by office_kmoto | 2017-08-03 13:26 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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