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常盤 新平 著 『雨あがりの街』

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 常盤さんのエッセイを読んでいると、世の中いろいろなことがある。「そうであるけれど」、人は辛抱し、生きていく。そうした平凡な日々がいかに大切であるかを言う。とにかく平凡であることがどれだけ大変なことなのか、しみじみわかる。

 私には、平凡な日常生活のほうが命がけだという切ない思いがあるのである。(命がけ)

 そんな中、歳をとると様々な屈託もある。

 食べすぎも飲みすぎもいけないことは百も承知である。身体は大切にしなければならないと自分に言い聞かせている。しかし、その、身体にいいことばかりやっていたら、この平凡な一生がなお平凡になるのではないか、と切なくなってくる。(身体を大切に)

 このごろ、私はすこしわかりかけてきたところである。人の一生なんてうまく完結するものではなく、中途で終わってしまうのではないか。(中年について)

 すこし知恵がついたというべきか、人間がずるくなったというべきか。人の言うことが額面通り信じられなくなっている。これは不幸なことかもしれないが、深入りしすぎて火傷をするようなこともせずにすむという一面もあるのではないかと思う。
 けれども、人の話を眉に唾をつけて聞くというのではないのである。ただ昔ほど熱心に聞かなくなったし、裏がだんだん見えるようになってきた。私もそうであるが、どなたもかるがるしく口にすべきでないことを言いすぎるような気がする。(つきあいについて)

 さて、長いことサラリーマン生活を続けていると会社を辞めたいと思うことがあるはずだ。

 会社を辞めたいと思ったことがありますか。広告代理店に二十三年勤務という敬愛する先輩にそう訊いてみた。
 「一度もない」という明快な答えが返ってきた。
 「けれど、だからこの商売に満足しているわけじゃないよ」とつけ加えることも彼は忘れなかった。「仕事は可もなく不可もなくこなしてきたが、おれじゃなきゃできないという仕事じゃなかったし、いつもおれはこの仕事に不向きなんじゃないか、そのウツワじゃないんじゃないかという反省があったなあ。まあ、同じところにいつづけたのは、能がないからか、運がいいかのどちらかだろう。自分の性格に合っていると思ったことはないよ。言わしてもらうと、心ならずも勤続二十三年というところでね。かといって、おれに向いた職業がほかにあるわけじゃなし。月に一度ぐらいは、なんのために働いているんだろうと考えることはある。会社や女房子供のためじゃないね、おれは。かなしいかな、ただただ仕事を大過なくやりおえるためだ」(心ならずも)

 この先輩の発する言葉はいろいろなことを思い出させるし、考えさせられる。
 私は勤めていた会社を辞めたいと真剣に考えたことが一度ある。結婚してそう時間が経っていない頃だった。当勤めていた店の店長と衝突したのだった。
 結局義父に説得され、私は我慢することにしたが、報復人事で、私は飛ばされた。
 昔は人より上の立場に立ちたいという出世欲があった。特に飛ばされたあの頃はそんなギラギラした欲望があったけど、そのうち冷めた。経営者の一存でどうにでもなる会社で出世もへったくれもない、と思い始めたのだ。
 常盤さんの先輩の言葉と同じで、自分に向いた職業が他にあるわけでもないし、ただ仕事を大過なくやりおえればいいや、とずっと思い続けてきた。気がつけば勤続33年になっていたが、その間自分の仕事は自分でなければできない仕事とは思ってこなかった。会社にはすげ替えられない首はないことは、人の異動を数多く見てきて実感していた。そしてすげ替えられた首のように自分もいつかは捨てられると思ってはいた。結局最後はそうなったわけだけど、それまで会社の居られたのは私も能がないからか、運がい良かっただけのことだと思っている。
 私は義父に説得されてから、ずっと我慢して働きつづけたかもしれない。もちろん義父を恨むことはないが……。だから次の常盤さんの言葉は深く同感する。

 長いこと勤めていれば、いづらくなることが三度や四度は当然あるはずである。ただ、それをあまり気にすることなく、つまらない仕事でも黙々とこなしていくのが、サラリーマンの男らしいところではないかという気がする。無神経では困るけれど、あまり神経が細くても、つとまらないだろう。職を変えながら、出世していくよりも、同じ会社でたいして出世もせずにがんばっているほうが、はるかにむずかしいと思う。辛抱のいることである。(進退について)

 昔採用担当もしていたので、数多くの人と会ってきた。人の書いた履歴書をそれこそ百枚近く見てきた。その中で転職を何回も繰りかえしている人がいた。そんな職歴を見ると、どうしてこうも職を変えたのか訊きたくなる。曰く、職場が合わなかった。あるいは条件が自分の能力と合わなかった、などなど、いわゆる文句が多かった。自分の能力と採用条件が合わない人は、得てして奢りを感じられたものだった。職場が合わない人の話を訊いていると、この人、協調性がないんだろうな、と思われる人が多かった。
 今は転職というのは公認されつつある世の中だから、転職する人を悪く見る傾向はないのかもしれないが、でもこういう人はあまり信用できない気がする。むしろ常盤さんが言うように、同じ会社で頑張っている人の方が信用できる。そこにはそこで歯を食いしばりながら頑張ってきたんだな、と思えるものがあるのではないか。


常盤 新平 著 『雨あがりの街』 筑摩書房(1981/01発売)


by office_kmoto | 2018-04-27 06:17 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

久保田 万太郎 著 『浅草風土記』

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 久保田は浅草が関東大震災で甚大な被害を受け、さらに空襲で焼け野原になり、その後復興していき、浅草の街が、大きく変わっていく中、昔を懐かしみつつ、復興を実感する。

 「……復興している――矢っ張、復興している」(続吉原附近)

 ただ残念ながら久保田が懐かしむ浅草の路地、個々の店や演芸場や寄席など細かく名前を連ねられても、読む方は皆目わからないところがある。
 久保田は浅草で生まれ、育ったことによりかつてあった大衆演芸にふれた。そのことが久保田の人生を決定したと言っていいようだ。

 ……浅草に生まれなかったら、ぼくは、文学を一生の道づれにはしなかったろう……(仲見世……新仲見世……)

 震災前の浅草には高い建物があった。十二階建てで、凌雲閣という。当時としては珍しいエレベーターが付いていた。当時は結構人気スポットだった。ただ煉瓦造りのため、強度に問題があり、関東大震災で倒壊した。
 その模型が江戸東京博物館があると聞いて、見てみたいと思ったが、今改修工事をしていて今年3月まで休館となっていて、見に行けなかった。そのうち見に行こうと思っている。その凌雲閣を久保田は次のように書く。

 むかしの浅草には「十二階」という頓驚なものが突ッ立っていた。
 赤煉瓦を積んだ、その、高い、無器用な塔のすがたは、どこからも容易に発見出来た。どこの家の火の見からも、どこの家の、どんなせせッこましい二階のまどからもたやすく発見出来た。同時にまた広い東京での、向島の土手からでも、上野の見晴しからでも、愛宕山の高い石段の上からでも、好きに、たやすくそれを発見することが出来た。
 「ああ、あすこに。……あすこに十二階建が……」
 で、その、向島の土手から、上野の見晴しから、愛宕山の高い石段の上からそれを発見したとき。……そのときのそうしたゆくりない歓び。……その歓びは、それとりも直さず「浅草」を発見した歓びだった。……あらたな観音さまをもつ「浅草」を感じえた歓びだった。……それほど、つねに、その塔は「浅草」にとっての重要な存在だった。(絵空事)

久保田 万太郎 著 『浅草風土記』中央公論新社 (2017/07発売) 中公文庫


by office_kmoto | 2018-04-25 06:40 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

4月23日 月曜日

 くもり。

 先日眼鏡を作り直して、それが出来上がったので受け取りに行った。今回は以前使っていたフレームを使ってレンズのみ変えた。
 今使っている眼鏡は長い時間掛けていると、耳が痛くなってくる。なので私には使い勝手が悪い。だから以前使っていた眼鏡のフレームの方が楽なのでこちらを使うことにしたのだ。
 この眼鏡、勤めていた時ずっと使ってきたものであった。眼鏡を掛けて一日中パソコンに向かって仕事をしていても、耳が痛くなることはなかった。フレームは結構な値段がしたが、それなりの価値があった。だからこれをまた使うことにしたのである。

 この店では眼鏡ケースをサービスでもらえるのだが、出来ればこの眼鏡を入れている皮(合皮?)製でボタンホックで留める新しいものが欲しかった。けれどこれは製造中止になっていると言う。なんでも皮製のため鞄に入れるとケースが潰れてしまい、眼鏡が壊れるというクレームがあったためだという。そんなことわかりきったことだと思うのだが……。
 もらったケースはバネでパチンと閉まるものだが、どうもイライラする。音もそうだけれど、指を挟まないように気をつけないとならない。
 結局これも今まで使っていたケースをそのまま使うことにした。これまで使ってきて使い勝手のいいものは、これからも使えるなら使っていた方が、自分になじんだ物だけに、いい。そんなことを思った。


by office_kmoto | 2018-04-24 07:46 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

鹿島 茂 著 『東京時間旅行』

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 この本の「はじめに――東京五輪大作戦」は面白い。

 東京は関東大震災、東京大空襲で焼け野原になり復興のため、それまでの風景を一新した。壊滅的な被害を受けたためそうせざるを得なかった。そしてさらに1964年の第一回東京オリンピックで再開発名の元で、かつてあった東京をさらに大きく変えていった。
 この本はこの東京オリンピックがオリンピック招致がそのものの目的ではなく、東京が新たに、また変わるための手段として使われたのではないかというのがこの本の仮説である。

 オリンピックで東京が変わったのではなく、東京を変えるためにオリンピックを行ったのではないか?東京を大改造するという前提がまずあって、オリンピックはその口実にすぎなかったのではないか?だとするならば、その東京大改造のプランナーはだれなのか?

 換言すれば、戦後の都市事情がオリンピックを必要としたということになる。

 ここに戦後の東京都知事は安井誠一郎であった。空襲で焼け野原になった東京は、復興で計画通り思いのまま進めることが出来たはずだ。しかし莫大な金をかけて復興計画を推し進めることは出来なかった。税金を納めてくれる事業体は壊滅状態だったし、都民は「食糧をくれ」「住宅をよこせ」と再開発より当座をどうしのぐかそこに重点が置かれてしまう。しかし安井は出来るなら大規模な都市改造を行いたいと考えていて、東京は日本の首都なのだから、ということで国会に働きかけ、「首都建設法」を制定させることに成功する。しかしこの特例法は期待したほど国が力を貸してくれなかった。
 さらに悪いことは東京の人口増加が予想以上のスピードで進んだため、国が全面的にバックアップせざるを得ない思いきった手段に出るしかなかった。それがオリンピックであったのだ。

 オリンピックを開催し、外国人が大挙して東京にくるなら、そして、東京が旧態依然のままであったなら、恥をかくのは国である。国としては大幅な予算を割かざるをえなくなるだろう。ひとことで言えば、安井は、予算不足で断念した復興計画をオリンピックという「外圧」によって強行しようと考えたのである。

 やはり、われわれの仮説は正しかったことになる。オリンピックで東京が変わったのではなく、東京を変えるためにオリンピックを行ったのである。オリンピックは、外国人に恥をさらしたくないという日本人の羞恥心をいたく刺激したゆえに、首都改造の格好の口実となったのである。

 そこで、東京都は、開催が決定すると、国の全面的支援を得てまっさきに環境整備に着手したが、それは大きくわけると次のようになる。道路の整備、上下水道の整備、衛生対策、清掃対策、首都美化運動、宿泊施設対策などである。

 ここで行われた環境整備のなかで、いまだに批判が多くあるのが道路整備だろう。この道路整備を進めるためのプランは東京都建設局計画部長、首都整備局長としてオリンピック前後の十二年間にわたり東京の都市計画を担ったのが山田正男であった。

 首都高速道路はおろかオリンピック関連道路のほとんどは「都庁の天皇」と呼ばれた山田正男のプランに基づくものであるという。東大の工学部を出て内務省に入った昭和十二年から、山田はいちはやくモータリゼーション時代を予見して道路計画を研究し始めた。内務省の上司石川栄耀(後の東京の復興事業を手掛けた都庁の名物官僚)の指示で昭和十三年に「東京高速道路網」の構想を打ち出した。その路線は内環状といい、四本の放射線(現在の一、二、三、四号線に相当)といい、現在の首都高速とおどろくほど似ている。塚田博康はこの事実を発見して、こう指摘している。
 「こうして見てくると、一九六〇年代に展開された東京の道路関係の計画は、一九三〇年代後半に山田氏の頭のなかで描かれたさまざまなデッサンを東京というカンバスに具象化した結果とさえ思える」

 特に日本橋の上に高速道路を通したことは、池波正太郎さんを持ち出さなくても江戸情緒を消滅させたという批判が出た。この批判に対して山田は、

 「ニホン(二本)橋なんだから(上下に橋がかかっていても)いいじゃないか」と笑い飛ばしたという。

 こんなこといま言ったら、バッシングの嵐だろう。平気でこういうことを言える神経がすごい。
 「神田神保町」も面白かった。鹿島さんは以前神保町に事務所を持っていた。学者である鹿島さんにとって、本は資料として必需品である。神保町はその資料の宝の山と言っていいんだろう。当然本は増えるわなあ。そのことが書いてある。

 しかし、あまりに便利すぎるためか、本の増殖が半端ではなくなった。さくら通りに八坪の事務所を借りたのが、横浜から引っ越すそもそものきっかけとなったのだが、そのうちすぐにここは満杯になり、次はすずらん通りに昭和三十八年に建ったビルの三階に移転。十四坪だった。
 だが、これも一年半で満杯になったために、今度は同じフロアーの二十坪の部屋に引っ越した。ところが、余裕ができるとすぐ本を買い増しする悪い癖が出て、なんとここも満杯に……。つまり、神田神保町にいる限り、本は無限に増殖してゆくのである。

 神保町の古本街にもホームページがある。しかしこのホームページ本当に使い勝手が悪い。

 まず、神保町はインターネット時代への対応がかなり遅れている点を挙げなければならない。地方の古書店は、客が足を運んでくれる機会が少ないこともあり、インターネット対応はかなり早かったが、神保町は「古書の街」という誇りがあるためか、ネット検索がシステムの構築に消極的だった。他店と価格を比較されるのをいやがるとか、店主がカンピューターを信じ過ぎるとか、あるいは店主が老齢でパソコンを操作できないとか、いろいろと理由があるだろうが、とにかく、いまのところ、神保町の全店網羅的な検索体制は確立されていないのである。
 いちおう「じんぼう」という検索網は存在するのだが、他のに比べると、はなはだ弱体ではある。私の仕事の関係上、毎日のように古書検索をしている(もちろん、和書)のだが、「日本の古本屋」や「スーパー源氏」、「高原書店」でヒットすることはあっても、「じんぼう」ではめったにヒットしない。

 まったくこの通りなのである。私は古本をネットでよく探すので、古本の検索が出来るサイトをお気に入りに入れてある。けれどこの「じんぼう」はダメで、検索しても該当なしといつも出てくる。日本一の古本屋街がこれじゃどうしようもない。なのでこのサイトで検索はしない。

 去年古本祭りへ行ったとき、神保町の古本屋の地図をもらったのだが、そこには知らない名前のお店が結構あって、小さな新しい店がいっぱい出来ていることがわかる。そこの事情が説明されていて、なるほど、と思った。

 それは、古書の総売り上げが年々、減少していることである。神保町のどの店でも、バブル時の四割減、あるいは半減といったところか。神保町に恵比寿顔の店主は一人もいない。みんな、どうしたらいいんだろうという浮かぬ顔をしている。
 神保町の売り上げグラフは、新刊本の売り上げ減少カーブと見事なくらい軌を一にしている。新刊本が売れなくなっても古書は売れるということはないのだ。日本人が本を読まなくなっている傾向は古書の世界にも押し寄せているのである。
 にもかかわらず、神保町には本書(『吟遊書人 神田神保町古書街ガイド』)のような古書マニア相手のムックは溢れ、次々に新しいタイプの古書店が開店している。
 これはいったい何を意味しているのだろうか?
 古書マニアブームであっても、古書ブームではないということだ。古書店主になりたがる人間は増えていても、古書を買いたがる人間は減っているということである。これは、新刊本業界で「カラオケ現象」と呼ばれているのとよく似ている。カラオケでは、歌いたい人ばかりで聞きたい人が一人もいないが、新刊本業界でも、本を書きたいという人ばかり多くて読みたいという人がいないのである。

 これ以外にこの本で知ったことがいくつかある。

 (法政大学)の法政の「法」は、法律ではなく、法蘭西からきているそうだ。(神楽坂)

 私はこれまで法政の法は法律の法と思っていた。しかし違うらしい。詳しく説明すると、法政大学の歴史をひもとくと、1880年東京法学社の設立にさかのぼる。1883年には政府の法律顧問としてフランスから招かれたパリ大学教授ボアソナード博士が教頭に就任した。法政大学は日本では数少ないフランス法学の拠点校だった。数少ないというのは明治政府は憲法のモデルをフランスからドイツに切り替えたためなのだが、ちなみに当時憲法だけでなく世の中のシステムがフランス式からドイツ式に切り替えられた。

 銀座については、

 銀座というと、きまって思い浮かべるイメージは、地下の階段をのぼってくると、四角く切り取られた空が見え、その中に自分がじょじょに吸い込まれていって、突然、歩道の広い交差点の雑踏の中に現れるというものである。(銀座の四角い青い空)

 たしかに、考えてみると、銀座は新宿や渋谷と違って鉄道駅よりも地下鉄を使って来ることが多い盛り場である。銀座線、丸ノ内線、日比谷線、有楽町線、それに私が横浜から銀座に出るときに使う都営浅草線と、五本も銀座を走っている。だから、なにも私に限らず、銀座といえば、地下鉄から階段をのぼってくるときの映像を連想する人はたくさんいるはずなのだ。(銀座の四角い青い空)

 確かに銀座に行くというとなれば、やはり地下鉄を使う。JRの有楽町からだと四丁目まで歩くと、結構距離がある。最近はほとんど銀座に行かなくなったけれど、地下鉄の階段を上って地上が見えると、四角く切り取られた空が見えてくる。
 
 すなわち、銀ブラの気持ちよさの原因は、歩道が広いのに比して、車道が狭いこと、これに尽きるのである。
 銀座は幅広の歩道を歩きながら、車道の車に邪魔されることなく、両側のファサードを等しく眺められるし、気が向いたら反対側に気軽に渡ることができる。これが思っている以上にいいのである。(銀座の気持ちよさ)

 これはあまり考えたことがなかったことだ。銀座の歩道は広いのかなあ、と思った。私はどうしても三越の横から地上に出ることが多かったのか、あの辺りだと、地下鉄入口が歩道を狭くしているから、歩道が広いと感じなかったのかもしれない。

 日比谷公園の歴史も面白かった。日比谷公園は日比谷練兵場跡に欧米スタイルの公園をプランニングされたが、日本にはそうした公園を造れる人間が誰もいなかった。出てきたプランは盆栽や日本庭園式になってしまう。もちろんそれらはすべて却下された。業を煮やした東京市会は建築界の大エース辰野金吾に日比谷公園の設計を依頼する。しかし辰野は公園の造園は素人同然で、出来てきたプランはどうもイメージが違う。困った辰野はたまたま辰野の部屋を訪れた東京帝国大学農科大学教授の林学博士の本多静六が、公園の設計に苦慮していた辰野に少しばかりの意見を述べた。辰野は、 

 「君はそんなに公園のことを知ってゐるのか、自分は建築のことならともかく、公園の方はまったく初めてだ、実は東京市では日比谷練兵場跡に大公園を造ることになり、数年来庭師や茶の宗匠などに設計してもらったが、どれもこれも市会通らない。そして市会の希望は、日本に初めての新設公園だから、大体新式な西洋風の公園を造りたいといふ。その設計を頼まれて困り切ってゐるところだ。君一つやってくれないか」

 と本多に日比谷公園の設計を無理矢理押し付けた。本多はここから日比谷公園設計を嘱託されることとなった。

 ここからわかるように、日比谷公園は、まったく偶然から西洋造園学の専門外の頭脳から生まれたのである。そして、この偶然は同時に、日本の公園の父の誕生のきっかけともなった。なぜなら、日比谷公園の造園を契機に、本多静六は、明治神宮をはじめとする日本の公園や公立公園のほとんどを独力で造る造園学の巨人へと成長していくことになるからである。

 辰野に押し付けられた本多はドイツのマックス・ベルトラムの『造園設計図案』を参考にした。それは参考というより活用したと言っていいらしい。要するに本多静六が日本初の公園のモデルとして、もっぱらドイツ造園学に拠ったことになる。
 問題はそのドイツ造園学に拠ったことである。ドイツの造園学はオリジナリティーを示したユニークな造園学ではなく、ヴェルサイユ宮殿に代表される幾何学的なフランス庭園と、ハイドパークに代表される自然を生かしたイギリス庭園の折衷上に成り立った中途半端な造園学であった。

 このことが本多静六の日比谷公園のプランの性格をある意味決定づけた。すなわち、ヨーロッパ庭園の二大規範の「引用の引用」、つまり「孫引き」である本多静六のプランは、それゆえにオリジナルの思想(フランス庭園なら幾何学、イギリス庭園なら自然)を二重に欠いていた。その結果、日比谷公園はわれわれがパリやロンドンの公園に一歩足を踏み入れたときに感ずる思想性をまったく持たない公園になったのである。

 喫茶店第一号のことも書かれていた。

 コーヒーを飲ませることを売り物にした飲食店という意味でのカフェないし喫茶店の歴史をひもといてみると、ほとんどの記述が一致している。すなわち、コーヒーを飲ませる店としての第一号は、江戸時代に長崎で通事(通訳)をつとめていた鄭永慶が明治二十一(1888)年に欧米のカフェを参考にして上野に開いた「可否茶館」だという。

鹿島 茂 著 『東京時間旅行』 作品社(2017/10発売)


by office_kmoto | 2018-04-23 06:35 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

常盤 新平 著 『たまかな暮し』

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「たまか」という言葉を初めて知った。大辞林によると、

たまか
(形動ナリ)

①実直なさま。誠実なさま。「―に商ひの道精に入りければ/浮・諸国はなし(5)」

②つつましく質素なさま。「成程―な女だ。一昨年遣はした手拭がちやんとしてあるな/怪談牡丹灯籠(円朝)」

広辞苑第六版には、

たまか

①まめやかなこと。実直。好色五人女[2]「其男身過を弁へ、…―ならば取らすべきに」

②つましいこと。倹約。好色二代男「源氏火にて文を読むなど―な事なり」

 とある。ちなみに講談社の日本語大辞典には「たまか」は載っていなかった。

 悠三は父親の啓吾と二人暮らし。父は母と離婚し、定年後翻訳の仕事を居職でこなしている。

 地味な、あたたかい父。サラリーマンだったころも定年になってからも、無口な父はいつも地味で、あたたかい。たまかな人。たまかとはつつましいということだ。

 悠三はしがない出版社に勤めている。景気は良くなく、ボーナスも出なくなった。そんな中、悠三は母が営む小料理屋を手伝うやよいと結婚し、お互いの身の丈に合った生活模様が描かれる。

 「覇気って何かしら」
 やよいが呟いた。やる気ということかなと悠三は言った。
 「僕にもそれはある。いい仕事をしたいという。お金が欲しいと思うときもある。でも、そういうことを考えたら、きりがない。僕は分相応ということばが好きなんだ」

 (略)

 「ア・ビット・オブ・ラック」
 「あら」
 「ほんのちょっぴりの幸運という意味さ」
 それを願っているし信じている。ほんのちょっと運がよければいい。もうそれだけでありがたい。万事に不器用であっても、ア・ビット・オブ・ラックを授かって暮らしてゆけたら。

 結婚後も生活のため、また母のため、やよいはそのまま母親の小料理屋を手伝い続ける。店が終わるのも遅いが、やよいと悠三は小料理屋の母親の手作り料理のお裾分けがあったり、やよいが母に教えてもらい料理を作ったりして、そこにはコンビニやスーパーの惣菜などの出来合い料理でない、慎まやかだけど豊かな食生活がそこにある。季節感が食生活にある。料理の季節感って、これほど贅沢なものなのか、と思った。
 そしてここにある「お裾分け」は料理だけではない。人からの好意もそこにある。悠三とやよいは人の好意に触れることによって、ちょっとした贅沢を味わうことができる。もちろんそれに感謝している二人があるからこそ、お裾分けに預かることができるのだろう。
 普段贅沢はしないけれど、時には路地裏にある名店を訪ね、そこで食事を二人でする。
 悠三は古臭いタイプの人間で俳句が好きで、いつも歳時記を持ち歩いている。時々の生活ぶりにあった俳句が歳時記から引かれる。これがいい味を出している。
 俳句というのは苦手なところがある。言葉を知らないものだから、どこでどう切って読めばわからないところがあって、意味がとれないことがある。でもここに引かれる俳句はある程度わかり、久保田万太郎の湯豆腐を詠んだ俳句はいいものだな、と思った。

≪湯豆腐やいのちのはてのうすあかり≫

常盤 新平 著 『たまかな暮し』 白水社(2012/06発売)


by office_kmoto | 2018-04-21 05:49 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

4月19日 木曜日

 晴れ。


 孫が4月から小学校に通い始め、午後になると我が家に帰ってくる。娘が仕事が帰ってくるまで家で預かっている。小学校に通い始めてからまだそれほど時間が経っていないため、妻が孫が帰ってくる頃、家の近くで孫が帰ってくるのを待っている。
 通りから玄関まで十メートルほどあるが、そこを妻と孫が話しながら玄関に向かう姿を窓を開けて見ている。孫は学校であったことを妻に話しているのだろう。私の姿を見つけると、ランドセルを背負ったまま、両手を広げて走って、玄関に向かってくる。
 おやつの時間まで孫と遊ぶ。これまで午前中にやっていた庭や玄関の掃除をこの時間に孫とやる。孫は掃除というより遊びになるからちょうど良い。
 3時になるともぐもぐタイムとなる。大好きなお菓子をうれしそうに食べている。それから宿題を見てやり、4時からテレビでBSでやっているアニメを見て、夕食の準備ができると、2階にあがり食事となる。その頃ちょうど娘が仕事から帰ってきて、食事をしてから、近所のアパートに帰って行く。
 そんな生活がやっと日常になりつつある。騒がしい日々だが、孫がいるだけで、家が明るくなっている。
 こんな生活が来るとは思っていなかっただけに、「おばあちゃん」「おじいちゃん」と大きな声で呼ばれるとこれはこれで良かったのかなと思う。
 孫の元気な姿に圧倒され、いささか振り回されているが、まるで庄野潤三さんが描く小説のような世界が今、我が家にある。


by office_kmoto | 2018-04-20 05:32 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

常盤 新平 著 『街の風景』

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 街を題材に採った連作短篇である。初出誌は「毎日グラフ」というかつてあったグラフ誌である。なんとなく街の写真があって、そこにここのある短篇が掲載されていたんじゃないか、と思えた。惹かれた文章を書き出す。

 高速道路の下の俎橋をわたるとき、橋の下を見た。水はよどんでいて、異様にくろぐろとしていたので、思わず目をそむけ、橋をわたって左に曲った。(寝正月)

 九段下から靖国通りを神保町へ向かうとき、この橋を渡る。もしかしたらこの川は昔のお堀なのかも知れないが、何と言う川か知らない。けれど確かに書かれるように目をそむけたくなる程の汚さを、橋を渡る度に思う。

 「早稲田通りをぶらぶら歩いていって、明治通りをわたると、古本屋が何軒もあるんです。古本屋のある街って好きなんですよ」
 森山のことばから、本の好きな人だとわかった。父も古本屋が好きだったし、父のお伴をして古本屋に行くと、秀子は退屈した。古本の好きな男とは結婚すまいと思っていた。

 高田馬場に遊びに来ないかと誘われたとき、秀子はためらった。森山が「ユタ」という喫茶店で待ち合わせようと言ったから承知したのである。
 ユタのことは母から聞いていた。父と母はここでよくミルク珈琲を飲んだという。

 「ユタでミルク珈琲を飲んだと親に言ったら、父も母もきっとびっくりするわ」

 「実はイタリア料理の店に予約してあるんだ。よかったかな」
 「まあ、素敵」
 「そのあと、よかったら僕のきたないアパートを覗いてみないか」
 「古本の山があるんじゃない?」
 森山は苦笑を浮かべた。
 「お掃除をしてあげる」
 そのことばが自然に出て、秀子は顔を赤くした。二人はミルク珈琲を飲むと、さらに冷えてきた夜の街へ出ていった。(父の街)

 いい感じである。

 有子は一生独身で、さびしく死んでいったが、それはそれでよかったのではないかと志村は思うようになっている。なにも長生きするばかりが仕合わせなことではあるまい。(坂の多い町)

 幸福な老後など考えるからいけないのだ、と地下鉄のなかで自分に言いきかせた。(川の色)

 老後を悠々自適に過ごしたいと思うのは誰しも同じだろう。きっとそれまでの生活があまりにも忙しく、人間味の少ない生活だったからこそ、そう願うのだろう。だけどその老後になってみても、ちっとも悠々自適ではなく、人間関係で悩まされ、些細なことに巻き込まれ、関わらざるを得ないことは同じように続く。こうではなかったはずだと思うから、腹がたつのだ。まさしく幸福な老後など考えない方が、精神的に良いように最近思う。だから長生きしても必ずしも幸せとは限らないと思うことが多く、この一文に惹かれた。

 「由起、離婚なんて大したことじゃないよ。私はそう思っている。ただひとりで生きていくのは大変だ」(父の定宿)

常盤 新平 著 『街の風景』 毎日新聞出版(1993/03発売)


by office_kmoto | 2018-04-19 06:01 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

佐川 光晴 著 『ジャムの空壜』

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 男は大学卒業後、都市銀行で働く。(都市銀で働くまでの大学で経緯が細かく書かれるが、それがこれから先の話に必要なことなのか理解できなかった。)とにかく大学に残らず都市銀に就職し、懸命に働くが、過労により胃炎になり吐血し、それがもとで退職する。失業と同時に結婚し、妻の地元で暮らしていた。失業後失業保険と肉屋のアルバイトと妻の収入で生計を立て、司法試験を目指していた。
 肉屋のアルバイトをしているうちに、男は子供が欲しくなった。結婚して四年経っても子供が出来なかった。

 男の家にある『家庭の医学』には、「不妊症」の定義として、
 「普通に性生活があり、避妊していないのに、結婚後二年たっても妊娠しない場合を不妊といいます」
 と書かれていた。
 ある日、それを発見した男は恥ずかしさで耳たぶまで赤くなった。男と妻が結婚してすでに四年が過ぎていたからである。また、結婚後は避妊をしたこともなかった。つまり、この定義にしたがえば、男と妻はもう二年の前から「不妊症」だったことになる。このような重大な事実を偶然開いた本によって知らされたことに男はうろたえ、あるいはこれは常識かもしれない、と考えて赤面したのだった。

 「一体なぜわたしは不妊症なのだろう?」
 といった自問が頭に浮かばないわけではなかったが、ひとりでその中に閉じこもるわけにはゆかなかった。なぜなら、それは不妊症の定義自体が禁じていることでもあるからだ。不妊症が、どちらか一方の個人的な病気ではなく、あるひと組みの男女を前提にした症状として定義されているということは、それがあくまでも男女の関係の中で解決されなければならない、ということを意味しているのである。

 そこで不妊治療という話にやっとなる。検査の結果男の精子の数が通常の男の半分とわかったが、人工授精は可能と医師から言われた。

 いったい人工授精にふさわしい射精とはどのようなものだろうか?
 男は医師の都合による偶然とはいえ自宅で射精してくるようにいわれたとき、とつぜんその問いが頭に浮かんだのである。あの場で、医師に「じゃあ、そこで採ってきて」といわれれば、男は産婦人科医院のトイレの中で自慰することになっただろう。そうなれば、もちろんそうしたはずだ。総合病院の検査のときも、男はとつぜん射精を命ぜられていたからである。しかし、検査のためと人工授精のためとでは、やはり射精の意味がちがうだろう。それが直接妊娠に結びつく可能性がある以上、男は少なくともトイレで自慰することは避けたかったのである。
 それでは人工授精にふさわしい射精とはどのようなものだろうか?
 男はすぐ二つの方法を考えついた。ひとつは妻と性交をし、射精だけを容器に向かってする方法。もうひとつは、性器以外での、妻からの刺激による射精だ。最初のものの方が普通の妊娠により近い形態だが、あとの方でもいいだろう。なぜなら、それは少なくとも夫婦が共同でする行為ではあるからだ。さらに、実際に精子を注入するのも、医師の指示を受けながら男がした方がいいのではないあだろうか?その方がより自然な妊娠に近いのではないだろうか?男はアパートに戻ってからもずっとそのことを考えつづけていたが、結局妻にはいわなかった。

 とまあ、このようにこの男は“面倒くさい”男である。いったい何をグジュグジュ考えているのだろうか?言っていることはどうでもいいことじゃないか。射精に意味など持たせてどうするのだ、と言いたくなる。
 この本の書名でもあるジャムの空壜とは、妻の排卵時に射精のための容器がなくて、代用として使ったことによる。こんなにあれこれ考え込む割には、詰めが甘い気がしてしまう。ただ煮沸したジャムの空壜に入れていっていいんだ、と思ってしまった。
 結局妻の排卵は済んでしまって、ジャムの空壜に出した精子は無駄になってしまった。家に帰って中味を水で流し、壜を洗って、洗面台に置く。

 もう一度洗面台を向くと、男は思わず背筋に寒気を感じた。鏡の真下に置かれたジャムの空壜が洗面台を神棚のように見せたからだ。神棚?それとも仏壇だろうか?
(略)
 タイルの縁の中央に置かれたジャムの空壜は、人工授精によってすら卵子と遭遇できなかった男の精子の骨壺のように見えたからだ。それがそこに置かれたのはあくまでも偶然だったが、男にはそれが二度と取り除けられないもののように思えてならなかった。なにしろ、男は、男が毎朝その空壜に向かって手を合わせる姿を思い浮かべたのである。

 結局壜は妻の手によって捨てられていた。

佐川 光晴 著 『ジャムの空壜』 新潮社(2001/09発売)


by office_kmoto | 2018-04-17 06:36 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

常盤 新平 著 『酒場の風景』

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 最初この本はエッセイ集かと思ったのだが、読んでみると、連作短篇であった。しかしなかなか味があって良かった。
 花水木という酒場の主人におさまった折原を中心に、店に来る客が、それぞれ屈託を持って現れ、折原を交えて馴染み通しで、話をする。

 ある酒場のママが、うちは酔っぱらいの保育園なのよ、と言ったのを思いだした。(不埒な事)

 そう、ここでは保育園の園児が自分に起こったことを先生にすべてを酒の力を借りて吐き出す。園児との違いは苦い人生を歩いてきた男と女の生き様がそこに語られる。
 吐き出された話は、確かに重い。聞く方もそれなりに受けとめなければならない覚悟を必要とする。
 言葉を吐き出したい人間がいて、それを覚悟して言葉を訊く人間がいるのがこの酒場である。ここでの折原の役割は、

 花水木を引き継いだとき、カウンターをへだてて世の中を眺めることになった。黙って見ているという役割は、折原は自分に合っているような気がする。舞台から永久におりてしまった役者に似ているかもしれない。ただし三文役者だが。(グラスの持ち方)

 吐き出された言葉、それを訊いた人間の言葉が身に沁みる。
 
 「六十を過ぎて、子供のことで苦労するなんて、藤田さんも大変ね。私の父も私みたいな出戻りの娘をもっちゃって大変だけど」(街の呟き)

 「ねえ、折原さん、自分が失敗するのならいいけど、自分の子供が失敗するのを見るのって切ないでしょうね。まして自分が年齢をとって、もうあとがなくて、これで一人前になるという息子がそのかんじんなときに失敗するのって」(街の呟き)

 歳をとってからの新たな厄介事は、肉体的にも、精神的にもこたえるものだ、と最近つくづく思う。

 五十をとうに過ぎても、こういう男がいる。中林のほかにも、似たような客が数人、花水木に通ってくる。出世が停止してしまった男たちである。それは能力がなかったからではなく、運がなかったか、悪かったからだと折原は信じている。(風の寒さ)

 「いい人でしたね」
 「いい人だから困るのよ」(初夏の客)

 こういう話は好きだ。なんか常盤さんの小説をまたよみたくなっちゃたなあ。

常盤 新平 著 『酒場の風景』 幻戯書房(2016/04発売) 銀河叢書


by office_kmoto | 2018-04-15 06:32 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

伊集院 静【著】 『琥珀の夢―小説 鳥井信治郎』

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 鳥井信治郎とはサントリーの創業者である。この本はその信治郎の生涯をつづった話である。サントリーに関する本はこれまで開高健さん、山口瞳さんの書いた本を読んできたし、それ以外にもサントリーの歴史もこれまでいく冊か読んできた。そのため鳥井信治郎の生涯はよく知っている。それでも伊集院さんがどんなことを書くのか興味があった。

 話は、


 明治四十年(1907年)春、花匂う風の流れる船場を堺筋淡路町から西長堀北通りにむかって一人の少年が大事そうに自転車を引きながら歩いていた。


 少年は自転車屋の丁稚であった。修理した自転車を寿屋洋酒店へ届けるところであった。店は活気に溢れ人々が忙しそうに動いていて、少年は修理が終わった自転車を店に置いてあることをさえ告げられずにいた。
 とりあえず彼は自転車の納品が終わったので引き揚げようとしたとき、店の棚に目が行く。そこには葡萄酒の入った瓶が並んでいた。少年はその瓶の美しさに魅せられた。

 
 「そこで何してんのや」

 「す、すんまへん。ピ、ピアス号の修理が上がりましたんでお届けにまいりました。ま、ま、まいどおおきにありがとさんでございます」

 「おう、五代はんの丁稚どんかいな。ピアス号の修理が済んだんやな。ご苦労はん」

 「ところで、坊(ぼん)は今、何を見てたんや」

 「す、すんまへん。こ、この棚の葡萄酒があんまり綺麗なんで、つい見惚れてもうて、どうもすんまへんでした」

 「何も謝ることはあらへん。そうか、坊の目にもこの葡萄酒が綺麗に見えたか。そら嬉しいこっちゃな」



 鳥井信治郎はこの丁稚に新しい商売のあり方を説明し、少年は信治郎の話に耳のあたりが熱くなった。


 「坊、気張るんやで」
 信治郎はまた頭をやさしく撫でてくれた。



 この少年こそ後の松下幸之助であった。
 

 松下幸之助は生涯、この日のことを忘れなかった。
 幸之助は鳥井信治郎を商いの先輩としてだけでなく、その人柄に魅了され、尊敬し続けた。幸之助の事業が成長しはじめた時期も、鳥井信治郎に相談し、信治郎は十五歳年下の幸之助に助言を惜しまなかった。



 鳥井信治郎は明治12(1879)年の 大阪市堂島の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれた。明治25(1892)年に十三歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店 へ丁稚奉公に出る。
 道修町には近江屋、武田長兵衛家(武田薬品工業の前身)、田邊屋、田邊五兵衛家(後の田辺製薬)、塩野屋、塩野義三郎家(後のシオノギ製薬)の御三家がありそれ以外にも多くの薬の大店が並んでいた。なぜ道修町に薬の商いが集まったかというと、徳川将軍吉宗が紀州に帰藩の途中病に倒れ、その折り、道修町より唐物の薬が献上され、吉宗は忽ち回復した。その功績で道修町の薬商たちに唐薬の中買の免状を与え、長崎から来る唐薬を独占し、それを今度は日本各地へ分配することで薬の商いの利を一手につかんだからである。
 この本はたまたま信治郎が丁稚奉公へ出た大坂道修町が現代の大手製薬メーカーの創業地であったため、薬の歴史や雑学が随所に書かれている。個人的に薬の歴史は興味があるので、それを二つ書き出してみる。


 日本書紀によると四一四年、朝鮮の新羅から医師、金武は朝貢大使としてやって来て允恭天皇の病いを治療し、さらに四五九年、同じ半島の高麗の医師、徳来が難波の地に住んで医業を開始し、“難波の医師”と呼ばれていた。五五四年には百済からの医師が採薬師とともに日本に来たことが記述してある。

 それ以降も高麗、百済から医師が日本に来て難波の地で医業を開き、難波の医師(くすし)と呼ばれ、採薬師も来ていたことが古事記、日本書紀にあるが、元々医術、薬は中国から朝鮮に伝わったもので、医療、各種薬の製法のレベルは日本と比べものにならないほど進んでいた。当然、身分の高い層の人々が病いを患うと、“唐物”の薬を要望した。
 これに対して、日本にやってきた採薬師の指導で、日本産の薬も製造された。古来、日本の薬は、中国から来た僧侶、遣隋使や遣唐使として中国に勉強に行った学僧たちが持ち帰った製法、それに山に分け入り、草木の薬効果を知っていた山伏たちの手によってつくられた薬などがあった。
 いわゆる和薬と呼ばれたものだ。
 それでも唐薬を人々が珍重する傾向は長く続いたのである。
 “薬九層倍”という言葉がある。この時代、薬種によっては一分の仕入れを九分で売ると言われ、莫大な利益があるとされた。これが薬の商いの魅力だった。



 戦場に赴く兵士たちに軍が脚気用に持たせた“征露丸”である。大坂の薬商、中島佐一薬房が“忠勇征露丸”の売薬免許を取り、この命名に“ロシアを征す”という“征露”の文字を付けたので爆発的な人気になり、各薬商も製造、販売した。脚気には効用はなかったが、帰国兵士から下痢止め、歯痛に効果があることが宣伝され、その後もヒット商品となった。


 さて、信治郎の話に戻る。

 信治郎は小西儀助に可愛がられ、洋酒の調合を身近で教わる。この時の日本における洋酒は合成酒であった。
 明治28(1895)年に小西勘之助商店へ移り、明治32(1899)年鳥井商店を起業した。最初は酒だけではなく、缶詰など軍関係に売っていた。丁稚時代から、そして独立してからも信治郎は“土性骨”で商売に打ちこんだ。


 元々、信治郎には生まれついて備わった独特の愛嬌があった。初めて逢う人でも、どこか魅せられる無邪気さというか、光を放つような明るさを持っていた。


 だから丁稚時代も独立してからも、人に愛され、それが商売につながっていった。


 明治39(1906)年日本人の口にあう「赤玉ポートワイン」を製造し販売する。丁稚奉公を終え、葡萄酒をこしらえたいと思い9年の歳月が過ぎていた。
 大正10(1921)年に株式会社寿屋を設立する。
 「赤玉ポートワイン」は売れた。「赤玉ポートワイン」といえば、やはりこのポスターであろう。


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 このポスターは日本初の美人ヌードポスターで、当時壽屋の宣伝部長であり広告の天才と称された片岡敏郎のディレクション、井上木它のデザイン、モデルは赤玉楽劇座(オペラ歌劇団)のプリマドンナ松島恵美子であった。信治郎はモノクロの写真にワインの赤にこだわった。このポスターはドイツのコンクールで金賞を得た。

 この後信治郎はウイスキーの製造に乗り出す。ここで竹鶴政孝がかかわってくるが、それは『ヒゲのウヰスキー誕生す』にあった通りである。
 信治郎は次から次へと新しい商品を始めて行った。失敗した事業もある。あるいはウイスキー製造に手を出すに当たり、好調な事業を手放さなければならなくなることもあった。けれどどの事業、商売において、ガツガツしていなかった。
 信治郎が生きた時代は、関東大震災あり、戦争あり、空襲ありと激動の時代であった。その被害を受けた人のところにすぐさま飛んでいき、「赤玉ポートワイン」を提供した。当時ワインは滋養強壮として売られていたからである。
 空襲で店を失った仲間のところには再生のためすぐさま商品を卸し、被害を受けた商品の請求書を破り捨てた。信治郎の「陰徳ぶり」は困った人がいればすぐさま出ていき、商売抜きで人々を助けた。それは元々は母親の教えでもあった。


 普段やさしい母が、どうして物乞いに施しをした後、彼等を振りむいて見てはならないときつい口調で命じたのかが長い間理解できなかった。
 “陰徳”という言葉がある。意味は、世間に、人に知られないかたちで善行をすることだ。古くは中国から伝わった言葉で、欧州にも同じ類いの考えはあり決して日本人だけの行動ではないが、日本人は長く人間の行動の徳のひとつとしてきた。陰徳はこれをなしたから何かがあるわけではない。源は信心にある。信心によって何かを受けているという考えが、自分たちも施されており、困った人がいれば施すにを当然と考える。ただ、その施しは礼を言われるものではない。さらに言えば、礼を言われたり、感謝されることを目的にすれば、それは真の意味で“施し”ではなくなるという考えなのである。



 「せや、昨晩、ええ夢を見たんや。あの夢は、ええ夢やった。そらもう、あんな綺麗な夢は見たんは初めてや」
 「どんな夢や」
 「何と言うたらええやろうか。雲やら海やらむこうからお天道様が昇ってくるゆうか、きらきらしてからに、周りにあるもんが光り出しよった。わての手も、身体もや。その……。あれは何ちゅう色なんやろか」
 「黄金色ちゃうか?」
 「コガネ?何や、それ」
 「わての田舎では秋に稲が実って田圃が皆光りよんのを黄金色いうんや。大判、小判の黄金色や」
 「銭の黄金か。いや、それと似とるが違うたな。もっと透き通ってて、奥の奥から光りの玉が湧いてくるいうか、ええ色や」
 「その色がどないしたんや」
 「何や見ているだけで胸の奥が熱うなるいうか、何ともええ気持ちになったんや。それで今、神さんにお礼を言うたんや」


(略)

 「それ、琥珀色やないか」
 「えっ、コハクイロ?それどういう色だしの」
 「王偏に虎、王偏に白と書いて琥珀や」



 琥珀色に輝くものはウイスキーであったか、それともビールであったか。
 最初に書いたとおり鳥井信治郎の生涯は知っていて、この本がどんなものかと読んでいたが、これは信治郎の人間性がよく書き込まれていて、いつの間にか引き込まれていった。


伊集院 静【著】 『琥珀の夢―小説 鳥井信治郎』〈上〉 集英社(2017/10発売)

伊集院 静【著】 『琥珀の夢―小説 鳥井信治郎』〈下〉 集英社(2017/10発売)

by office_kmoto | 2018-04-13 06:13 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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