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川本 三郎 著 『旅先でビール』 『ちょっとそこまで』

 今回の川本さんの本は2冊とも紀行文だ。紀行文と書くと大袈裟になってしまうが、川本さんの場合、書名にもあるように、「ちょっとそこまで」と身近な土地に、あるいは同じ東京でも下町とか、そうした近場に求める。それがいい。というのも大袈裟な旅というのはどうしても構えてしまうところがあって、ときにそれがしまいに鬱陶しくなってくるときがある。ところが近場というか、都内なら、ちょっと散歩気分で出かけられる。そういうのがいい。
 もちろん気楽な一人旅なんていいかもしれない。好き勝手に行動出来るのがやっぱりいいな。

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『旅先でビール』にはこうある。


 前からきちんと予定を立てる、というよりは、思い立ったらすぐにという旅が多い。当然、ひとり旅になる。人と一緒の旅だと、それぞれの予定があるから、なかなか時間が折り合わない。ひとりだと思い立った時に旅に出られる。
 フリーの文筆業である。
 フリー稼業の数少ない特権のひとつは、世の多くの人が働いている平日にひとり旅が出来ること。その自由を失いたくないから、経済的には不安定であっても、フリー稼業を続けているのだともいえる。
 もともと人付き合いは得意ではない。
 宴会は好きではないし、パーティーも出来れば避けたい。付き合いでカラオケに行くなどまっぴら。ゴルフもやらないしマージャンもやらない。世の多くの人のすることを、ほとんどしない。
 かわりにひとりで町を歩く。日本の田舎町を歩く。ローカル線に乗る。漁師町の居酒屋で飲む。温泉につかる。









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同じようなことが『ちょっとそこまで』にも書かれている。


 私は旅は好きだが山登りはどうも苦手だ。山頂をきわめるという無償の行為がダメなのである。それが山の向うには温泉がある、人里がある、湯と酒が待っていると考えると急に元気が出てくる。山道を歩くのも苦にならなくなる。


 汽車の旅だと乗っている時間より待ち時間のほうが多いことがある。


 こういうのはせっかちな自分は我慢できないかもしれない。


 川本さんの本を読んでいると、どうしてもパソコンを立ち上げておかないとならない。というのもそこに出てくる場所、土地の由来、歴史、あるいはその土地にまつわる小説など、ついつい興味が湧いてしまい、もっと知りたいという気持ちになる。だから詳しいことをネットで調べることになる。なのでどうしてもかたわらにパソコンが必要となるのだ。
 紹介してくれる本も、次から次へと読みたくなり、そのまま区の図書館サイトに行って、ネット予約する。おかげで自分の本棚から本を読むことが出来ずに困っている。


 都市は都市計画などに吸収されないはみだしたイレギュラーな部分を必ず内包する。どんな整備された駅前広場にも必ず屋台のラーメン屋やおでん屋がやってくる。新しいビルのならぶ、メインストリートの裏側には昔ながらの飲み屋街が広がる。それらの町が、中心へ中心へと流れる求心的な人の流れとは違う、外側へ外側へ、奥へ奥へという遠心的な人の流れをつくりだす。(『ちょっとそこまで』)


 かつて美濃部都政のとき高度成長の合理主義で都電を次々に廃止していった。万事、能率主義でことを片づけていく社会は息苦しくなるばかりだ。(『ちょっとそこまで』)


 こういう文章を読んでいると、効率性や利便性、あるいは機能性とかで割り切れない人の気持ちというのが必ずあって、それはそういうものからはみ出てしまう。人の気持ち、気分などは簡単に計画的に割り切れないものだと思う。机の上で計画されたものは、どこか無個性なところがある。そうだから誰でも受け入れられるというところはあるかもしれないが……。


 某洋酒メーカー広報室の人の話だと、愛知県というのは日本でいちばん酒の売上げが悪いところだそうだ。これは、一、愛知県人ケチ説と、二、トヨタのお膝元なので車が発達しすぎているため……説の二つの説明がされている。(『ちょっとそこまで』)


 これは笑った。

 ところで川本さんは私より世代が一つ上だと思うが、それでも川本さんの子ども頃の話など、まだ私が共有できるところがあって、それを読むと懐かしい気分になれるのもうれしい。


 小学生の頃、社会科の教科書には、石炭の重要さが図解で記され、いかに石炭が国を支えているかを教えられた。教室では、冬になると石炭ストーブで暖をとった。ストーブ係が毎日、校庭の隅の石炭置き場まで石炭を取りに行った。
 「コークス」という石炭を燃やしたあとの炭も使った。(『ちょっとそこまで』)



 これは川本さんが夕張へ行った時の話なのだが、確かに私が小学校の頃も石炭ストーブであった。校舎も木造であった。(私が小学校を卒業した時、鉄筋の校舎が完成し、私たちはその新しい校舎に入れなかった)
 私の時は日直がコークスを口の広がったバケツみたい容器にそれを毎朝取りに行った。コークス置き場は校舎の裏側にあって、雪が降った朝は、コークスに雪がうっすらと積もっていたりした。
 石炭ストーブが出た頃は、校庭にあったイチョウから落ちた銀杏をコークスをくべるスコップに上に置いて焼いたりして食べた。確かストーブの周りには金網で囲ってあったはずだ。ストーブに上には大きなやかんが置いてあって、いつもそこから湯気がでていた。
 コークスが石炭を燃やしたあとのものとは初めて知った。


川本 三郎 著 『ちょっとそこまで』 彌生書房(1985/07発売)


川本 三郎 著 『旅先でビール』 潮出版社(2005/11発売)

by office_kmoto | 2017-09-30 06:06 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

森 まゆみ 著 『子規の音』

d0331556_18195870.jpg 久しぶりに森さん本を読む。森さんが住んでいる谷根千に多くの文豪たちが暮らした。その中で森さんはこれまで森鴎外(『鴎外の坂』)、夏目漱石(『千駄木の漱石』)について書いてきた。そして今回正岡子規となる。
 「はじめに」次のようにある。


 私はこれまでも、自分の生まれ育った、谷中、根津、千駄木、本郷、上野、その土地にまつわる明治の文豪ついて書いてきた。最後に子規を書きたいと思ったのは、この人に一番、親愛と共感が深いからである。自分に似た人のようにも感じている。


 あとがきにも次のようにある。


 本書では子規を、暮らしの中で等身大で感じることを心がけた。また私のよく知っている土地、根岸、上野、谷中、根津、本郷、神田、王子、三ノ輪など風景と日常の中で生まれた句や歌を楽しむことにした。


 確かに鴎外や漱石は真面目すぎる。その点子規は人間的に面白味がある。
 私は俳句のことはよくわからないので、正直なところ敬遠していた。あの短い語数に多くの、そして深い意味あいがうまく読み取れない。それにどこでどう区切って読めばいいのかわからないときがある。声に出して読んでみて初めて、なるほど、とやっとわかる。
 今回森さんはこの本で子規の詩歌、句をわかりやすくしてくれているので、その感じ、言いたいことなどがわかって有難かった。そして森さんがあげる子規の句には滑稽と諧謔味があるのもよくわかった。そのため俳句は堅苦しいものと思っていたものが、こんな風に面白味のあるものなんだ、ということが初めてわかった次第である。
 子規はご存じの通り結核から脊椎カリエスとなり、晩年は寝たきりであった。私の中で、『病牀六尺』にあるように「病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広すぎる。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事もできない」とあり、根岸の自宅の家、庭が子規の世界であった。だからそこから見えるものを俳句として詠んだ。そのイメージが強い。もちろん元気な時は旅もし、病気であっても関心はあちこちに持っていて、病を押して出かけてもいる。
 いずれにしても見たものを、句として詠んでいたと思っていたが、この本を読んで、子規はよく「音」聞いていた。子規が見るものは限りがあるため、聞こえてくる「音」から想像をふくらませ句を詠んでいた。それは町の音であったり、近所の人の声であった。寝付けない夜など、電車の音など聞こえてきてそれを聞いていた。そして最後には枕元の時計の音だけになった。

 そして子規はその性格から多くの友人、弟子を持っていた。その交友も興味深い。それも含め、気になった文章を書き出してみる。


 明治二十一年(1888)年正月、子規は第一高等中学校の予科生で神田の寄宿舎にいた。学校秀才ではない。子規のように夢中になったらずっと一つのことをしていたい人間に、数学、英語、国語、地理、物理と一時間ごとに変わる授業は酷である。嫌な学科の勉強も試験も苦痛だ。夏目漱石には、授業や試験と自分したいこととの折り合いをつける能力があった。子規と同じく、宇宙の造理から道を渡る蟻まで、考えだすと熱中する南方熊楠もまた、学校システムにはなじめずに退学している。


 漱石自身、出世や地位と本来の生き方の狭間で悩んだ人であった。小市民的社会を抜け出そうともがいて抜け出せなかった。その逡巡が、なかなか公務員や会社員をやめたくてもやめられない読者を引きつけるのだろうが、それだけに彼の小説はどんどん暗くなっていく。初期の俗世間を笑い飛ばす『吾輩は猫である』や「ヤメテヤル」小説『坊ちゃん』はあれほど痛快なのにどうしたことだろう。家産を食いつぶしながら仕事をしない高等遊民を多く描いたが、ゆるやかな倦怠感が漂い、爽やかとは言いがたい。


 行春や鶯下手に鳴きさがり

 春告鳥と言われる鶯は春の一時期ホーホケキョと鳴くが、その繁殖期を過ぎると、チャッチャッチャという地鳴きに変わることを言ったものだろうか。



 鶯が繁殖期を過ぎると鳴き声が変わることは知らなかった。そういえば毎年我が家の近くで聞こえる鶯の鳴き声が今年は聞かなかった。


 故吉村昭さんに「子規のいた根岸は僕の生まれた町日暮里にすぐ近いから、子規を書かないかという話は来たことがあるけど、調べてみてやめました。あまりにも妹に対してひどいんでね」とうかがったことがある。


 子規は妹律には厳しかった。森さんは次のように書いている。


 (子規は)漱石への手紙では律のことを「癇癪持ちの冷淡なやつ」と書いている。「僕の死後人にいやがられるだろうと思うと、涙」とも。あれほど世話をしてこんないわれようでは律もたまらない。彼女は兄の文学や内面世界には入り込まず淡々と世話をしたのであろうし、だからこそ長い介護が可能になったのだ。


d0331556_18202051.gif この本にある写真を見ると、元大関の若島津と結婚した高田みづえ似である。でも吉村さんの子規を読みたかった。


 銅像に集まる人や花の山

 これは明治三十一(1898)年に薩摩人吉井友実(歌人吉井勇の祖父)らの肝煎りで建立された西郷隆盛の銅像の人気で、いつもより上野の桜見物が増えただろう。香取秀真から鋳造の技法を聞いた子規は大きな銅像の完成に興味をもった。原型は高村光雲(光太郎の父)、犬は後藤貞行、鋳造は岡崎雪声だった。
 軍服姿でなく、犬を連れてうさぎ狩りをする姿になったのは、逆賊という汚名は返上されたものの、官位を示す正装はさせられなかったという事情がある。除幕式の当日、妻糸子が不満を漏らしたというのは、顔は似ていないという説や、正装していないことへの落胆があるといわれる。逆に、上野彰義隊を攻めた総大将の銅像が上野の山に建つことに、旧幕側の不満もあったろうと思われる。



 西郷の妻が出来た銅像に不満を持っていたことは他の本で読んで知っていた。


 根岸に住む画家浅井忠がいよいよパリに留学というので、陸羯南、内藤鳴雪、中村不折、五百木飄亭などが送別会に子規の家に集まった。浅井は子規より一回り年上で、フォンタネージに師事した旧派(脂派)と呼ばれる西洋画家であるが、そのころは根岸にいて、東京美術学校の教授であった。安井曾太郎や梅原龍三郎の師でもあるが、子規にも西洋画の手ほどきをしている。


 この文章を引いたのは、フォンタネージという名前である。山下りんが学んだ西洋画の師もフォンタネージであったはずだ。


 (明治35年9月19日)夜中、うなっていた子規が静かになったので、母八重が手を取ると冷たい。「のぼさん、のぼさん」と呼ぶ。事切れていた。八重は涙を落としながら、「サァ、もう一遍痛いというてお見」という。発語せず、動かなくなった息子に。律は裸足で陸邸に駆けて行き、医師に電話を入れる。虚子は鼠骨と碧梧桐を迎えに行く。月がこうこうと輝いていた。友人弟子ら、葬儀と墓所の準備にかかる。


 「日本」新聞の同僚古島一雄は、「骨盤は減ってほとんどなくなっている。脊髄はグチャグチャに壊れて居る、ソシテ片っ方の肺は無くなり、片っ方は七分通り腐っている。八年間ももったということは実に不思議だ実に豪傑だね」と言った。


森 まゆみ 著 『子規の音』 新潮社(2017/04発売)

by office_kmoto | 2017-09-27 18:25 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

横田 増生 著 『仁義なき宅配―ヤマトVS佐川VS日本郵便VSアマゾン』

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 昨日(平成29年5月22日)の朝日新聞にヤマト運輸の一面広告が出ていた。

 10月1日。宅急便の値上げをいたします。ご理解とご協力を、お願いいたします。

 とある。「宅急便はいま、経済と社会の大きな環境変化に直面しています」からその担い手である社員の健全な労働環境を守るため、27年ぶりに運賃を全面改定するという。そのために運賃を値上げし、法人のお客にも契約運賃を見直させてもらう。社員の職場環境を改善するために、時間指定の変更も行うとある。
 今ヤマト運輸で残業の未払いが多く発生していることが大問題になっている。そのための対応であろう。それであるなら運賃値上げはやむを得ないところであろう。
 しかし、この本を読んで、「はい、そうですか」と素直に納得できないところもある。
 この本に面白いアンケート結果が示されている。

 ジャストシステムが、2014年に発表した「ネット通販に関するアンケート調査」によると、普段の買い物のとき、購入の意思決定に影響を与えるものとしては、「商品の価格」が一位で、「非常に影響を与える」と「影響を与える」を合わせると80%を超える。また購入の後押しとして影響する項目では「配送料無料」がトップにくる。「非常に影響を与える」と「影響を与える」を合わせると90%を超え、二位以下を大きく引き離してのトップである。

 アマゾンジャパンなどのネット通販に感化され、送料無料に甘やかされてきた日本の消費者は、貧欲に送料無料を探しつづける。それがネット通販業者のプレッシャーとなり、回り回って宅配業者への安い運賃という形であらわれる。

 それにしてもジャストシステムという会社は何でもやっている会社だなと思う一方、一度、送料や手数料が無料であることのうまみを覚えた消費者にとって、送料が有料であることは大きな問題なのだ。もちろんその分は商品に転化されている可能性が大きいのだが、それでも送料が無料か有料かで、このサイトで買うかどうかの判断材料には確かになる。

 配送無料というのは、すでにアマゾンや楽天などの先例がある。店舗の運営費がかからないのと比べると、注文した商品の配送料というのは無料にしてもどうにか採算が合うといわれている。

 送料無料という、業者、お客の利己的な思惑が宅配業者へのしわ寄せとなる。業者はできるだけ配送料をかけたくない。一方宅配業者も激しいシェア争いに勝つために、大手通販に対する配送運賃の価格を下げていく。当然利益は減る。となればそのしわ寄せは企業内に及び、最下層にいる従業員に及んでくる。何故なら、今現在、宅配事業の経費かかる労働者の賃金比率がかなり高いからだ。宅配事業は荷物を受け取る、仕訳する、配送するにあたりどうしても多くの人手を必要とする事業なのだ。
 宅配事業はそのネットワーク構築のため多くの従業員を抱えている。ヤマトホールディングスの売上高に占める人件費比率は、50%を超える。典型的な労働集約型産業である。
 ちなみにヤマトホールディングスの従業員数は20万人といわれ、トヨタ自動車の38万にから数えて8番目である。人件費比率が50%を超え、20万人もの従業員がいれば、賃金体系や労働形態を少し変更しただけで、利益の全てが吹っ飛ぶ。だから賃金を抑え、サービス残業を半ば強要し、ぎりぎりの人数で回させる。今や社会インフラとなった宅配便の仕組みが制度疲労を起こしている。それがヤマト運輸で問題になり、こうして運賃の値上げとなったわけである。

 宅配市場全体を俯瞰すると、ヤマト運輸が1970年代後半に宅急便事業を立ち上げてから右肩上がりで成長してきた。しかし2008年のリーマンショック後、二年連続前年割れを起こし、「宅配市場の成長神話もこれまでか」と言われた。しかし2010年から再び伸び率が上がる。宅配市場を成長軌道に乗せたのはネット通販発の荷物だった。数字をあげれば、2004年から2008年までの5年間の年平均成長率が、1.7%であったのに対し、2010年から2014年の5年間は4.0%と二倍以上の伸び率となった。

 過去10年、ネット通販市場は9000億円台から11兆円台へと10倍以上に急拡大している。それが、リーマンショック後の宅配業界に大きな追い風となった。さらに2020年にはネット通販市場が20兆円となり、その先には60兆円になるとの予測もある。60兆円というのは小売市場全体の20%に相当する。

 しかしネット通販の宅配荷物は運賃が安く、かつ高度のサービスレベルが要求され、しかも85%のネット通販企業が“送料無料”を掲げている。それは宅配業者への安い運賃という形で転化される。

 ネット通販市場の拡大で宅配便の荷物は増えたが、しかし運賃単価が低下傾向にあったため、宅配業界は長年“豊作貧乏”と揶揄されてきた。

 シェア至上主義を掲げていたときの佐川急便にとって、ネット通販発の宅配荷物の増加は獅子心中の虫となった。佐川急便のネット通販の荷物が増えるにつれ、飛脚宅配便の平均運賃が下落し、それに伴って利益率も低下した。2006年3月期には一個当たり530円弱だった平均単価が、2013年3月期には460円にまで落ちた。単価の落ち幅は一割強。このため、佐川急便を軸とするデリバリー事業の営業利益は4%台から2010年3月期には半分の2%台まで落ち込んだ。

 同社(佐川急便)は2013年春、最大手の荷主であるネット通販の雄、アマゾンジャパンとの取引を打ち切った。その半年前の2012年半ばから、同社は経営の舵をそれまでのシェア至上主義から利益重視へと切り替えていた。

 佐川急便はこれまで、業界トップのヤマト運輸との熾烈なシェア争いをつづけ、取扱個数の増加に血道を上げてきた。その佐川が2012年半ば以降、シェア重視から、“運賃適正化”を掲げ利益重視へと軸足を移したことは、90年代以降、骨身を削るように集配密度を高めるためシェア争いをつづけてきたことは宅配業界の潮目が大きく変わったことを意味する。

 このための“運賃適正化”であった。

 利用者からすれば「運賃適正化であろうと、運賃値上げであろうと、どちらでも同じじゃないか」といいたくなるだろう。しかし宅配各社が過去20年以上にわたり、シェア争いのために、自ら運賃を値引きするという愚行に走り、自らの首を絞めてきた経緯と、その結果である厳しい現状を理解するためには、この違いを区別しておくことが欠かせない。

 著者はこの後宅配の配送手配をする現場に潜入取材をしているため、そこで働く従業員の立場に立つ。そこはあまりにも苛酷な現場だからだ。彼らの労働環境をなんとかよくなって欲しいという気持ちから、必然的に宅配事業者の側に立つことになる。何故なら労働者の職場改善、待遇改善は会社側の協力なしにはできないからだ。

 2005年前後佐川急便が値引きした運賃を武器に日通に代わってアマゾンの荷物を奪い取った。その時佐川急便が請け負った運賃は全国一律で250円を僅かに上回る金額だった。佐川急便の正規の運賃表と比べてみると、関東発関東着の一番安い料金が750円台である。これをみれば、どれほど安い価格で佐川急便はアマゾンの荷物を請け負っていたかわかる。このようにアマゾンが取引企業の同業他社と競争させて強引に安い料金を手に入れる。それがアマゾンの常套手段なのである。
 佐川急便はアマゾンの荷物を引き受けたことで企業発個人向けの荷物の分野でヤマト運輸を抜いて首位に立った。しかし、

 「これだけ荷物が増えると、現場としては迷惑以外の何物でもないですね。アマゾンのせいで、午前中の配達が一時間後ろ倒しとなりました。一年以上たった今でも、アマゾンからの荷物は正直いってしんどいです」

 この後本書はヤマト運輸、佐川急便日本郵便の歴史を語るのだが、かねてから不思議だな、と思っていたことがあり、その理由がこの本を読んでわかったことがある。
 ときたま郵便受けに入っている配達された封筒は「佐川便」と表示してあるのに、運んで来たのは郵便配達人なのだ。
 この本では日本郵便の新東京郵便局の内部の様子が書かれるが、そこに<佐川急便>というプレートがかかった一画がある。つまり佐川急便が請け負ったメール便の実運送を日本郵便が行っていることが、この一画でわかる。
 ではなぜ佐川急便が請け負ったメール便を日本郵便が配達するのか。

 業界全体の2015年3月期のメール便の取扱数は54億通強。そのうち、トップの日本郵便と二位のヤマト運輸で全体のシェアの90%近くを押さえている。対する三位の佐川急便は、2.8億通。佐川急便のメール便には、自社で運ぶ<飛脚メール便>と郵便局に委託する<飛脚ゆうメール便>の二種類がある。その比率は二対八となり、八割の2.2億通以上を日本郵便に委託して運んでもらっている。その受付場所の一つが、新東京郵便局の一階にあったのだ。

 これは佐川急便としてはもうけも少ないし、あまりやりたくない事業であるが、通販のお客からメール便も一緒に運んで欲しいという要望があるので、サービスの一環として仕方なくやっているみたいだ。
 この佐川急便が請け負ったメール便が日本郵便が配達しているのは秘密でも何でもない。この本では佐川急便のホームページにそのことがちゃんと書いてあるとあったので、実際に見てみたら、飛脚ゆうメール便は、

 お客さまからお預かりしたお荷物を、当社が差出人となって郵便局に差し出し、郵便局員がゆうメールとして配送いたします。

 とあった。なるほど、郵便受けに入っていた封筒はこれだったのだ。
 さて著者は以前アマゾンの配送倉庫に潜入取材して、その非人間的な現場をルポしたものがあって、それはジョージ・オーウェルの『1984』を彷彿させるものがあったが、やはりここでも宅配ドライバーの過労状態を実体験し、さらにヤマト運輸の配送ベース基地にも潜入取材して、その労働実態をルポする。やはりここが本領発揮というところだろう。

 「何年も働いていると、サービス残業をこなすのは暗黙のルールのようになります。ヤマトは、サービス残業ありきの会社だと割り切っていますから。これを上司や本社にいっても現場の長時間労働が変わることがないだろう、と思っていますから」

 ドライバーにしても配送基地で働く人たちにしても、ここでの配送勤務時間、あるいは配送荷物受付時間は決まっているのだが、その時間から仕事を始めたら、後が押せ押せになってしまう。そのため何時間も前から仕事を始める。もちろん終わりは定時では終わらない。それがサービス残業となる。それに対する報酬はもちろん伴わない。
 思うのだけれど、こうした傾向は仕事に真摯に取り組む人が多いような気がする。自ら進んで仕事をする人であるが故にそうなってしまう。それを会社は当たり前のように考えている。

 私が取材してまわったヤマトのセールス・ドライバーからは次々と労働環境に関する悲鳴が聞こえてきた。時間指定配達や代引きなど顧客へのサービスが付け加わるたびに、現場の負担は増える。

 郵便の場合、一日のどの時間でも、郵便物を郵便受けに投函すれば作業が完了する。しかし、宅急便に代表される宅配便では、時間指定がある上に、受取人から判取りが必要となる。時間指定を守らなければならない上に、不在の多い都心や宅配ボックスのない一戸建ての場合、受取人が在宅するまで何度も配達することになる。ヤマト運輸も佐川急便も正式には宅配便の不在率を発表していないが、業界平均の不在率は15~20%といわれている。

 ところで先日孫の誕生日プレゼントをネットのトイザらスで買った。注文して翌日に届いたのは驚いたが、梱包の段ボールに次のように書かれてあった。

 配達ドライバーの皆様へ
 この中の商品は、お届けする
 お子様お一人お一人の笑顔を思い、
 まごころを込めて梱包
 させて頂いております。
 どうか丁寧にお取り扱い頂き、
 配達をお願い致します。

 最初これを見た時、ちょっと感心してしまった。なるほど子どものおもちゃのため、梱包にも気を使い、配達する業者にも気配りをお願いする。なかなかりっぱなものだと思ったのだ。
 ところが著者の配送ベース基地で潜入取材している章に、こうした文言が書いてある梱包に違和感を覚えたというのだ。何故か。その先を読んでいくと、私が感心したことが一気に吹き飛んでしまった。

 (配送ベース基地で)余裕なく動き回っているときに、先の「ドライバーの皆様へ」のような慇懃無礼にも思える文章を読むと、神経を逆撫でされたような気になる。(略)そこから読み取れるのは、「私の出荷したこの荷物だけは特別なので、大切に運んでください」というメッセージである。

 とにかくその忙しさ、次から次へ運ばれてくる荷物を仕訳し、ノルマに駆られる焦燥感の中で、そういった荷物にまつわる物語は霧散霧消してしまう。そんな余裕なんかあるわけがないだろう、というところらしい。

 しかし、その思いを十分にくみ取って作業していては、時間までに作業が終わらない。作業が終わらなければ、宅急便の配達が遅れる。遅配である。
 そうした現場で、山のように流れてくる箱に印刷された先述のような文章や箱に貼られたさまざまなシール(注意書き)をみてこみあげてくる感情は、
 「そうか、大切に扱おう」
 という素直な気持ちよりも、
 「この忙しいのに、何いってるんだ!」
 「いったいいくらの運賃を払っているんだ!」
 という怒りという言葉で足りない、殺伐とした気持ちがこみ上げてくる。
 (略)
 
 これだけ大量の荷物が流れてくる中で、自分の荷物を特に大切に扱ってほしいというのなら、「その分の料金を上乗せして払え」というのが作業員である私の正直な気持ちであった。

 しかし、すでに述べたように宅急便の大半は企業発の荷物であり、そのほとんどが何らかの料金割引の恩恵を受けているため、平均単価は500円台後半どまりだ。すべてが正規の料金をもらっているなら、運賃単価は1000円近くなることもある得る。運賃単価が1000円になれば、ヤマトホールディングスへの売上高は2兆円前後となり、営業利益は現在の4%台から、7~8%へと倍増する。そうすれば、作業員の時給を引き上げたり、人数を増やしたりする余裕も簡単に出てくるではないか。
 しかし、現実は、運賃の低迷がつづいている。そんな中でも利益を上げていくためには、経費の過半を占める人件費を抑え、作業効率を優先させることになる。ベースでいえば、アルバイトの時給の額と投入する人数を抑え、ぎりぎりの要員で作業をこなすことを意味する。
 自分たちの荷物を大切に扱ってくれ、という文章やシールではなく、「この荷物には、正規の運賃を払っているから大切に運んでください」と書いてあったほうが、はるかに説得力がある。

 金も払わずお願いばかりして何なんだ!というところであろう。もっとも現場の作業員にそう思わせるところが問題である。本来会社がそれを言わないといけないはずだ。しかし値引きしたのは会社側である以上、会社は何も言えない。
 こうして現場だけがいつも貧乏くじを引く。

 ヤマト運輸の運賃値上げの広告で、言っていることは真っ当なことだ。でもよくよく考えてみると、個人はその荷物を運んでもらう運賃を正当な料金を払ってきたはずである。そしてこれからもそうなる。ここは問題のすり替えな気もする。問題の本質は企業発の荷物が極端な格安で運ばれているところである。それは自らシェア争いの為にダンピングして招いた結果であろうとも、そこはもう無理なんだというところをきちんとしなければならない。
 ヤマト運輸は法人のお客にもかかる費用を負担してもらうようお願いする、といっているが、まずはここから手を着けるべきだ。そして何よりも、宅配料が無料というのは、そこに手間と人手がかかっている以上あり得ないことを消費者である我々もきちんと自覚すべきなんだろう。その上で誰が正当な運賃を負担するか。それは企業が企業努力で持つというなら、それはそれでいいし、いや、きちんと宅配業者が請求する金額を負担して頂きます、というなら、それを無茶な、と思わない、そういう意識を持たなければならないのではないか。送料無料と味をしめてしまったところがあるのでその意識改革は難しいかもしれないが、何を利用するにしたって、利用料金はかかるのだから、そこは我々も考えなければならない。

横田 増生 著 『仁義なき宅配―ヤマトVS佐川VS日本郵便VSアマゾン』 小学館(2015/09発売)


by office_kmoto | 2017-09-25 20:50 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

川本 三郎 著 『青いお皿の特別料理』

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 あれっ?

 この人物さっきの主人公じゃないか。そうか、高校の同じクラブだったのか。さらにいつも行く美容院の担当者だったり、花屋の店員だったりする。さらに彼氏の新しい就職先、前の話の主人公のところだったり、彼女の再就職先がこの人のところだったり、17篇の短編の登場人物が何らかの形でつながっている。これは面白い。それでそれらの短編の登場人物がどこの話の誰につながっているのか、簡単な相関関係図を自分で作ってみると、なかなかうまくできているもんだ、と感心する。

 まずはで(大倉)隆夫と紀子夫婦は、函館が猛吹雪で飛行機が欠航してしまったので、一日時間が空いてしまう。そこで在職中よく宿泊したシティ・ホテルに泊まることにする。
 そのホテルに宿泊していた女性が荒川に行くにはどうすればいいか、フロントに尋ねるが、フロントが戸惑っているのを隆夫が助け船を出して、荒川までの路線を教える。これが「川を見に行った日」の女性(増田)である。社長が亡くなってしまったのでインテリアデザイン事務所を閉鎖になり、いったん故郷に帰ろうとしていた。そして自らの男女の関係も清算する。

 隆夫(「飛行機が欠航になって」の主人公)は(野田)誠に中学時代からの友人太田が亡くなったことを伝えた。この話が「友が逝く」である。

 そしてその太田が井の頭公園でケヤキの絵を描いている時に声を掛けたのが佐原(真由美)であった。佐原は公園で昼の弁当を食べるのを楽しみにここへ来ていた。佐原は花屋で働いていた。その交友が描かれているのが「マユミの花」である。

 そして「水田のパラソル」では定年前に房総に新設大学に呼ばれた夫は「友が逝く」の誠の兄で、その妻の美容院の担当が「マユミの花」の佐原と一緒に住んでいる由美子であった。

 その由美子の後輩である麻里子の話が「メンメの夏」である。知床半島の羅臼の漁師の家で生まれた彼女は母親から父が採ってきた魚を送ってもらっている。

 設計事務所を開こうとしている岡崎はアシスタントの新井君を迎え、さらに「川を見に行った日」でインテリアデザイン事務所で働いていた女性こと、増田さんを迎えることになっていた。それが「事務所開き」である。

 ツアーコンダクターの彼女(香枝子)の母親が「水田のパラソル」の房総の新設大学に呼ばれた夫(誠の兄)の妻であった。この母親致命的に料理がまずい。しかし両親が住むマンショに帰り、母親の料理を食べたら美味しかったというのが「モヤシのひげ根」である。

 「川を見に行った日」の増田の上司であった小倉は、「友が逝く」、「マユミの花」で出てくる太田と植物画教室知り合い、太田から再就職先として照明会社を紹介されていた。その話が「再び咲き」である。

 「落葉を焚く」は「モヤシのひげ根」のツアーコンダクターの香枝子の隣に住む陽子の父親は函館で写真館を開いていた。
 その写真館のショーウィンドウに飾られていた写真は、この函館で古本屋を開いていた亡くなった主人の写真であった。
 「古本を仕入れに」の陽造と娘の夫義郎は店じまいの在庫処理のため、この函館に仕入に来ていた。

 「青空のピラカンサ」の小倉文子の娘みっちゃんは、美容院のお客でもあり、その美容院は昼食をみんなで回り持ちで作る。その時みっちゃんも参加する。その話が「みんなで昼食を」である。

 「そば屋の浮き燗」は信用組合に勤める高石謙一がよく通う「古本を仕入れに」の陽造の店で評判の悪い居酒屋がついに閉店したことを話した。
 陽造は高石をそば屋に連れて行き、店を経営するものにとって、たとえ評判が悪くて閉店したとしても、そんな話は聞きたくないものだ。まして地元に寄り添わなければならない信用組合の人間が言うことじゃない、と説教をする。

 「スタイリストの春」では富美子の彼である大原君が「水田のパラソル」で出てくる男の大学に就職が決まりそうだ、という話で、その面接に行くのにボサボサの頭ではまずいからということで、美容師の文子が大原君の髪を刈ってやる話。

 「木に酒を注ぐ」は「マユミの花」の花屋の佐原真由美たちが住むマンションの大家夫妻の話。大家の庭の管理を真由美も一緒にしている。今はもう一緒に住んでいない美容師の由美子がこのマンションに住む時、真由美が花屋で働いているから庭に手入れも一緒に出来るということで、いい条件で住めることになった。その由美子は小笠原で店をやることになり、代わりに「メンメの夏」の後輩の麻里子が一緒に住んでいた。

 「オジギゾウ」の岡崎祐子のよく通う花屋が真由美の店で、真由美から真由美の住む大家の庭から『うち出の花』(明治時代まだ町に花屋がない頃、人の家に行く時自分の庭に咲いている花を切り花にして持っていくこと)としてオジギソウをプレゼントされた。
 その大家の庭で花見を兼ねて、麻里子の実家から送ってもらった魚でバーベキューをするから一緒にどうですか、と誘われ、後輩の中川真理子と一緒に参加する。

 ということで17篇ある話が、次の話に変わる時、前の主人公たちがその話に関わってくるというスタイルになっている。面白い構成である。
 もともと川本さんは町歩きが好きな人である。その何気ない商店街を歩いているうちに、そこで普通に暮らす人々といろいろな話を聞いてきたに違いない。そして気に入った町ではその飾らない町の人々に心を寄せてきただけに、こうした話が出来る。そんな川本さんならいい話が書けるだろうと思っていた。
 ただ残念なことに17篇の短編の構成に凝りすぎてしまったために、一篇一篇の話が軽くなりすぎてしまったところがある。もちろん中には「そば屋の浮き燗」のようにいい話もあるが、その点が残念である。もっと内容に味あるものが川本さんなら書けそうな気がする。
 
 
川本 三郎 著 『青いお皿の特別料理』 NHK出版(2003/03発売)


by office_kmoto | 2017-09-22 06:32 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

川本 三郎 著 『マイ・バック・ページ―ある60年代の物語』

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 一九六九年四月、私は「週刊朝日」の記者となった。大学を卒業し、一年間、就職浪人をして記者になった。まだ二十五歳だった。可能性は無限にあり、なんでも出来るんだという若い気負いがあった。

 その年の1月には東大安田講堂事件があり、全共闘運動は後退しつつも、まだ大学にはバリケードが残っていた。ベ平連のベトナム反戦デモが繰りかえされ、ローリング・ストーンズが次々にヒット曲を連発していた。
 アメリカでは『俺たちに明日はない』『真夜中のカーボーイ』『イージー・ライダー』といったいわゆるアメリカン・ニューシネマがぞくぞくと作られる。大学だけでなく高校にも全共闘運動が広がっていった。
 7月にはアポロ11号が月面着陸し、ウッドストックで野外コンサートが開かれ、“ラヴ&ピース”の40万人の熱狂が日本にも伝えられた。ビートルズの「ゲット・バック」やフィフス・ディメンションの「アクエリアス」がヒットした。
 いわゆる「カンターカルチャー」が叫ばれた熱い時代であった。
 ウィキペディアによると、

 カウンターカルチャーとは、既存の、あるいは主流の体制的な文化に対抗する文化(対抗文化)という意味である。 1960年代後半〜70年代前半にかけてよく使われた。 狭義にはヒッピー文化や、1969年のウッドストックに代表されるような当時のロック音楽を差すものである。
 
 そして全共闘とは、

 全学共闘会議(ぜんがくきょうとうかいぎ)は、1968年から1969年にかけて日本の各大学で学生運動がバリケードストライキを含む実力闘争として行われた際に、ブントや三派全学連などが学部やセクトを超えた運動として組織した大学内の連合体。略して全共闘(ぜんきょうとう)。
 全共闘は各大学等で結成されたため、その時期・目的・組織・運動方針などはそれぞれである。中でも日大全共闘と東大全共闘が有名である。東大全共闘では「大学解体」「自己否定」といった主張を掲げたとマスコミが伝え、広く流布した。「実力闘争」を前面に出し、デモでの機動隊との衝突では投石やゲバルト棒(「ゲバ棒」)も使われた。特定の党派が自己の思想や方針を掲げる組織運動というよりは、大衆運動との側面があったともされる。大学により、個人により、多様であったと言える。

 全共闘世代からすれば私は時代遅れで生まれた人間なので、事件として起こったこの運動をテレビなどで見るだけであった。時にお茶の水に本を買いに行く時、明治大学に反戦、反米の大きな看板が残っていた。おそらくこの運動が終焉に向かっている時期に、その余韻を見ることが出来たという世代である。だからこの全共闘がどういうものであり、どう活動が広がり、そして過激化し、終焉していったのか、その詳しい背景は知らない。だから川本さんがその全共闘運動に深く関わり、逮捕され、朝日新聞社を解雇された背景を語るこの本は、その時代を知るにはいい本であった。確かに私は世代は違うが、その余韻を感じた一世代遅れの人間なので、興味がある。以下、あの時代にあったもの、その雰囲気をこの本から書き出してみる。

 全共闘の学生たちが問題にしたには何よりもこの自らの加害性だった。体制に加担している自分自身を懐疑し続けることだった。自己処罰、自己否定だった。だからそれは当初から政治行動というより思想行動だった。なにか具体的な解決策を探る運動というより「お前は誰だ?」という自己懐疑をし続けることが重要だったのだ。質問に答えを見つけるよりつねに質問し続けることが大事だったのだ。だからついにゴールのない永久懐疑の運動だった。現実レベルではあらかじめ敗北が予測されていた運動だった。

 六〇年代から七〇年代にかけての熱い政治の季節は、たくさんの若い死者を作り出した。生き急ぎ、死に急いだ者が多かった。あの季節に青春を送った者はおそらく誰でも身近にそんな死者を持っている。あのころのことは誰もが死者のことなしに思い出すことはできない。

 一九六七年十月8日に死んだ京大生山崎博昭は「私たち」にとって「ひとつの同時代を表現する死」になった。誰もがそこから考え、生きることを出発させていかなければならなくなった。死が「私たち」の生の中心になっていった。

 この事件が学生たちに与えた衝撃は大きかった。「彼は死んだのにお前はそのとき何をしていたのか?」という問いに誰もが悩まされた。いわゆる“10・8(ジュッパチ)ショック”である。全共闘世代といわれる世代の人間にとって、この一九六七年十月八日は、忘れられない。“メモリアル・デー”になった。ちょうどアメリカのシックスティーズが「ケネディが殺されたとき、君は何をしていたのか?」を世代的“合言葉”に使うように日本のシックスティーズにとっては「一九六七年十月八日、京大生の山崎君が死んだとき、君は何をしていたのか?」が、共通の重い問いになった。

 これを読むととにかく熱い時代だったことがよくわかる。若者が自分が何者かを問うのは、まあよくあることだろう。自己の存在に疑問を持ち、自己否定など、いわば“はしか”のように通らねばならない道だろう。しかしそれが集まり、集団のエネルギーとなったその時代、何がそのエネルギーを束ねたのか、もっと知りたいところである。
 朝日新聞の記者となった川本さんはそんな若者たちにシンパシーを持っていた。しかし彼らにシンパシーを持っているだけの時は、まだいい。いったん新聞記者となってしまうと、心情的に反体制側にいながら、取材するという行為が、その中に入ってゆくことは出来ず、ただ眺めているしかないと知らされる。しかも記者というポジションは守られたものであって、ジャーナリストのしんどさと取材することのうしろめたさがつきまとっていた。

 ところでひとたび記者という取材する側になると急に身分は完全な第三者になる。記者は取材する側という安全な立場で、悪くいえばデモを高みの見物ができる。もう警察に逮捕される心配はない。「記者」という特権でデモの現場にいて、学生と警察の衝突という決定的瞬間を“見物”していられる。なおかつ自分はベトナム反戦デモを取材しているという良心の満足感も得られる。権力の側から特権を保障されながら、気持ちだけは反権力の側にいる。その矛盾が自分のなかでいっこうに解決されなかった。

 そして反体制運動は質的に変化をしていく。

 六九年から七〇年にかけて日本の反体制運動は次第に過激になっていった。爆弾闘争もはじまっていた。七〇年の三月には赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件が起こっていた。
 いまにして思うと、こういう過激な行動への傾斜は、“世界のあらゆるところで戦争が起きているというのに自分たちだけが安全地帯にいて平和に暮らしているのは耐えられない”という、うしろめたさに衝き上げられた焦燥感が生んだものではなかったろうか。“彼らは生きるか死ぬかの危機に直面している。それなのに自分は平和のなかにいる”。この負い目を断ち切るには自ら過激な行動にダイビングするしかない……

 そして反体制運動そのものが激化していた。全共闘運動というのはまだ大学のなかの運動だったし、暴力といってもヘルメットとゲバ棒くらいだった。それも一種対抗暴力といったものだった。だからジャーナリストの側が彼らにシンパシーを持ち、取材の過程で彼らにコミットしても、まだそれほどの危険はなかった。
 しかし七〇年三月の赤軍派のよど号ハイジャック事件以来、先鋭的な政治セクトは学内から学外へ、大衆行動から武力闘争へとより過激になってきていた。「爆弾闘争」という言葉も日常的に使われるようになっていた。彼らを取材すればするほどジャーナリストの側にも危険はましてきた。それは全共闘運動の取材にともなう危険の比ではなかった。

 そんな中Kと名乗る男と電話で対応したのは、当時、「週刊朝日」で新左翼運動全般をカバーしていたN記者だった。川本さんはN記者に誘われ、Kの取材の協力を頼まれる。ここからが川本さんが警察に逮捕され、新聞社を解雇される経緯が描かれる。

 私はN記者の言葉に喜んで従った。日頃、憧れていた先輩記者が大事な仕事をする時のパートナーに自分を選んでくれたことが誇らしくもあった。それまでいわゆる“過激派”の取材したことがなかったので興奮もした。なんといえばいいのか、「血」が騒いだ。

 しかしこのKという男、どこか胡散臭い男であった。自分は京浜安保共闘のメンバーで、活動家と称していたが、N記者は疑っていた。しかし川本さんはKを信用できるとふんでいた。

 私はKから信頼してくれたと思われたらしく、自分のことを詳しく話していった。しかしN記者はKは京浜安保共闘のメンバーではないから少し距離を置いて付き合ったほうがいいと忠告してくれた。
 この頃朝日新聞出版局で大規模な人事異動があった。特に全共闘運動や三里塚の農民運動を支持してきた「朝日ジャーナル」編集部が対象となった。「朝日ジャーナル」を潰そうとするものであった。そんな「朝日ジャーナル」に私は「週刊朝日」から移った。

 六九年、七〇年、七一年-私が出版局にいたこの三年間は何度も書いているように新左翼運動の急激な昂揚期だった(同時にそれは急激な沈滞期にもなるのだが……)。出版局の記者のなかには、率直なところ、“心情新左翼”が多かった。局内では記者どうしの議論になると、全共闘や三里塚の農民にシンパシーを表明する者が多かった。私がKや滝田修と酒を飲んだことがあったように、出版局の記者が全共闘の学生たちと酒を飲んだり、彼らのカンパ活動に応じたりするのはそのころはごく日常的なことだった。
 そういう雰囲気は雑誌の誌面にも反映された。出版局の三週刊誌のうち読者層の年齢がやや高い「週刊朝日」は穏やかな路線だったが、「朝日ジャーナル」や「アサヒグラフ」は新左翼への傾斜がきわだっていた。


 しかしこういう“新左翼シンパ”の出版局に対する風当たりは当然なことに強まった。警察との関係がより濃い社会部には「出版の連中は何をやっているんだ」という批判があった。出版局は警察からも次第にマークされるようになった。

 出版局の局内では統一感、一体感があったが次第に外圧にさらされるようになっていった。五月に行われた局内の大きな人事異動は私には外圧への屈服、あるいは自主規制に思えた。外側から大きな力が加わる前に局のトップが自ら急ブレーキをかけたように見えた。

 先に書いたように反体制運動が過激化したことで、活動家と親しく酒を飲むことは問題はなかったが、武力闘争をスローガンにかかげる政治セクトのメンバーと私的にまで交際することは、“犯罪”に近いものになっていた。
 Kから「朝日ジャーナル」の編集部に電話があり、「赤衛軍」という武力闘争組織を作り、自衛隊の基地を襲撃して武器を奪う計画を話した。その準備品をKの部屋で見せてもらったが、その貧弱さに疑いを持ってしまった。
 そして深夜Kから興奮気味で「やった、やった」と言う電話があった。ここからはウィキペディアに詳しいのでそこから引用する。

 1971年8月21日午後8時45分、陸上自衛隊朝霞駐屯地で歩哨任務についていた一場哲雄陸士長(当時21歳)が何者かによって刺殺された。午後10時半の交代の時間になっても一場陸士長が現れなかったことから、駐屯地内を捜索したところ、血まみれで倒れている一場陸士長を発見した。一場陸士長は直ちに病院に搬送されたが、既に死亡していた。

 事件現場周辺には、「赤衛軍」の名称が入った赤ヘルメットやビラなどが散乱していた。そして、近くの側溝から一場陸士長が所持していた小銃が発見されたが、左腕に付けていた「警衛」の腕章が消えていた。

 埼玉県警察は「赤衛軍」という新左翼党派が起こした事件とみて、朝霞警察署に捜査本部を設置し捜査を開始した。遺留品を調べたところ、何れも東京都内で販売されたことから、犯人は都内に住んでいると推測したが、赤衛軍はこれまで事件を起こしたことがなく、公安警察といえども正体不明の存在であった。

 発生直後から、マスコミはこの事件を大きく取り上げていたが、10月5日発売の『朝日ジャーナル』に「謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見」という記事が掲載された。この記事には、まだ一般に公表していなかった「警衛腕章」の強奪を示唆していたことから、犯人しか知りえない事実であることが判明し、取材源は限りなく「クロ」であることが分かった。

 警察はその取材源を徹底的に捜査したところ、日本大学と駒澤大学の学生3人が捜査線上に浮上し、11月16日と25日に相次いで逮捕された。

 また、『朝日ジャーナル』の記者川本三郎(当時27歳)は1971年2月から犯人と親交を結び、犯人に金を渡すなどの便宜を図り、その見返りにスクープ報道の材料となる情報の提供を受けていた。川本はさらに犯人から犯行の唯一の物証である「警衛腕章」を受け取り、同僚記者の妻にこれを託し、1971年9月上旬に朝日新聞社高井戸寮の焼却炉で灰にさせていた。このほか、『週刊プレイボーイ』の記者(当時26歳)が犯人への取材に際して「警察の逮捕は近い」と教えるとともに逃走資金1万円を渡していたことも判明した。このため、両人は1972年1月9日に犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪で逮捕された。

 事件の経緯はこのようである。
 犯行後Kと築地の旅館で会った。「朝霧事件を起こしたのは君だという証拠を見せてくれ」と言う川本さんにKは自衛官の腕から奪ってきた警衛腕章を見せた。川本さんは“取材の証拠”になる重要な物証を手に入れたことで満足していた。しかしこれが命取りになった。Kの取材には社会部のT記者も加わったが、そのインタビュー記事を掲載しようとT記者は上司に相談したが、上司はこの事件を「政治犯の起こした事件」ではなく「一般の殺人事件」と判断した。そして速やかに警察に通報すべしという上司の判断であった。T記者は上司の判断に従うことにした。
 Kは取材に応じてくれた。記者は「ニュースソースの秘匿」というジャーナリストが守るべきモラルがある。ましてKは川本さんを信用してくれていた。だから警察に売ることは出来なかった。そうT記者に反論する。T記者は私を甘いと言い、もうジャーナリストのモラルが通用する状況ではない。あいつはただの殺人犯だとも言う。この時私はT記者の言うとおりだと思っていた。

 Kは“どこのだれともわからない馬の骨”である。K?そんな名前、聞いたことがない。大学はどこ?出身は?
 そんな男が自衛隊の基地に入り込み、何の罪もない自衛官を殺害した。

 しかし私はKを思想犯だから、彼にも「ニュース・ソースの秘匿」の原則が適用され、警察に通報することは出来ない、というジャーナリストの原則を主張し続ける他なくなっていく。少なくとも警察に通報しないという立場を取り続けることはそれを押し通すしかなかった。私にもKという人間がどういう人間かわかっていたのだ。

 思想犯による政治活動とはいえ、正体がよくわからない組織が起こしたものだった。思想的な内容がよくわからなかった。Kはいわゆるアナーキストにも思えなかった。生活環境、学歴などさまざまな点でコンプレックスを持つ男が、新左翼運動のなかで何か大きなことをして名をあげたいという個人的な背景が強く感じられた。ある点でこれは政治的な事件というより文学的事件といったほうがよかった。

 要するにKは単に自己の存在を示したかっただけの男で、経歴、活動履歴のない男であって、当時名のある活動家として自分もそこに連なりたいというだけのために自衛官を殺害したのだ。
 警察からの事情聴取も行われたが、言うことができない、で押し通した。この辺りはただの意地しか見えないところがある。
 Kは逮捕され、川本さんを仲間であると自供している。ジャーナリストのモラルを守ってKをかばった結果がこれである。Kとはしょせんそんな程度の男であった。
 1972年1月9日、川本さんは埼玉県警によって「商標湮滅」の容疑で逮捕された。Kから預かった自衛官の腕章を焼却してしまったことによる。最初は黙秘を貫いたが、検察官の取り調べに屈し、腕章を処分したことを認めた。そしてその後、朝日新聞社は川本さんを即刻懲戒免職にした。
 その年の9月27日、浦和地方裁判所で懲役十カ月、執行猶予二年の判決を受け、控訴しなかった。
 先日朝日新聞にこの本のことで川本さんのインタビュー記事が載っていた。そこにわりと政治的な意見が川本さんが言っていたので、ちょっと違和感を感じた。これまで読んできた川本さん本に政治的な意見はなかったからだ。
 この本の「あとがき」に次のようにあった。

 文学だけが挫折した者の小さな低い声に耳をかたむけることが出来る。私が事件のあと文芸評論家の道を選んだのもこのことと大きく関わる。ものを書くようになってから生の政治について語ることは自分に禁じている。その資格はない。生きてゆく場所は文学にしかない。

 なるほどそうだったのか。そしてこの本を読んでみて、川本さんがそのようなスタンスを意識しているんだ、と知ったのである。

川本 三郎 著 『マイ・バック・ページ―ある60年代の物語』 平凡社(2010/11発売)


by office_kmoto | 2017-09-19 05:20 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成29年9月日録(上旬)

9月1日 金曜日

 曇り時々雨。

 ということで孫と半日遊ぶ。途中図書館に行って、予約していた常盤新平さんの本を5冊と他に1冊借りてくる。明日から常盤新平さんの本三昧の予定。

 昼間近所のCafeへ娘と孫、そして我々夫婦で行ってみる。
 図書館にあった「まいぷれ江戸川区」の瑞江・篠崎MAPをもらって来て、そこにしゃれたCafeがあり、孫たちが好きそうなソフトクリームがあるというので行ってみたのだ。
 確かに地元ではめずらしいしゃれたCafeである。いわゆるインスタ映えするお店である。何でもオープンは1年ほど前という。孫は美味しそうにソフトクリームを舐めていた。
 その後近くにある公園で少し遊ぶ。今日はそれほど暑くないので公園で遊ぶにはちょうど良かった。
 夕方娘たちは帰って行った。急に冷え込んだので、娘は風邪を引いたようだ。
 孫たちが帰った後、常盤さんの本を読み始める。明日は天気が悪いようだから、ゆっくり常盤さんの本を読もうと思う。


9月2日 土曜日

 雨のち曇りのち晴れ。

 常盤新平さんの『冬ごもり―東京平井物語』を読む。


9月3日 日曜日

 曇りのち晴れ。

 常盤新平さんの『そうではあるけれど、上を向いて』を読む。


9月4日 月曜日

 雨のち曇り。

 常盤新平さんの『うつむきながら、とぼとぼと』を読む。


9月5日 火曜日

 曇り。

 常盤新平さんの『門灯(ポーチライト)が眼ににじむ』を読む。
 気がつけば、ベッドの横に積んでいた図書館で借りた常盤さんの本があと1冊となている。
 ずっと本を読んでいたので、気分転換に録りためていたビデオでも見ようかと思い、つけてみたが、何だか騒がしく、イラついてくる。ちっとも気分転換にならない。ビデオを消し、また読み始めた常盤さんのエッセイを読み始める。今の気分はこっちみたいだ。


9月6日 水曜日

 雨のち曇り。

 常盤新平『熱い焙じ茶』を読む。これで今回図書館で借りてきた常盤さんの本はすべて読んだ。
 池波正太郎さんは食べ物のおいしさを本当に知るためには、何度も同じ物を食べ続けることだと言っていたはずだが、本も同じじゃないか、と思う。性格的にこだわるところが強いため、好きな作家、あるいは気になる作家の本は立て続けに読みたくなる傾向がある。でも同じ作家の昔の本から最近の本まで続けて読んでいると、その変化がわかり、やっぱり若いころの文章は力みが入っていて、ゆとりがないな、とか、晩年のエッセイは力が抜けていていい感じに枯れて、読みやすい、などと好き勝手に思うのは楽しい。基本的に年輩の人のエッセイが好きで、それはやはり自分が歳をとったことによるものだろう。
 さて、次は今回借りてきた最後の本を読むことにしよう。


9月8日 金曜日

 曇りのち晴れ。

 新宿京王百貨店へ「秋の大北海道展」へ父親と我々夫婦で出かける。もともと父親の提案である。北海道といえば美味しい食べ物がいっぱいあるので、こういう北海道物産展は人気があると聞いている。売り切れ必至と聞いたこともある。なので早めに出かけて行ったが、そうでもなかった。
 ここでお弁当など買って、その後食事でもして帰ろうと思ったが、お弁当を持っていられる時間は3時間以内と聞き、先に昼飯を食べてから後でお弁当を買おうということになった。しかしまだ10時半である。レストラン街が11時からだから、仕方なしに喫茶店で時間をつぶす。
 こういうとき父親と二人だと話すことなどない。ただ妻には父親は話しやすそうなので、いろいろ話している。妻も気を使ってあれこれ聞いたりしていて、それを聞いていればいいので助かる。
 その後レストラン街にある「つな八」で天ぷらのランチを食べ、また階下に降りて弁当など買って帰る。
 夜は定番の蟹といくらとウニが山盛りにのった弁当を食べたが、やはりうまかった。

 青木冨貴子さんの『731』を読み終える。これで今回図書館で借りた本6冊全部読んだ。1週間で読んでしまった。
 明日も天気が良さそうなので、雨で出来なかったさつきの消毒をしようと思う。


9月9日 土曜日

 晴れ。

 久々の天気。しかもカラッとして気温は上がったようだが過ごしやすかった。部屋の窓を大きく開けて、扇風機を回していると気持ちいい。そんな中本を読めるのは最高である。

 天気が悪くて出来なかったさつきの消毒をする。


9月10日 日曜日

 晴れ。

 図書館に本を返しに行く。そしてまた2冊と「街道をゆく」のDVDを借りてくる。
 借りた本の1冊は少し前の本である。普通自由に取り出せる棚にはないので、3階の書庫から取り出して来てもらう。

 ここのところ古本屋に行っていない。ブックオフは先日回ったけれど、正直真剣に本を探していない。というのもこのように多少古い本は、図書館で借りられるからだ。そこで一度読んで、これは是非自分の本棚に置いておきたいな、と思った本だけを探すことにしている。そこまででない本なら図書館の本で済ます。
 本という媒体は有難いものである。たとえ借りてきた本が傷んでいても、スピンが短くなって栞の役目をしなくても、読むのには何ら支障がない。

 今までは読みたいと思ったら、新刊書店で、なければ古本屋で入手してきた。だから真剣に本を探した。
 でもこうして図書館を利用することで、以前のような古本探しをしなくて済むのである。実は1冊探している本がある。滝田ゆうさんの漫画だ。その本は江戸川区の図書館に蔵書していない。隣の江東区の図書館にもない。けれどネットで調べてみると墨田区の図書館にある。そこにあるだろうな、と思ったのは、滝田さんの地元だからだ。だったらそこで読もうと思った。近いうちにこの界隈に行きたいと思っているので、そのついで寄って読もうと思っている。

 ネットのおかげで各区の図書館の在庫を確認出来るので、こういうことが可能になる。さらにネットのおかげでわざわざ古本屋へ出かけて行かなくても、探している本が見つかる。効率も圧倒的にいい。
 最近は新刊もネットで買うことにしている。駅前の本屋にないことがあるし、それに、経営が変わったこの店はあまり好きじゃない。
 ということでますます出不精になってきていている。


9月11日 月曜日

 晴れ時々曇り。

 結膜炎と診断されて1週間以上経つが、どうも右眼がすっきりしない。それで今日もう一度眼科にい行く。
 症状を言ってから、詳しい検査をしてもらい、幸い眼の病気はないという。先生に手のしびれがないか、と訊かれたので、首の椎間板が狭まっていて多少神経を刺激しているらしく、今痛み止めと週に一回牽引に行っていることを伝えると、もしかしたらそれかもしれない、と言われる。
 素人考えでは、首の痛みは眼の下だからあまり関係ないんじゃないかと思ったりするが、どうもそうではないらしい。神経というのは、あちこち関係してくるのだろうか。確かに眼は疲れやすい。
 結局眼自体の病気じゃないようなので、疲れ目対処ということでサンコバを1ヶ月分出してもらい、1ヶ月後また来て下さいと言われる。
 疲れ目は本の読み過ぎとも関係ある、と妻からも言われているが、でも本を読むことは止められない。まあ、しばらく本を読む時間を減らすことはした方がいいのかもしれない。

 司馬遼太郎さんの『司馬遼太郎が考えたこと』の1巻を再読する。このシリーズ、どこまで読んだかわからなくなり、しかも読んだ内容を忘れているので、最初から読むことにした。今年中に全15巻読み切れれば、と思っている。


9月12日 火曜日

 雨のち曇り。

 今日は胃腸科へ行く。その後いつものようにヨーカドーへ。
 昼は珈琲館でランチのミックサンドにアメリカン。やはりコーヒーは美味しい。

 今ここは店内改装をあちこちで行っている。そのため商品がいつもの場所にない。そのため店内をうろちょろすることになった。

 常盤新平さんの『遠いアメリカ』を読む。


9月13日 水曜日

 晴れ。

 朝、司馬遼太郎さんの本について書いていた。書き終わって保存するとき、「はい」をクリックするところを間違って「いいえ」をクリックしてしまい、一瞬でパアーとなる。2時間かけて書いたのに、とショック。久しぶりにやってしまった。 
 その後また書き直すことになるが、一日不愉快。


9月14日 木曜日

 晴れときどき曇り。

 どうも眼科で言われたことが納得できないので、今日整形の先生に眼のことを話してみた。そして笑われた。私が疑問に思っていたように、眼は首より上にあるのだから関係ないだろう。眼科の先生のことを悪く言いたくないけれど、商売上手だな、と言う。
 そしてあるとすれば脳の方だろう、とまた恐ろしいことを言う。でもそれはやっぱり加齢から来るもので、老化だろうから心配ない。出されている目薬もサンコバなら、眼精疲労のやつだから、問題ない。だって詳しく検査して問題なかったんでしょう、と言われた。私だって眼がかすむことはありますよ。どうやら先生は同じくらいの年齢のようだ。
 と言うことで半ば一笑された感じだった。それより首の痛みはどうなの?と聞かれ、以前よりひどい痛みはなくなったけれど、鈍い痛みは絶えずありますと言えば、でしょうね、と簡単にいなされる。この先生、私が通院している他に科の先生の中で一番好きだ。まあ今みたいに牽引することで、多少緩和できればいいらしい。もちろん痛み止めは必要な分処方せんを書くから、ということで終わった。
 会計は牽引と診察で360円。通常牽引だけで320円かかるので、診察代は40円ということになる。40円でこれだけ情報を得られ、半ば笑え、そして安心できるなら安いものだ。
 眼科の先生を馬鹿にするつもりはない。先生も老化もあるとは言っていた。結局原因がわからないのだから仕方がない。でもサンコバを点していると眼が楽なので有難いと思っている。

 明日は孫の保育園の敬老参観日である。明日のためにカメラの充電を確認しておく。そして再来週は運動会と続く。ジジババもかり出されて、結構忙しい。


9月15日 金曜日

 晴れ。

 今日は孫の保育園で敬老参観日がある。10時に保育園に着き、2歳から5歳児までの遊戯、歌を見る。後半は各ジジババが自分たちの孫と一緒に遊ぶというスケジュール。
 まあわが孫は元気で、妻から娘、そして孫へと受け継がれた早口でまくし立てていた。

 昼過ぎに帰ってきて、何だか疲れた。
 郵便受けにHonya Clubから本が届く。予約していた東野圭吾さんの『マスカレード・ナイト』だ。今日発売の本だが、発売日にわざわざ本屋に行かなくても本が自宅に届くのは、便利だというより、驚きに似た感じがある。
 さっそく読み始めたいが、まだ司馬さんの本がもう少し残っていて、まずそれを読んでから、この本に取りかかる。が、今日夜、浅田次郎さん原作のドラマもやるので、それまでで、残りは明日。台風も近づいてきて、天気も悪そうなので、明日はゆっくりこの本を読むつもり。

 ということで、今日、司馬遼太郎さんの『司馬遼太郎が考えたこと』の2巻を読み終えた。


by office_kmoto | 2017-09-16 05:07 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

30年ほど前の本のこと

 この頃昔出版された本を読むことがほとんどだ。そうした本を読んでいるとき、何でこれまでこの本を読んでこなかったのだろう、と思うことがある。気がつくと夢中で読んでいる。妙に感動しているのだ。
 一方で仮に若い頃この本を読んでも今みたいに感動できただろうか、と思う。おそらく今みたいに行間から醸し出される雰囲気を感じ取ることはできなかったかもしれない。今だからわかるというのがある。歳もとってきたし、それなりに人生の酸いも甘いも味わってきたからこそ、ここに書かれていることが心地良いのではないか、と思ったりする。
 幸い本という媒体は、30年以上も前に出版されても、図書館の通常の棚に並べられなくなって、「集密」というラベルを貼られ、バックヤードにある書庫にしまい込まれても、係の人に言えば取り出してきてくれる。
 出された本はかなりくたびれていて、スピンが短くなり栞の役目をしなくなっていても、読むことが出来る。それが出来るのが本の有り難さだと思う。今になってそうした本が読めるだけでも幸せだと思う。さらにこうして感動した本を手もとに置いておきたくなり、それを古本屋で探してみたい、と思う。そういう楽しみを生んでくれる。

by office_kmoto | 2017-09-14 17:59 | 余滴 | Trackback | Comments(0)

川本 三郎 著 /武田 花 写真 『私の東京町歩き』『東京万華鏡』

d0331556_06283166.jpg 川本三郎さんの「東京もの」はほとんど全部読んだものと勝手に思っていたら、まだ図書館の棚にこの2冊があった。当然これは読まねば、と借りてくる。
 そう言えば川本さんの「東京もの」を読んでいたのは、去年の秋口だったか、それ以来だが、あまり時間は経っていないけれど、なんだか懐かしい。
 また読んで、へぇ~、そうなんだと感心する。
 大久保界隈がガイジンの町になったことが書かれている。


 こうした東南アジア系の女の子たちの下宿として選ばれているのが歌舞伎町に近い大久保界隈である。もともと、歩いて通勤が出来るのでホステスには人気があった場所だ。いまの東京によくこんな建物が残っていると驚くほど貧しげな木造アパートが建て込んでいる。(エスニック・タウン-大久保(新宿区))


 これは書いたかどうか忘れてしまったけれど、私が勤めていた会社が新大久保の駅近くに本屋を出店した。ここに出店したのは、問屋が行った市場調査で人が多く行き来するという結果を当時の会社の幹部が信じたからだ。
 しかし開けてみれば、この駅前を行き来していたのが日本人に顔が似ている韓国系の人たちだった。それを聞いた時呆れてしまった。
 店は5年も持たなかった。この店の手伝いに何度も来ていたので、大久保界隈が「ガイジンの町」になっていることを思い出した。

 また驚いたことは、銀座に朝、カモメが飛んでいるという話。


 夏の朝、この四丁目の交差点ではよくカモメが飛んでいるのを見かける。はじめはなんの鳥かわからなかった。海辺にいるカモメが銀座のまんなかを飛んでいるとは思わなかったからだ。しかし鳴き声も、白い羽根もどうみてもカモメである。
 どうしてこんなところにカモメが飛んでいるのだろう。理由はすぐわかった。銀座四丁目から東京湾まではすぐ近くなのである。四丁目の交差点から晴海通りを東に向かって歩いていくと、東銀座(歌舞伎座)、築地(市場)、そしてその先は勝鬨橋で、隅田川が東京湾に入りこんでいる。
 歩いて十五分たらず、それでもう海なのである。銀座は海の町、潮の匂いのする町なのである。四丁目をカモメが飛んでいてもおかしくない。(銀座の先にある「離れ里」-佃島・月島(中央区))



 川本さんは下町をよく訪れてくれるので、下町に住む私としては、そこでの話は興味深い。門前仲町での話。


 「門前」というのは富岡八幡宮(より正確にいうとその中の永代寺の)門前のことである。江戸幕府は深川の新開地を発展させるために、門前に水茶屋を黙認した。この水茶屋の女たちが芸者のはじまりとされている。いわゆる辰巳芸者である。(川向こう親密な町-門前仲町(江東区))


 こういう町は夕暮れ時がいい。おかみさんたちが買い物かごをさげて魚屋や八百屋をのぞく。仕事帰りの中年男が焼鳥屋の店先でコップ酒をやっている。どこからか豆腐屋のラッパの音がする。パン屋ではおばさんが紙の袋をふくらまし、そこにパンを入れると袋の両端をつかんでくるっとまわし、「はい」とお客に渡している。なんだかこの町に来ると、昭和二十年代の東京の町に戻ったような、懐かしい気分になる。(文学碑の目立つ町-三ノ輪(荒川区))


 先日都電荒川線に乗った。三ノ輪には行かなかったけれど、荒川区は少し歩いた。三ノ輪が近かったのだから、こういう商店街があるなら寄ってみてもよかったなあ、と思ってしまった。
 確かに紙袋を膨らませて、両端をつかんでクルクル回すお店のおばちゃんいましたよね。


 それから六十年以上たつが、いまの荒川を見ているととても人工の川には見えない。自然の川である隅田川が人工的な運河のように見えるのに人工の川の荒川のほうが自然の川に見える。人工の自然化である。人の手で植樹され育てられた緑の山が自然に見えるのと似ている。その意味では人工と自然はそれほど対立していないのかもしれない。(荒川を渡って路地の町へ-四ツ木、堀切(葛飾区))


 家の近くには新中川が流れている。昔中川放水路と呼んだ人工の川である。散歩でよく行くのだが、土手があり、河原があり、本当に人工の川とは思えないくらい今は自然な川のようになっている。


 煮込みの匂いひかれてカウンターに座った。ビールを頼んだ。墨田区ではビールといえばたいてい地元のアサヒビールである。(荒川を渡って路地の町へ-四ツ木、堀切(葛飾区))


 なるほど、だろうな、と思う。


d0331556_06303524.jpg 『東京万華鏡』のあとがきに次のようにある。


 「東京万華鏡」と題したように、東京のさまざまな姿を、小説、映画、マンガ、あるいは自分の個人的思い出などを手がかりに、ちょうど町を散歩するように気ままに書いた。東京という万華鏡の筒のなかに、川・下町・相撲・あるいは原っぱ・地下鉄・橋といった色ガラスの細片を入れて、くるくる回しながら眺めてみた。「東京論」や「都市論」といった堅苦しいものではない。なんというか、小学生が夏休みの宿題で「自分の町について書け」といわれて、あれこれ町のことを調べて書いたような文章である。


 確かに『東京万華鏡』は『私の東京町歩き』とは感じが違う。


 駅ではときどきアコーディオンをひいている傷痍軍人の姿を見かけた。子ども心に白い服を着て黒眼鏡をかけた彼らの姿はこわかった。戦争はこわいものだということが無意識に焼き付けられていた。だからだと思う、私たち子どもは原っぱでチャンバラごっこや西部劇ごっこはやったけれど戦争ごっこだけはしたことがなかった。それは子供たちとっても絶対にやってはいけないことだったのだ。(山の手の子供たちの故郷-原っぱ)


 傷痍軍人の姿を子供の頃、浅草寺の境内で見かけた。彼らの姿はここに描かれるままだが、私も怖かった。


 面白かったのは東宝の怪獣映画の話だ。ゴジラとかモスラなど建物を壊し廻る話の中で、皇居に手を出した怪獣はいない、という話だ。
 東京タワーのついて書いた文章の中でそのことが書かれているのだが、昭和59年にリメイクされた「ゴジラ」では東京タワーを無視して新宿副都心の高層ビルや有楽町のマリオンに向かった。


 すでに東京タワーは怪獣にとって壊し甲斐のある魅力的な建物ではなくなってしまったのである。怪獣に無視された東京タワーというのもなんだか寂しい。


 川本さんは東京タワーが観光地特有の安っぽさを免れていない。場末的雰囲気と書くが、考えてみれば私は東京タワーに登ったことが一度もない。それでいてスカイツリーには、登っている。
 よく東京タワーの展望台の内部をテレビでみるが、蝋人形館や東京のお土産など売っている売店などを見る。それを見るとちょっと垢抜けない。それが何か安っぽく見えて、登って見たいとは思わないのだ。それでも最近、スカイツリーに対抗して、様々なイベントも催されて、人気が出ていると聞いたことがある。頑張っているんだろう。
 今ゴジラが日本に上陸したら、東京タワーには向かわず、スカイツリーを破壊しに行くんだろう。やっぱり東京タワーは怪獣に無視される存在になってしまっている。けど壊されず残るならそれはそれでいいことなんじゃないか。

 最後に『東京万華鏡』で都営新宿線について書かれていることがある。この路線を出かけるときに必ず使うので記録として書いておく。


 この地下鉄は昨年(一九八九年)の三月に新宿と千葉の本八幡まで全線開通したが、東京の他の地下鉄と同じように工事の進行とともに終点が先へ先へと伸びていくのが面白かった。

 東京都交通局の資料によるとその“小刻み開通”ぶりがよくわかる。

 岩本町-東大島 昭和53年12月21日
 新宿-岩本町  昭和55年3月16日
 船堀-篠崎   昭和61年9月14日
 篠崎-本八幡  平成1年3月19日
 
 着工は昭和四十六年五月というから約二十年かかっている。二十年という時間が地下鉄工事にとって長いのか短いのか私などにはよくわからないが、この二十年のあいだ東京の地下のどこかに人がいて黙々と穴を掘っていたのだと考えると、本当に“お疲れさまでした”といいたくなる。


川本 三郎 著 /武田 花 写真 『私の東京町歩き』 筑摩書房(1990/03発売)

川本 三郎 著 /武田 花 写真 『東京万華鏡』 筑摩書房(1992/06発売)

by office_kmoto | 2017-09-12 06:36 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

コーフェンノン/フレディエ 著 /並木 佐和子/吉田 春美 訳 『貞操帯の文化史』

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 歴史には“異様なもの”を残すことがある。当時はそれらはまじめに使われていたものだが、今残ったものを見ると、なんでこんなものを、と思う。たとえば、先のヴェネツィアの医師たちの格好などもそうである。
 おそらくそんな“異様なもの”は他にもあるだろうな、と思い、ネットで探してみると貞操帯というのが見つかる。確かにこれもその一つだ。それで貞操帯を扱った本があることを知り、図書館にも蔵書していることがわかり借りて読んでみた。
 ところで、この本の序文に次のようにある。

 世間に流布している誤った説では、貞操帯の使用は十字軍の時代にさかのぼるとされている。そう信じられたのは、次のような理由からである。つまり、長期間の遠征に出かける領主たちは、妻の貞操を守る必要があると考えたが、このような野蛮な器具を考案する以外に、有効な手段が見当たらなかったというわけである。しかし、そうした事実をうかがわせる資料は、歴史においても風刺文学においても、何ひとつ存在しない。

 私が知っているのも、貞操帯が広まったというか、使われたのは十字軍の時代だったというものであった。当時の領主たちの妻は略奪婚や政略結婚で結ばれた者たちが多かったから、猜疑心の強い領主は自分がいない間、妻が昔の男や間男などと関係を持ってしまう可能性が大きかった。だから物理的にそういう行為が出来ないようにした。
 でも考えてみれば、何も十字軍の時代でなくても、そういう病的に猜疑心の強い男どもはいつの時代にもいるはずで、似たような行為にでる男がいても不思議ではない。ただ器具として貞操帯というものが形として残ったということなのだろう。まあ、どうでもいいことなのだが。

 非常に利己的な見方をすれば、女の体は男の快楽の食料棚のようなものであり、どこかの闖入者がおいしそうな食べ物を失敬し、お菓子をむしゃくしゃ食べてしまわないように、食料戸棚に錠をしておくのは、しごく当然な話なのである。

 貞操帯が発明され使用されていたのは、もっぱらイタリアにおいてである、というのが、少なくともフランスでは一致した意見である。ディドロはフィレンツェの器具と呼んでいるし、ヴォルテールはローマとヴェネツィアで一般的に使用されていると信じた。サン=タマン[訳注:バロック期の詩人]は、古代ローマの女性の大多数が、当時、鉄のカルソンやベルトを身につけていたと言っている。
 ラブレーはパニュルジュ[訳注:『パンタグリュエル物語』の登場人物]にこう言わせている。「わが後宮から出かけるとき、女房にベルガモ式の錠をかけることにいたします。さもなくば、白目のない悪魔にこの身をさらわれたほうがましでしょう」。この表現からうかがえるのは、ベルガモの人々は他のイタリア人にもまして、こうした一種の機械仕掛けの囲いをよく使っていたらしいということ。あるいはベルガモの錠前作りたちが、この種の器具の製造にかけて、薄刃の剣の焼き入れでトレドの武器製造業者たちが好評を得ていたように、優位に立っていたらしいということである。

 こんなものに優位も喜ばしいものでもないと思うのだが。もっとも忍び込んできた男が女性を前にして、貞操帯を着けられているのを見たら、ぎょっとしただろうな、と思ったりするし、夫の方はしてやったり、と思ったのだろうか。
 さて、女の方もこの貞操帯を愛の証として使ったことが書かれている。

 ああ、ようやく、美しき女性がわたしを抱擁した
 そして、一つ鍵を取り出した
 それは黄金でできていて、名人の手になるもの
 美しき女性は言った
 「この鍵をおもちになってください
 けっしてなくさないでください
 なぜなら、これは、私の宝物の鍵
 あなたのために、黄金で作らせました
 ですから、何よりも大切に、もっていてください
 わたしの右目よりも、これを愛してください
 なぜなら、これは、わが名誉、わが富
 これこそ、わたしが差し上げることのできる贈り物なのです」

 「わたしがもっている小箱の鍵をなくさないように気をつけてください。もしなくなったら、わたしは二度と完全な悦びを得ることができなくなるのです。なぜなら、神様だて、あなたがおもちの鍵でなければ、この小箱はけっして開かないのですから。あなたの気が向いたときだけ、この小箱は開くのです」

 「わたしのもつ鍵は、とても豊かで優美な宝物の鍵。その宝物である小箱のなかには、あらゆる喜び、あらゆる優美、あらゆる優しさが詰まっているのです。なくさずもっていますから、どうぞ心配しないでください。あの愛の宝物の優美、栄光、豊かさを見たくなったら、できるだけ早く、鍵をもってうかがいます」

 性本能のおもむくままに行動する異常者についてわずかでも知っている者にとって、別に奇妙に思われないだろうが、女性の中にも、体の一部を軟禁しようとする嫉妬深い残忍な男に抵抗するどころか、喜んでそれに応じ、そうしてほしいと懇願までするようになる者もいる。

 ということらしい。わからんな……。

コーフェンノン/フレディエ 著 /並木 佐和子/吉田 春美 訳 『貞操帯の文化史』 青弓社(1995/02発売)



by office_kmoto | 2017-09-10 06:27 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

角井 亮一 著 『アマゾンと物流大戦争』

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 ちょっと前に佐川急便の配達員が配達する荷物を路上に投げているのを動画に撮られて話題になった。詳しいことは知らないが、配達したのに受取人がいなかったため、頭にきて荷物に八つ当たりしたのだろうか。あるいは再配達して、またいなかったためかもしれない。
 お客の荷物に八つ当たりして、荷物の中身を破損させる恐れもあるから、その行為は許せないものではあるけれど、しかし気持ちはよくわかる。
 昔、本屋で働いていた頃、会社などに本の配達をやっていたことがある。その会社に働く個人にも本を届けていた。当の本人は何度行ってもいない。つけ払いのお客なら、近くにいる人に受け取ってもらうのだが、集金の時が困る。いつまで経ってもお金が回収できないのだ。それが気になるものだから、その会社に配達に行く時は、その人に配達すべき本がなくても、わざわざ寄って本人がいるかどうか確認する。手間がかかって仕方がなかった。そんなことを何度も経験しているので佐川急便のあんちゃんの気持ちはよくわかるのである。
 家にいて庭の掃除などしているので、宅配、郵便、新聞を配達してくれる人の顔をよく知っている。彼らが来ると挨拶するし、「ご苦労様」といつも声を掛ける。
 顔見知りの郵便配達人の二人が自販機の前で、バイクを止めて、缶コーヒーを飲んで一服しているのを何度か見かけたことがある。思わず「お疲れ様」と言いたくなる。

 そんなものを配達する人たちがいる物流が今、破綻しかけている。ネット通販の普及で、クリックするだけで簡単にものが届く時代を支えているのが彼らである。ところがあまりにもその量が多いため、また手間もかかるため、彼らの労働環境が悪化している。宅配業者はそうした従業員の労働環境改善のため、宅配料金を値上げすると言っている。
 では、その実体はどうなっているのだろうか。それを知りたくてこの本を手にした。
 この本はアマゾンがやっている物流が、その規模の大きさにものを言わせて、日本の物流のあり方、商売の仕方、経済まで変えていることをメインに書かれていて、末端にいる彼らの実体にはあまり触れていない。でもそのアマゾンが構築する物流のあり方は面白かった。そしてその物流のあり方をアマゾンと比較して他のネット通販業者はどういうものなのか説明してくれる。

 著者は次のよう言う。

 なぜアマゾンの急成長に危機感を覚えるのか。その理由は、彼らの本質が「ロジスティクス・カンパニー」であるからです。ジェフ・ベゾスが公言する通り、ロジスティクスこそ彼らの最大の強みなのです。

 ここのロジスティクス(logistis)とは、ビジネスの世界では、企業の物流合理化手段を意味する。そしてアマゾンの構築するロジスティクスに危機感を覚えるのかというと、

 ロジスティクスは非常に参入障壁が高いものだからです。洗練されたロジスティクスは、一朝一夕に築き上げられるものではありません。ゆえに、一度強固なロジスティクス網を張り巡らされてしまったら、外から見て真似ることもできず、それに太刀打ちできるロジスティクスを作るのに相当な時間がかかることになります。

 アマゾンは高度なロジスティクスを用いて低コスト化を実現し、その利益のほとんどを自社の物流ネットワークを築くために投資に回し、また顧客の代弁者としてさらなる低価格での商品提供のための原資として使います。それによって来客数が増え、売上高が増えれば増えるほど物流は効率化し、低コスト化していく。アマゾンはさらに低価格で商品の提供を始め、扱う商品の種類を増やし、また来客数が増え……。その繰り返しこそが、彼らにとって良循環であり、最大の武器です。この良循環がアマゾンの売上高を飛躍的に伸ばし、扱われる商品が次々と増えることこそが、隣接する業界ビジネスを行うすべての企業にとって脅威なのです。

 日本のネット通販大手といえば楽天だろう。その楽天はアマゾンと違うやり方で急成長してきた。アマゾンが総合ネット通販なら楽天はモール型ネット通販である。

 楽天は、さまざまなネット通販会社に出店してもらうことで、どこよりも早く充実した品揃えを実現しました。現在の店舗数は4万を超えています。買い物をするときには、店舗が点在しているよりも、ショッピングモールのように1か所に集まっていて品揃えが充実しているほうが便利です。これはネット通販でも同じでした。豊富な品揃えを武器に、たくさんの店舗を巻き込むことで楽天は急成長しました。
 これを裏側から見れば、要するに楽天は物流をそれぞれの店舗に委ねていますので、余計な時間がかからなかったともいえます。繰り返しになりますが、ロジスティクスは積み上げであり洗練されてくるまでに相当の時間がかかるものです。大きな投資をして物流センターを築き、システムを作り、運用のノウハウを積み上げてステップを踏む必要があります。そもそも楽天のようなモール型EC(電子商取引)サイトは、ロジスティクスのノウハウを必要としていなかったため、立ち上がりのスピードが速かったのです。

 しかし今、楽天は苦戦しているという。それはモール型ネット通販の弱点がそうさせている。その弱点とは、

①物流品質のばらつき。
 物流がそれぞれの店舗に任されているので、商品の保管状態、梱包、配送が悪い。

②ボリュームディスカウントが出来ない。
 それぞれの店舗が個別にメーカーから仕入れるので、メーカーから大量に買うことで割引してもらうことができない。それは配送料においても同じ。

③お客にとって利便性が悪い。
 商品をモール内の違う店舗で買うと、それぞれの店舗から配送され、それぞれに配送料がかかってしまう。

 これらのデメリットが現在顕著になってきて楽天のようなモール型通販は苦戦しているいう。

 ここで興味深いことが書かれる。最近の宅配業者抱える問題である。
 宅配業者はかつて40社を超えていたが現在は21社と2分の1まで減少しているという。しかもヤマト運輸、佐川急便、日本郵便の寡占化が進み、上位3社の合計は92.5%になる。特にヤマト運輸は45.4%と宅配便市場の半分弱を占める。そのためヤマト運輸の動向次第でネット通販会社は値上げなど応じざるを得なくなっている。
 配送料の値上げの背景には、慢性的にトラックドライバーの不足がある。なぜトラックドライバーが不足してきたかというと、運転手の給料が相対的に安くなってきたことによる。
 キッカケとなったのは1990年に政府が行った運送業者に対する規制緩和である。政府は運送業界に新規参入を増やすために、運賃を業者が自由に設定出来るようにし、トラック最低保有台数を5台まで引き下げた。これにより1990年には事業者が約4万であったのが、2007年には約6万3000まで達する。しかしこれら新規参入業者の大半は零細事業者であったため、大手の下請け、孫請けになり、そうなるとどんどん手数料を引かれていくので、採算性が悪くなってしまった。当然ドライバーの給料にその影響は出て来る。そのため賃金を維持するためにドライバーは長時間労働して以前の給料を維持しようとする。しかし一方で長時間運転の規制が厳しくなり、それも出来なくなってしまっている。そのため、若い担い手が枯渇し、ドライバーの高齢化が進む。このため高まる需要に対してトラック業界は対応出来なくなってきているのだ。
 もう一つの問題が、「再配達」である。この再配達ほど物流において効率が悪く、コストがかかる。しかもそのコストはすべて運送業者の持ち出しである。
 佐川急便はピーク時対応のコストがまかなえないほど追いつめられ、最大の荷主であるアマゾンとの交渉が決裂し、2013年契約を打ち切った。

 アマゾンにとって配送費の増加は悩みの種です。2014年度に配送費が1兆円超え、2015年度の売上高に占める配送費率は11.6%となり約1.3兆円まで拡大しました。日本の宅配便業界の最大手であるヤマト運輸の配送事業規模が約1.1兆円であることを考えると、アマゾンがいかに巨額を宅配会社へ支払っているか、その規模の大きさがわかるのではないでしょうか。ヤマト運輸の宅急便など配達に関わる売上を超える配送料をアマゾン1社で支払っているのです。
 アマゾンは大手宅配業者の値上げにより「利益が出ない=自社で利益をコントロールできない」ことに気づき、配送費比率が上がり始めたことをきっかけにして、ラストワンマイルの戦略を切り替えることになるのです。

 ネット通販の差別化を考えるとき、2つのことが重要になる。一つはストックポイント(stock point)である。ストックポイントとは配送のために在庫を置いておく場所のこと。物流は顧客が買いやすい場所まで持っていく(配達する)ことが役割であるので、ストックポイントが顧客に近いほど利便性が高くなる。
 もう一つがラストワンマイル(last one mile)である。これはストックポイントとなる物流センターからお客の家まで商品を運ぶ「配送」の最後の区間を意味する。この最後の区間をどのような形で配達するかで差別化出来るかどうか、それが勝負の分かれ目となる。
 ここでアメリカウォルマートの例を出す。ウォルマートはまず物流センターを先に作り、そこから店を作るという。これはストックポイントを先に作ることで、物流をスムースにさせるわけだ。
 そのウォルマートが成長したキーワードが「EDLP(Everyday Low Price )」である。
 EDLPでは、一定期間のセールなどで価格が上下することがない分、顧客の需要も一定して予測出来る。物流センターにおいても稼働率が安定する。
 日本では現在ウォルマートの子会社にあたる西友の毎日が「カカクヤスク」とうたってやっている。
 一方普通日本の小売業界は「HILO=特売価格」で集客している。ただHILOはセール期間中予測不能な需要が立ちあがり、物流センターにおいても、その期間稼働率が逼迫し臨時のパートなど雇用しなければならなくなる。メーカーも同様にその期間稼働率が急激に上がる。また顧客の急激な需要増加がメーカーに伝わるまでに時間がかかりタイムラグが生じ需要予測に間違いが生じる。このためHILOで店舗運営するのは非効率なのである。

 話はまとまりがなくなるが、私がアマゾンでよく使うマーケットプレイスのことが書かれているので、それを書いてみよう。

 アマゾンが成長するためのドライバー(駆動力)となっているのが「品揃え」と「低価格(EDLP)」です。アマゾンは、この二つを実現するためには何でもやる会社です。その印象を決定づけたのが、2000年に導入された「マーケットプレイス」と呼ばれる仕組みです。別名「サード・パーティー・セラー(第三の販売者)」といいます。
 例えば、サード・パーティーであるブックオフのような新古書店が出品する本が、アマゾンが販売する新刊本の横に並んでいます。その本をアマゾンから買うか、それ以外の売り手から買うかは顧客が選ぶという仕組みです。もしサード・パーティーの商品のほうが安かったり、もしくはアマゾンが在庫を切らしていたりして、サード・パーティーの商品を顧客が選んだ場合にはアマゾンは売上を失いますが、販売者から手数料を受け取る仕組みです。

 この発想は創業者ジェフ・ベゾスの考え型に基づく。

 「アマゾンより安く売れるところがあれば自由に売ってもらい、顧客が満足すればいい。価格競争でサード・パーティーに負けるならば、アマゾンが安く売れる方法を考えるべきだ。サード・パーティーがアマゾンにない豊富な品揃えを実現してくれる手助けをしてくれて、顧客がアマゾンを利用してくれればいい」というものでした。

 それだけでなく、アマゾンは自社の物流センターを他社が利用できるようにする。FBA(Fulfillment by Amazon:フルフィルメント・バイ・アマゾン)というサービスである。これはサード・パーティーのために、受注や決済だけでなく物流ソリューションまでアマゾンが肩代わりするサービスである。これにより、

 アマゾンは自社の物流システムを磨き上げた結果、FBAのように自社の物流システムのプラットフォームをサード・パーティーに使ってもらうことでも利益を上げられるようになり、さらに物流センターの稼働率を上げることで効率化を図れるようになったのです。

 まさしく転んでもただでは起きないという感じだ。そして最後に著者はアマゾンと競い合うために3つの戦略をあげる。

 ①ラストワンマイル
 もはやスピード配達を競うだけの時代ではなくなっている。顧客の望むより正確な時間に、指定された場所に届けることが求められている。そのためにヨドバシのような自前配達を構築するアプローチもある。コンビニや店舗受け取り、宅配専用ポストの構築など、ラストワンマイルの競い方で今まで以上に多様性を持っているから、そこに戦略を立てることが可能になってきている。

②独自の商品を持つ
 ネット通販が当たり前になった現在、エブリシング・ストアに置かれない商品をどのように自社に取り込むかが勝敗を分ける。

③ネット×店舗(オムニチャンネル)
 「オムニチャンネル」とは最近よく耳にする。セブンイレブンでは「オムニセブン」といって展開している戦略だ。すなわちオムニチャネルとは、店舗やイベント、ネットやモバイルなどのチャネルを問わず、あらゆる場所で顧客と接点をもとうとする考え方やその戦略のことを言うらしい。

 ワンクリックで荷物が届く便利さは本当にすばらしいものですが、自動販売機のような味気なさが残る人もいるはずです。

 これである。
 今のところネットでしか存在価値を見いだせないアマゾンは店舗がない。一方店舗を実体として持っている企業は、店舗を持っている強みをネット通販と連携して発揮できる。店舗があるからこそ、その利点を生かせる。店舗でお客と直に接することが出来るからこそ、そこで店舗で培ったノウハウをネットで生かせる。この利点を生かして、商品を展開する。また商品を店で買って良し、ネットでもOKとなれば、店で商品を手にしてからネットで買ってもいい。実際商品の購入はネットでという販売しないショールーム的な店舗も出来ているそうだ。

 おそらくアマゾンはこれからもあれやこれや手を替え品を替え、自分の立場を維持していこうとするだろう。けれどネット通販の最後の部分、商品の配送という部分を、他者に依託している以上、これまでのようには行かないのではないか、と思う。少なくとも今度のヤマト運輸の料金値上げは、何らかの形でアマゾンに影響を与えるだろう。
 そしてやっぱり物流のシステムを確固としたものにしているアマゾンは、これを乗り越えていくのだろう、とも思う。こんなことはアマゾンにとってこれまであったことの一つに過ぎないのだろう。なんと言っても体勢を確立したものは強い。

角井 亮一 著 『アマゾンと物流大戦争』 NHK出版(2016/09発売)NHK出版新書


by office_kmoto | 2017-09-07 18:55 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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