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南木 佳士 著 『生きてるかい?』

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 毎度のことながら南木さんのエッセイや小説を読んでいると、言葉が心に染み入る。書かれている当時の南木さんの心境がちょうど自分と同じ歳のころに思われたり、感じたりするのと共鳴する。
 南木さんは病気で最前線の立場を離れなければならなかった。そして私にも強制終了させられた人生がある。それでもその後生きていかなければならないことは同じで、その中で今まで感じもしなかったことを感じ、考えるのはよくわかるのだ。そうなってみて初めてわかったことだけに、驚きでもあり、諦めでもあり、悟りでもある。
 人生をとうに折り返していて、残りの人生と、それまでの人生をまるで振り子のように右に揺れたり、左に揺れたりする中、再読するたびに、感じ入る言葉がある。たぶん南木さんの本を読む度に同じことを言っていると思う。

 ふだん、「わたし」の内で時は流れておらず、「わたし」が時とともに変容しているだけだから、時間の経過に関して格別な感慨を抱くことはないのだが、ある瞬間、時はこんなふうにふいに、間欠泉のごとく一気に、激しく噴出する。内部から身を破裂させてしまいそうなその圧力に抗しているのはけっこう体力を消耗する緊急事態であり、「わたし」はかろうじてその場に立っていられるだけのひからびた老人になり果ててる。(いきてるかい?)

 集合したものはおのずと分散するのが自然の理だ。(紙の一里塚)

 ひとは時と場所で他から要請された者になってゆくのであって、過去の出自にばかりこだわっていると心身が型枠にはまったごとくにこわばり、なによりも大事なはずの可塑性が失われてしまうだろう。(センター試験以前)

 そして、還暦目前まで生きのびて、成らなかったことは縁がなかったのだとあっさりあきらめる図太さだけが身についた。(センター試験以前)

 「わたし」は不特定多数から認証されるのではなく、目の前の、呼びかかければ答える「あなた」がいるからかろうじてその存在を実感できるだけのはかないものなのだと明確に自覚できる歳になった。(ぬる燗)

 過去にすごした場所は過去そのものを担保しない。過去は想い出すそのときの状況に合わせて改編され、上書きされてゆくだけのものなのだ。(高尾山へ)

 でも、人生とはすなわち過去の出来事の集積であり、過去とはすでに起こってしまって取り返しのつかないことなのだから、「わたし」はこのようにしか生きられなかった。(辞めどきの春)

 持たなくてもよいものを持つと余計なことをしてしまう。(手紙の音)

 このように感じ、思ったのは、いずれもそうならざるを得なかった、ということだ。これがよくわかるんだなあ。
 図書館で借りて読んでから、手元に置きたいと思った南木さんの本が、また本棚に収まった。

南木 佳士 著 『生きてるかい?』 文藝春秋(2011/06発売)


by office_kmoto | 2018-01-31 05:35 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

荻原 魚雷【著】『日常学事始』

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 この本はこれまでの荻原さんの著作とちょっと違う。ここにあるのは古本ではなく、「生活」である。いかにして快適なシンプルライフを始めるか、その始める人にアドバイスをした本である。お金がない人がどうやって快適な生活を送るのかを、自らの長い一人生活の経験から語っている。
 だいたい古本を溺愛する人は貧乏くさい話になってしまうところがあるのだが、それでも、だからこそ、自分なりの快適な生活を追求していくところにこの本の面白味がある。
 ではお金のない人が快適な生活を送るためのアドバイスを拾ってみよう。

 掃除はキリがない。どんなにきれいにしても、すぐ部屋は散らかるし、汚れる。何事も徒労感をおぼえないていどに、ほどほどにやることが、長続きの秘訣だ。

 著者は後でも言っているが、掃除というのはきちんと片づけないと達成感が得られないところがある。確かにそうである。私も今、二世帯住宅の一階を使って一人で生活しているが、一人で自由に占有しているのだから、せめて掃除くらいしないと、思い、一週間に一回ぐらいの割合で掃除機をかける。雑巾掛けもする。そういう時、性格もあるだろうけど、どこまでやればいいのかわからなくなるときがある。小さなことが気になってしまうのである。こんな時達成感がいつまでも訪れない。
 だから著者は言う。

 快適な暮らしにはルールは必要だが、あまり厳密になりすぎないほうがいい。

 わたしはひまでお金がなかったから、自炊するようになった。

 昔から「必要は発明の母、貧乏は工夫の父」といいます。工夫を重ね、失敗をくりかえしているうちに、手際がよくなり、さまざまな応用がきくようになる。ひとり暮らしの自炊なんてものは、うまかろうがまずかろうが食うのは自分である。何といっても空腹という最高の調味料ならいつでも手に入る。
 夜中に腹が減って外に出るのも面倒くさい。そんなときに焼きそばや炒飯をちゃっちゃっと作れるようになったら、自炊初心者は卒業といっていいでしょう。

 ここでその工夫が面白い。インスタントラーメンを茹でて家にあるソースで焼きそばを作る。当然付いている粉末ソースが余る。それで炒飯を作ると美味しいらしい。特に塩焼きそばの粉末ソースは美味しいらしい。何となくやってみたくなる。
 著者は自炊を勧めているが、手間暇を考え、あるいは体調などで、スーパーでお惣菜を買うことも否定しない。時にはその方が安くつくこともあるし、手軽だからだ。だから、

 不安定な生活を送る若者には 「お金のあるときに、米を買っておけ」と助言したい(できれば乾麺やパスタも)。

 そういう時でも、せめてご飯だけでも自分で炊けばいいということらしい。なぜなら、

 ひとり暮らしの自炊でももっとも大切なのはコスパだ。

 からだ。

荻原 魚雷 著 『日常学事始』 本の雑誌社(2017/07発売)


by office_kmoto | 2018-01-29 08:08 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

1月27日 土曜日

 晴れ。

 ここ2~3日、TVerで「新参者」をパソコンで見ていた。「新参者」は昔テレビドラマで放映されていたものを、映画「祈りの幕が下りる時」公開記念で期間限定でアップされている。加賀恭一郎シリーズを一躍有名にしたドラマだ。
 ついつい夢中になって見てしまったが、やっぱり面白く、ドラマの最後は泣けてくる。話は全9話あるのだが、1話、1話独立しつつ、最後は犯人に迫っていくのはスリル満点だ。今見ると、豪華出演者である。泉谷しげるも亡くなってしまった原田芳雄もいい味を出している。
 加賀が言う嘘には3つある。1つ目は自分を守るための嘘、2つ目は他人を欺くための嘘、3つ目は誰かを守るための嘘。
 それぞれ話の主人公たちがつく嘘は3つのうちどれか、あるいは3つ全部の嘘なのか、加賀は見抜いていく。普通嘘は醜い人間模様の中で生まれるが、ここでの嘘は悲しい物語を作り出す。
 ドラマを全部見終わってから、原作を読みたくなり、本棚から本を取り出す。今読んでいる伊丹十三さんの未収録エッセイが読み終えたら読もうと思っていたら、図書館からメールが届き、予約していた本が用意できたと連絡貰い、また追い立てられる。
 メールチェックしていたら、古本である滝田ゆうさんの漫画が入荷したとブックオフオンラインからもメールが来ている。さっそく南木佳士さんの古本2冊と清水義範さんの「夫婦で行く」シリーズの新刊を含め、1,500円以上にして送料を無料にし、注文する。(ブックオフオンラインでは新刊も買える。新刊を入れると安い古本を買っても簡単に1,500円以上になるので重宝している)
 滝田ゆうさんの本は江戸川区の図書館や江東区の図書館にも置いていない。あるのは滝田さんの地元である墨田区の図書館にしか、近くではなかった。いずれ墨田区の図書館に行って読もうと思っていたのだが、これでわざわざ出かけて行かなくて済む。なので滝田さんの本は楽しみだ。南木さんの本も、清水さんの新刊も楽しみである。もちろん図書館で予約していた本も楽しみだ。


by office_kmoto | 2018-01-28 08:22 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

北 杜夫 著 『楡家の人びと』

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 この本を最初に読んだのは高校時代であった。あの頃北杜夫さんと遠藤周作さんの本をよく読んでいた。
 この本は結婚する前に古本屋に売ってしまったので、手元になかった。たまたま古本屋さんでこの単行本を200円で売っているのを見かけ、また読んでみたくなり買い入れた。
 しかしさすが上下2段の500ページ以上は結構読み応えがあった。むしろあの頃よくこんな本を読んだものだ、と思った。

 二代目医院長の楡徹吉は学者肌の医者であって、医院長とし、先代の基一郎死後の病院の再建、経営に自分の力を注がなければならなかったのだが、『精神医学史』を書き上げることが唯一の“気休め”でもあった。
 それはドイツ留学から集めた資料から書き始めるつもりでいたが、折角食費を削ってまで集めた資料は火事で失ってしまった。けれどその後また膨大な資料を集めて、なんとギリシア時代から書き始めることとなった。
 この小説はその徹吉が書いた著作と同様、楡家一族の歴史をこれでもか、というくらいこと細かに書き込まれている。正直ここまで書く必要があるのか、という感じを持ってしまい、話が冗長に流れているように思え、その点では読むのが苦痛でもあった。

 話は院長の楡基一郎の作った楡病院で、物語は大正の初めから始まる。そしてこの楡病院の隆盛から昭和の終戦による没落までが延々と描かれる。その間関東大震災あり、その後の病院の火事、そして太平洋戦争と続く。
 楡基一郎が作った病院は彼のはったり、こけおどしのいわば天才的な見かけ倒しの精神が遺憾なく発揮されたものであった。病院なのに七つの塔と数十本の円柱があった。「珊瑚の間」と言って壁に珊瑚をちりばめた貴賓室のような部屋もあった。
 しかしその円柱も珊瑚も偽物で「らしく」見せかけたものであった。柱など木材の上に表面だけ石を貼りつけたものであった。もっともそのはったりは関東大震災でその化けの皮が剥がれてしまって、ばれてしまうのだが。珊瑚もコンクリートであった。
 この基一郎の性格は娘や息子たちにも遺伝し、とにかく変わり者たちであった。それも呆れるぐらいの成り上がりたちであった。それらは病院の繁栄に裏打ちされたものだっただけに、病院があればこそのものだった。だから病院が左前になれば、彼らの我が儘もさらに醜いものになっていく。
  基一郎の長男の楡欧州の妻千代子は、外から楡家に入っていただけに、最初は客観的に見ることが出来た。

 どうもこの家では親子兄弟がてんでばらばらに生存しているようで、その一人一人がまた一風変っているように思われた。

 こうして冷静に楡家を見ることが出来た千代子であっても、愚痴や批判を臆面もなく言い放つようになる。

 楡家に長く住むと女たちはいつしかなんらかの影響を受けるのだろうか。

 と徹吉は思うようになる。

 こうして三代にわたる歴史は、ちょうど激動の時代でもあった。彼らは知らぬ間に、時の中の流れに翻弄される。ただ楡家の人びとはその時代の激流に鈍感であった。自分たちは特別な存在だ、といつも思い続けてきた。

 しかし楡病院の内部に閉ざされている者にとっては、「時」はためらい、停滞し、動きをとどめているかのように見える。そしてその中に暮す人々のほとんど変らぬ日常は、そうして歩みを怠っている「時」のなかに埋没している姿なのだ。

 でも時代は間違いなく、激しく流れ、気がついた時は彼らの周りで、何もかもなくなっていた。変わり者の多い楡家の中で、わりとまともな徹吉はそのことに気づく。関東大震災、火災、そして最後に戦争を経て、
 
 あれから、少年時代から、ずいぶん長い年月が経ったような気もする。案外短い須臾の間のような気もする。しかし、彼に確実にわかっていることは、自分がいたく老い、疲れ、しぼり尽くされたように空虚になっているという事実だけだった。

 一開業医の身であって、こつこつと資料を蒐め、夜も寝ずに読み、整理し、纏めていった。その病院は今は灰となり、生涯の最後の仕事と思っていた資料は焼失してしまったが。だが、それは個人の及ばないことだ。ともかくにも、自分は自分なりに励んできた、働いてきた。それも愚かなことといって悔いねばならぬのか。たとえ調子のよい養父の基一郎でもいい。ここに出てきて、ひとことこう言ってくれぬものか――「徹吉、お前はよくやった。もう一つ金時計をくれてやろう」

 徹吉にとって、自由気ままにやってきた先代基一郎のあとを継いで、残された楡家の人たちと病院経営、家族のあり方など、苦労して取り繕ってきた。そして何もかも失って、こう思うしかなかったのだろう。一家族の没落とはこんなものなのか、と思った。

北 杜夫 著 『楡家の人びと』 新潮社(1993/08発売)


by office_kmoto | 2018-01-27 06:57 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

1月26日 金曜日

 晴れ。

 昨日東京では48年ぶりの記録的寒さとなった。なんとマイナス4.0度だった。平成になってからもっとも寒い朝だったという。確かに昨日は寒かった。手袋して朝散歩しているのだが、手袋をしていても手に冷たさが伝わってきた。耳も痛かった。
 そして今朝もマイナス3.1度だったという。二日連続氷点下3度以上は53年ぶりだという。この寒さのため、月曜日に降った日陰にある雪は溶けずに氷となってカチンコチンに固まったままである。庭にはこのように霜柱があちこちに出来ていた。


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 軽く踏みつけてみると、霜柱が壊れる。


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 霜柱なんて毎年見ているのだが、今年のものは妙に立派で、キラキラしているので写真に撮ってみた。
 東京よりももっと寒いところはたくさんあるのだが、東京しか知らない人間としてはこの寒さ、歳もとったこともあり余計にこたえる。早く暖かくならないかなあ。

by office_kmoto | 2018-01-26 16:52 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

1月23日 火曜日

 晴れ。

 東京は昨日4年ぶり大雪となった。テレビのニュースで雪で混乱する東京の模様を報道していた。
 我が家は通りから10メートルほど奥にある。当然その通りに出る為の道があるのだが、そこに昨日降った雪が積もった。
 何でも降雪量は23センチだったという。昨年は雪掻きをした覚えがない。その前も記憶にない。
 今回初めて雪掻き用のスコップを使った。これは前回大雪が降った時、我が家にあった普通のスコップを使ってえらく苦労し、これはもっと軽い、しかも効率的に雪掻きが出来る専用のスコップを買おうと思い、購入したものであった。しかしそのまま今日まで使うことなく(雪掻きをしない分大助かりなのだが)物置小屋にしまったままになっていた。
 使ってみるとやはり専用の雪掻きスコップは軽く、雪を掻きける部分が広く、スムースに雪掻きが出来た。しかも雪が掻きける部分が広いので、あっという間に雪掻きが出来た。このスコップ、優れものと感心したのである。

 雪掻きをしていると、小学生が並んで通学している。

 「雪、掘ってんだ」

 「掘ってんじゃないよ。雪掻きをしてんだよ」

 どうも東京の子供は雪が降ると遊ぶものと考えるから、私の姿を見て、同じように遊んでいるとでも思ったのだろう。


by office_kmoto | 2018-01-24 06:04 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

森 まゆみ 著 『昭和の親が教えてくれたこと』

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ここの書かれているのは森さんの子供頃の話だ。世代的にほぼ同じなので、書かれていることが懐かしい。

 買い置きはきかず、主婦は毎日、買い物に出かけ、夕飯と次の日の朝ご飯の食材を買いました。毎日行くのだから、ヒゴで編んだような小さな買い物かごでじゅうぶんでした。奥さんたちはエプロンを掛け、買い物かごを肘に提げ、いつまでも町角で立ち話をしていました。牛乳は瓶で配達だったし、ワインはまだ飲む人もなく、酒やビールも出入りの酒屋が配達してくれたので、かごの中身はいたって軽かったのです。(おかずあれこれ)

 以前散歩を始めた頃、子供頃母親の買い物についていったことは書いたような気がする。その時の母は確かにここに書かれているような恰好で買い物に出かけた。いつもいくスーパーは、「松江スーパー」というところで、ここは八百屋、肉屋、魚屋、パン屋など、違うお店がまとまって入っているところであった。奥行きがあるためか、ちょっと薄暗く、店の間の通路が狭かった。でもここでひと揃いの食材が揃う。
 毎日の散歩を始めた頃、子供頃母親についていった道を歩いてみたことがある。かつての道沿いにあった、牛乳屋、床屋、歯医者などもちろんない。けれどこのスーパーの建物は半分は壊され駐車場となり、半分は残っていた。その残っている建物の上を見るとかつてあった「松江スーパー」の「松江ス」までが薄く残っているのを見ることができた。

 小学校で新学期になるとピカピカの教科書をもらうのは楽しみでした。それから一年のときに、算数セットというのをもらいました。小さな棒だの、数字の書いた厚紙だの、おはじきのようなものだの、たくさん入っていてワクワクしました。

 うちの子どもたちが小学校に入ると、わたしのころより教科書はカラーのはるかに美しいものでした。そして算数セットをもらったはいいが、それの一つ一つに名前を書けというのです。細かいマッチ棒みたいな、数を数える棒に細かい油性マジックで名前を書くのが徹夜仕事でした。(算数セット)

 確かに私が小学校に入った頃、こんなセットをもらったことがある。しかし娘や息子たちの時はどうだったろう。なかったような気がする。
 そして確かにセットの棒など、一つ一つ名前を書かされた。たぶん母親が書いてくれたのだろうが、マジックで書いたり、名前を書いた紙を小さく切って、セロテープで貼り付けたりしてあった。まだテプラやネームランドなどない時代である。思えばそんな細かいものにまで名前を書かされたのだから、書く方は結構大変だろうと思う。
 それを算数セットと言うとは、忘れていたけれど、思わず、そうそうそんなのあった、と懐かしくなる。マッチ棒みたいなものを並べて、それでいくつあるか数えた。

森 まゆみ著 『昭和の親が教えてくれたこと』 大和書房(2016/07発売)


by office_kmoto | 2018-01-23 07:13 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

田中 達治 著『どすこい出版流通』

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 前回読んだ筑摩書房の社史『筑摩書房 それからの四十年』に出ていたこの本を手にしてみた。なかなか面白かった。
 著者は1976年筑摩書房に入社し、管理部門(倉庫部門)に配属され、ここで倒産を迎えた。以後会社再生に向かって、1980年営業を担当する。管理部門に在籍したことにより、筑摩書房の倉庫のインフラ整備に関わり、再建の一翼を担った人であった。
 この本は著者が営業部長になってから始めた「営業部通信」をまとめたものである。“どすこい”というのは筑摩書房が蔵前に移転したことで、そう名付けたのだろう。
 筑摩書房の倒産、その後はこの本の注釈に次のように書かれている。

 筑摩書房は1978年に会社更生法の適用を申請して更生会社となった。放漫経営と全集などの大型企画を無理に売り込む旧態依然とした営業方法によって経営不振に陥ったといわれている。その後、バブル期終盤の1989年に神田小川町の自社ビルを売却し、蔵前に移転。1991年更生終結。更生会社時代に営業の責任者だった菊地明郎氏(2008年現在同社社長)や著者・田中達治氏らが中心になって単品販売管理による合理的な営業スタイルを確立。文庫、新書の創刊によって経営を安定させ、2002年に現本社社屋を購入するまでになった。

 とにかく筑摩書房は倒産で学んだことが多かったに違いない。異常な状態で出版を続けてきて、慢性的な赤字体質から会社の倒産を招いただけに、著者は「25年前、フツーでいられるチャンスをもらった数少ない出版社なので、筑摩書房はこのフツーの佇まいをたぶん変えることはない」と言う。
 筑摩書房が倒産した時、出版界は筑摩書房をこぞって応援した。「良書」を出した出版社をつぶすな、といった感じで。しかし著者は筑摩書房の「良書」が売れなかったことで、会社が倒産したとあぐらをかかなかった。会社の体質にちゃんと向き合っていたのであった。筑摩書房の倒産は「良書」が売れなかったことではなく、会社の体質によるものと見ていたのである。だから「良書」という言葉に厳しい。たとえば神田村にあった鈴木書店という問屋の倒産について次のように書く。

 一部の新聞の論調が気に入らない。「良書の流通に暗雲」なんていう見出しの記事もある。流通に良書も悪書もないだろう。「良書」だとか「良心的出版」などという言葉が出版社も新聞も好きだ。自分のことを善人だという人間と同様に滑稽だよね。
 鈴木書店が倒産したのは「良書」を扱ったからではない。一発逆転のない流通業でありながら10年以上も赤字を放置し続けた放漫経営が最大の原因なのだ。あえて「良書」に原因があるとするならば「良書」にではなく、「良書」を出している高正味出版社との取引が鈴木書店にたくさんあったことくらいだ。

 こうして筑摩書房のことを続けざまに書いたきっかけとなった柏原成光さんの『本とわたしと筑摩書房』にも次のようにあった。

 筑摩書房は、一九七〇年代すでに単行本だけで食べていける規模を越えていた。売れる雑誌といった安定した採算部門を持たない筑摩は、いつも新しい企画に追われ、新しい分野に手を広げていかなければならなかった。そのために人員が増えていき、その分生産額を上げなければならないという悪循環に、高度成長期とともに入っていったといえよう。

 あるいは「良書」を出版している志さえ一刀両断する。

 作って売った利益で食べているという企業存立の前提を「良心・志」などという情緒的粉飾でブラインドしてしまう精神的伝統を幼稚だと思うのだ。要するにどんなに偉そうな志があっても“売ってなんぼのもの”だと認識しているだから、書店が世情に敏感で、便乗商売をやっていると世間で言われても、それを支持する。

 (9・11後)データベースを引っ掻き回した結果であろうが、イスラム関係の本の問い合わせと注文が殺到した。便乗というなかれ。これが本屋というメディアの宿命であり、あるべき姿なのである。最近はコテンパンに不調の書店業界だがここは頑張って稼ぐべきだ。

 売れるならガンガン売る。志とか良書とか言ってあぐらをかいていて筑摩書房はつぶれた。時に“したたかさ”は、灰汁の強さを現してしまうが、それでも書店にあるこうした“したたかさ”を学ぶべき、というところだろう。そうして一歩一歩再建に向かって歩むことで、現実を実感したのだろう。
 『本の雑誌』の特集で書店員の「出版社めった斬り!」という特集で筑摩書房を次のように称していたのを著者は楽しんでいる。

 で、筑摩書房だが「変貌したお嬢さん」だって。???・・・・なるほど、昔は地味でしっかりもののお嬢さんって感じだったのが、売れる味を覚えて普通の出版社みたいに仕掛ける楽しさを知ってしまい、口紅塗るようになってしまった・・・・みたいな感じらしい。う・うまあい!だから書店が好きなんだよな、だけどその「地味でしっかりもののお嬢さん」に見えたその人はとんでもない浪費家で、自己破産寸前までいったことがある。口紅塗ったお嬢さんはそのひとの一人娘なんだけれど、毎月わずかずつだが積立貯金をしているしっかりものなんだよね、知らなかっただろう。とにかく売れてきてだんだん派手になってきたお嬢さんのほうが、売れ行きが悪くてヒステリーになったお嬢さんって言われるより格段の評価なわけだし、ここは素直に喜んでおこう。

 この本にはいくつか面白いことも書かれており、改めて業界の事情を知った。面白かったので、いくつか書き出してみよう。

 そもそも筑摩書房は夏に弱い。新潮文庫夏の100冊(今年は150冊だったらしい)のように夏の商戦はそれなりにあるものらしいが、学校も休みだし、リゾート一色のこの時期、硬派書籍の旗色は良くない。この夏枯れシーズンを睨んで、新企画は早めに出してしまうか秋まで見送るのかの傾向が強くなり、その結果ますます夏が苦手になってしまった。

 筑摩書房が出している本はやっぱり学生や先生など硬派の人々に受け入れられるものが多いから、これは「だろうな!」と思った次第だ。
 またPOSレジなどによる自動発注システムの弊害をいくつかあげている。新刊でごそっと平積みしてあるのに、在庫があるにもかかわらず、一冊売れたら発注が出ていまい、結果それが丸ごと返品として戻ってくるのだから、何とかして欲しいものだ苦言を呈するし、そうしたシステムの便利さの弊害は別なところでも生まれていることを指摘する。

 どんなに便利なものができても、それが便利であればあるほど誰でも使うから、サービスが均質化するようになる。差がつかないからなにもしない。工夫することが異物であるような錯覚にさえ陥る。社会や経済に成長のみられない時代にポジティブな発想を持つのは難しい。

 著者は放漫経営により倒産した教訓を元に自社の管理部門のシステム構築に進んできたが、一方こうしたシステムが生む弊害をきちんと見据えている。そこをどうカバーするかを考えている。たぶんそうした問題点を営業という人とのつながりでカバーしようと試みていたのではないか、と思える。少なくともこうした「営業部通信」など書いているのもその一環ではないかと思うのである。
 さて続いて驚いたことを書きたい。ISBNコードである。

 ISBNコードとは、一冊の本を文化・流通両面にわたって確実に「特定」するために地球規模大標準のISBNコードに従おう、そういうことで始まったものらしい。しかしこれは厳密にいうと法的な「ルール」ではないし、ISBNコードを認定し、登録される公的な「機関」は存在しないという。
 ISBNコードのうち、国コード(日本は4)と会社コード(筑摩書房は480)は図書コード管理センターに登録されているが、そのあとの商品コードにあたる数字は出版社が自由に付番しているに過ぎない。なので現実には同じコードで複数の本があったり、あるいは同じ本なのにいくつものコードを持っていたり、ないはずの会社コードのついた本があったり、中には売れ残った大量の返品に、カバーをかけ直し、新しいコードを付番し、「新刊」として送り出すインチキを「得意技」としている出版社もあり、そうとうにヤバイ状態らしい、ことが書かれている。ISBNコードが結構いい加減なものだとは、知らなかったね。
 たぶんISBNコードは書誌のデータベースにも使われているものと思われるが、出版界にはいくつかの書籍データーベースが存在する。著者はそれを統一されたものを作れないだろうか、と提案しているが、その前にデータベース膨大なものにしているのが、正体不明書籍の存在が問題だという。それは長期間品切れの本に絶版宣言をしないことによる。著者はそれを「膨大な数の『死体』が埋葬されないまま横たわっている」と書く。
 我々は絶版とは本の元となる版を壊すことだと教えられたが、なぜ出版社は長期間品切れの本に絶版宣言しないか、その理由がここに書かれていた。
 それは絶版とは、著作権者との間に交わされた契約を放棄することであり、契約破棄された著作権者が他の出版社と新たに契約を交わすことを可能にする。そうした著作はもしかしたら何かのきっかけで重版する機会もあるかもしれないので、出来ればそうした契約破棄は避けたいし、他社に著作権を持って行かれたくないので、出版社はその本を絶版とせず、「品切」、「品切重版未定」とするという。
 ところで今は本の在庫はリアルタイムでわかるようになったが、一昔前は注文を「短冊」という紙の注文書で書いて発注していたから、本が入荷するのも遅かったし、在庫の有無もなかなかわからなかった。特に品切れ、絶版の情報が遅かった。それで昔はやきもきしたものだ。どうして出版社はそうした情報をなかなか出さずにいたのか、この本にはその理由が書かれている。
 出版社はこうした短冊を毎日どの程度貯まっていくのか目で見て確認していた。だからそれが貯まるまで待っていた。それが多く貯まれば重版をかける根拠となる“情報”だったのである。もちろんそれはただの紙切れだが、重版がかかれば“お金”にもなる。だから短冊を「事故伝」として早々に戻すべき所を、いつまでも保留していたのだ。結果として品切れ、絶版の情報が遅くなったとのことだ。
 今さら当時の事情を知ってもどうにもならないのだけれど、「事故伝」の情報の遅さには困らされたもので、特にお客さんの注文だと、よく文句を言われたものだった。こんな事情で情報が遅くなったと知ったら、当時ならきっと出版社相手に大げんかしていたに違いない。もっとも小さな書店が文句言ったって、どうにもならないのだが……。

 最後に驚きと笑いを書いて終わりにする。
 筑摩書房には「世界古典文学全集」(全50巻・54冊)というのがある。1964年に刊行が始まり、2004年最終回配本が刊行され、40年かかってこの全集は完結した。

 すごい!

 私もこの全集の一部を持っているが、これがすべて完結するのに40年もかかったのだと知らされると。驚きである。
 完結に40年もかかると、刊行当時関わったスタッフは退職しているだろうし、今の営業スタッフでさえこの全集のことを知らない人間が出てきているという。取次や書店に定期台帳さえ残っていないし、廃業した書店、取次さえある始末だ。
 またこの手の大型全集は個人で所有する人は少なく、定期購読していたのは主に図書館であったという。しかしなにせ40年である。調べてみたら既刊本が図書館で破損や欠本になっているの多かったらしく、筑摩書房は完結に時間がかかったことのオトシマエとして欠本補充の注文を急遽受け付けたという。面白い話だ。

田中 達治 著『どすこい出版流通―筑摩書房「蔵前新刊どすこい」営業部通信1999‐2007』 ポット出版 (2008/07/17 出版)


by office_kmoto | 2018-01-21 06:31 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

永江朗著『筑摩書房 それからの四十年』

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 この本の隠れた主人公は「倒産」である。

 と著者は言う。更に次のようにも言う。

 『筑摩書房の三十年』をひもといてみればわかるように、会社の財政はいつも「火の車」で、臼井吉見が知恵を絞って編んだ数々のアンソロジー企画と、「神風」のように訪れる単行本の大ヒットが命をつないできた。

 確かに『筑摩書房の三十年』を読んでみればわかるが、筑摩書房は古田晁でもっていた出版社であった。だから古田の望みであれば、採算度外視で固い本を全集として出してきた。時にはそれが活字に飢えた人々に受け入れられたが、そうそういつまでも続くものではなかった。それでも古田が資産家であったために、経営が厳しくなれば実家の山を売れば資金が確保できたので、かろうじてその経営がなっていた。しかし古田が死ぬと、その後の筑摩書房はさらに経営が厳しくなっていく。筑摩書房にとってドル箱だった文学全集がひととおり市場に行きわたって、売上が厳しくなりつつ時代だった。
 そこで起死回生のため、1960年「世界音楽全集」(全40巻・別巻5)、61年「世界ポピュラー音楽全集」(全15巻)、「現代謡曲全集」(全50巻・別巻20)、62年「ベートーヴェン選集」(全15巻)71年「現代臨床医学大系」(第一期全120巻、ビデオとカード式テキストで解説)とメディア転換をはかったが、多大な先行投資に対して売上はごくわずかだった。
 全集を中心とした企画が予定通り進捗しなくなる。しかしこれは「数年来の惰性の連続からはずれた特殊現象でもなんでもない」。筑摩書房の定期刊行物の遅延問題は「宿痾」であった。編集能力を超えて、重厚長大な全集編集は、いったん問題が生じれば、数カ月、場合によっては数年の遅延を余儀なくされる。
 そして1978(昭和53)年7月12日筑摩書房は会社更生法申請することとなる。
 ところが出版界には不思議な現象が起こる。

 通常、出版社が倒産したり、あるいは倒産しそうだという情報が流れたりすると、書店はその出版社の本を返品しようとする。出版社が破産してしまえば、返品不能となるからだ。だが筑摩書房の場合は、倒産によって返品が増えるどころか逆に減った。倒産前の返品率は50%に達していたのに、倒産後は徐々に減り始めて20%台までなった。

 これは作家などが再建支援を打ち出し、日書連も各書店に「返品を見合わせてほしい」という檄を飛ばし、「筑摩書房の火を絶やすな」という異例の動きが広がったからであった。そこには筑摩書房は良書を出し続けてきたけれど、世の中が低俗な本ばかり求めるようになったために倒産したのだ、筑摩書房は悪くない、世の中が悪いのだ。折しも当時「娯楽志向の“角川商法”」のような、映画やテレビと一緒になった娯楽志向の本が蔓延し始めた頃であったので、そのような意見が筑摩書房を擁護したのであった。
 確かに筑摩書房は良本出版してきた。それを志のある出版といえば言えるのかもしれないが、それが売れなくなったことだけで倒産したというわけでもなかった。筑摩書房内部でも問題があったのだ。
 「筑摩書房は労務倒産」だったという話がある。要するに人件費の高騰がその一因だったというのである。どういうことかといえば、組合が「仕事でこういう問題があるから、改善しろ」とか、「こういう問題を明らかにしろ」と要求すると、会社はそれに対して、逃れたいあまりお金を積んで、交渉を切り抜けてきた。それが人件費の高騰を招いたというのである。実際筑摩書房は家族経営で、経理もどんぶり勘定で、賃金体系なんていうものはなきに等しかったらしい。
 さらに筑摩書房が「倒産」した理由は、安定した収入源となるような企画がなかったことも、そのひとつだった。かつての文学全集や個人全集に代わるものがなかったのだ。広告収入を期待できる雑誌や、漫画雑誌およびそこから発生するコミックス、そして文庫・新書といったものが筑摩書房には欠けていた。
 筑摩書房の物流システムもひどかった。だれも物流システムが出版経営に貢献するなど考えていなかった。管理部門(倉庫部門)に配属された田中達治は「この会社は本当に潰れるかもしれないと思った。200人を超える高給取りを抱え、高級酒を浴びるように飲み、仕事としての物流を賤視し、だれひとりその仕事を買って出ず、唯一金になる木を野晒し同然のまま放置していたのだから」と感じ、田中が入社して2年後筑摩書房は倒産した。

 ということで、筑摩書房は倒産後再生し、現在に至っている。今は中堅出版社として、文庫も新書も、また様々なシリーズを展開し、全集も、この本が売れない時代に、地道に出版している。ただ雑誌だけはどうもうまくいかなかったようだが、それは今となれば良かったんじゃないかとも思う。とにかく今は雑誌が売れない時代で、出版不況の一因となっているからだ。おそらく雑誌は復活しまい、と私は思っている。
 以前に書いたと思うが、私は『ローマ帝国衰亡史』を買い求めていた時に筑摩書房は倒産した。あのとき正直このシリーズは完結しないんだなと思った。まして訳者が次から次へと亡くなって代わっていったから余計である。しかしシリーズは時間がかかったが完結した。それ以来私は筑摩書房のファンとなっている。結構好きな出版社なのである。
 多少時代の風潮に流されるところは、やむを得ないこれど、それでも一つのポリシー(筑摩書房には、惚れたら最後、とことんまでやりぬくという社風がある)を感じさせる出版社だと思っている。むしろ倒産を経験したことによって、そのポリシーをどのように維持していくか、経営と両立させながらやっているように思える。なので今後もこの出版社の出版物から目が離せない。

永江 朗 著 『筑摩書房 それからの四十年―1970-2010』 筑摩書房 (2011/03/15 出版) 筑摩選書


by office_kmoto | 2018-01-20 05:40 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

和田 芳恵 著 『筑摩書房の三十年』

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 この本の主人公は帯にあるように、古田晁である。筑摩書房の創業者である。そしてこの本は筑摩書房の社史であるが、もともと非売品であった。ただ筑摩書房の社史となれば、それこそ歴史的価値は、出版業界においても貴重である。そこで創業70年を迎え、新たに一冊を加え、この社史を復刻したという。
 古田の父はアメリカへ移民として渡り、苦労したが事業を成功させていた。晁は高校を松本高等学校に進み、そこで臼井吉見と出会い、以来古田が出版社を興したいという気持に、一緒に歩んでいく。
 昭和14年の初冬、古田は臼井を訪ね、「いよいよ出版をやる決心がついた。挨拶状を書いてくれないか、雄大なのがいいな」と言った。ついでに社名も依頼する。そこで臼井は、言葉自体に意味を持った社名は付けないことを決めていた。それは時代がずれると、危険になったり、気恥ずかしくなるからだ。だから意味のない名称で、出版物そのものから、社会に印象が定着するようなものと考えていた。そこへ千曲川旅情の千曲川が浮かんできたので、藤村藤村にあやかって千曲書房にしようとした。が、臼井の妻が千曲が“センキョク”と読まれるから、古田の故郷東筑摩郡筑摩地村にちなんで筑摩書房と決まった。
 筑摩書房の最初の出版物は、中野重治の『中野重治随筆抄』で発行は昭和15年6月18日となっている。また同月26日には宇野浩二の『文芸三昧』、中村光夫の『フロオベルとモウパッサン』も同時に刊行された。
 しかし時代はきな臭い時期を迎えていく。良い作品があっても、出版するには紙がない。印刷所、製本所が空襲で焼けてなくなってしまっていく。作家が心を込めて書いた作品を出版社に持ち込んでも、空襲で焼けてしまう可能性が大きい時であった。ましてこの頃の作家は生活に困っていた者が多く、その作品に生活がかかっていたから、その扱いが大変であった。また紙も配給制なので、その手配に奔走しなければならなかった。

 その日は、空がどんより曇って、小雨が降っていた。電車が動き出して間もなく、早くも、焦煙の匂いが、風と共に電車の中に吹き送られて来た。窓の外に展ける際限もない廃墟に、焼けほおけた樹木が立っているのを見ていると、上林暁は原稿を抱えている自分が、間抜けに見えてならなかった。原稿などと係わりあるものは、何もないのだ。印刷所も、紙も、本屋も、文化も、人間の生活も、何もないのだ。それでいて、文学だ文学だと言っている自分は、いったい、どうしようと言うのだろうと、上林暁は懐疑にとらえられた。

 原稿を預かった古田が、機銃射撃受けて、その銃撃を受けた男の血が、その原稿に飛び散ったこともあった。もちろん筑摩書房の社屋も焼け出され、「筑摩書房は、引越す度に空襲に見舞われ、丸裸になっていた」
 戦後すぐ筑摩書房は雑誌の創刊した。『展望』である。編集長は臼井吉見である。『展望』は昭和20年12月15日発売された。創刊号の発行部数は5万部ですぐ売り切れた。「長い戦争のあとで、みな、活字に飢えたいた」からであった。以後売れ行きは好調であった。

 『展望』の歯車は、第一段階の歯車とあまりにも緊密に噛み合い、第二段階とは無関係に自転し続けた。最初からもっとも完成した形で、時流にぴったりと適合していたことが、『展望』の、最後はいのち取りになったということにもなろうか。
 単行本の成績も、あまり、あがらなかった。

 太宰治の自殺で『人間失格』がベストセラーとなり、一時はどうにかなったが、会社の経営状態が悪いところに、その利益を投入しても焼け石に水であった。「負債の蟻地獄」から這い上がることが出来ない状態であった。『展望』も赤字続きで、ただ意地になって発行している感じであった。昭和25年からは給与の遅配も始まった。社員からの突き上げも始まった。

 臼井が顔をそむけて、たしかに、この社員の背後には、食わしてゆかなければならぬ家族がいるのだと思った。臼井も給料の遅配は骨身に徹していたから、この社員の言い分は、痛いほどわかった。それだけにやりきれなくて、いやな気にもなった。出版事業が理想を失ったら、ただの営利事業になってしまう。もうけるためなら、もっと他に手軽な仕事があるはずだと、臼井は自分に言いきかせたが、負け犬の繰り言に過ぎないように思われた。

 結局筑摩書房は負債の蟻地獄から一時的にも逃れるために、手軽な仕事に手を出していく。「中学生全集」というゾッキ本もどき、あるいは名作児童物をアレンジしたものを出していく。それでもこれは売れたらしいが、「本来の筑摩書房は、中風患者のように、寝たままで、手足も動かない状態になっていた。月給が三ヵ月も欠配になった」

 『展望』は昭和26年9月号で休刊となった。

 古田晁は、その頃、唐木順三といっしょに酒を飲みながら、「終りを立派にしなければ」が口癖になっていた。筑摩書房は、もう、だめだと、古田は内心覚悟していた。

 当時、出版業は銀行で丙種にランクされていた。融資などは思いもよらず、製品を取次店におさめて受け取った手形も、大部分は闇金融業者から割引いてもらうより仕方がなかった。働くことは返品をふやすことであり、そのうえ、貰った手形は高利貸に吸い取られるというのが、当時の多くの出版社の実情であった。そのあげく、また高利貸から借金するというような苦境に落ち込んだりした。筑摩書房も、このような滅びの道を歩んでいた。

 このように利益度外視で出版業に邁進した古田晁であったが、その人物像は次の匿名の文章に書かれている。

 古田晁が、一風変わつた魅力で、戦後の出版界に頭角を現はした理由の根本は、彼が、出版といふ仕事をの文化的意味を馬鹿正直なほど本気で信じゐることである。出版屋の主人など口先では殊勝なことを云つても、腹のなかは吝臭い算盤一点ばりの、商人の風上にもおけないやうなのが大部分であるが、そのなかで彼だけは心から「日本文化のため」を念じて出版をやってゐる。筑摩からときどき玄人の呆れるやうな妙な売れない本が出るのは、いわばその証拠であるが、この点彼のやうな古風で愚直な男が現代に生きてゐるとは、実物を見なければ誰も納得できないかも知れぬ。
 だから彼のやることは出版の常識から見れば、一々桁はづれである。戦争中、情報局の白い眼をかまはずに、「ヴァレリ全集」などやつたのもさうなら、敗戦の直後、臼井吉見のやうな全くズブの素人にまかせて、『展望』のやうな型やぶりの雑誌を出したのも、また近くは太宰治を派手に缶詰にして、「人間失格」を書かせたのも、(生前に太宰の本がどれだけ売れたかは本屋はみな知つてゐる。)みなこの古風な信念居士の商売気をはなれた創案であつたが、かうして採算を無視した冒険が、これまでのところみな経済的にも充分成功して来たのだから、彼も見方によつてはなかなかの幸運児であらう。

 かうした彼の気持ちは、自然とあたりに伝わずにはゐないので、田辺元、和辻哲郎をはじめ、辰野隆、渡辺一夫、中野好夫などの学者から、宇野浩二、中野重治、井伏鱒二、宮本百合子などの小説家まで、本屋擦れでたこがいくつも出来てゐる筈の、気むづかしいをぢさんやをばさんたちが、いつのまにかころりと参つて、古田びいきになり、彼のために一肌も二肌もぬいでやつてゐるのは、かういう彼の健気な純情がいぢらしくて、ついほだされるのであろう。

 しかし、このほとんど彼個人への友情にもとづく無形の信用が、今日の筑摩書房の一番大きな財産である現状は、彼にとつても反省を要するものがあらう。現在の筑摩書房が、あまり古田個人の魅力にたよりすぎてゐる点に、これからの本当の大書店になつてゆく上で危い感じをあたへるのではないか。

 今回はとにかく本文の抜き書きで、筑摩書房の成り立ちから戦後までを見てきた。筑摩書房は古田晁が作った出版社である。だから古田個人の個性とやり方が強烈に出てきても不思議じゃない。むしろそれが筑摩書房の特色であった。個性であった。この時期はまだ人とのつながりで、何とか営業できた時代であった。しかし個人色が強くなりすぎ、経営面がおろそかになり、気がつくと火の車の状態が続くことになってしまったので、筑摩書房はこの後“倒産”することになるのだが、それは時間の問題であったことを知る。
 確かに筑摩書房が出す出版物がベストセラーとなるものが少ない。その筋の人には涙が出るほどの本であっても、一般ウケしない本が多かった。良い本であることは間違いないのだろうけど、またそうした本を出すという志と、お金の問題は別だ。商売となると、時には志を曲げざるを得なくなるのも当然で、むしろそれを貫いた方じゃないかな、と思ってしまう。そういう意味で、私はこの出版社社史を面白く読んだ。次巻の展開が楽しみだ。

和田 芳恵 著 『筑摩書房の三十年―1940‐1970』 筑摩書房 (2011/03/15 出版)筑摩選書


by office_kmoto | 2018-01-19 06:09 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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