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3月28日 水曜日

 晴れ。

 東京では最高気温が22.9度だったという。この暖かさのため、チューリップが花開き、つつじのつぼみに色がつき始める。


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 シクラメンも豪華に花咲き、わが庭は彩りがよくなる。そういえばアマリリスも葉を出し始めた。
 昨日孫の学習机を買ってあげる予定で、シマホで再度見に行く。ついでに桜が満開と聞いていたので、近くにある富士公園へ行ってみる。道を挟んで桜並木となっていて、いい感じであった。わざわざ目黒川まで行く必要がない。かえって人がいない分、人疲れしないだけ、私にはこっちの方がうれしい。


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 午前中眼科に行く。右眼がひどく充血している。それもかなりひどい。もともと充血しやすいところがあるのだが、先生は私の目を覗き、「わっ、切れている」と言い、疲れ、ストレス、そして老化が原因だろうと言う。AZ点眼液と普段使っているサンコバの処方箋を書いてもらう。
 少し本を読むのとパソコンをやるのを控えたほうがいいのかもしれない。
 ちょっと愕然としたことを書く。
 24日に孫の卒園式を妻と見に行ったのだが、そこへ向かう地下鉄の車中で、席が一つ空いたので足の悪い妻を座らせた。そうしたら隣にいた若い女性が立ちあがり、私に席を譲ろうとするのである。最初何が起ころうとしているのかわからなかった。そのうち私に席を譲ってくれているのだとわかると、私はどうしていいのかわからなくなる。席を譲られたのは初めてのことであった。自分ではまだ席を譲られるほど歳食っていないと自負しているだけに、驚きでもあった。
 呆然と立ちつくす私に妻はせっかく席を譲ってくれたのだから、坐れと手で示す。私は彼女に礼を言い、席に座る。正直がっくりときてしまった。やれやれ俺も席を譲られるほど見てくれは老けているのかと思った次第であった。
 孫の卒園式は今流行の袴姿であり、お揃いであった。カメラのファインダーから見える孫を見て、奴もここまで成長したんだと、少々涙ぐんでしまう。

 さて、このブログの更新を1~2週間都合により休みたい。それは個人的事情があって少々忙しくなるのと、目を休めるためにそうしようと思っています。忙しさが一段落したら、また目のほうも良くなれば、再開したいと思っています。

by office_kmoto | 2018-03-29 06:32 | 日々を思う | Comments(0)

色川 武大 著 『戦争育ちの放埒病』

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 このエッセイ集は色川さんの未収録エッセイ集だそうだ。この出版社が得意としている、一人の作家の未収録の文章を探し出し本にしてしまうパターンだ。その「未収録」という文句に惹かれて読んでしまう。
 色川さんは若い頃無茶苦茶な生活を送ってきたことはこれまで読んできた本に書いてある。そんな無茶苦茶な人生を送ってきた人だけに、だからこそ世間では色眼鏡で見られる人たち、あるいは社会からドロップアウトしてしまった人たちに向ける目の優しさがいつもある。そうした人たちを見る目は、我々が持っている視線と違う。むしろ我々の視線の方が残酷で、いやらしいと思えてしまう。我々が当たり前のように見ているものが、その人たちの視線で見ていると、果たして自分たちの見方は正しかったのか、相対的に間違っていなかったのか、という不安を感じさせるものが色川さんにはある。

 たとえば、ミュージシャンである。ミュージシャンのうちのある者は、仕事が苛酷すぎる。聴衆は常に、人力以上のものを期待し要求する。それはただ単に拍手すればよいので、それほどだいそれたことを望んでいるような気がしない。あるいは、偶然にすばらしいものが聴けた感動を現しているだけだと思う。けれども演ずる方には、そういう日々の積み重なりであり、彼等を人力以上のところへ駆りたたせる鞭になっていることはたしかである。法を犯し、身を害するのは彼等自身であり、結果的に不幸を背負うのは仕方がないとしても、私たちは、一夕の楽しみを、そうした重たい犠牲のもとに得ているということを忘れるわけにはいかない。聴衆の一人でもある私には、彼等を軽蔑することができない。
 また、たとえば、ストリッパー、および類する賎業婦である。彼女たちは、恥の意識をなくするために、薬を与えられ、乃至は黙認されることが多い。それは彼女たちを使って利益をうる者たちの都合に沿っていて、こうした都合で成り立っている部分を、憎み、蔑まないわけにはいかない。
 しかし、この場合も、客である我々も、その犠牲による恩恵に浴しているのであって、我々もその安易さを責めらて当然であろう。罪人は、彼等、彼女等でそれは動かしようがないが、法でとらえられない部分について、せめて、心くばりだけでもする必要がある。(麻薬について)

 こういう人だから色川さんの周りには人が集まる。

 ちょっと指を折っても、作家、画家、編集者、役者、音楽家、芸人、力士、プロレスラー、競輪選手、ばくち打ち、商売往来にのっていない曖昧な人たち、そういう人たちは多少なりともその職業に関して交際が開けたものだが、大学教授、医者、弁護士、不動産産業、金貸し、革命家、それらは職業に関係なしに個人的につきあっている人が多い。もちろん普通の職業の人もたくさん居る。放浪したり引越し魔だったりするので、東京の各所や地方に分散して居る。
 それだけの人数と交際して、まだ人に餓えているところがあって、自分の家が絶えず満員電車のように混んでいればいいな、と思ったりする。(親友)

 伊集院静さんの『いねむり先生』に、先生と日本各地の競輪場に行くたびに、いつも先生の周りにはかつての仲間が集まってくる場面がある。まさにこれであろう。
 そんな色川さんだが、自身についてもいつもヒリヒリした緊張感がある。

 九歳の時に日支事変がはじまり十三歳のときに太平洋戦争になったので、いわば戦争育ちの子であろう。特にその後期の空襲時代には、ニッポンも、肉親も、すべて眼中になく、ただ本能的に自分の命だけを守って生きてきた、その癖が抜けきらない。死ぬか生きるかというただそれだけの毎日は、それ自体ひどく放縦なもので、“義”という奴が欠落している。(戦争育ちの放埒病)

 この二十年にざっと九回、住所を変えたというと、どうして、と理由をきかれる。
 どうしてってほどのことはない。私のような怠け者は、一か所におちついて腰をすえてしまうと、なにやら一息入ってしまって、何もやらなくなるのじゃないかという気がする。どんなことでもいいから、背水の陣みたいな要素はなるべく残しておいた方がいい。
 もともと私は育ちざかりが乱世のせいもあったが、正規の学業をおさめずに自分流儀の生き方をしてきたため、たえず停頓だけはするまいと心に決めたことがある。上とか下とかいうよりも、少しずつでも変動していこう。諸事にわたってその癖がついて、何になろうという最終目的は造らないし、立ちどまってしまうことも怖い。人生というものは、ただ転げ回って死んでしまうことだという実感がある。(引越し症候群)

 私の新年の行事といえるものがあるとすれば、近隣の除夜の鐘をきいて、しばらくしてから、俺にとっては、正月も、もうこれで最後の正月になるのだろうな、となんとなく自分にいいきかす。こんなことぐらいだろうか。
 もっとも、これが最後の、といいきかすのは、正月だけではない。これが最後の桜だな、これが最後の暑さだろうな、これが最後の紅葉だからな、と四季折々にそういいきかせている。このいいかたは、中毒してくるとますます頻繁になって、日々、なんにつけてもそういいきかさないわけにはいかない。
 だから、そうやってもう十数年も前から自分にいいきかせてきた。新年などという情緒は、特にそういいきかせやすい。そういう意味では、新年というものは、私にとってまだ特別の情緒があるのであろう。
 運よく、というか、偶然、というか、どうにか生き残って、今回もまた、これが最後の正月、といいきかせることとなる。近頃はやや新鮮味を欠くので、説明的な言葉を少し捕捉して、緊張感を刺激しなければならない。
 いつもいつも同じことをいっているようだけど、本当にもう今年ぐらいが最後の正月となっておかしくないぞ。こういうことというものは、新鮮味を欠いてきて感度が鈍くなってきた頃が合いが、熟し頃なのだから――。
 それで、たとえだらだら寝てすごすにしても、気持ちのどこかに、板子一枚下は地獄、という実感がともなう。理想的な気分とはいえないが、このところに蓋をするわけにはいかない。(新年)

 考えてみると私は、その後何をやっても、ゼロからスタートしているようである。べつに誇りではない。そういう条件だっただけだ。そうしてゼロから行く場合、銭でない物を大切にすること、これがセオリーだ。たとえば人間関係、自分に経験、地の利(条件の認識)など。(無銭)

 そこにはギリギリで生きてきた人だったんだなと感じることができるが、そんな人生の緊張感が行きつく果ては、ある意味諦めとつながっていくところがあって、良きも悪くも、人生なんてそんなところがあると思っているので、わかる感じがする。

 環境がガラリと変って、ぼくは囚われ人になり、医者や看護婦の命ずるままに動くほかない。ぼくがこの次何をするかきめるのはぼくでなく医者であり看護婦だった。そのくせ生じる結果についてはぼくが身体で負わなければならない。(風前の灯)

 私ぐらいの年令で、もうそれほど人生にも執着がなくなり、腹もへってるし、なんとなく苦笑いしながら、ヨボヨボ歩くのである。(アメリカ版ご当地ソングの情景)

色川 武大 著 『戦争育ちの放埒病』 幻戯書房(2017/10発売) 銀河叢書


by office_kmoto | 2018-03-28 07:38 | 本を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著『司馬遼太郎が考えたこと』〈6〉

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 またも日露戦争が及ぼした影響について考えている。司馬さんは『坂の上の雲』の執筆にかなりの時間をかけたことを書いている。

 この作品は、執筆時間が四年と三ヵ月かかった。書き終えた日の数日後に私は満四十九歳になった。執筆期間以前の準備時間が五ヵ年ほどあったから、私の四十代はこの作品の世界を調べたり書いたりすることで消えてしまったといってよく、書きおえたときに、元来感傷を軽蔑する習慣を自分に課しているつもりでありながら、夜中の数時間はぼう然としてしまった。(あとがき『坂の上の雲 六』)

 つまりあの長編に十年近くかけている、いやしまったことで、どうしてもその影響から逃れることができず、かえって自己の戦争体験も絡んで、日露戦争がその後の日本に及ぼした影響を考えざるを得なかったのではないか。そう思えてくるほど、くどいほど日露戦争の勝利がその後の日本を夜郎自大させた最大の原因であったことを書きつづる。自身も言っておられるように「『坂の上の雲』の視点」からものを見ることに囚われ、
逃れられなっていき、コブのように塊になってしまっている。
 前巻をもそうであった。そして今回も。

 日本は維新後、西洋が四百年かかった経験をわずか半世紀で濃縮してやってしまった。日露戦争の勝利が、日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた。泥くさい軍国主義も体験した。それらの体験と失敗のあげくに太平洋戦争という、巨視的にいえば日露戦争の勝利の勘定書というべきものがやってきた。(『坂の上の雲』を書き終えて)

 ところが日本の場合、日清戦争なんていうのはどさくさの戦争ですから、これについてはどうこうということはできませんが、日露戦争というものをよくやったことのはたしかですけれども、勝ったあと非常に国家が変質していく。これは日露戦争の本質なり真相はどうであったかということについて、国家が教えなかったし、ジャーナリズムも疑おうとしなかったことに原因がある。あのころは言論がやかましく統一されているわけではなかったし、その気になれば、戦争が終ると同時に、この戦争はどうであったかということを、客観的に冷たい目で新聞が連載することも可能だったんです。それを一度もやらなかった。そしてただ有頂天になって、その有頂天のムードの上で、日本の軍人を含めた官僚組織が新たに成立したわけです。(日露戦争の世界史的意義)

 ここまで書いてきて、もしかしたら違うかもしれない、と思うところがある。司馬さんに『坂の上の雲』を書かせたのは、自身の戦争体験によるものではないか、と思えて来たのである。つまり『坂の上の雲』を書いたことで、昭和前期の日本軍の愚かさまで思い至ったのではなく、経験値としてそう実感したところのものはどこから来たのか、それを知りたくて、『坂の上の雲』を書かせたのではないか、と思ってしまったのである。
 司馬さんは戦車部隊に配属された。

 戦車は私にとって好奇心の対象になりうる他人ではなく、怨念がこもっているという意味で自分に属する物体だからじつに書きづらかった。(戦車の壁の中で)

 私の青春が所属した昭和前期の日本という国家がどういうものであったかについて、戦車という物体を通して考えているだけのことである。(石鳥居の垢)

 どういうことかというと以下に詳しく書かれる。

 この癖は、強いて文学的にいえば、貯金箱の穴のような戦車の覘視孔から下界をのぞいていたときまで記憶をさかのぼらせることができます。日本が敗色の濃い二十三歳のころ、私は連隊ごと満州から関東地方に移ってきて、東京湾や相模湾に上陸するであろう敵を待たされていました。いつか覘視孔の外界に出現するであろうと敵戦車を待ち、そして敵戦車が出現した瞬間が私の死の瞬間になるはずでした。日本の戦車はあまりにも旧式で、敵よりもはるかに鋼材が薄く、砲は敵にかすり傷も与えることができないほどに小さすぎました。運命を絶対的に数量化できる箱の中いるとことは、自己を拡大して物事を考えるなど不可能なことで、たとえば歩兵ならば地形や夜間の利用などで多分に自己を拡大できるでしょうし、特攻の戦闘機乗りならば自己をゼロにすることによって哲学的に自己を無限に拡大することができます。戦車という、数字が絶対化されている壁の中に棲むには、自己を極小化へ縮めてゆかねば、勝ちの可能性ゼロという戦車に同一化することができず、そして極小化してゆく自己が、国家とか日本とかいうのは何かということを考えこむうちに、いま想いだしても暈光を発するような実感をもって、国家というものの奇妙な姿態や、それを狂態へ駆りたてている架空の、それだけに声高に叫び、国民に脅迫をもって臨まざるをえない思想というものがよくわかるような気がしました。
 そのうち、覘視孔のむこうの外界にあらわれたのは敵の戦車ではなく、老化しきった秩序と、かつて栄光を謳いつつもしかし成立後半世紀で腐熟しはじめた明治国家が、音をたてて崩れてゆく光景でした。私が、明治国家成立の前後や、その成立後の余熱の限界というべき明治三十年代というものを、国家神話をとりのけた露わな実体として見たいということに関心をおこしたというのも、あるいは右のようなことが契機になっているかもしれません。(自己を縮小して物を見る)

 覘視孔とは戦車から覗ける窓のことである。「てんしこう」と読む。司馬さんが戦車部隊で戦車に乗ったときは、もう終戦間近だった。戦車の鋼材は完全に不足していて、なんと車体は鉄板で作られていた。それがどんなにひどいものか、砲塔がヤスリで削れてしまうのだ。

 私は砲塔のふちにヤスリをあててうごかしてみた。ところが砲塔の鋼はざらりとヤスリの目を受けとめたのである。かすかながらギシギシと手応えがして、おどろいて手をとめてその部分をながめてみると、白銀色の削り傷ができていた。こんなばかな話はなかった。腐っても戦車ではないか。(戦車の壁の中で)

 戦車の砲弾の射程距離も短く、当たっても大したダメージをあたえられない。車体も敵の砲弾が当たればぶち抜かれる。そんなシロモノだった。それでも当時の参謀本部は戦車は戦車だろう、という主張だった。

 ところが陸軍は戦車というものを所有した当初から論理的兵器に対して論理的戦術をもたず、論理的思考法ももたなかった。信じられないようなことだが、陸軍にあっては「戦車は戦車である以上、敵の戦車と等質である。防衛力も攻撃力もおなじである」とされ、このふしぎな仮定に対し、参謀本部の総長といえども疑問をいだかなかった。現場の部隊でも同様であり、この子供でもわかる単純なことに疑問をいだくことは、暗黙の禁忌であった。戦車戦術の教本も実際の運用も、そういうフィクションの上に成立していたのである。じつに昭和前期の日本はおかしな国家であった。(石鳥居の垢)

 そんな“おもちゃ”みたいな戦車に乗っていれば、即刻死を意味する。そんな“棺桶”に乗って、のぞき窓から外を見れば、視野が狭い分、自己の存在など極小化せざるを得ず、こんなものに乗らなければならないのは、一種の自分への脅迫であり、何で国家がそんな脅迫ができるのか、そんな疑問が浮かんでいく。戦略も、戦術も、そして力も無い国がこんなバカな戦争をしているのか、沸々と疑問が湧いてくる。
 これが戦後いつまでも司馬さんの頭の中にいつまでも残る。だろうな、と思う。あまりにも強烈な印象だ。ここから司馬さんは明治から昭和の終戦までの日本を考察するが、その怒りは司馬さんにしては珍しいぐらい怒りを露わにする。

 ――あんな時代は日本ではない。
 と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。(“統帥権”の無限性 『この国かたち 一』に収録)

 だからこの時代の“異胎”の時代と言う。そんな“異胎”の時代は急に現れたものではなく、歴史をたどれば、その「胚芽」を明治に見ることができ、その性急さはあちこちに歪みを生み、生まれるべくして生まれたことを司馬さんの言葉から知ることができる。そして日本国民はそんな“異胎”の時代を持ってしまったことを忘れてはならないし、これはくどいぐらい言った方が良い。他人ごとではなく、それが自分たちの歴史なのである。正しく歴史を考察すべきことなのである。中国や韓国から言われるまでもないことなのだ。

 さて、このエッセイ集には歴史上有名人であっても人物的に二流の人物については、手厳しい。だから批判された人物は司馬さんの小説にはならなかった。今回は山県有朋である。

 山県の場合は性格もあり、その重厚好みの国家感覚にもよるだろうが、なによりも大事なのは、かれは長州の二流の志士であったことはたしかながら、一度も革命家であったことはなかったことである。つねに天才的な人物の驥尾に付し、冒険を好まず、慎重な態度を持し、結局は藩においては一種の立身のようなかたちで明治維新の座についた。(権力の神聖装飾)

 坂本龍馬を暗殺したのは幕末の見廻組というのが定説になっているが、そこで次のように言う。

 坂本龍馬の不幸は大政奉還を着想してそれを成功させた歴史的プランナーとして殺されたのではなく、新時代に不要になるはずの浪士群を始末しようとし、それが京都で大暴動をひきおこすというふうに誤伝され、その滑稽な風説によって殺されたところにある。(見廻組のこと)

 あと豊臣秀頼の話が面白かった。秀頼は秀吉を淀殿の間で生まれたが、司馬さんは秀吉の子供ではないのではないか、と考えている。その理由は当時流行していた梅毒に秀吉も感染していたはずで、それによって“種なし”であった可能性が大きい。実際問題正妻の北政所との間には子供ができなかった。それこそ秀吉は子種がなかった証拠ではないか、と言う。

 このことはべつに好奇心でいっているのではなくて、私としては秀吉自身がそう信じていたわけですから、生物学的な秀吉、秀頼の親子関係などどうであろうとも関心のないことですけれども、ただ寧々さんのお腹の中には、やっぱり複雑なものがあっただろうなという気がしましたし、なるべくそういう観察はおしころしながら関ヶ原前夜のことを考え、「豊臣家の人々」を書いていったんだけれど、書きおわってみると、やはりあれは秀吉の子ではないのではないか、という気持が依然として去らないんです。お寧々さん、お松(前田利家の妻)という二人の婦人を中心にして考えてみますと、どうもそういう感じがほうが濃厚になってきて、その結論に落ちついてしまうんですね。(秀頼の秘密)

司馬 遼太郎【著】『司馬遼太郎が考えたこと』〈6〉エッセイ1972.4~1973.2 新潮社(2002/03発売)


by office_kmoto | 2018-03-26 06:27 | 本を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』 〈5〉

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 今回は日露戦争、そしてその後と儒教が大きなテーマになっていると思う。たぶんこの時期司馬さんは『坂の上の雲』を執筆中だったのだろう。だからどうしても日露戦争の意味を考えざるを得なかったのではないか。特に日露戦争以後日本人の意識を異常な状態にまで導いてしまったこと。それが司馬さんの言う昭和の「奇胎の時代」を生んでしまったことを考えている。

 そういう「異なった文明体系に転換した」というこの民族が、実際には民族の内面の問題までは転換していない。二十世紀後半の多くの新興国家でさえそうであるように、国家能力といった面のみをとりあえず転換したわけであり、その国家能力というのは、この明治期という十九世紀末、二十世紀初頭にあっては各国とも濃厚に軍事のことを指す。不幸なほどに、軍事がその国家や民族の能力または意志を表現する最大の課題になっている。日本人は、転換後、三十余年をへてロシアという世界的な帝国と軍事の強弱をあらそわねばならなくなった。
 ロシアにとっては単なる侵略政策の延長線上におこった事変であるという面が濃いが、日本にとっては弱小であるがゆえに存亡を賭けた国民戦争たらざるをえなかった。元老たちは戦争を回避しようとした。いずれにせよ日本は、別な文明体系へ転換してから三十余年後にその能力を世界史の上でテストせざるをえなくなった。それが、日露戦争である。(あとがき『坂の上の雲 四』)

 「戦史は負けた側のを読め」
 とよくいわれます。そのとおりで、勝った側には失敗についての反省などはなく、反省をしていてはどうにもならない。みなさん功績を顕示することで大いそがしで、戦史執筆者もそういう連中を傷つけたりすると大変です。歴史は百年たつとひからびて丁度いい。戦後すぐ戦史編纂をすると、どうしてもなまがわきで、歴史にはならないのです。(「旅順」から考える)

 日露戦争の勝利の報告の仕方というか、オーナーである国民への陸軍の報告の仕方が、じつにケレンに満ちたものでした。もっとも重要なことは隠し、「結局日本人は固有に強いから勝った」というふしぎな神秘史観を諸戦史の上でつくりあげ、その例として「旅順」を典型にしたのです。敵の火力に対してただ盲目的突撃をし、屍の山をきずき、なお命令は神聖であるとしてつぎつぎと突撃し、一回の攻撃でバラバラと一万数千の生命を消してしまいながらついに敵を屈服させたというこの神聖民族のようなものを、専門家である軍人でさえ信じたところに次の時代へのおそるべき陥穽があります。
 旧日本陸軍は当時の世界のいわゆる強国の陸軍装備の水準からいえば日露戦争のときがもっとも高く、その後どんどん下降して、大正、昭和は二流陸軍になっており、しかも軍人や国民は日露戦争の美しい神話を事実と思い、世界無比の絶対的自信をいよいよつよめてゆくのは、近代世界史の最大の滑稽事だと思います。(「旅順」から考える)

 儒教については、以前この巻について書いたものがあるので、今回もそれを修正して使うことにする。

 儒教的専制国家は、中国が卸し元である。漢時代にこの体制がうまれ、宋におよんで大完成し、清朝までつづき、清朝が消滅してもなおその基本的な政治習風は蒋介石中国におよんでなおなお臭気が抜けなかったほど、その体制的体質というのはしぶといものであった。
 儒教というのは生活習慣まで至るもので、そうしないと儒教は完結しない。長幼の序とか、親類とのつきあい方、親類の範囲、結婚の仕方、葬式の出し方、こういうものが儒教であって、「子曰ク」だけが儒教ではない。儒教というのは社会体制そのものであり、生活規範であり、極端にいえば人間を飼い慣らす原理であり、システムである。
 ただ世界中のたいていの民族は絶対的原理を一つ持っていて、その絶対的原理で人間をつくり変えてしまう。そうでなければ人間は猛獣で手に負えない動物だと思っているらしい。中国では儒教でもって人間を飼い慣らしているし、ヨーロッパはキリスト教でそうしている。回教圏もむろんそのことが強烈におこなわれてきた。

 そして儒教体制が確立してからの中国では新しい技術を開発していくという競争がなくなって、古い時代の中国でいろいろなものが発明されたというのは既に伝説的な話になってしまった。
 司馬さんはこうして競争の原理のない儒教的な中国体制というのは人間が考えた政権永続の最良の方法である、と言っているし、これまで二千年間、儒教という原理で社会的存在として人間の猛獣性、つまり無用の競争の毒牙を抜いてきたとも言っている。
 だから競争の原理を内部にもたない当時の中国・朝鮮式体制(これについてはこの後触れる)にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。

 朝鮮は高麗朝でもそうであったが、李氏朝鮮でも儒教的専制国家の模範生的な国家であった。昔から朝鮮は中国をもって宗主国としていた。これはよくいわれているような属国ではない。属国というのはヨーロッパ的な考え方で、アジアでは中国が中心だと中国人は考えていた。アジアだけでなく全世界の中心だと考えていた。ただそれは地理的に可視範囲がヨーロッパまで及んでいないから、そのあたり一帯、つまり天が覆い地が続くかぎり自分たちの皇帝がその地上の皇帝であると思っていたのである。だから中国人は自分たちの体制が及んでいない所を蛮地とみる。野蛮人はしょうがないと思っている。
 このため朝鮮も、属国ということではなく、中国のそばにある小さな国だし、垣根の国、衛星国だから、長幼の序の礼儀として、蛮国ではなく蕃国として自分を位置づけていた。ただし蛮国、野蛮人ではないということで、一所懸命その中国体制、つまり仁義礼智信を原理としている儒教体制を取り入れて、それそのもので国家体制を作って「東方礼儀の国」と中国人にいってもらい、それをもって自分たちは文明国としてきたのである。こうして「アジア的専制国家」群が生まれたいった。これが中国や朝鮮にあって二十世紀初めまで続き、結局アジア的停滞という弾力性のない民族社会をつくっていったのである。

 ヨーロッパに産業革命が起こり、それがインドをへて帝国主義の形をとり、中国に接近し、その力をもって侵入してくるようになると、中国はこれに対抗できず、踏みにじられるままでしかなかった。中国人の国家観がヘンテコだったから、ヨーロッパ人たちに、ここは取り得な大地であるという観念を持たせた。ヨーロッパ列強のアジア進出はこうして生まれたのである。
 悲惨な歴史を踏んで、これではまずいと自覚し始め、本当に新しい中国をつくるためには、それまであった中国的なあらゆるものを吹きとばす原理を持ち込まないとダメなんじゃないかと考えた。
 司馬さんが言う「体制としての儒教は悪いものですよ」を蹴っ飛ばすには、別の強烈な原理を持ってこなければならない。しかも短期間で新しい原理でやらなきゃならない。そこでマルクスの原理がいいというので、そのシステムでやってみると悪習がサーッ消えたので、毛沢東もホー・チミンもそれを仕入れてやってきたのだろうと言うのである。それが中国におけるコミュニズムの出現である。中国人民は集団発狂したような勢いでそれを繰り返しやってきた。列強に対抗してきた。それが新しい中国の歴史であった。列強が好き勝手に中国に進出し、ここは取り得な大地であるという観念を持たせないために、新中国になって国境意識が前代未聞なほど厳格になってきたのである。
 では東アジアの一員である日本はどうなのであろう。日本も8世紀のはじめその統治システムの模範を最初中国に求めた。それを推進したのは藤原氏であった(大化の改新)。日本がこの制度導入した理由は、藤原氏が他の土着勢力をつぶし、天皇の帝権を絶対的なものにするためであった。(中国がマルキシズムをを持ち込んで、既存の制度を払拭したのと似ている)
 しかし藤原氏は権力の機能を分けあった。実際の政権は藤原氏が握ったため、律令制度の基本である帝権の絶対化を藤原氏自身曖昧にしてしまったのである。日本は律令時代といえども、儒教とそれにともなう官僚制度とを、滑稽なほど粗雑さでとり入れただけであった。そういう意味では日本は8世紀初頭にそれをまねたが、早々から落第生であった。
 さらに平安末期になると関東で武家集団が結束し、律令制の一大批判勢力となっていく。この後後醍醐天皇が中国の皇帝のような専制制を確立しようとしたが、結局足利尊氏に倒され、再び日本は二重構造となっていく。
 時代は更に戦国時代から、徳川幕府に進むが、徳川幕府でさえ、明快に二極化している。徳川幕府の権力内容は、譜代と准譜代(外様大名であるが、半与党的存在の大名で、関ヶ原以後家康についた豊臣側の大名のこと)である与党と、たとえば薩摩、長州などの外様の野党の存在を肯定していた。
 何故なら家康は「日本の歴史においてさまざまな政権がさまざまなテストをうけてきたあとに成立しあたために、『どういう権力が日本的現実になかでより自然であるか』ということを知りぬいていた」からだと司馬さんは指摘する。要するに日本の歴史を見ると、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけていて、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することができなかったのである。
 日本史をひもといてみれば、日本はどう考えても競争の原理ででき上がっている。あちこちに極がたくさんある。豪族間の競争とか、細かいところまで行けば、農民は農民で昔から競争している。こんな狭い国で競争の原理で競ってきた。それが外に押し出されたとき、倭寇になり、秀吉の朝鮮出兵になり、日中事変となり、破れかぶれとなると太平洋戦争となる。日本の競争原理がそのままナマで外に出た形である。国内の競争原理のエネルギーのまま、その形で行ったわけである。
 日本は専制国家を生まない体質であり、いつもある競争という意識が、国家システムとして二重構造のシステムが絶えず存在させてきた。明治維新だって、偉かったからではなく、ずうっとあった歴史の原理とか状態とか、一種の日本人的な社会の摂理とか、あるいは機能とかが、作動していって、徳川幕府の反体制であった薩長があったから明治維新が成立し、その後もうまくいったのである。

 あと面白かったことを二つ書く。明智光秀が織田信長を討った理由を光秀の精神上から求めているが、なるほど、と思った。

 「丹波、丹後を攻めよ」
 という命令を織田信長がくだしたのは、天正三年であった。平定までほぼ六年かかっている。
 攻略の担当者は、織田家の五人の軍団長の一人明智光秀で、その属僚として細川藤孝(幽斎)とその子忠興がつけられた。平定後は、この当時のしきたりとしてその司令官がその国をもらう。つまり請負であり、成功後は光秀が丹波の国主となり、幽斎が丹後の国主になるのだが、土地の連中としてはいい面の皮であろう。
 なにしろ、山が錯綜している地形であるために屈強の山にはみな山寨があり、無数の地侍が割拠していて、それらが連盟して織田軍をむかえ撃った。キコリまでが武装して山々を駈けるという状態だったから、当然ながらゲリラ戦になり、侵入軍である光秀も幽斎も苦しみぬいた。光秀の神経が大いに衰弱してこの平定後、本能寺ノ変という、およそ政略的に好結果を生むはずのない行動へ飛躍してしまったのは、どう考えても政治的には理由の説明がつきにくい。政治よりもむしろ精神医学でこの前後の光秀を考える以外にないようにおもわれる。
 というほど戦況がすすまぬところへ、信長からはやかましく督励してくる。これが光秀にとって脅迫となり、過労の上に焦燥がかさなって、このため、かれの攻略法も手段をえらばなくなり、やり方が汚くなってきた。謀殺に次ぐ謀殺をもってした。本来、光秀も幽斎も、粗野な織田家の諸将のなかでは例外的な教養人であり、とくに幽斎などは歌学では日本随一であったであろう。そういうかれらが、自分の攻略法のきたなさに、自分自身が傷つかなかったはずがない。とくに光秀という人の性格から察して、そうであろう。(謀殺)

 大阪城の持った歴史的意味も面白い。

 秀吉のつくったこの城(大阪城)が、二代目の秀頼になると、重荷になってくるのですね。二代目になると、この日本最大級の城塞の中にいるということで、世間から、秀頼は微禄したとはいえ、あの城にいる限りは軍事的に天下無敵である、というふうにみられてしまう。さらに、大阪城には金銀がうなっているから、その金銀でもって牢人衆を集めれば、大坂は再び徳川の手から天下を奪えるだろうという妄想を世間に持たせてしまったわけです。たしかにあの城を見ているとそんな錯覚をおこさせるものがある。
 この城の権力的な魔術性は秀吉一代で尽きてしまったのですけれど、妙なことに秀頼と淀どのが濃厚に魔術にかかりつづけていた。そのあたりを調べていくと、淀どのという人物はこの城の暗示にかかりっぱなしのつまらない女だったということになる。

(略)

 能力があったかといえば、そんなことはないですね。まったく無知で、普通の子煩悩なカカアであって、自己愛だけが非常に強い。

(略)

 ところが調べてみると、淀どののつまらなさがどうしようもなくて、さらに秀頼という人物もどうにもならない。一度も個性を発揮していなくて、淀どのの無形の王冠程度にしか過ぎなくて、このおよそ凡庸な、世間に対して嬰児のように無知な二人が、あれだけ世間を動かすことができたのですから、見方を変えれば彼や彼女が主人公ではなかったということになる。大阪城という建造物が主人公で歴史を動かしたとみるべきでしょう。(大阪城の時代)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈5〉エッセイ1970.2~1972.4』 新潮社(2002/02発売)


by office_kmoto | 2018-03-24 06:13 | 本を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈4〉

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 徳川将軍家の大奥では、元旦に「おさざれ石」という儀式があった。
 御台所は、午前四時に起床する。化粧をおえたあと、廊下に出る。廊下にはすでにもうせんが敷かれており、なかほどにタライがすえられている。そのなかに石が三つならべられている。やがて御台所がタライの前に着座すると、むこう側にすわった中臈が一礼し、
 「君が代は千代に八千代にさざれ石の」
 と、となえる。御台所はそれをうけて、
 「いはほとなりて苔のむすまで」
 と、下の句をとなえる。そのあと中臈が御台所の手に水をそそぐ。そういう儀式のあったあと将軍家に年賀を申しのべる。
 この元旦儀式は将軍家だけでなく、国持大名級の奥にもあったという。そのもとは徳川家の創始ではなく、遠く室町幕府の典礼からひきついでいるのではないかと想像される。(歴史の不思議さ-ある元旦儀式の歌)

 もう何のことを書いているかわかると思う。国歌「君が代」の起源の話である。このエッセイを読んでいると「君が代」が誕生するについての話は諸説あるらしい。

 君が代うんぬんというのは類似の歌が『古今集』にもある。また今様にもあれば、筑紫流の箏曲や薩摩琵琶歌にもあるところをみれば、この歌は「めでためでたの若松さま」と同様、古くはその家々のことほぎのためにうたわれていて流布していたものであろう。(歴史の不思議さ-ある元旦儀式の歌)

 こう書かれると、日本の国歌の起源は特別なものではなかった。さらに明治二年に英国から貴賓がきたときに国歌の奏楽が必要になり、接待役の薩摩藩士原田宗助は上司である川村純義に相談する。川村は「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことあるか、万事をまかすということでオハンたちを接待役にしたのではないか」と一喝する。そこで原田は同役の旧幕臣の乙骨太郎乙に相談し、乙骨は徳川家の大奥の元旦儀式の歌であった「君が代」を教え、それを採用する。多少節など変えて今の形になったらしい。
 司馬さんは君が代が川村純義の一喝から始まったことが面白いと書き、さらにその君が代が徳川の大奥から発したものだけに、大山巌らが薩摩琵琶歌からこの歌詞を選んで軍楽隊のやとい教師J・W・フェントン(英国人)に示し、徳川色を払拭してしまったことの歴史のおかしさを言う。
 司馬さんは「君が代」起源説の通説では大山巌などが関わったとされているのは、「君が代」が持っていた徳川家の要素を消すためではないかとも言っている。
 ところで君が代斉唱の時我々は日本国を意識する。では日本における国家とはどういう位置づけで司馬さんは考えておられるのだろうか。それを考えるにあたり、以前この本を読んで書いた文章がある。自分で言うのもなんだが、わりとうまく書けていたので多少手直しして引用する。

 今回この巻を読んでいて感じたことは「国家」を我々がどう感じているか、である。司馬さんのここに収録されているエッセイの中で何度か言っているのだが、今ほど「国家」が軽く感じられることはない、と言うのである。そしてこの国家とは何かを語るとき、前置きとして「いいわるいは別にして」とか言って、今「国家」という意識が日本国民に薄れている現状と、重苦しく「国家」というものが庶民にのしかかっていた時の、どう違うのかを論じている。

 「現在、日本に国家があるか、というとちょっと疑問がある。すくなくともわれわれの意識の中では、国家というものはあるのかないのかわからないような、たいへん軽い存在になってしまった。何か悪いことをして警察にでもひっぱられてゆく以外は、国家の重みを一生感じないで過ごしそうで、実に頼りない」

 確かにそうだ。けれどこれはつい最近の日本の歴史を見ても、国家という意識が薄い方がいいに決まっている。ただ「良い悪いは別として、国家というのは充分に国民を興奮させるものだった」とも言っている。
 たとえば国歌である「君が代」さえ強制的に歌わせるのはどうかという教師がいて、それ歌えばさも戦前の体制に戻るような言いぐさで、それを拒否し、生徒もそんなもんかと思うようになる。けれどスポーツの試合前など「君が代」を斉唱する。歌うことで国家という意識をその時だけ共有し興奮していくのである。司馬さんは競争がはっきりと肌で感じるところでこそ、ナショナリズムの発揮しがいがあるものと言っているが、まさしくこれがその例としてみることができそうだ。
 今中国で日本バッシングが盛んに行われているけれど、あれだけ若者が興奮するのは、様々な背景が考えられるだろうが、日本という敵を設定し、その意識を共有し、そこに戦う姿勢を見出そうとしているからではないだろうか。もともと中国人は中国人で日本を昔から諸蛮、つまり衛星国の一つに数えていたのだから、彼らからすれば見下しても当然なのかもしれない。日本もわずかな期間だったが、そうした国家意識を高揚させた時期があったことを思えば、納得できなくもない。
 ただ司馬さんは「考えてみると、日本の長い歴史の中で近代ヨーロッパでいう国家を実際に日本人がもったのは、明治のはじめから太平洋戦争が終わるまでの、せいぜい八十年間に過ぎなかった。
 明治までの日本人の意識というには、たとえば薩摩藩士は薩摩藩のことしか考えない。その思考は藩どまりであった。百姓はもっとひどい。彼らは隣村との喧嘩なら生命がけでやるが、藩という大きさでは何も考えていない。
 要するに日本人は一つの国土に住みながら、国という意識はなかった。せいぜい藩なら藩まで、村なら村までしかない。極めてローカル主義であった。それが日本の地金である」という。
 それを明治政府は村の一人一人に国家という意識を植え付けようとした。愛国心を百姓や商人に起こさせようとした。国として一つの意識にまとまらないと当時の列強に侵略されてしまうという危機意識がそうさせた。しかし一端国家という意識を植え付けられた国民は歯止めがきかなくなっていく。それが太平洋戦争が終わるまで続いた。
 戦後それは悪夢だったと考え改め、平和の名の下に国づくりが進められ、国家という意識が次第に薄れていく。けれど司馬さんは「それは日本古来のものに戻ったにすぎない」と言い切る。だから「現代日本のナショナリズムは『村意識』のナショナリズムで、一地方、一企業間にとどまった強烈な帰属意識で、それがなかなか日本全体に拡がっていかない」のだと言う。
 中国では一漁船の船長が拘束されれば、国家をあげてそれに対抗措置をとるが、日本の一企業のサラリーマンが拘束されても、青い顔するのはその企業の関係者だけで、国家もうろたえ、国民は“ばばを引いた”としか思わない。その程度のナショナリズムしか持ち合わせていない。
 何度も言うように危機や競争がはっきりと肌で感じるところでこそ、ナショナリズムの発揮しがいがあるもので、ヨーロッパのような地続きで、いつ隣国が攻めてくるかわからない状況なら民族的にまとまれる。しかし島国である日本では、国家だとか民族とかいうものの実感がきわめて生まれにくい。ヨーロッパで生まれた近代国家というものを単にうわべだけ輸入したって、根本的なところで違うのだから、根付く訳がない。基本は自分だけが安穏として暮らせればいいという発想しかないし、他人を思いやる発想がないのだから、自分さえよければそれでいいとしか考えられない。その範囲が多少広げられるのは個人が所属する共同体までであろう。

 別の視点から見てみよう。江戸幕府が三百年続いたことの功罪を考えてみたい。司馬さんによると、「徳川幕府の作った社会は、人間をいかに反乱させずに安穏に暮らせるか、この目的で組織された社会」であったという。
 たとえば関ヶ原、大坂の陣を経て徳川体制が安定すれば、普通機能的に考えて、兵隊は解雇し、帰農させるか商売をやらせる。ところが徳川家康は徳川体制の安定のためには現状維持が一番望ましいということで、兵隊は戦時体制のままおいた。そのため仕事のない侍がゴロゴロする。つまり仕事のためではなく、人を養うだけのために組織されたのが幕藩体制だった。これが三百年続いた。それがその後の日本人の組織感覚にあたえた影響は大きい。現代日本の終身雇用という独自の雇用体制(たいぶ崩れてきたが)が尊ばれるのもこの点から考えてもいい。雇ってやるからきちんと働けという発想は、食べさせてやるから謀反をおこすな、というのと同じである。
 どうして徳川家康は変革を恐れたのか。そこには幕府が独裁政治でなかったことにある。(司馬さんはもともと日本は独裁に向かない国と言い切っている)徳川幕府は他の藩という存在の上にただ乗っていただけで、一種の盟主に近い存在だったからである。だから場合によっては「江戸を襲われるかもしれぬという点では、その草創期から病的な神経を持っている」って言っている。そのための懐柔政策であった。そして「江戸体制の創始者は、人間を猛獣の一種として見る明快な人間眼と定義をもっていた。かれらの体制づくりは簡単で、猛獣を重秩序でしばりあげることによってのみその猛気を矯めることができると信じ、そのとおりやってのけ、みごとに成功した」のである。それが三百年も続いたのである。三百年近く教育されつづけた日本人は徳川幕府とおなじ心情になっていったのである。
 もともとヨーロッパのようなパブリックな意識がない。われわれには「自分の」というのしかない。そこに現状維持というのが一番という徳川幕府の心情が浸透すれば、それは平和ではあろうが、自分本位の平和でしかなく、文化にしても元禄文化みたいな庶民あげた平和ぼけした文化しか産まない。
 もともと日本人はローカル主義が地金で、そこに変革を望まない江戸幕府が三百年も続き、のうのう暮らして来た。他者を思いやることより自分が大事、自分が所属する共同体だけが大事という発想しか持てなくなってしまった。
 そこにヨーロッパ流の近代国家という思想やシステム持ってきても、都合いいところだけつまみ食いし、基本は変わっていない。
 だから明治政府から昭和の軍閥の専制期は国家の高揚を掲げて戦争しても、それが個人にどのように利益が反映するのか、その程度しか考え到らない。個人に利益が享受できれば、それを肯定し、思ったようにいかなければ激高し、その時だけ「国家」を意識する程度なのだ。悲しい国家意識である。

 さて、前回司馬さんの「私の小説作法」について書いた。司馬さんは「完結した人生」が面白いとし、それを俯瞰することから小説を書かれる。
 その「完結した人生」を過ごした人物には当然その生活環境があったはずだ。とくに生まれ故郷など考えるとき、そこはその人物の性格や気質に何か影響を与えていなかっただろうか?いわゆる「風土」というやつである。司馬さんはその「風土」について次のように書く。

 風土などは、あてにならない。

 (略)

 しかしながらひるがえって言うようだが、風土というものはやはり存在する。歴史的にも地理風俗的にもどうにもならずそれはある。私のいうところは矛盾しているようだが、そういうものは個々のなかには微量にしかなくても、その個々が地理的現実において数十万人あつまり、あるいは歴史的連鎖において数百万人もあつまると、あきらかに他とちがうにおいがむれてくる。ついでながらここで私がつかっている風土という大ざっぱなことばは、風土的気質、性格、思考法といった意味にとっていただきたい。
 要するに、個々のばあいはまことに微量でしかない粒子が、大集団をなしたとき蒸れてにおいでてしまっているものがここでいう風土であるかもしれない。その風土的特質から、人間個々の複雑さを解こうというのは危険であるにしても、その土地々々の住人たちを総括として理解するにはまず風土を考えねばならないであろう。(あとがき『歴史を紀行する』)

 私事ながら私は大阪生まれである。大坂には世間からみて一種の概念がある。私は自分自身が、わずかながら風土論でありながら、自分自身のなかで風土を認めない。できることか出来ぬことかはべつとして、風土から無縁の場所に自分を立たせようとしている。(楽屋ばなし)

 なるほど。個人を考えれば、その風土は微量なのかもしれない。でも微量が集まり多数を成したとき、風土的気質は形成される。だから「風土」はその土地に生まれ育った者の気質を総括していることになる。
 ただ司馬さんは、このように「完結した人生」の人物その人を書くことに最重点を置く。つまりその人生の過程である。さらに一人の人間が生きていたとき、同時代人が深く、浅くかかわってくる。大半が偶然であろうが……。そうした予期せぬ関わりを交通事故の衝突と見なしている。
 いずれにせよ、そうとしか生きようのなかった人物について、「風土」に重きを置いていないようだ。
 では「完結した人生」を数多く描いてきた司馬さんは、自身のことについて書くことをどう感じているのかも面白い。

 他人がその風景のなかにいることは書けても、自分がその風景のなかにいることは書けないのである。気愧かしいような気がする。才能というのははずかしさをともなわない。つまり臆面もないものであって、たとえはずかしがったにしても、はずかしがることそれ自体が風景になかでの自分の演技になりうるのが、才能である。私は、自分にはそういう才能が欠けていると思っている。(むだばなし)

 それなりに辛辣な人物批判や称賛を書いている人が、自身のことはなかなか書けないという。まあそうなんだろうな、というところである。

 さて、最後に個人的に興味深かったことを羅列で抜き出しておく。

 江藤(新平)が天性の検事であるところは、その論理能力が他人の悪を追求するときにすさまじいほどに冴えわたることでもわかるが、しかしかれが明治の建設にのこした業績はそういうものだけではない。明治初期の政府機構を法制化するについてはほとんど江藤の手でおこなわれたのではないかとおもわれるほどよく働いている。さらには旧民法の基礎をつくった。そういう世界のみに江藤は自分の活動を限定すればよかったが、しかしかれの魅力と不幸は、革命期をへた者として野気がありすぎることであった。
 たとえば薩長の問題である。他の佐賀人は長いものにまかれろという気持が大なり小なりあった。副島(種臣)のようなひとまでこの気分が多少あり、それが副島をして天寿を全うさせた。大木(喬任)は協調主義であり、大隈(重信)はもっと次元のちがった場所で薩長を操縦しようとし、ときに妥協し、ときにおどしをきかせ、ときに恩を売ったりした。大隈の手腕は、それがやってのけられるだけに政治屋の素質がふくまれていたが、江藤にはそれができなかった。江藤は「長人は狡猾だから、口車には乗らない。その点薩人はおろかだからこれと手をにぎって、まず長州をたおし、ついで薩摩をたおす」といっていたが、そういうだいそれた政治の芸ができるほど、江藤は大狸ではない。であるのにかれはそれをしようとし、おりから西郷隆盛を中心としておこってきた征韓論にとびついてそのグループに入ったが、政治的飛躍の時期をあやまり、ついに佐賀の不平士族にかつがれ、いわゆる佐賀の乱をおこして刑死する。政治家としてはいかにも筋が通りすぎるほどに通ったみごとな一生というほかにない。(挫折の政治家、誇るべき革命家 園田日吉著『江藤新平伝』)

 一つには日本は史上はじめてモデルのない時期にきたことも原因しています。昔は中国をなんとなく真似したこともある。近代になってはヨーロッパをすっかり真似してやってきた。ところがいまはもうヨーロッパとほとんど肩を並べてしまったので、自分自身でモデルをつくらなければならなくなった。そのモデルづくりが苦心の要るところです。(日本史から見た国家)

 近藤勇というひとは上昇気流に乗っているときは、京都での活躍のように無類の能力を発揮するが、ひとたび気流からはずれると、ただの下凡になってしまう型のひとだったかもしれず、その証拠に、江戸を出発して甲州街道を西にむかうときのかれの行装は、大名行列そのままであった。

 (略)

 京の活躍期の近藤をもってその人物の目方を量ることはむずかしいが、この時期の近藤の行跡を計算に入れると、やはり二流の人物にすぎなかったようである。(葛飾の野)

 要するにロシアはみずからに敗けたところが多く、日本はそのすぐれた計画性と敵軍のそのような事情のためにきわどい勝利をひろいつづけたというのが、日露戦争であろう。
 戦後の日本は、この冷徹な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人は国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである。敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。(あとがき『坂の上の雲 一』)

 この五稜郭という要塞ほど愚劣なものはないだろう。

(略)

 当時の箱館奉行竹内保徳が監督し、武田斐三郎というあやしげな西洋兵術通という者が設計したもので、実際は西洋式でも日本式でもなく一種ハッタリ設計で、戦闘という実理をかいもく知らない者が役所仕事でつくったものにすぎない。諸事そのように実体の威力のない形式主義が徳川時代悪というものだが、この五稜郭こそよい見本だろう。
 ここに榎本武揚以下の旧幕府軍がここにこもって官軍と対戦したのだが、明治二年五月十二日、函館湾に進入した官軍甲鉄艦の艦砲の砲弾が三キロの射程をとんでことごとく城内に落ち、兵の闘志を奪い、五稜郭はあっけなく落ちた。
 われわれは五稜郭を見学するとき、当時の攻防を回顧して感傷にふけるよりも、むしろこのインチキくさい自称要塞というものを通して、当時の幕府や幕府役人というものがどういうものであったかを思うべきだろう。
 またこの程度の要塞をたのみとしていた榎本武揚というひとが、この一事をみるだけでも軍事能力のない人物であったことを知らねばならず、このような人物を信頼してその指揮にあまんじていた旧幕府要人というもののあわれさも事のついでに知らねばならない。(五稜郭百年)

 私は、いわゆる明治的な天皇絶対制の基礎をつくったのが大久保利通であり、それを憲法によって制度化して、大久保の思惑より明朗なかたちにしたのが伊藤博文であり、その明色を暗色にしておもくるしい装飾にほどこしたのが山県有朋だったとおもっている。

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈4〉エッセイ1968.9~1970.2 新潮社(2002/01発売)


by office_kmoto | 2018-03-22 07:50 | 本を思う | Comments(0)

紀田 順一郎 著 『蔵書一代―なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか』

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 いよいよその日がきた。――半生を通じて集めた全蔵書に、永の別れを告げる当日である。砂を噛むような気分で朝食をとっていると、早くも古書業界のトラックが到着し、頭に手ぬぐいをかぶった店頭が数人、きのうまで梱包作業を終えていた約三万冊の書物の搬出にかかった。仕向先は古書市場である。まことにやむをえない。老妻とともに旬日後に移転する予定の、シニア環境として手狭なマンションには、三万冊になんなんとする蔵書は到底収容しきれない。十二畳の書斎と十畳半の書庫はガランガランとなり、私は空洞から目をそむけた。

 いまにも降りそうな空のもと、古い分譲地の一本道をトラックが遠ざかっていく。私は、傍らに立っている妻が、胸元で小さく手を振っているのに気がついた。
 その瞬間、私は足元が何か柔らかな、マシュマロのような頼りないものに変貌したような錯覚を覚え、気がついた時には、アスファルトの路上に俯せに倒れ込んでいた。

 これが紀田さんが自分の蔵書三万冊を処分した日の光景である。まあ長年苦労してやっとの思いで集めた本を売りとばし、処分しなければならなくった時、がっくりくるだろうな、とは思う。

 若いときは気がつかないが、およそ蔵書量が幾何学級数的に増え続けるのに対し、所蔵者の体力は年齢相応に算術級数的に衰える。蔵書の増加のほうは抑制がきかず、体力のほうは維持がむずかしい。どこかで折り合いをつけないことには、むざむざ無意味な散逸を招く結果となるのは知れている。私がはじめて蔵書の大部分についての“断捨離”を真剣に考えはじめたのも、ちょうどこのころであった。

 もともと紀田さんの蔵書はこの日処分した量より多かったらしい。一時は抱えた蔵書をきちんと整然と並べれる場所を地方に求め、悦に入ってたらしいのだが、管理費や、交通費などのコスパを考えると、ここにはいられないことがわかって、戻ってくる。この時戻るに当たり三万冊まで蔵書を絞った。
 先日読んだ岡崎武志さんの『蔵書の苦しみ』の中で、蔵書の処分がなかなかできない人にいやが上でも処分を納得させる一つの手段として“引越”があると書かれていたが、まさしくこれであろう。
 そしてさらに蔵書の処分を決定的にしたのは紀田さんの奥さんの大腿骨骨折であった。大雪の日に雪掻き棒を持って階段から落ちたのである。階段は急で、廊下には本が溢れていた。妻はさすがに切れて、施設に入ると言いだした。いきなり施設というのもなんだから、ワンクッション置いて、小振りのマンションに住むことになり、必然的に大量の蔵書の処分となったのであった。
 はっきり言って個人の蔵書はその個人がいなくなれば邪魔者でしかない。まして何万冊の本で家が埋めつくされたなんていった状態など、考えるだけで恐ろしい。
 そしてこの本を読んで知ったのだが、個人(故人)の蔵書をたとえば図書館に寄贈したくても、受け入れてくれないらしい。その蔵書類が貴重なもので、系統だったものであっても、図書館もキャパシティの問題、管理の問題など、そうそう個人(故人)の寄贈を受け入れられないらしい。となるとやはり古本屋に処分するしかなくなる。古本屋に処分となれば、系統だって集められた貴重な蔵書でも、古書店側の事情と、需要と供給のバランスで、本や資料はバラバラになる。ここに蔵書が散逸する理由がある。まあ、当然だわな。

 以上のような状況が生じている限り、蔵書の未来はあまり明るくないように思える。研究のためにせよ趣味のためにせよ、書籍を収集する人は、今後減りこそすれ増えることはないだろう。このうちの何割かは、一括蔵書としての価値を備えるであろうが、今後は受け入れ先が減りこそすれ増えることはあるまい。つまり、一括生を備えた蔵書は公共性を帯びるいとまもなく古書市場において奪い合いになり、無残に解体せざるを得ない。研究書としての資料群は、露骨な市場原理だけに任されるべきではないことは言うにまたないが、そのような学問の公共化への強い意思が十分に育たなかったことに、日本の叢書思想の限界がある。

 この文章を読んでいてなんとなく感じません?自分の蔵書はまとまってこそ付加価値を帯び、それだけ貴重なんだ、というのを……。
 だけど故人の蔵書が公共性を帯びるかどうかは、まったくわからない。もともと蔵書はそれを必要とする人がどういう思想を持ち、それによって本が集められるものだろう。公共性うんぬんという前にまず個人がある。それが公共性を帯びるのは、他者が必要とするからである。蔵書の持主には関係ないはずだ。それを自ら自身の蔵書に公共性があるというところは、単にせっかく集めた本だから、誰か面倒を見てくれないか、という下心を感じてしまうのだ。
 もちろん自分の本が一か所に集められ、利用され、公開されのは夢だろう。けれどそんなの余程の著名人で、何か業績がある人でなければ、求められない。失礼ながら著者にその資格があるかは、いささか疑問がある。自身もそのことはわかっていらっしゃるから、こんなことを書くのではないか。こういうのって見苦しい。さっさと売りとばして、必要な人に求められるようにした方がいい。そう思う。
 この本の最後で、

 蔵書の意義とは何かという問いかけを中心に、私がささやかな蔵書持ちであった四十年間に、供給源たる出版界や古書界はどのように変質したのか、多様化する社会のなかで個人蔵書をどのように位置づけるのか、さらに既存の蔵書をどのように活用すべきか、といった問題をあわせて考えてきた……

 と締めくくるが、結局自ら歳老いて、抱えてきた蔵書を古本屋に処分せざるを得なかった恨みみたいなものが、この本の底辺にあるものだから、言っていることは立派なのだけれど、根底の自分の集めた本をなんとかしてくれという意識から抜け出せないような感じがして、歯切れがわるかった。
 ところで人はどうして個人が蔵書を持つことになったのか。いや本を求めるようになったのか。その歴史的背景は面白かった。

 明治から大正中期までは書斎・蔵書という記号はやはり一部の文士、文人、学者等の占有物であった。それが大正後期から昭和初期にかけ、教育の普及と読書人口の急増を背景に、中産階級はいうまでもなく、サラリーマンや一般市民、労働者、学生といった広範な層の読書家、蔵書家が誕生することになる。

 そうなったきっかけは円本ブームである。つまり関東大震災により本がなくなったとき、だからこそ本を読みたいという読書熱、知識欲が明治以降の文化を回顧したいという願望が“臨界状態”となって、円本ブームが過熱した。円本というのは全集である。当然それらを揃えることになり、蔵書形成に大きな影響を与えることとなった。
 そして戦後の全集ブームもその蒸し返しだが、高度成長期を背景にした全集ブームは過去2回のものより大きく、安定したものとなった。
 やっぱり個人が本を揃えるには見栄えのする全集がものを言う。そういう読者がいたということが出版景気を支えていたといっていい。
 だから、ここから現在の出版不況の一因が読み取れる。

 出版社は前提となる読者の集積が期待できない限り、大部の著述や異色の業績のように、リスクの高い出版物は企画の対象から外し、動向の把握しやすい一般のニーズや嗜好に沿った、量的にも内容的にも似たり寄ったりの企画に走りがちである。むろん、年々記憶に残るような収穫もあるが、出版全体を動かす「質量」にまでは達しないので、その先を切り開く先行投資には至らない、というのが近年の出版界の状況である。

 本が読みたいという人々の欲求が多く集まり、それが“臨界状態”が今の世の中にないから、本が売れないというわけだ。それでも出版社は本を出し続けなければならず、売れないなら迎合的にそこそこ売れそうな本を出して何とかしのぐ。それが今度は「つまらぬ本」を出してということで、そっぽを向かれ、自らの首を絞めることとなる。

紀田 順一郎 著 『蔵書一代―なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか』 松籟社(2017/07発売)


by office_kmoto | 2018-03-20 05:51 | 本を思う | Comments(0)

辻山 良雄 著 『本屋、はじめました―新刊書店Title開業の記録』

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 著者はリブロにいた人で、リブロが池袋の本店が閉店した時、退社し、荻窪に自ら書店を開いた。

 「古本屋ではなく、新刊書店なのはどうしてですか」と、店を始めてからよく訊かれます。特に東京では、個人で古本屋を開業する人はいますが、新刊書店を始める人のことはほとんど聞きません。「新刊書店は、書店をすでに運営している会社がやるか、昔から街にある書店がやっているもので、新しく個人が始めるものではない」という共通認識でもあるようで、とても珍しがられます。

 確かに古本屋はインターネットでも開店でき、手軽さがあり、個人でも立ち上げている人が多い。しかし個人で新刊書店を立ち上げるなど、個人の書店が生き延びるのが大変な時代であり、さらに既存のそうした本屋がどんどん潰れていく中、ある意味無謀でもある。でもリブロで培った書店のノウハウ、人脈を使って「Title」という書店を立ち上げた。その「Title」がオープンするまでの経緯とその企画を記録した本がこれである。
 個人の新刊書店を立ち上げるというだけで貴重であり、興味があった。「Title」という書店名の由来を次のように書いている。

 「タイトル」という名前は、いくつか本にまつわる言葉を書き出したとき、妻がふと口にした言葉です。「本のタイトル」と言うとものごとのはじまりという感じがしますし、表紙のような印象が店名にふさわしいように思えました。口にしたとき、カクカクとして言いやすいのも良い感じです。その言葉を聞いたときに「それだ!」とめったに出さない大声を出し、それからはまだ場所も決まっていない店を考えるときには「タイトル」という名前が起点になりました。

 とにかくオープンまでの間が綿密であり、慎重である。自分が新刊書店を立ち上げるそのコンセプトをきちんと企画書に書く。はっきりしたビジョンを持ち、それが揺るぎない。

 お客さまの期待の上を行く、そうした意外性がある店にしたいなと思いました。自分の大型店での経験を使い、そのエッセンスを小さな店に凝縮して注入する。店の場所は決まっていませんでしたが、事業計画書を書くことを通して、そんな来るべき店のイメージは固まっていきました。

 本は今、インターネットで、家にいながら買うことができる時代です。そんな時代にわざわざ遠い場所にある店まで足を運んで、そこで商品を買おうとする人がいるのは、ものを買いたいから、欲しいからというより、お店にいくという体験をしたいからだと思います。そう考えれば、一つのお店のなかでいろんな体験ができるほうが楽しい。カフェやギャラリーなどさまざま誘引をつくることで、お店に足を運んでもらえるきっかけになります。

 そして、「新刊書店Title」は開店した。

 二〇一六年一月一〇日、日曜日、空はさわやかに晴れていました。昨夜は三時間くらいは横になれたでしょうか、何となく起きて身体を動かすと、「とうとうこの日が来たか」よいう気持ちになりました。これからが長く終わらない本番の始まりなのです。

 開店した「Title」は没個性的な既存の中小書店とは違い、その店舗展開、棚構成など今雑誌の特集で紹介される書店で、店主の辻山さんの個性がそこにははっきりとありそうである。しかもしっかりと練られた経営戦略を元に展開している。
 たとえば掲示やPOPである。

 棚に本が入った光景を見たうえで、本のジャンルのサインをつけるのをやめました。多くの書店では、壁に「雑誌」「ビジネス」などの大きなジャンルを表すサインがついており、棚のなかにはさらに細かく「自己啓発」とか「文書の書き方」などというプレートが入っています。しかしある程度棚に収まった本を見ているうちに、「これはこうしたジャンルの本ですよ」とこちらで括ることが、狭い空間ではかえってうるささを出してしまうと気づきました。本はゆるやかに他の本ともつながっているので、カテゴリー分けをすることは、そうした本のつながりを分断してしまうことになり、並んでいる本を見ていく面白さを削いでしまうのです。

 Titleの店内は狭いですから、POPを置くとその後ろの本が見えにくく、とりづらくなりますし、本よりも大きな声で語りかけるようなPOPは店全体のトーンを変えてしまいます。あくまでも店の主役は<本>なので、その本より目立とうとしてはいけません。

 最近ブックオフでもこうしたサインがあり、それを元に各社の本を並べているけれど、あれ非常に本が探しにくい。それがざぁーっと棚をいくつも占め、そのうち何を探しているのかわからなくなってくる。
 しかもそのサイン通りにジャンル別仕訳されているかというと、かなりいい加減で、あやしい部分があり、どうしてこの本がここに置かれるのかわからないものもある。こうした仕訳はきちんと本の中身を知った上で行われ、管理されるべきもので、バイトに本を棚に入れさせるようでは出来ないものだ。
 それとPOPである。以前にもどこかで書いたような気がするけれど、POPが平台に乱立し、肝心の本が見えないことが多い。書店員の思い入れがそこにはあるのだろうが、はっきり言ってじゃまである。あんたの感想など聞きたくてこの本を買うんじゃない。「小さな親切」が「大きなお世話」になっている。
 また書泉の悪口を書いてしまうが、最近の書泉に店内にある「ふんどしビラ」の多さに呆れてしまった。店内に入った途端タジタジになり、後ずさりしてしまう。何を考えているんだか、異質の空間に入り込んだ感じがしたものだ。

 さて、

 こうした個性的な書店は取材の対象になるようで、一風変わった書店としてよく雑誌の特集になる。たぶんそんなところから取材を受けるのだろう。

 「Titleではどんな本が売れているのですか」と取材などで訊かれたとき、自分はよく「切実な感じがする本が売れています」と答えています。

 辻山さんが言う「切実な本」とは、著者が書くしかなかった、自らの底と向き合い、編集者がその想いを汲み取るしかるべき形で包み、それを丁寧な販促で伝えていく。マーケティングの発想からは、そうした本は生まれない本のことを言っている。そうした本を「真面目な本」とも言っている。
 辻山さんの店の風景はいい。そこにある辻山さんの姿勢も飾りっ気なく、素直でその店がそこにあることの意味をそれとなく伝えようとしている。

 本屋の毎日の光景として真っ先に思い浮かぶのは、お客さまで賑わっている店頭ではなく、まだ店内に誰もいない、しんとした景色です。静まりかえっていますが、本はじっと誰かを待つようなつぶやきを発しており、そうした声に溢れています。
 まったくのところ、本屋の仕事はこの「待つ」に凝縮されています。誰がやってくるかどうかわからないのだけれど、とりあえず店を開けてみて、そこで待ち続ける。そのうち誰かがやってきて、ドアを開けてじっと本棚を見るかもしれないし、店内を素通りしてまたすぐ出ていってしまうかもしれない。そうしたことを幾度となく繰り返しながらも店を開けて、ひたすらそこに居続けるのが本屋の仕事本質です。

 これまでの町の本屋は、考えてみれば不特定多数の<みんな>を相手にした店づくりをしてきました。<みんな>が行くのに便利な場所につくり、<みんな>が求めるベストセラーを確保し、店内に置く商品は<みんな>に合わせて、売上順位の高いものから置いていくという店です。しかし人の生活スタイルが変わり、もっと便利な大型店やインターネット販売に、そのお客さまであった<みんな>を奪われてしまうと、従来の意味での町の本屋は途端にその存在意義を失うことになります。
 今、個人店において、<みんな>のための店ということは、結局誰のための店でもなくなっていることを現しているのでないでしょうか。

 町の人の生活と身近な場所にありながら、そこに住むある一定の趣味や志向を持つ人には支持されるような品ぞろえをして、その人たちの興味を惹く本やイベントを積極的に提供する。その本屋がある地域により求められることはさまざまなので、品ぞろえに決まった正解はないと思いますが、その土地のなかでどんな本屋にしたいのかというイメージが店を始める店主のなかにいないと、どこで店を始めても難しいことになると思います。これからの町の本屋は、町にあるからこそ、その個性が問われていくのだと思います。

 実は私は雑誌などで紹介されるいわゆる個性的な本屋さんというのは苦手である。店主がセレクトした本が並んでいると聞いただけで、やだなあ、と思う方なのである。
 そういう店はどこか店主の自己主張を強く感じてしまう。どこか押しつけがましく、そしてそこにある本が、これまで読んできた本の傾向と違う本だと、こんな本を読まないといけないのかなあと落ちこんでしまうのである。しょうもない本ばかり読んでいるように思えてしまうのである。だからこうした本屋さんは興味はあるけれど、足が先に進まない。無個性の方が安心できるところがある。
 でももしかしたら辻山さんのお店は違うかもしれない、と思った。

 そういえば最近個人商店である本屋さんに行ってないなあ、と思った。行くのはチェーン店が大型書店。そして最近はネットで本を買う。
 町の本屋さんがなくなり、あってもスカスカの棚をさらし、棚埋めにエロ雑誌を並べている店しかない。昔はこうした町の本屋さんでもしっかりとした本を置いてあったし、文庫本だって岩波文庫が置いてあったりした。いい本が並んでいたという記憶がある。

辻山 良雄 著 『本屋、はじめました―新刊書店Title開業の記録』 苦楽堂(2017/01発売)


by office_kmoto | 2018-03-18 06:21 | 本を思う | Comments(0)

3月17日 土曜日

 晴れ。

 昨日月一の病院へ行った。そして私のシャツと妻の春物のコートを買うためにいつものようにヨーカドーへ行った。私のシャツはあったのだが、妻のコートは気に入ったものがなかった。来週孫の卒園式があるので、どうしても必要とのことだったので、この後イオンに行ってみようということになった。その前に疲れたのでフードコートで一服した。
 我々はイオンに行かなければならないと気持がそっちに行っていたので、買ったシャツを椅子に置いたまま出てしまった。そして家に帰るまでシャツを買ったことを忘れてしまった。帰って初めて忘れたことに気づく始末である。
 慌ててヨーカドーに電話を入れ、幸い忘れものとして届いているという。で、今日取りに行った。
 昔一度自転車でヨーカドーまで自宅から自転車で出かけたことがあったので、軽い気持自転車を出したのはいいのだが、今日は結構な距離を感じ、いささか疲れてしまった。やっぱり歳をとったんだな、いつものように気持と実際の体力のギャップを感じるのであった。
 礼を言って忘れたシャツを受け取り、また来た道を戻る。途中地下鉄の駅前に出るので、久しぶりにブックオフへ寄ってみる。棚を見ているとダン・ブラウンの『インフェルノ』上下、川本三郎さんの『東京つれづれ草』、貫井徳郎さんの『乱反射』の美本を見つけてしまった。いずれも読んだ本なのだが、『インフェルノ』はKindleで読んで、やっぱり本が欲しくなった。『東京つれづれ草』も図書館で借りて読んだのだが、川本さんの本は家に1冊もない。たまたま美本を見つけてしまったので、あってもいいなあ、と思ったのである。貫井徳郎さんの『乱反射』は文庫本を持っている。私はこれは傑作だと思っている。
 いずれも読んでいるし、文庫で持っているのにわざわざ単行本で買い直す必要などないのだが、出来れば単行本が欲しいと思っていた。4冊で1,160円である。安いし美本だからといってもどこか後ろめたいところがあるのだが、お買い得だと自分を納得させる。いずれも近いうちに再度読もうと思っている。

 家に帰ってから今度は実家の墓へ行く。明日は彼岸入りである。だから墓掃除をした。実は実家の墓は近所の目隠しに植えられている木々が覆い被さり、蔦みたいな植物が絡みついている。以前から気になっていたので、それを切って取りのぞく。その上で墓掃除をし、花を添え、線香を手向ける。墓も墓の周りもきれいになり、義母も喜んでいると妻は言ってくれる。

 家に帰り、買った本を眺めつつ、テレビのニュースを見る。今日、東京で桜の開花宣言が出たと言っていた。


by office_kmoto | 2018-03-17 19:07 | 日々を思う | Comments(0)

岡崎 武志 著 『蔵書の苦しみ』

 どんな本棚でもいい、それこそ小さな本棚が相応しいかもしれない。そこに読んだ本やこれから読もうとする本が並べられた時、きっと嬉しいだろうな、と思う。それが少しずつ増えていくのを感じながら、あるいは悦に入っている。この時こそ、「蔵書の喜び」を感じるのではないだろうか。
 ところがそれがどんどん増えていった時、「蔵書の苦しみ」が始まる。たとえばここでは、厖大な蔵書の量を誇る井上ひさしさんは亡くなったあと本が寄贈したそうだが、家から運び出された段階で13万冊あったという。谷沢永一さんの蔵書はトラック3台分になったと書かれている。
 これらの蔵書がどう整理されていたかわからないけれど、おそらくその量に戸惑ったに違いない。しかもどうしようもない気分だったろう。
 岡崎さんにしても自分がどれほど本を蔵書しているか見当がつかないという。そのため地下に持っている書庫には本が棚からあふれ、床に積み上げられて、山が出来ている。そこを歩くのさえ苦労する。時にはその山を崩してしまい、本を踏みつけてしまうこともある、と書く。


 常人には理解できないだろうと思えることを、古本の沼に腰まで浸かった者は易々としてしまう。とくにコレクターと呼ばれる人種は、沼に首まで浸かって溺れかかっても、けっして自分からは沼の外へはいあがろうとはしないのである。これが「蔵書の苦しみ」の根源でもある。


 つまり本を集めることに取り憑かれた男たちは、私生活においても、本があらゆる所に侵入してきて、生活そのものがしづらくなる。かといってそれをなんとかしようと思ってもどうにも出来ないのである。それこそ家族に文句を言われながらも、言い訳しながら本を集めてしまう。
 ではなんで男はこうしてモノを集めたがるのか?その根源にあたる説なるものをあげている。
 石器時代、食糧は自己調達していた。食糧調達はオスの役目であった。しかしいつでもそれが調達できるわけではない。狩猟生活で食糧が調達できない時もある。その時のために取れる(狩れる)ときに取っておいて、それを貯蔵する。


 いま必要な量以上のものを、つねに捕獲して、できるかぎり貯めようとする-このオスの役割が、血のなかに濃く流れ込んで、いまだに男はモノを集めて貯めようとする、というのが一つの説。


 あるいは、


 男はすべて、生まれながらの「王」なのである。これが、モノを集めたがる心理の根拠である。

 彼にとってはその空間は領土で、集まったモノは財宝だ。その「支配欲」によって、オスとしての自分を成り立たせているとも言える。


 まあそれが男の本性だとはるか昔までさかのぼって書くほどでもあるまい。なんだかんだと言ってそうなってしまったのだ。
 いずれにせよ、男はモノを集める。しかし収拾の付かない本に囲まれると、必要な時に見つからなくなる。


 最近では、探している本の見つかる確率が右肩下がりに悪くなったので、結局あるはずの本を図書館で借りてきたり、また本屋で買いなおすことも珍しくなくなった。危ないのは、そうして買ったり借りたりした本が、蔵書の波に呑まれ、“海底深く”に沈んでしまうことである。いつ、図書館から督促状が届くかと、びくびくして暮らすことになる。


 ということでなんとかしなければならない。蔵書の処分を考えないとならなくなってくる。しかしそれが簡単にいかない。


 本を処分するのに一番必要なのは「勇気」である。


 これらの本は一冊一冊が集めるのに苦労してきたし、本以外に“想い”がその本たちにはあるからだ。


 だから、


 “蔵書の苦しみ”は、処分した時にも感じるものらしい。


 確かに本を処分しないとどうしようもない状況に追い込まれ、泣く泣く本を手放さなければならなくなる時、どれを売り、どれを残すか、苦労する。その本を手にしたのは、何度も古本屋街を歩き、あるいはネットで探し当ててやっと手に入れた本だったりすると、なかなか処分する踏ん切りが付かない。
 ただ、たとえば引越しなければならなくなった時、新しい部屋はそれほど本が置けないなどとなれば、いやがうえでも本を処分する理由にはなる。とにかく物理的に収納が無理となれば、諦めざるを得ない。私もそうして本を処分してきた。
 よく「本」に関する本を読むと、いらなくなった本は求める人のために古本屋に売った方がいい、という話が書いてある。そうすれば本がまた再生され、生きることが出来るからだ。
 そうかもしれないが、だからといって読んだ本、不要になった本をどんどん売れるかといえば、そう簡単に割り切れない。


 本を売って、それがまた古本屋の本棚に並べば、また別の必要としている人の手にわたり、本が生き返る。本の処分にはマイナスイメージがつきまとうが、じつは本の役目を再生させる意味もある。そのことの意味は大きい。
 とまあ、これは半分くらい、蔵書を処分する痛みをまぎらわすために、自分に言い聞かせる「呪文」のようなものであるのだが……。


 これは岡崎さんの言う通りだと思う。
 次にこの本を読んでなるほど、と思ったことを書き出す。
 蔵書家は高層マンションの高いところに住んではいけないという話。


 高層マンションの最上階となれば、揺れは倍増する。とくに、耐震構造というのがくせもので、わざと上の階は柔軟に揺らすことで、建物のダメージを防ぐように設計されている。同じ震度であっても、一階と十階とでは、まるで違うのだ。少なくとも蔵書家はマンションに住む場合、単純に見晴らしがいい。家賃が安いからと、上の方の階を選ぶべきではない。


 地震で自分の抱えた多くの本で恐い思いをした蔵書家は、思いきって本の処分に走った方が多くいた、と言う。


 私が知り合いの古本屋さんから聞いたところで、三・一一以後、東京でも客から買い取りが一挙に増えたという。おそらく、書棚が倒れるなど、蔵書家ならではの被害に遭った方だろう。平常ならうっとり眺める書棚の列も、いったん異変あらば、狂気と変貌する。家人にも「何とかしてくださいよ。家がつぶれます」などと嫌みを言われ続けても、一冊一冊、気持ちを込めてきた蔵書への思いは、簡単に断ち切れるものではない。
 それが地震という、外部からの暴力的な攻撃により、思いを断ち切る(目がさめる)きっかけとなる。


 本棚と壁の関係は面白い。


 本棚は基本的に壁を背負うかたちで置かれる。本棚は「壁を喰う」家具なのだ。しかも、家屋においては壁は貴重だ。四面すべて壁という部屋は考えにくく、入口もあれば窓もある。さらに隣の部屋との間に戸があったり、押し入れがあれば、ほぼ壁一面がそれでつぶれる。家族共有ならまだしも、一人の趣味で、壁を占有するわけにはいかない。


 独身時代、部屋の壁すべてに本棚を置いていた。本棚を置いてないところは壁じゃないという有様だった。それを思い出し、確かに本棚は壁喰いだよな、と思った。今は玄関から二階に上がる壁一面に本棚が作ってあるので、部屋には一棹も本棚を置いていない。壁が壁としてそこにある。


 最後に「あとがき」で書かれていたこと。


 電子メディアのツールは、これからも日進月歩で進化、改変されていくだろうが、印刷された紙の束たる「本」というメディアは、不変ということだ。たとえば五十年後、いま最新のスマートフォンやiPod、あるいは専用のタブレット端末が、そのまま使われているはずがない。その機能や形態も、大きく変化していることだろう。新しいメディアは、新しいがゆえに「劣化」する。(略)
 その点、「紙の本」なら、五十年後であろうと百年後であろうと、ものさえ残っていれば、軽々とそのまま読める(使われる言葉や表現の変化はあるだろうが)。


 まったくその通りだ。本はやっぱりいいものだ。本という媒体は、端末のようにバージョンアップの心配や、古くて使えないなんていうことは絶対にない。またバージョンアップや、新機能追加という新たな商品のように、使い切れない機能に悩まされることもない。経年劣化の心配はあるけれど、本であることで、それらの端末よりはるかに長く、安心して読むことが出来る。


岡崎 武志 著 『蔵書の苦しみ』 光文社(2013/07発売) 光文社新書


by office_kmoto | 2018-03-16 07:01 | 本を思う | Comments(0)

3月14日 水曜日

 晴れ。

 やっと春らしい気候になってきて、散歩していると汗ばむようになってきた。
 我が家の庭は今シクラメンが咲き誇り、梅が今日咲いた。


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 水仙も蕾がふくらみはじめる。今年は一輪しか咲かないようだ。ネットで調べてみると、水仙の球根が密集しすぎているために花がつきにくくなっているようだ。
 今年は仕方がない。花が咲き終わり、葉が枯れたら植え替えをして来年に期待することにする。
 まだ今年が始まって3カ月しか経っていないのに、もう来年の話をしている。庭にある草木は1年に一回しか花が咲かないため、今年が駄目なら来年に期待するしかなく、わずか数週間しか咲かない花のために、他の1年をどう過ごすか考えることになるし、その間の管理の方が圧倒的に長くなる。
 もともとそう気長になれる性格ではない。まして歳をとってからは我慢も出来なくなってきているが、こと植木に関してそんなに気長になれるのが自分でも不思議なくらいだ。
 仕事を辞めて、それまで放り出していた義父から受け継いださつきから始まった。とにかく数年間何もしなかったために、病気にはなるは、虫は付くはで、花の付が悪くなった。それを手入れし、来年は期待しようとなったのが始まりかもしれない。今年が駄目なら来年に期待するしかなかったのである。以来庭の植木に関しては気長に構えることが出来るようになった。
 昨年はさつきの花の付が悪かった。天候不順もあったが、春先の管理に失敗したこともある。だから今年は今から始めることにしている。さっそく「趣味の園芸」のガイドブックを開き、今月すべきことを確認する。趣味の園芸もやっと始まる感じがする。

 春は新刊もラッシュといった感じだ。ここのところ好きな作家の新刊が次々に出版され、本屋に行くと、あれ?これも発売されたんだ、と思う。それはうれしい限りなのだが、読む本を圧倒的に抱え込んでいるのに、また本を買わなければならないとジレンマに陥る。ただ他に欲しい本が出版されているのに、地元の本屋では一回ですべてが買い揃えることができない。ない本があるのである。この点が厄介である。明日別の本屋に散歩がてら行ってみようかと思っている。

by office_kmoto | 2018-03-15 06:35 | 日々を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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