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2月27日 火曜日

 晴れ。

 ピョンチャンオリンピックも終わり、やっとテレビの番組も通常通りに戻りつつある。オリンピックは確かに面白かったが、それ一色というのもなんだかつまらないものだ。ただオリンピックは意外に面白かったことは事実で、特にカーリングは彼女らが話題になったため、それを見ることが多くなり、その分意外に面白いじゃないか、と思った。 普通どうやって攻めるか、その戦略は秘密にするところだが、マイクから彼女らの戦略が拾えて、なるほどこう攻めるのか、このようにストーンを置こうとしているのかがわかり、見ていて楽しかった。もっとも作戦通りストーンを置けないところが、このスポーツの面白味でもあり、そこは投げてみないと分からない偶然性がさらにこの競技を面白くすることがわかった。
 今回のオリンピックの日本のメダル数は金が4、銀が5、銅が4という結果はここに記録として残しておこう。何でも冬季オリンピックでは最高のメダル獲得数だったらしい。

 さて、今月もあと1日で終わり、やっと3月になる。もう少しで暖かくなるんだな、と思うと、寒さに弱い年寄りとしてはうれしい限りである。これから庭の植物たちの手入れも出来るようになり、まずは梅が咲くかな。そして水仙やチューリップの花が咲くだろうし、つつじやさつきも花を付けてくれる。そうこうしているうちにまたあさがおの種を蒔いて、と何かと忙しい。アマリリスも新しい芽を出し、花を付けるだろうし、あじさいもある。そうそうシクラメンのつぼみも少しずつ大きくなり始め、もう少し暖かくなれば、花が咲くはずだ。ここまで来るのに長かった。
 春は我が家の庭がさわがしい。

 先週の土曜日に孫の生活発表会があった。昔で言うお遊戯会である。保育園最後の演技を見に行く。元気に口をあけて声を出す姿は、頑張り屋の彼女として面目躍如というところだった。
 来月は卒園式、そして4月は入学式と、孫の成長を一気に感じることが出来る春となる。
 春は毎年花粉症で苦しむけれど、それ以上に楽しみが私にはある。


by office_kmoto | 2018-02-27 16:32 | 日々を思う | Comments(0)

青木 冨貴子 著 『731』

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 去年の終戦記念日の特集として、NHKで戦争記録の特集を放映していた。インパール、731部隊を見たのだが、特に731部隊に興味を持った。テレビでは旧ソ連で行われたハバロフスク裁判の音声記録をメインに731部隊が何をしたのか、その実態、謎を追っていた。けれどあれだけの非人道的なことをやっていた当時の幹部、隊長である石四郎が何故戦争犯罪人として裁かれなかったのかは言っていなかった。この本は石井四郎が残したノートを元にその理由を追及している。深い闇に閉ざされた石井四郎の戦後を検証している。

 その石井四郎だが、1892(明治25)年6月25日、父石井桂、母千代の四男として生まれた。この夫婦は四男二女をもうけたが、長男虎雄は日露戦争で戦死、次女は早世している。
 石井は京都帝国大学医学部入学時にすでに満二十三歳。三年ほど浪人生活を送っていたことになる。
 初任の見習士官として4ヶ月の軍事訓練を終えて、二等軍医となる。この時満28歳。
 ちなみに石井の懐刀となる内藤良一は、優秀さで群を抜いていたといわれるだけに、24歳で初任になっている。内藤良一ことは後で書く。
 その後京大総長の荒木寅次郎の娘清子と結婚。石井は軍医大尉に昇進。軍医学校のエリートだった。
 石井は弁が立つことは誰もが認める彼の才能のひとつだった。むろん、はったりが強いと思う人も多かった。秘密だ、秘密だといって大したこともない話を吹いていたという声もある。いすれにしても、無口だった少年の面影はもはやなかった。一方で、一般の子供とは「かわった処」があったという資質は年をとっても変わらなかった。要するに自己宣伝には定評があり、はったりをかますところがあった。

 ところで「ジュネーブ議定書」というのがある。第一次世界大戦で登場した毒ガスの死傷者は途方もない数に上った。その苦い経験から欧米諸国は毒ガスを含む化学兵器の使用禁止をジュネーブ会議で取り決めた。それが「ジュネーブ議定書」である。
 石井は条約で禁止するほど細菌兵器が脅威であり、つまり有効というなら、ひとつこれを開発しない手はない、と考えた。その開発、研究、実践をしたのが満州北部の「平房」で一大細菌(生物)戦施設をつくった関東軍第七三一部隊であった。

 しかし、石井の考えた「内地で出来ないこと」の意味はそれだけではなかった。内地では倫理的に許されないことが北満では自由にできる、と彼は主張した。石井は「内地で出来ないこと」を理由に、満州に一大施設が必要だと陸軍省や参謀部を納得させることができたのである。
 
 ここで細菌の培養、捕虜(部隊では「マルタ」と呼んでいた)を使った生体実験、生体解剖を行ったことは、一昔前森村誠一が『悪魔の飽食』を発表して有名になった。吉村昭さんもこの731部隊のことを書いている。

 「細菌学分野では必ず生体解剖じゃないと効果がないんです。なぜかというと、人間、息を引き取って死亡すると雑菌が入っちゃうんです。だから瀕死の重傷で、まだ雑菌の入らないうちに解剖して、必要なものを取り出すというのです」

 「当時、動物体を通せば毒力は強まる、という説があったのです。だから、生体実験、生体解剖をやるひとつの目的は、次に必要な細菌の大量生産のために、ワシらがスタムと呼んでいた菌株を手に入れることだったんじゃないか、と思うんですね。人間の体を通せば、毒力は強まるといっていましたから……。」

 これは著者が731部隊の生き残りから聞いた言葉である。これはエビデンスとしてはっきり言えないらしいが、一般的医学常識として、動物通過により病原体の毒力は強まると言われているらしい。
 日本軍部は戦況が悪化する中、武器の量、質とも不足してきているので細菌兵器は魅力的な兵器となっていき、ますます731部隊の研究に注目をし始める。
 けれど戦況は終戦間際にソ連軍が満州に侵攻してくる。関東軍からソ連侵攻の知らせを受けた幹部は、七三一部隊が明るみに出るとその累は天皇に及ぶと考えた。だから爆破による七三一部隊の解消。マルタの処分、部隊員を一刻も早く日本に帰国させ、一切の証拠を残さないことにした。研究データも持ち帰ってはならないとしたが、石井は秘密裏にデータを持ち出した。その持ち帰った研究データが戦後、マッカーサーが率いる米占領軍との取引で石井たちを救うことになるのである。

 まさに間一髪、ソ連軍が平房に足を踏み入れたとき、石井部隊はすべて引き揚げを完了していた。ほんの一日でも遅れていたら、残った全員がソ連軍に捕まり、そのままシベリアへ送られるところだった。

 ちなみに、

 現在も日本政府は、七三一部隊やその支部などが防疫給水部隊として存在していたことは認めるものの、細菌兵器を開発、実戦使用していたことは認めていない。

 さて戦後の石井を含む731部隊の動向がこの本の焦点であり、詳しく描かれる。

 戦後戦犯逮捕で日本社会全体が大きく動揺していたこの時期、戦犯訴追を免れることはどれだけ大きな意味をもっていたことだろうか。石井部隊にいた者は戦犯として裁かれることを恐れ、自分だけは逃れることができないものかと考えたのは、当然のことだった。
 戦犯の追及を逃れるためには、占領軍から確約を貰ったうえで知っている情報を提供するしかない。しかし情報を提供すれば、「七三一部隊の秘密は守ってもらいたい」と目を吊り上げて叫んだ部隊長の厳命に逆らうことになる。それも恐ろしいことだった。

 しかし自己保身は彼らにとって生きるか死ぬかの問題であり、部隊長の命令を守ることなど言ってられない。そもそも石井自身自らの保身のため、占領軍に持ち帰ったデータを自身の身を保証することを条件に渡している。
 一方マッカーサーも731部隊が行った実験データを独占したかった。さらにアメリカ国防総省もそのデータを欲しかった。
 それだけではない。ソ連はソ連で七三一部隊の一部を捕虜として確保していて、七三一部隊がやっていたことを知っていた。とくにペストノミについて異常な興味を示し、そのノウハウを知りたがっていた。それだけ日本軍が行った人体実験のデータは計り知れない価値があった。アメリカやソ連などが行っていた実験は動物によってしかデータを得られないからだ。
 だからマッカーサーはあの当時真実を語ってくれたら、戦争犯罪人として追求しないと約束する。細菌戦関係者は、誰も、戦犯として告訴されない、と確約を得る。細菌部隊の戦犯免責、マッカーサーが保証したのである。さらにそのデータがソ連の手に渡ることのないように、何度も念を押していたという。
 米国にとって、日本の細菌戦データの価値は“戦犯”訴追より、国家安全保障として、はるかに重要だったのである。だから彼らを戦犯にかけてその情報を他国が入手出来るようにすることは得策じゃなかったのである。
 そしてアメリカは石井部隊の戦争犯罪を法廷に持ち込むことなく、欲しいデータを独占することに成功した。
 つまり石井たちの保身の保証は、彼らがやってきた実験がしたことになる。それは戦中、戦後を通して彼らの“お守り”となったわけだ。
 細菌戦という「禁断の兵器」に取り憑かれた野心ばかり大きい軍医は、満州に足ががかりを掴んだ関東軍の破竹の勢いとともに時流に乗った。肥大化した野心、満州という占領地、そして戦争へと突き進んでいく時代の異常さという要素がなかったら、「禁断の兵器」がこれほど旧帝国陸軍を動かすこともなかった。そして陸軍参謀部もまた「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれた。石井の勧誘のまま呼び寄せられた京都大学医学部の研究者たちも同様に「禁断の兵器」の誘惑から逃れられなかった。
 そして敗戦後「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたのは、細菌兵器があらがたい誘惑が戦勝国の軍人たちに乗り移る。だから石井は生き延びることが出来たとも言える。細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑き、だからこそ厚木飛行場に到着した時、「ルーテナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」と発したのだ。その後マッカーサーは石井が自宅に戻ることを許し、かれを隠し続けたのは「禁断の兵器」の誘惑のせいだった。
 
 「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
 マッカーサーがこう思ったことは疑う余地がない。

 さらに「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だったのである。
 巣鴨刑務所に繋がれ裁かれるはずだった石井四郎たちが土壇場で手に入れたのは、したたかに生き延びるために自分たちがやってきた研究をアメリカに手渡したことで、手に入れた。石井はしかも自宅に帰ることも出来、さらに自宅でパンパ屋を経営することもしているほどアメリカに媚びた。

 さて最後に内藤良一のことを書く。

 内藤良一軍医は、米国から帰国すると陸軍軍医学校教官に任命され、「防疫研究室」の実質的責任者になった。防疫研究室の主幹は変らず石井四郎が兼任したが、平房ばかりでなく中国各地に出張し、東京を留守にすることの多かった石井に代わって、満州、中国各地まで広がっていく「石井機関」を取り仕切っていくのが内藤である。自称「石井の番頭」と公言して憚らなかった内藤こそ、石井ネットワークの中枢にいて全体を俯瞰できる立場になっていったことはまちがいない。

 アメリカにロックフェラー研究所というのがあった。ジョン・D・ロックフェラーが孫を猩紅熱で失ったことで設立され、ドイツのコッホ研究所やフランスのパスツール研究所に並ぶ生物医学研究を目的とした医学研究所である。そこにナイトウという日本人が「黄熱病ウィルス株」を分けて欲しいと訪ねてくる。もちろん門前払いを食らったが、このナイトウという日本人こそ内藤良一であった。
 戦後も石井四郎のためにスポークスマンや交渉役みたいな役割を果たした。さらに内藤は戦後50年代はじめ、日本初の血液銀行「日本ブラッドバンク」を創立。

 内藤良一が戦後の五〇年代、「日本ブラッドバンク」を設立することなる端緒は、元を辿れば、ペンシルベニア大学留学中に買ってきたこの真空ポンプだった。これをもとに国産第一号の真空ポンプを作り、輸血のための乾燥人血漿を供給することが、内藤の専門になったのである。

 1964年に社名を「みどり十字」と変える。あの薬害エイズのミドリ十字である。73年には社長に就任。内藤良一はミドリ十字の生みの親であった。そしてミドリ十字の顧問は731部隊の隊長を一務めた北野政次であり、取締役二木秀雄は731部隊二木班班長であった。ミドリ十字は731部隊員を多く採用していた。

青木 冨貴子 著 『731』 新潮社(2005/08発売)


by office_kmoto | 2018-02-25 18:23 | 本を思う | Comments(0)

常盤 新平 著 『遠いアメリカ』

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 なぜイギリスやフランスじゃなく、ロンドンやパリじゃなく、アメリカやニューヨークなの、ときかれたことがある。そういうとき、冗談に答えてみた。会っちゃったんだよ、好きになっちゃったんだよ、しょうがないだろう、と。それが一生を決めちゃったんだよ。
 そのことを文章にしてみたかった。若いころの私とアメリカとの関係を書いてみたかった。ただ、理屈をこねるのはいやだったから、自分の気持をそのまま書こうと思った。それは一個のラヴ・ストーリーになるはずだったが、私自身の恥をさらけだすようで恐ろしくもあった。(昭和ヒトケタのアメリカ)

 これは先に読んだ常盤さんの『そうではあるけれど、上を向いて』にあった文章である。ここにはアメリカへの憧憬、そしてその憧憬を持っていた当時のことを書きたかったことが書かれていた。それがこの『遠いアメリカ』である。
 当時の常盤さん自身をモデルにした重吉と彼女の椙枝の連作である。重吉は大学を卒業して就職をする気になれず、大学院に進むが大学院で学ぶこと興味がなくなり、そのうち行かなくなった。アメリカへの強い憧憬ばかりが募っていく。

 大学を出ても就職するつもりもなく、昨年の春、大学院にすすんだが、一学期の前半だけ真面目に教室に通ったにすぎない。今年は真剣にやろうと決心したのだが、五月中旬から顔を出さなくなっている。

 僕はどこに行くんだ、と重吉はいま鏡に向って問いかける。おぼつかない読解力で、薄汚れたペーパーバックや雑誌を読んでいたってしようがないじゃないか。しかも、読むのが買うほうに追いつかないで、ペーパーバックと雑誌がどんどん増えてゆく。はじめは小説にかぎっていたのが、犯罪実話やベーブ・ルースの伝記だとかマフィアの歴史だとか、範囲がひろがっている。百円札一枚で四、五冊は買えるのだから、手あたりしだい集めているかのようだ。

 ここには一生かかっても読みきれないほどの本がある。だから、厖大なアメリカがあるということになる。でも、それを読んだからといって、自分はどうなるのだろう、と重吉は思う。

 「いまの僕にはアメリカしかないんだよ。でも、そのアメリカは僕の場合、ペーパーバックと雑誌だけなんだ。知らない人が見たら、ごみや屑の山と思うだろうな」

 頭のなかで、アメリカが大きくなり深くなり広くなり伸びてゆく。いまや捉えどころも摑みどころもないようで、重吉は心細い。重吉のアメリカは二、三年前はちっちゃなものだったはずである。ジレットやロンソンやコカコーラやパーカーのアメリカ。スージー・パーカーのアメリカ。パーカー21は一番書きやすい万年筆だと重吉は信じて疑わない。

 肉のうすい、小さな顔、ほっそりしたくびのスージー・パーカーは、彼にとって現実ではない。同じように、アメリカもまた彼にとって現実ではない。いまのところ、重吉のアメリカは遠い、遠いところにある。

 「アメリカ文学を勉強するつもりでいたのに、間口がひろがってしまって、どこから手をつけていいのか、わからないんだ」

 アメリカへの憧れ想いは尽きなかった。アメリカを知るために手垢でボロボロになった、触れば手が汚れるペーパーバックの古本ばかりを集めていた。それを読むことでかろうじてアメリカの世界を知ることが出来ると感じていた。

 重吉はできれば翻訳者になりたい。翻訳者になって、あの『夏服を着た女たち』という短編小説を訳してみたい。

 クリネックスのことは、遠山さんから教えてもらっている。遠山さん、クリネックスがミッキー・スピレインの小説に出て来たとき、宝石のことかと思ったという。調べた結果、アメリカ製のちり紙だと判明したらしい。重吉はマスターベーションしたあとで、そのクリネックスで拭いてみたい。浪の華なんかよりももっとやわらかいのじゃないか。コカコーラが去年から売り出されたのだから、クリネックスもやがて東京で発売されるかもしれない。ハンバーガーだって、いつかわかるときがくるだろう。

 ハンバーガーとかピッザの英語がどう日本語に訳していいのかわからなかった時代であった。昭和三十年頃の話である。
 漠然と翻訳家に成りたいとは思っていたが、自分が翻訳家になれる自信もなく、翻訳家の下訳をやっていた。生活は父親から仕送りでしていた。その父親の期待に応えられない自分がそこにあった。
 一方椙枝は売れない子供劇の劇団員であり、地方巡業が多かった。二人は椙枝が巡業から帰ってきた時、一緒にいた。いずれ二人は結婚したいと思っていたが、すべてが宙ぶらりんの状態であった。

「私たち、何も持ってないのよ」

 しかし少しずつ重吉に翻訳の仕事が回ってきて、重吉自身翻訳家をやろうとしていく。

 「でも、生きてきちゃった」
 と椙枝はまだ笑っている。
 「うん。なんとか生きてきた」
 重吉も笑いだす。
 「案外、簡単だったんじゃない」
 そうだったかもしれない、と重吉は思う。一番難しいことがなんとなくできてしまったらしい。べつに大人になったというわけではなく、椙枝が東京にいるとき、二人が毎日のように会っているあいだに、三年が過ぎていこうとしている。

 翻訳の指導を受けていた先輩から、就職しないかと誘われ、出版の編集をしながら翻訳家に成ることを決めるところでこの物語は終わる。

 佐伯一麦さんの『ア・ルース・ボーイ』にあったように、ここにも作家になる前の自分の姿が描かれる。こういう若い頃の苦労話や下積み生活を読んでいると、だからこそ今があるんだな、と思う。
 こういう話で当時の苦労や悩み、生き方から教訓的な何かを引き出そうとするとうざったくなる。そんなことは今だから言えるのであって、当時は生きることに必死だったに違いない。だから佐伯さんの作品もそうであるけれど、常盤さんのこの物語のように淡々と描かれる方が、むしろ当時に思いを馳せることができる。こういう物語のあり方は好きである。
 ネットで常盤さんのことを調べていたら、椙枝は実際に常盤さんが当時付きあっていた女性の名で、その後別れたようである。
 この『遠いアメリカ』が直木賞を受賞した時、編集者が椙江さんに受賞したことを連絡した。

 「椙枝さんには知らせました。よろこんでいましたよ、絶句しちゃって」

 涙がこぼれそうになる。彼女のために直木賞が欲しかった。また、支持してくれた編集者たちのためにも欲しかった。」(『文藝春秋』昭和62年/1987年4月号 常盤新平「この人の月間日記 感謝感激直木賞受賞日記」より)

 とあった。
 別れた女性と苦労した時代のことを題材として書くことが、果たして彼女の恩返しになったのか、よくわからないが、それでも当時二人のささやかな生活、自分を支えてくれた彼女のためになったような気がした。

常盤 新平 著 『遠いアメリカ』 講談社(1986/08発売)


by office_kmoto | 2018-02-23 06:11 | 本を思う | Comments(0)

佐伯 一麦 著 『ア・ルース・ボーイ』

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 書名のルースとは、

 “loose”という単語を辞書で引いてみた。すると、「しまりのない」「だらしない」「道徳感のない」「不身持な」「ずさんな」……などといった否定的な意味ばかりの羅列の中に、意外にも、「自由な」とか「解き放たれた」という意味も混じっていることにぼくは気付いた。

 そう、ここでのルースは「自由な」「解き放たれた」という意味で使うのがいいだろう。

 県下有数の進学校を中退した斎木鮮は自分の子供でもでもない幹が生んだ子供と三人でそれまでの学校生活から解放され、生活を始めた。そして生活のために仕事を探さなければならなく、ハローワークへ行くが、斎木と幹は世の中には数多くの仕事があること知るが、二人の年齢や新生児がいるという条件下ではなかなか仕事は見つからなかった。
 ある時街灯修理に来ていた沢田と出会い、作業が終わって写真を撮るのにホワイトボードを持つのを手伝った。そのとき沢田はバイトに来ないか、と鮮を誘うことから、鮮の電気工が始まる。
 沢田は鮮に仕事を教えるとともに幹と梢子との生活も陰で支える。鮮はからだを使った仕事に充実感を少しずつ感じていく。しかし幹は梢子を連れてアパートを出て行ってしまう。ただ鮮は幹と梢子は戻って来るものと信じていた。
 鮮の誕生日に幹は梢子を連れて戻ってくる。幹は母親に梢子が認知されたと言っていたが、幹は梢子の父親のところに戻ったのかも知れないと友人から知らされる。それでも鮮は幹が来るのを待つことにしたのであった。

 あの『還れぬ家』や『空にみずうみ』、『鉄塔家族』に斎木の若い頃の電気工の時代の話がよく出てくるが、この本はそんな斎木の電気工を始めた頃の話なんだ、と知り、読み始めて興味深かった。地元の不動産屋をしている大山の若い頃も出ていて、ああ、彼か、と思い、こんなだったんだ、と佐伯作品のファンとして妙に嬉しかった。そのため期待以上に面白かった。

佐伯 一麦 著 『ア・ルース・ボーイ』 新潮社(1991/06発売)


by office_kmoto | 2018-02-22 16:12 | 本を思う | Comments(0)

常盤 新平 著 『熱い焙じ茶』

 さて、今回図書館で借りてきた常盤さんの本はこれで最後になる。基本的に発売順に読んできたつもりだが、今回は気負いもなく、わりとのびのびと書かれていたんじゃないか、と思えた。開高健さんがよく「心が遊ぶ」と言っていたが、それに近い感じになってきている。もっとも晩年のエッセイはもっとそれを感じられて、常盤さんのエッセイを読んでみたくなったのだが。


 いやなことにかぎって忘れないし、それは一生ついてまわるのだろう。年齢をとるというのは、身体にも心にもごみがたまってくることじゃないかと思う。(オフへの誘い)


 歳をとると様々な弊害が出て来て、時に身動き出来なくなる。これまでいろいろ歳をとった弊害を表した言葉なり文章を引っ張り出してきたけど、この言いまわしがいちばんピッタリくる。そうなんだ。その人にとってのそれまでの人生のごみが、歳をとってままならなくするのである。


 べつに行かなくてもよかったのであるが、生まれ故郷を見ておきたいという気持があった。そういう気持になるのは、年齢をとった証拠だと思った。(出身地について)


 自分の生まれた場所を見てみたいと、ある時ふと思い、先日行ってみたが、まさに常盤さんと同じ心境だった。これも歳をとった証拠なら、それはそれでいい。


 ものを調べるというのは面白いものだ。エキサイティングなものだということである。これを勉強と呼ぶのは気が引けるけれど、そう言っていいだろう。(怠け者のアメリカ)


 常盤さんはアメリカについて、特にマフィアについて興味を持った。それを雑誌などから読んできた。それをここで言っている。
 自分もいくつか調べていることがある。それを図書館で調べたり、実際に見に行ったりしている。やはり自分が興味があることなので、楽しいものだ。本を読んだりしていると、これって勉強じゃないかな、と思ったりしたことがある。けれど大きな声で言うのはどうかな、と思うので、深く考えないことにしている。


 好奇心だけは若いころのままにしておきたい。いまもニューヨークにのこのこ出かけていくのは、知らないことがまだまだたくさんあるからだ。(ただ好奇心で)


 なぜアメリカなのか。先に読んだ本にも書いてあったが、今もその好奇心を持ち続けていることがうらやましい。


 ニューヨークでは古本屋がつぎつぎに消えていくと聞いていた。原因は家賃の暴騰である。西五十四丁目ではとても古本屋など営んでゆけなかっただろう。そのころ不動産ブームで、ドナルド・トランプのようないわゆるディヴェロッパーがハバをきかしていた。それを苦々しく思っていた。五番街にそびえたつ金ピカのトランプ・タワーなど悪しきアメリカであると思う。(つつましいアメリカ)


 その悪しきアメリカの代表であるトランプが今やアメリカの大統領なのである。常盤さんが生きておられたら、どう思ったのだろう?


 好きな作家、好きな本はなんど読んでも、新しい発見がある。本を読むのは、何かが得られるということもあるが、好きな著者、好きな本を見つけることでもあるだろう。一生手もとにおいておきたい本を無数の本のなかから見つけだすことだ。探検みたいものである。

 もともと、辞書にかぎらず、本とはそういうものである。自分一人のものだ。
 ほかの人には無用である。そこが本のよいところだ。そういう本がいま書棚に並んでいる。これは本人にとってとても仕合わせなことである。けれども、それこそ腐れ縁だという気がしないでもない。(本とのつきあい)


 自分の好きな作家の本、好きな本が並んでいる本棚を見ると幸せな気分になるし、落ち着く。けれどこれだけ抱え込んでしまうと、確かに腐れ縁だという気がしてくる。


常盤 新平 著 『熱い焙じ茶』 筑摩書房(1993/09発売)


by office_kmoto | 2018-02-20 05:25 | 本を思う | Comments(0)

常盤 新平 著 『うつむきながら、とぼとぼと』『門灯(ポーチライト)が眼ににじむ』

d0331556_03551002.jpg 『うつむきながら、とぼとぼと』は「THIS IS 読売」に掲載されていたものらしい。そして先の『そうではあるけれど、上を向いて』は「NEXT」に掲載されていた。いずれの雑誌も今はない。
 「THIS IS 読売」は総合雑誌というのかな。サイズも文藝春秋みたいなやつだった。「NEXT」は「プレジデント」みたいなビジネス誌だった。私の本屋時代に創刊された雑誌で、いずれも二番煎じで、うまくいかなかったようだ。

 さて、

 今回は前回のような屈託した感じはだいぶ薄れている。このくらいがいい。


 恥をかけば、私は東と西に住む二人の女のあいだを行ったり来たりしていたのである。
 それで、仕事場は一種の緩衝地帯になっていた。ここにいると、なんだか雨宿りでもしている気分だった。早く時間が過ぎるのを願っていた。こういう問題を解決してくれるのは、時間しかないと信じていた。(今年の桜)



 たぶんこれが常盤さんの屈託の一つだったのだろう。また言葉を拾う。厄介な人生を送った人だから、言っている言葉が悩ましい。


 そういう、人生の好ましい時期はなんて短くはかないのかと汗を拭きながら思った。(夏の暑い終り)


 気に入ったものがどんどん減ってゆき、気に入らないものがどんどん増えていくというのが、この世に暮らすということらしい。それで前途をいっそう悲観することもあるまい。ほそぼそとやってゆければまんぞく、まんぞくである。(ほそぼそと暮らす)


 仕事も難しいし厄介だけれど、生活も難しく、また厄介だと父親は感じている、何をやっても、どうもうまくいかないという苛立ちがある。(ある休日)


 『門灯(ポーチライト)が眼ににじむ』はアメリカの雑誌から拾った話をここで紹介しているが、その中でニューヨークはハンバーガーが美味しいらしいことがわかった。
 この本では常盤さんの父親、兄弟のことが書かれる。
 常盤さんの父親は気難しい人だったらしく、それでも、


 どんな父親でも父親であり、父親というのは有難い存在である。(親父の話)


 ここのところ父親からあちこち誘われる。「一緒に行こう」と。
 父は今は後妻を失って犬と一人で暮らしている。一人娘がいるが、こいつはほとんど家にいない。そこで近所に住んでいる私たちに声を掛けるのだろう。私も気になるから、散歩の途中、週に一回程度実家へ行く。行って何を話すわけでもないが、父の話を聞く。父は必ず曾孫の状況聞き、私のからだのことを心配する。いつまでたっても私は子供なのである。ただ今は出来るだけ父の誘いに乗ることにしている。


 いわきの病院で療養する次兄は退屈していたが、血色がすこぶるいい。みんな元気かと兄は私の家族の安否をたずねた。みんな元気、と私は答えた。
 みんな元気という言葉が心に沁みた。二月には、みんな元気であることを願っている。みんな元気)


 こういう形でエッセイを終えるが、それを読んでいると心が温かくなる。


常盤 新平 著 『うつむきながら、とぼとぼと』 読売新聞社(1992/06発売)


常盤 新平 著 『門灯(ポーチライト)が眼ににじむ』 作品社(1993/05発売)

by office_kmoto | 2018-02-18 03:58 | 本を思う | Comments(0)

常盤 新平 著 『そうではあるけれど、上を向いて』

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 私は常盤さんの晩年に書いたものを最初に読んできた。この時期にはもうどっしりとした、ある程度の諦念みたいなものがあって、それが人生の哀愁を感じさせた。私はそれが好きだった。
 しかしこうなるまでには紆余曲折が当然あるわけで、特に作家として独り立ちする時期は、やはり迷いがあったんだ、と感じることができる。

 小説はどうやって書くのか親しい編集者に愚問を発したことがある。ちっともすすまなくワラをもつかみたい心境だったのだ。その編集者は、君が大いに恥をかくのはいいが、他人を傷つけてはいけないと忠告してくれた。(小説を書いた事情)

 編集者にこのように言わせるのは、そこに何かがあったことを窺わせる。それらが常盤さんの精神面でも影を落としているようだ。

 私はもう人を傷つけたくないと思っているのだが、傷つけられた人の呻きがいつも聞こえている。それは鉄橋をわたる電車の轟音も消してくれない。(忍ぶ恋)

 この「人を傷つけたくない」という気持ち実によくわかる。人生一度立ち止まってしまうと、自身のこれまでの人生でいつも誰かを傷つけていたのではないか、そんな気持なることがある。これは結構こたえる。
 自分は人を傷つけていたのではないかと自覚した時のどうしようないやるせなさは、もしかしたら“償い”として受けとめなければならないことかもしれない。

 さて、

 常盤さんはサラリーマン生活をやめ、翻訳業に専念する。さらに作家としてデビューし、直木賞を受賞する。私生活においても離婚をしている。ここにたまに描かれる私生活もどこかギクシャクした感じがある。
 いずれにせよ、生活面、精神面において波風が立っていた時期のようで、それが文章にも表れ、晩年の落ち着いた感じはここでは見出すことが出来ない。言葉も感傷的である。

 会社に勤めて、無事に定年を迎えるということは大変なことである。それもまた大事業だと思ってきた。(忍ぶ恋)

 彼女がどんな顔をしていたか記憶にないが、お金を稼ぐのは大変なことだと思ったのをおぼえている。とくに人に使われて、働いて金を得るのは。(ガマン、ガマン)

 いまは、強引であることが美徳の一つのようになっている。声が大きくて、舌がまわることも尊重される。(ガマン、ガマン)

 人しれない苦労が山ほどあるはずである。(ニューヨーク)

 食あたりみたいに人にあたってしまって、夕方には人と口をきくのが億劫になり、ましぐらいは一人で黙って食べたくなる。(定年している男)

 年齢をとると、何ごとにも深入りするのがためらわれる。ちょっと深入りしすぎたために、失うものがあまりにも大きい。(定年している男

 この洋食屋のおばさんも客もほそぼそと生きている感じがして、そこが気に入ってきたのである。そういうつつましさが好きだった。(行きつけの洋食屋)

 ほかに、やりようがないではないか。こつこつと、ほそぼそと、そして、とぼとぼといまは行くしかないのである。(臍曲がりの十一月)

 みんな、ままならないのだ、あなたも私も。だから、落ちこんだり、急に浮かれたりする。出世や金儲けや成功のための本がいやになるほど出ているけれど、いぜんとしてままならない生活を送っている。だから、そういう本がいっそうよく売れるのかもしれない。(長すぎた助走)

 気をつけなければならないことが、たくさんある。それが年齢とともにふえてくるようだ。(頑張ってください)

 ところでこんな文章あった。

 地下鉄は冷房がないから、すわっているだけでも、頭のうしろあたりから汗が出てくる。(夏の終わりの一夜)

 そう昔は地下鉄には冷房がなかった。高校時代に地下鉄を使って通学することになったが、確かにあの頃は地下鉄は冷房が効いていなかった。窓を開けてあっても、ちっとも涼しくはなかった。ただ駅に入るとそこだけは冷房が効いていて、駅に止まったときだけ窓から涼しい風が入ってきた。

 三十七年といえば、そのあいだに何があってもおかしくない。私の場合でも、じつにいろんなことがあって、その応対にいとまがなかった。彼はその間、私の知るかぎり、ときどき名刺の肩書が変り、住所が変ったにすぎないが、肩書も住所も少しずつのぼっていくという感じだった。おおむね平穏無事だったといっていいだろう。(長すぎた助走)

 かつて持っていた名刺の肩書きはいくつ変わっただろうか、とふと思った。名刺の肩書きや住所が変わることはその人の立場の変遷を語ることになるのだろう。

 なぜイギリスやフランスじゃなく、ロンドンやパリじゃなく、アメリカやニューヨークなの、ときかれたことがある。そういうとき、冗談に答えてみた。会っちゃったんだよ、好きになっちゃったんだよ、しょうがないだろう、と。それが一生を決めちゃったんだよ。
 そのことを文章にしてみたかった。若いころの私とアメリカとの関係を書いてみたかった。ただ、理屈をこねるのはいやだったから、自分の気持をそのまま書こうと思った。それは一個のラヴ・ストーリーになるはずだったが、私自身の恥をさらけだすようで恐ろしくもあった。(昭和ヒトケタのアメリカ)

 これは常盤さんが直木賞受賞作『遠いアメリカ』を書いた理由である。なんか読みたくなった。

常盤 新平 著 『そうではあるけれど、上を向いて』 講談社(1989/02発売)


by office_kmoto | 2018-02-16 06:04 | 本を思う | Comments(0)

常盤 新平 著 『冬ごもり―東京平井物語』

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 江戸川区平井を舞台にした連作短篇集である。
 この連作物語は、平井という町に住むお節介で噂好きの人々が応援する若い、あるいは訳ありの男女の物語であり、時に妙にもの悲しい。

 常盤さんは平井が好きで、江戸川区の葛西に住んでいる頃から、この町に通った。この町を愛していたことがこれまで読んだエッセイでよくうかがえた。

 雑然とした町が好きになるとは自分でも思っていなかったのだ。町に惚れるとは思いがけないことだった。(町の仲間)

 平井を江戸川区の地図で確認してみる。確かにここに描かれているように荒川と旧中川に挟まれた地帯だ。川が近い。
 この連作の一つ「町の匂い」が好きだ。川の匂いがこの町の匂いでもあることが描かれている。

 店は突然忙しくなった。五年前のことなど考えていられなかった。

 カウンターにも客がすわるようになった。こういう居酒屋は客がぽつんぽつんと来るところがいいのに、こんなに客が来ては、加代子ひとりではさばききれない。
 だが、加代子は夢中で働いた。汗が落ちているのも忘れた。瀬川は二杯目の焼酎を飲み終えると、勘定を払おうとしたが、加代子は受けとらなかった。
 「このつぎにして、瀬川さん、今夜はてんてこ舞いだから」
 勘定をもらったら、来なくなると心配したわけではない。そのかわり、ガラス戸を開けると、瀬川を送って外に出た。熱気がこもった店のなかとちがって、気持ちがよかった。川から吹いてくる風が火照った頬を撫でた。かすかな匂いもした。
 「川の匂いがするね」
 別れるときに瀬川が言った。それはこの町の匂いでもある。ちょっと生臭く、ちょっと甘い、加代子の好きなグレープフルーツの匂いに似ていた。

 同じ江戸川区に住んでいても平井はほとんど行かないが、それでも昔何度か行ったことがある。今はどうなっているのか。もしかしたら再開発でもされて駅前も昔と変わっているかも知れない。
 昔は駅前も通りも狭いと感じたものだ。

 祐造は銀行の前を過ぎて、駅前通りの狭い歩道を行った。すぐうしろから千津子がついてくる。向こうからも人が来るので、歩道を二人並んでは歩けない。(遠くに富士)

 確かにこんな感じだった。
 この連作のいわば中心となっている喫茶店ワンモアである。ネットで調べてみると今も盛業のようで、銅板で焼いたホットケーキが美味しいらしい。

 「こいつは銅でできているんですよ、杉山さん。これ、ドラ板っていうんです」
 「ドラ板って――」
 「菓子職人が皮を焼くのに使うんです。ドラ焼きの皮をこれで焼くからドラ板。漢字だと金銀銅の銅。鉄板だとね、なかなか熱しない。銅だとすぐ熱くなるし、冷めるのも早い」(毎度どうも)

 常盤新平ファンとしては一度行ってみなければならない。

 大友がまたからかったが、謙二ははあいかわらずにこにこしている。二十三歳だと聞いていたが、童顔なのでもっと稚い感じがする。高校を卒業して浦和の鉄工所に就職したが、高校時代には一之江のハンバーガー・ショップでアルバイトをしていた。
 そのあと、日比谷の店に移ると、卒業したら社員にならないかとすすめられたそうだ。しかし、就職は自分で決めた。ハンバーガーの店はあくまでもアルバイトだったのだ。(ひとり暮らし)

 東京の散歩番組が好きで、いろいろなものを見る。特に好きなのは地元近辺の特集、行ったことがある、あるいは通っていたことがある街の特集はついつい見てしまう。
 昨年、「出没!アド街ック天国」で地元の船堀の特集をやっていた。その前はBSで!『大杉漣の漣ぽっ』で大杉漣さんが一之江を散歩していた。こういう地元の特集をやるとちょっと嬉しくなる。これと同じで、地元のことが本に出て来ると「ん?」と思う。
 常盤さんのこの本にも地元が出てきたので、嬉しくなり、書き出してみた。駅前のハンバーガーショップといえば、マックかモスだが、どっちだろう?
 こんなどうでもいいことでも詮索するのは楽しい。

常盤 新平【著】『冬ごもり―東京平井物語』祥伝社(1996/01発売)


by office_kmoto | 2018-02-14 05:49 | 本を思う | Comments(0)

2月12日 月曜日

 晴れ。

 去年と同じようにここのところ仏間の窓ぎわに椅子を置いて、障子を開け、外の光りを浴びながら本を読んでいる。
 寒い日が続く。今年は例年になく寒さが厳しい。まだ窓を開けるわけにはいかないが、それでも陽の光は以前より明るく、暖かさを感じるようになった。
 読んだ『山頭火句集』(筑摩書房1996/12発売ちくま文庫)の中に「窓あけて窓いっぱいの春」という句があるが、窓を開けるまではもう少し時間がかかりそうだ。ただ暖かくなると花粉が飛ぶので、窓を開けて春を感じたくてもできないところがある。
 その『山頭火句集』には山頭火のエッセイも収録されているのだが、その中に、


 季節のうつりかはりに敏感なのは、植物では草、動物では虫、人間では独り者、旅人、貧乏人である。


 とあった。私はこれに暇人を加えてもいいんじゃないか、と思う。
 間違いなく季節は春にむかっているいるようである。庭に埋めてある水仙がちょこっと芽を出してきている。昨年孫と一緒に植えたチューリップも同じように芽を出している。一昨年植えたユリのうちまた一つ葉を少し開いて出ている。
 平成27年10月に種を蒔いたシクラメンがやっと蕾を持ち始めている。種を蒔いてかなりの数が発芽したが、2回の夏を越して、2年半近く経った今、6株が残った。素人が種から花を咲かせるまでは難しい。特に夏を越すのが難しく、こうして6株残り、やっと蕾を見つけると嬉しくなる。


by office_kmoto | 2018-02-13 07:03 | 日々を思う | Comments(0)

常盤 新平 著 『銀座旅日記』

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 常盤さんのエッセイを読むのは久しぶりだ。短い文章はテンポを生み、読んでいて心地良い。自分でも書く文章はこうありたいといつも思う。自身はただ書きたくて書いているものだから、気持ちが先走り、つい文章が長くなる。だから読点を乱用する。常盤さんの書く文章を見本にしたくなる。なんといっても文章の短さは、わかりやすい。
 この本は常盤さんの日常生活が日記体で描かれる。その交友は本当に親しいと思わせる。その友人たちが言う言葉が、さりげなく心に残る。

 「オーバーに言うと、生きるための職業。ぼくは生きるためにこの職業を選んだわけです」

 この人は「基本的に仕事はきらいだから」と言って、このように言う。ふと自分のことを思う。生きるための職業がいつの間にか職業が生きる目的になってしまった、ことを。

 「年をとったら楽になるかと思ったら、そんなことないねえ」

 痛く、同感。

 まだ生きているのだから、せいぜい好きなことを勉強しようと思う。

 これは常盤さんが関頑亭に会って励まされ、常盤さんが思ったこと。関頑亭とは山口瞳さんのエッセイに出て来るドスト氏である。
 常盤さんのように、この頃同じように思うことがある。

 年を食っていい本にめぐりあえるのは嬉しい。

 これは常盤さんの言葉。確かに常盤さんのこのエッセイを読んでいると、そう思う。 難しい本は読めないけれど、心が温かくなる本。ちょっと考えさせられる本。涙ぐみたくなる本などの出会えると嬉しい。
 常盤さんの行動範囲というのが、私にひどく身近だ。通っている歯医者も知っているし、岩本町の明石屋という喫茶店も知っている。九段下、平井、浦安と感じがつかめる町だ。交通手段が新宿線、半蔵門線、東西線、とよく使う路線だし。そういう意味で親しみを感じてしまう。
 なんか、常盤さんのエッセイをもう少し読みたくなり、図書館で予約を入れる。

常盤 新平 著 『銀座旅日記』 筑摩書房(2011/03発売)ちくま文庫


by office_kmoto | 2018-02-11 08:36 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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