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山口 瞳 著 『血族』

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 物語は空襲で焼けてしまった一冊のアルバムの回想から始まる。

 父の青年時代の写真、母の娘時代の写真、私の赤ん坊の時の写真、私が生まれてから後の父母の写真、そういう写真についての私の鮮明な記憶とおぼろげな記憶が残っているが、当然、私の赤ん坊の時の写真の前にあるべきところの父母の結婚式の写真が無いのである。披露宴の写真が無い。新婚旅行の写真が無い。もっと言えば、私の生まれる前の何年間かの写真が一枚も無いのである。私は、そのことに、ずっと気づかないでいた。

 私は、その、焼けてしまった一冊のアルバムがこわいと書いた。父と母との結婚式の写真がない。披露宴の写真がない。婚前の二人の写真がない。結婚後の、新婚生活をあらわすような写真がない。ことによると、父と母とは挙式のできるような結婚ではなかったのではないかという疑念が生ずるのである。あるいは、もしかしたら、父と母とは、婚姻届も提出していなかったのではなかろうか。そういうことは、私には、こわかった。

 それだけだったら、そのことも、それほどにはこわくない。私は、故意に隠して書いてきた。実は、同じ一葉の写真のなかに、生後三カ月の私とほぼ同じぐらいの赤ん坊がいるのである。それが私の兄である。この二人の赤ん坊は双生児ではない。

 父は、大正十二年六月、尾崎千枝と結婚している。千枝の父の尾崎甫助は、父の中学時代の恩師であったという。大正十三年一月、長女の京子が生まれている。年月があわないが、早産であったのか、別の事情があったのか、それはわからない。
 父と千枝とは、大正十四年三月に協議離婚をしたことになっている。このとき、千枝の腹のなかには私の兄がいたのだから、この協議離婚は、はなはだ疑わしい。
 私の父と母との婚姻届は、大正十四年十月二十二日に提出されている。私が生まれたのが翌年の一月なのだから、臨月にちかかったと言っていいだろう。
 これから見ると、母は、妻子のある男と駆け落ちをしたと考えて、ほぼ間違いがないだろう。そのとき、私は母の腹のなかにいたのである。結婚式の写真、披露宴の写真がないのは当然である。

 母は、兄のことを知らずに父と一緒になったのだから、そう考えてもおかしくない。

 つまり<私>の兄は父親の先妻の子供であり、<私>の母親とは血がつながっていない。母親は<私>生んですぐ、父親の先妻の子である兄を預けられ、私と一緒に育てるしかなかった。<私>が生まれるのとほぼ同時に兄が生まれたものだから、<私>は、

 大正十五年十一月三日に私は生まれた。戸籍上はそういうことになっている。

 しかし<私>は実際は大正十五年一月九日に生まれた。それをわざわざ遅らせて十一月としたのは、先妻の子を兄にする為であった。だから戸籍上は十一月三日となっているのであった。
 この<私>は山口さん自身である。
 山口さんの名前である瞳も違和感がある。まして山口さんは男である。男の名前には相応しくないこの瞳という名がどうして付けられたのか、それを探る。

 私の名前は母がつけたものである。これは、平凡なようでいて、非常に変わった名である。むずかしい文字を使ったものではなく、むずかしい訓みであるのではない。その意味では、ごく平凡なのであるが、これを人名とするとなると、凡ではなくなってしまう。特に、これが、男の名前とするとなると、めったにある名ではない。私自身は、斬新奇抜な名だと思っている。

 私は、ちいさくて、痩せこけていて、体の弱い赤ん坊だった。だから、余計に目の大きいのが、際立っていたのである。これが、私が瞳という名をつけられた由来の一因である。大正末期のモダーンを代表していた。そのなかのひとつに、たぶん『新珠』だと思うのだけれど、都、梢、瞳の三姉妹を主人公とする小説があった。私の母がこれにヒントを得たことは、まず間違いないと思う。ただし、これは、もちろん、女名前である。そうして、母は、瞳という名の登場人物の性情に惚れこんでいたにちがいない。
 私の名は、こうやってつけられた。これでわかるように、母は、ひらめきの鋭い女だった。大胆な、思いきりのいい女だった。
 しかし、はたして、それだけのことで、斬新奇抜な名がつけられるだろうか。私の疑念は、ずっと、いまにいたるまで解けないままでいる。

 さて、

 私は母のことを知りたいと思うようになった。約一年前からのことである。それも、何か、おそるおそるという感じで、そう思った。本当のことを知りたい。同時に、母のことを書いてみたいと思うようになった。

 物語は子供の頃の山口さんの母親の記憶をたどっていく。そこには普通の母親とは何か違うある商売の匂いを感じさせる母の仕種、言い方、暮らしぶりが描かれる。読んでいるうちに主人公の母はその方面の出身ではないかと感じさせていく。山口さん自身も次のように書く。

 文章上の都合で伏せておいたことの第一は、私が、母方の先祖の稼業について、うすうすは感づいていたことがあるということである。

 ともかく、母は私にそのことを言わなかった。私も母に訊いたことはなかった。母が何か隠しているという感じはわかっていた。訊くことは怖しいという感じがあった。訊くべきではないとも思っていた。ある時期まで、それは私にとってどうでもいいことであった。出生の秘密を探って、それが現在の私にとって何になるのだろうか。

 母には、どうも、秘密にしておくべきもの、背負わなければならないものが多すぎるように思う。どうして、それを私に教えて、気持を楽にしてしまわなかったのだろうか。

 父と母は駆け落ちして一緒になった。当然父方の親類からは母は素直に嫁として迎い入れてくれなかった。まして母親の生家の稼業が問題があった。

 祖母と母とは、徹底的に相容れなかったが、面と向かって祖母にさからうというようなことはなかった。
 (略)
 祖母は、最後には、こう言うのである。
 「なんぢ、柏木田の女の癖に……」
 それが、祖母のほうのキメテになっていた。

 柏木田とは、横須賀の柏木田遊郭である。いろいろ調べていくと母親の生家は、

 もはや、母方の先祖が遊郭の経営者であったということは紛れようもない事実であったことを認めないわけにはいかない。

 つまり<私>の母親は遊郭の経営者の娘であることが判明するのである。ここから母の振るまい、言動がそこから発しているものだから、普通の母親とは異なるものがそこにあったのである。そして柏木田の出身というのを隠し通してきたのである。やはり遊郭関係者というのは隠したい過去なのだろう。

 柏木田ってことはねえ、みんな隠したもんですよ。
 娘をね、秋田、山形、越後から買ってきたんです。馬を買う、家を買うで娘を売ったんですよ。娘を売って家を建てた。

 そして<私>の子供の頃遠い親戚と言われ、一緒に暮らしていた人たちがいたが、彼らも柏木田の遊郭経営者であったことがわかってくる。

 彼等は、血縁以上の血縁であるかもしれない。母は、母に限らず、柏木田の人たちは、乞食奴等と言われ続けてきたのである。

 母は遊郭を経営していた家の娘であったので普通の母親とは違うところがあったが、父親もやはり変わっていた。

 父も、小市民的なるものを嫌っていた。明治生まれの一旗組であり立身出世型であった父には、そういったものは眼中になかった。父も母も、そういう私を理解することは無理だった。小市民的なるものについて憧れを語ることも、私の家では禁忌になっていた。言えば叱りとばされるにきまっている。……父も母も、たとえば落魄した芸人などには理解を示したのであるが。

 だから、

 私は、だんだんに、堅実な家庭に憧れるようになっていった。小市民的なるものであろうか。官吏、大工場の工員、銀行員、小学校・中学校の教師、郵便局員、八百屋魚屋乾物屋などの商人、納豆製造業、文房具屋、自転車屋などであった。農家の生活については私は知るところがなかった。特に憧れたのは、官吏、それも下級官吏ということになろうか。また、家が商店であれば自分に手伝える部分があると考えていたようだ。

 私は、少年時代から、ずっと、いまにいたるまで、安気な思いで暮らしたことはなかった。私が切に憧れるのは、その安気な思いであり、安穏な生活だった。

 これが山口さん生涯の基本姿勢となった。
 母には隠したい過去があったが、それでも山口さんは言う。

 私は、この母を母としたい。そうして、うんと長生きをしてもらいたかった。

 山口さんは母親の過去をこのように書いた。そして次は『家族』で父親の過去を書いていくことになる。

山口 瞳 著 『血族』 文藝春秋(1979/01発売)


by office_kmoto | 2018-06-29 05:32 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

南木 佳士 著 『陽子の一日』

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 今度も手に入れた自分の本としてこれを読んでみた。基本以前に書いた通りなのだが、前回の文章を修正し書き直してみた。

 不思議な作品である。江原陽子という還暦の女医と、以前後期研修医として陽子についたことがある桑原芳明からの添付メールをリンクさせ、陽子の一日を描くとともに、メールに添付されていたかつての陽子と同期であった黒田久彦の病歴要約を読むことで、陽子の過去を語る。
 還暦の女医の私生活はその生理を生々しく描く。朝5時に目が覚めるが、頭がすっきりとしない。昨日の疲労が残っている。

 中途半端に起きだしてしまうと、頭のなか全体に粘性の高い澱が拡散し、脳の表面に厚い不透明な膜のかかった状態で一日をすごさなければならなくなる。古びて、かつて時代遅れのソフトを入れ過ぎて起動が極端に遅くなったパソコンのイメージをじぶんに重ねつつ、時を待つ。目を閉じたままぐずぐずすること三、四十分でふんぎりをつけ、頭の上の遮光カーテンを開ける。

 その後トイレに行くのだが、排尿がこの歳の女性がたぶんするであろう残尿処理が描かれ、いかにも還暦の女性なんだとリアルにわからせる。テレビのラジオ体操をし、途中便意をもよおす。いずれも溜め息まじりである。

 ふうう。

 思いだせないことは、なかったもおなじとみなしてよいのではないかなあ。

 最近、陽子は還暦を過ぎたわが身の過去を、こんなふうにおおざっぱに裁断してしまいたい誘惑に駆られる。大学のおなじ医局の男の精子を受け入れ、子を宿した。いつ、どこで、避妊もせずに男と寝たのか、まったく想い出せない。膣を埋めたはずの男の陰茎の太さ、吸われた乳頭、乳輪の感触、男の体臭の記憶がない。
 その男は子供を堕ろして、身軽になってじぶんのアメリカ留学に付いて来てくれと言った。教授の薦める縁談が進行中だったというのに。そして、アメリカに行って半年も経たずにその女と結婚したのに。

 病院の診察にあるパソコンから、桑原芳明が送ってきた黒田久彦の病歴要約を読む。

 意図? だれの?
 これを書いているのは辞めていった後期研修医の桑原芳明であるのは、明らかだが、内容は過疎の村で開業していた黒田の病歴というか、生い立ちの記みたいなものだ。かたちのうえでは芸能人やスポーツ選手がゴーストライターを雇って書かせた自伝と大差ない。
 まあ、そこまで言ってしまったら黒田がかわいそうか。
 出産のときもそうだったけれど、子育ての時期、陽子は黒田にはけっこう世話になった。息子の急な発熱で当直ができなくなったときや、死期の迫った病棟の受け持ち患者を抱えていて、親子遠足の予定の日にはいよいよか、と思われたとき、緊急呼び出しの代わりをみずから引き受けてくれたのはいつも黒田だった。彼もそのころは結婚していたから、家族サービスを犠牲にしたはずだ。
 陽子はむかしから黒田のことを黒田と呼び捨てにし、黒田は陽子と呼んだ。いまどき、病院内で医師がこんなふうに呼び合うことはめったにない。

 だから黒田の病歴要約と黒田の独白を無下にするわけにはいかなかった。
 黒田は陽子と同期で同じ病院に入ったが、内科全般の知識を身に付けた十五年目にこの病院を辞め、ここから車で二時間ほど山のなかに入った村で開業していた。その診療所で桑原が研修に来ていた。

 もう長くないと言われている八十九歳の患者の容体が急変し死んだ。もともと家族も家で看取ることを希望したので、黒田はその家族の意志の沿って患者に対応していた。患者の容体が急変したとき時黒田は急性胆嚢炎で強烈な腹痛に見舞われ、緊急入院し、手術を受けていた。四日後退院し、その患者が死亡したことを知らされた。ここから妙な噂が村に広まった。こんな重病人を往診しながら、なぜ病院に入院させなかったのか。もしかしたら家で死ぬことを押しつけられたのではないか。その時また若い女性事務員と出来ていて、モーテルで腹痛を起こし病院に運ばれたのじゃないか、とか噂は広がり、患者の数が激減していく。
 看護師は診療所を辞め、女性事務員は村を去り、黒田は診療所をたたんだ。十五年も村にいて村人のためにつくしている気になっていたのに、このざまであった。

 いやあ、村ってのは怖いぞ、なによりもここで勉強したのは村の怖さだったな。

 引っ越し荷物を片づけ終えた診療所を訪ねたとき、患者(病歴要約では黒田を患者と呼んでいる)はもらいもののウィスキーを飲んでしまおう、と誘ってくれたから、スチール製の診療机をはさんで飲んだ。そのとき、そうだ、おれの病歴要約を書いておいてくれないか、となんの前ぶれもなく患者が言った。なぜ、と問うと、人間なんてさあ、病気するたびに死を意識するんだけど、またすぐ忘れて、あたかもじぶんだけは死なないかのような言動にもどちゃうじゃないか。だからさあ、きちんと書いておいてもらいたいんだよ、おれの病歴、と応えた。

 江原陽子って医師が病院にいるだろう。彼女にもこの病歴要約、読んでもらってくれよ。
 あいつさあ、三十年前に、ほっとけば数日で亡くなりそうなお婆さんの脳出血患者に気管支切開してさあ、人工呼吸器につないで生かそうとしていたんだよ。付き添ってきた嫁が、あまりにもあっさりお婆さんの死を受容していた、そのあっさりさが許せないってな。
 その嫁さんも妊娠していたんだけれど、江原陽子も臨月で、気管支切開で腰をかがめていたもんだから破水しちゃって、そのあとお婆さんの処置はおれが引き受けたんだけれど、気管支切開はきれいにできて、きちんと人工呼吸器につながれてたよ。そのお婆さん、一週間で亡くなってな。ちょうど産科を退院する日に、おれが報告にいったら、あら、そうって、あっけらかんとしていたな、あいつ。けっこうな悪党だよ。あいつは。おれの病歴、ほんものの悪党には読んでもらいたいよな。

 黒田がいう悪党とは、犯罪など人に迷惑をかけるわれわれが通常言う“悪党”とは意味が違うのだが、それは後で説明する。
 黒田が医師が悪党だと考えるようになったのは、妹の死からである。
 黒田は長男で一歳下の妹がいたが、彼女が四歳の時井戸の周りにあったスグリの木の実を食べ過ぎ、三日三晩激しく吐いて死んだ。その時峠を越えた隣の村の医者が黒いヘルメットにゴーグルをつけ、皺だらけの白衣をマントのようにひるがえして駆けつけてくれたが、彼は妹の尻に太い注射を一本刺しただけで帰って行った。
 弱り切って声も出せない妹を置いて、バイクのエンジンを何度も吹かせて、ゴーグルの埃を白衣の袖で拭いてから手を振って去って行っていく医者を見送り、悪党、と小声で叫んだ。
 悪党が去った翌日妹は死んだ。
 黒田は医者になりたかったわけでもないが、自分が将来就きたいと憧れる職業が見当たらなかった。診療所の医者は自分が結核の時、胸に注射を刺し、胸水を採ってくれたり、盲腸を悪化させ腹膜炎を起こす前に助けてくれた命の恩人ではあったが、妹の死のとき抱いた悪党の印象はぬぐえず、自ら進んで悪党になりたいと思わなかった。しかし進路指導の担当教師は医者は職人だから食いっぱぐれはないと言われる。
 古文の教師は、黒田が医者は悪党だと見抜いたのはたいしたものだ、と褒める。昔、医者は陰陽師と同じ程度の扱いで、身分も低かった。しかし悪党という言葉は、今使われているのとは違う意味を持っていた。悪党とは昔、しぶとい野郎、殺しても死なないやつみたいな意味で使われていたことを教わる。
 黒田は開業した山の診療所で、回復の見込みのない患者に治療をしないで、自然死に持って行くとき、何もしないことに、後ろめたい気持ちに耐えられなくなった家族を説得するのが自分の役目だと考えていた。
 桑原芳明は黒田が「医者は悪党の仕事だから」と口癖のように言うことがわからなかった。桑原は研修の時黒田の往診について行くうちにおのずとその言葉理解できるようになった、とその病歴要約に個人的意見を書き込んでいる。

 ひとが死ぬのを黙って見ていることができるしぶとい神経の持ち主。彼の言う悪党とはそういう人物を指すらしかったが、わたしの見るところ、患者は悪党になりきれていなかった。

 なお黒田の病歴要約を書いている桑原の考察の中にある言葉が気にかかったのがあったので書いておく。

 「わたし」は他者の認証を得ないと「わたし」の同一性に確信がもてない。「わたし」とはそれほど不確かな概念に過ぎない。

 目に見え、指で触れられ、数でかぞえられる実感は常に地味なものだけれど、生きるためには確固たる足場だ。

南木 佳士 著 『陽子の一日』 文藝春秋(2013/01発売)


by office_kmoto | 2018-06-26 22:10 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

阿刀田 高 著 『漱石を知っていますか』

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 この本は阿刀田さんの『知っていますか』シリーズの最新作。いわゆる文学作品を阿刀田流にやさしく、おかしく解説した本である。
 今回は夏目漱石。

 そのプロセスを作品の中で見ることにおいて、深いものを含んでいる。夏目漱石という大作家の多彩な可能性と周到な瀬踏みを含んでおり、これ以後の名作の萌芽がすべてこの作品の中に潜んでいる。
 「こんなスタイルはどうかな」
 苦悩するプレゼンテーションであった。率直に言って<猫>以前の短編は弱点が多過ぎる。プロの作品としては落第点に近い。<猫>とほとんど同時に書かれた<坊っちゃん>、これが小説らしい小説のスタートであった。<猫>で小説の多様性を模索して地下水脈を造り、<坊っちゃん>でその一つを形で示した、ということだろうか。多くの花が、このあと<猫>の上に形を採って咲いていく。(猫の近道を訪ねて <吾輩は猫である>ほか)


<六角評価図>
 A ストーリーのよしあし。
 B 含まれている思想の深さ。
 C 含まれている知識の豊かさ。
 D 文章のよしあし。詩情の有無も含めよう。
 E 現実性の有無。絵空事でも小説としての現実性は大切だ。
 F 読む人の好み。作者への敬愛、えこひいきもここに入るだろう。
 (それぞれ5点満点としている)

 『吾輩は猫である』の採点はAのストーリーのよしあしが1点数と低い。つまりストーリー性がない、ということであろう。総合得点で19点となっている。

 だから、

 あえて言おう。<猫>は第一章を読めばだいたいわかる。

 としている。

 「小説の技をちりばめて<坊ちゃん>ほか」では、

 <吾輩は猫である>はかなりの読者をえて一通りの成功となった。しかし漱石は納得しなかったろう。<吾輩は猫である>は小説としてどこか歪なのだ。ストーリーらしいストーリーはないし、イマジネーションも乏しい。登場人物もあまりにも身辺に近く、小説的な現実感を欠いている。もう少し小説の基本的パターンを踏むほうがよいのではないか。
 これを<坊ちゃん>で補おうと努めた、と私は推測したい。それが実作者の考なのだ。すなわち<坊ちゃん>にはストーリーは、ある。パターンと言えば、善玉と悪玉……月並みだが、あこぎにならない程度にこれはあったほうがおもしろい。初めのうちはどれが善玉でどれが悪玉か、わからないけれど次第に明らかになって、やがて活劇となる。みごとなほど小説のパターンである。

 (略)

 しかし、漱石はそれでも満足しなかったろう。あえて私の愚考を述べれば、漱石は、
 ――深さが足りない――
 芸術としてどうなのか。文学はもっと真摯なテーマを、真摯に問うべきものではないか。小説を深く勉強した漱石はみずからに足りないものを鋭く見出し、次に、芸術論をちりばめた<草枕>に挑んでいく。こういう道筋をたどったのではないか。私にはそんなふうに見えるのである。

 「坊ちゃん」の六角評価図は総合得点で19点。このなかでBの含まれている思想の深さが最低の2点となっている。

 次の「おみくじを引こう<草枕>ほか」では、「坊っちゃん}の成功に物足りなさを感じていた漱石が「草枕」へ移行していく経緯が阿刀田流で語られたが、ここで同じことをもう少し詳しく書いている。

 英文学者としてスタートした漱石は小説家になりたかった。四十歳を前にして意図的にその道へ挑んだのだが、この少し遅れた揺籃期、漱石の思案と方策を実作者として愚考してみれば、まず書きやすい身辺雑記と豊富な知識をもととして<吾輩は猫である>を書いて成功し、しかしその一方で、
 ――小説ってもう少し大衆が喜ぶストーリーが必要なんじゃあるまいか――
 この考えに立って<坊ちゃん>を創った。人気を集めたが、これは軽く、俗っぽい。
 ――オリジナリティがほしい――
 そのころはやっていた人情風俗を描く小説とは異なるものを、芸術の本質に迫るものを、ストーリー性を含ませながら描いたのが<草枕>ではなかったのか。この三作はホップ・ステップ・アンド・ジャンプ、揺籃期の三部作と見ることはできないだろうか。

 ちなみに六角評価図では総合得点で20点と阿刀田さんが言う揺籃期の三部作としては一番点数が高くなっている。まあ意図して作風に漱石なりの考えを反映したものであるなら、そうなる。しかしAのストーリーのよしあしとEの現実性の有無は2点となっている。

 次の「絢爛豪華な文章で <虞美人草>ほか」で漱石は朝日新聞に入社し新聞小説を書き始める。その第一発目が「虞美人草」である。内容は飛ばして、六角評価図では総合得点で20点。評価もそれぞれ平均値となっている。
 さらに「小説は男と女のことを書くもの <三四郎>ほか」になる。
 何と言っても三四郎が熊本から出て来て京都で相乗りとなった女と一緒に宿に泊まることになった翌朝、もんもんとして結局気を使い朝を迎えたのに、女から投げかけられた言葉、「あなたはよっ程度胸のないかたですね」は読む度に応えただろうなと思ってしまう。
 これに対して阿刀田さんの言い分が面白く、まったくその通り!と以後の漱石の作品を上手く付いている、膝を打ちたくなる。

 ――もし、あのとき、もっと意志を強く持っていたら――
 男がほぞをかむ。先走ってしまうが<三四郎>は、このことをそれとなく語っている小説だ。さらに先走れば、このあと<三四郎>とともに三部作を構成する<それから><門>も……登場人物もストーリーも異なっているけれど、見ようによっては、“よっ程度胸がなかった”ことの結果なのかもしれない。

 “もしあのとき”はこの後のいわゆる後期三部作にも通用するのではないか。
 ところで阿刀田さんは「三四郎」を、

 広田先生の理屈は漱石の魅力の一つ、と読むべきだろうが、本道は三四郎を軸とする恋愛未満。「アイ・ラブ・ユー」もなければ口づけ一つないけれど、心と心の微妙なからみあいを描いて……見えにくいことを描いてするところがない。
 ――今どきはやらないかなあ――
 とも思うが、恋には“よっ程度胸のない”ときもあるものだ。そして小説はとは、“男と女のことを書くものです”という箴言もあるようだ。<三四郎>はそれに応えている。

 と書く。まあ、言われてみれば、確かにもどかしい部分はあるかも知れない。それでも六角評価図では総合得点で25点と高い。それぞれ平均値以上である。
 「さざ波は渦となって一点へ<それから>ほか」となるが、ここでも阿刀田さんは、

 ――漱石は男と女のことを書かせて、迫力のある作家なんだなあ――

 と書く。六角評価図では総合得点で28点と最高得点になっている。ここから漱石の姦通小説本領発揮だから、まあそうかもしれない。

 第7章は「深読みしてくれますか <門>ほか」である。
 個人的なことを言わせてもらえば、私は漱石の作品でこの「門」が一番好きなのだが、阿刀田さんは厳しい。

 <門>は文学的に、またさっかの思索として中味の深い小説と評されている。そんな解説をよく目にする。しかし、それを知るには相当に深読みしないと無理なのではあるまいか。小説として楽しむには、
 ――暗いんだよなあ――
 なにを汲み取ったらよいのであろうか。

 とある。そうかなあ、とは思うが……。
 そのため六角評価図では総合得点で20点となっている。とくにEの現実性の有無が2点と低い。
 長くなりそうなのと、あとこれといって書くこともないので、単に六角評価図だけを書き出す。

 『夢十夜』は27点
 『彼岸過迄』は19点
 『行人』は23点
 『こころ』はやはり28点
 『道草』は20点
 『明暗』は未完なので評価不能

 となっている。『夢十夜』の点数が高いのは阿刀田さんが夢に関して思い入れが強い点がそう評価するのではないか。そして『こころ』はそうでしょう。これは仕方がない。 私は『こころ』のことになるとは三浦しをんさんの『舟を編む』を思い出してしまう。誰だっけ?名前は忘れたけど、先生のあんなに長い遺書が送られて来たら引くようなあ、という台詞。まさしくその通りだと大笑いしたことを思い出す。

阿刀田 高 著 『漱石を知っていますか』 新潮社(2017/12発売)


by office_kmoto | 2018-06-24 05:36 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

鷲田 清一 著 『噛みきれない想い』

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 「近代」と呼ばれる社会を迎える前は、ほとんどの人生は出自で決まった。

 そういう出自の偶然性に強く左右される社会から解放されることを願って、ひとは社会を「近代」なものへ造りかえた。

 しかし、この自由を守ることによって、ひとは別の重荷を背負うことになった。人生の形をじぶんで選んだ以上、できあがったその形に責任があるのは他でもないじぶんだということになったからである。(人生の「課題」)

 しかし、

 実際はむしろみずから選択するというよりも選択させられてきたという思いのほうが強い。

 だから、

 高度な社会システムが複雑にからみあうこの巨大な社会のなかではひとびとはこれらのシステムにぶら下がって活動するしかない。業務につくひとも、そもそも資格と能力のあるひとだったらだれでもよいわけで、各人はいわばいつでも交換可能な存在とみなされる。だからこそ、じぶんがじぶんであることの証明がじぶんに対して必要となる。(<わたし>にできること、できないこと)

 そこ(社会)は「契約」によって、つねにじぶんの存在が条件つきで肯定される世界である。これは当然のことではあるが、その背面に、だから条件を満たさなかったらおまえの存在はいつでも抹殺できるというメッセージが貼りついていることもまた「社会」ではあたりまえのことである。(悲しい眼)

 このことは、今よく言われる「わたしさがし」がよく言われる背景がここにある。なぜ自身を探さなければならないのかその理由が書かれる。
 自分が生まれる以前にあった好条件が、そのまま好条件で社会に参加できる社会でなく、自分の努力、能力、資格で社会に参加できるシステムを作り上げたことで、今度はその能力や資格が同レベルならだれでもいい、あなたでなければならない理由のない、すなわち「交換可能」な部品のような扱いを受ける社会になってしまっていることから、「わたしさがし」「自分さがし」が始まったと見るのである。
 自分だけが持っていて他人にはないような能力とか素質を必死に探し求める。これが「自分さがし」なのである。
 しかし自分だけが持ちうるものと思っているものは他の誰でも持ちうるものであって自分が備えている特性の一つであって、わたしがわたしである理由にはならない。(プライドということ)
 ではわたしがわたしである理由はどこに求められるのであろうか?
 ここでは次のように定義する。

 <わたし>の存在は、だれかある他者の宛先となることでなりたってきた。

 <わたし>の存在とは、だれかの思いの宛先となるということ……

 いいかえると、だれかある他者に「あなた」「おまえ」と指名されることによって、わたしたちひとりの<わたし>になる。(死の経験)

 <わたし>を気づかう声、<わたし>に思いをはせるまなざしのそれにふれることで、わたしは<わたし>でいられる。気づかいあうこと、それは関心をもちあうことである。(届く言葉、届かない言葉)

 わたしが「わたし」と言う者は、相手にとっては「あなた」であり、わたしが「あなた」と呼ぶ者はあなたにとっては「わたし」なのだという、立場の反転を理解してはじめて「わたし」という言葉が使える。(「バイバイ」)

 「わたしにしかできないこと」は、そのように「だれでもできること」を「あいつにまかせておけば大丈夫だ」と言ってもらえるように工夫をこらしてくりかえすなかで、はじめて認められるものであった。(意味はなくとも)

 文化はわたしと他のひとびととのあいだになりたつものだ。そういう、わたしだけのものではない公共的ともいえる規則が、わたしとわたしの身体のあいだに介入してくることで、身体の文化がいわばひとの内からかたちづくられるのだとしたら、わたしがじぶんの身体を生きるということは、他者たちによって身体としてじぶんの存在がこじ開けられるということともに起こるということになる。身体としてじぶんの存在が侵され、凌辱されること、これが<わたし>というものの成立の根にある出来事である。(身体の「正しさ」について)

 以上この本のなかにある<わたし>とは何か?<わたし>の存在がどういうものであるのか?それを気ままに引っ張り出してみた。
 ここにあるのは<わたし>の存在を認めてくれるのは自分ではなくて他人であること。他人の目に映る<わたし>が世の中で存在する<わたし>なのだということである。すなわち他人があって<わたし>なのである。

 ただ、

 生きるというのは寂しいものだ。じぶんがいまここにいる理由というのをひとは求めないでいられないからだ。(ラスト・ダダ)

 この本は日常にあるさまざまな出来事を哲学的に考えてみるというもので、小難しい哲学用語は極力排されていて、その分わかりやすい。なるほどこう考えればいいのか、と思えることが沢山あって、書き出していたら切りがない。そのため珍しくノートを作り、そこにせっせと書き出していた。その中のいくつかを書き出してみた。

 子どもがなにかよからぬことをして、父親に烈しく叱責されているとする。そのとき母親が夫の叱責にただちに同調するのは、いってみれば悪手である。親のそうした攻撃に対し、子どもは総反撃するか全面降伏するか、その二者択一があるだけで、うまくいなすとか、しぶとく踏ん張るとか、うっちゃりをかけるとか、あるいは折りあいをつけるといった戦略を立てて、交渉しているいとまはない。
 ここにもし祖父や祖母、あるいは叔父や叔母という第三者がいて、あいだに割って入り、父親に向かい、「おまえ、えらそうなことを言っているが、おまえの小さいころはもっと横着で、近所に何度お詫びに行ったことか」とか「おまえなんかの考えは古くてもう通用しないよ」とか言ってくれようものなら、子どもは救われる。(ひとは悩んで大きくなる?)

 これ、先に読んだ伊丹十三さんの本に書かれていた叔父さんが存在する意味とよく似ている。叔父さんが緩衝材になってくれ、また違う世界を見せてくれる存在であることが子どもにとって意味のある存在なのだ。容赦ない追求は子どもの逃げ場をなくす。そこにあるのは「攻撃というかたちであれ庇護というかたちであれ、だれかを異例の者とし、その者に視線を集結することで《われわれ》という結束が固まるメカニズム」を使っているだけなのである。

 まず、分かる、理解するというのは、感情の一致、意見の一致をみるということではないということ。むしろ同じことに直面しても、ああこのひとはこんなふうに感じるのかというように、自他のあいだの差異を深く、そして微細に思い知らされることだということ。いいかえれば理解の枠におさめようとしないということ。そのことでひとは「他者」として他者に接することができる。(ひとを理解するということ)。

 学ぶというのは、じぶんの知らないことを知るということだ。じぶんが砕け散るという体験なくして「学ぶ」などということはありえない。まっすぐ逸れなく進むというのではなく、躓く、揺れる、迷う、壊れるということ。「学び」はそこからしかはじまらない。その意味では、落ちこぼれも挫けもまた大事な「学び」だ。(学びと挫け)

 似たようなことを養老孟司さんが言っていた。学ぶということは自分が変わることだと。

 最後に恒例となっている歳をとるということをこの本では以下のように書いている。(こういう文章を書き出すことがここのところ恒例となっているのは、自らが歳とってきたことを納得させようとする自分がここにある。嫌にはなるが……)

 ひとは歳をとればとるほど、若いころほどには「夢」を見なくなる。こんなことをしたい、こんな人生を送りたいといった、昼に見る夢のみならず、夜に見る、ひどくうなされるような夢まで。
 だれにも「したいこと」と「しなければならないこと」がある。若いうちはその食い違いが大きい。「したいこと」をしようとすれば、いろいろと制限や制止がかかる。だからつい反抗する。そしてそれだけよけいに「したこと」への想いはつのる。その現実との落差を「夢」が埋める。だが、歳をとると、「したいこと」と「しなければならないこと」の落差がしだいに縮まってくる。齢を重ねるというのは、夢みていたのに「できなかったことを一つ、また一つと確認してゆくプロセスでもあるからだ。人生のある節目で、あれもできなかった、これもできなかったとしみじみ振り返ったことのないひとなど、おそらくいないだろう。(夢占い)

 歳をくうとは、あれができなかった、これもできなかったと、いろいろに思い知らされることがどんどん増えてゆくという経験である。ひょっとしたら、という可能性を一つずつ捨ててゆくのが生きるということだ、という想いが歳をとともに深まってゆく。(ラスト。ダダ)。


鷲田 清一 著 『噛みきれない想い』 角川学芸出版(2009/07発売)


by office_kmoto | 2018-06-22 06:01 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

南木 佳士 著 『医者という仕事』

d0331556_06223649.jpg 南木さんの本は何度読んでもそこに書かれている言葉が、文章が、心に響く。この本の解説を書いている秋山ちえ子さんは、「地味なものだが、静に人間の生と死の意味を記す文章は私の心を落ちつかせてくれる」と書くが、まさにその通りだと思う。
 前回読んだ時は、視線を低く持つことが生きる意味で大切であり、やさしくなれることをここで感じたのだが、今回も改めてそうだよな、と思った。


 病んだ者の視線は例外なく低くなる。人間として持つべき大事なものは頭の切れの鋭さでも、まして学歴とか富ではなく、ただひたすらやさしくあることなのだというようなあたりまえのことが、低くなった視野に見えてくる。(厄年を過ぎて)


 小説に限らず、物事を表現しようとする場合は常に自分の視線を低くしておく必要がある。高い位置から見おろすような視線では人間や風景の陰も裏側も見えてはこない。そんな作品が他人の共感など呼ぶはずがないのである。(原点としての嬬恋)


 昨年の暮れ、元同僚である友人とあって、話を聞いたのだが、彼は自分が厄年なので、体調も、また精神的にも不調を訴えるのかな、と漏らしていたことを思い出した。


 厄年は医学的にも、体が老年期に入る入口に来て様々な異常が表に出てくる年として注目されている。私の場合も、男の更年期障害であったのだと思えば納得がいく。
 神社に行くかどうかは個人の自由だが、厄年を迎えた男たちは、しばらく立ち止まって、走り続けてきた自分の往路を振り返り、今後の復路の走り方を考える余裕くらいは持つべきであろう。もしかしたら、厄年とは各自の人生に与えられた大いなる休暇なのかも知れないのだから。(厄年を過ぎて)



 私は厄年だからお祓いをしてもらわねば、なんて考えない人間である。あれは神社の金儲けの手段で人を不安がらせている、と思っていると彼には言った。たぶんこれまで多くの人が不調を訴えてきた年齢を厄年と言っているだけであって、“昔からよく言われている”というのと同じだと思っている。だからお祓いをとかいうよりも、まさに南木さんが言うように、ちょっと立ち止まって、これまでの人生を振り返ればいいだけのことではないか、と思う。
 不調な時に立ち止まらせてくれない社会が現代の社会であるから、ちょっとお祓いをして誤魔化しているだけではないか。
 そうではなく、その時立ち止まって、これからの人生、生き方を考えさせてくれようとしているのだ、と思うべきだと思っている。


 四十歳を過ぎ、先にかすかに見える「死」というゴールを意識しながら、往路で身につけた余計なものを少しずつ脱ぎ捨てつつ復路を走り、生まれたときと同じ裸になってゴールインしたいものである。
 どこまでも真っ直ぐ走って行って、倒れた所がゴールという生き方もいい。そんな生き方に憧れた時代もあった。しかし、往路で見えなかった人や風景の影の部分をじっくり見ながら、のんびりと復路を走る生き方が自分には適しているようだ。
 見るべきほどのことは見た。最後はそう言って静かに笑えるように、目だけは今年もしっかり開いておくつもりである。(年始の生死観)



 私はこのような生き方に大賛成で、実際うまくは行かないけれど、実戦している。だから南木さんの言葉に共感する。
 最後に医者の経験則の話が書いてあったことを書く。


 私は五年生存率が平均して十人に一人か二人と言われて久しい、癌の中でも特にいやらしい肺癌患者ばかり診てきたので、積極的な治療に関してはあきらめの早い医者になってしまった。限られた予後を抗癌剤治療の副作用で苦しめるよりは、できるだけ楽な余生を過ごしてもらおうと考えるようになった。
 癌の診断技術だけは確実に進歩しているから、進行度は正確に判断できるようになった。進行度が分かれば予後も知れる。あと六カ月、とか一年とか、悲しいことに経験を積めば積むほど医者の予後推定は当たるようになっていく。
 死にゆく人たちとの対話というのは頭で考えるほど易しいものではない。自分もいずれは死ぬべき定めの人間なのです、と自覚した上でないと対話は成立しない。(医者という仕事)



 これは昨年経験した。専門医の言うことは間違いなかった。
 死病の予後をどう生きるかを、医者としてどう対処すべきか、また変わっていったかをこの本の最後に掲載されている長いエッセイのような掌篇・短篇小説集の「上田医師の青き時代」に描かれている。これなかなかいい小説であったことを今回思った。

 ここまでは文庫本で再読して書いた。
d0331556_06230978.jpg 単行本を新たに手に入れたので、再再度読み直してみると、「上田医師の青き時代」はいい。
 上田医師に結婚の話が進んでいた。その時上田のところには、身のまわりの世話をしてくれる同じ病院の看護婦が通ってきていた。上田はその看護婦に自分の結婚話を伝えることがなかなか出来なかった。
 病院から患者の急変を伝える電話がある。看護婦もその患者を知っている。元気だったその患者が亡くなったことを知って泣き出しそうであった。


 患者が死んで、二人で泣き合う夫婦なんてまっぴらだ。泣くなよ、と看護婦の肩を叩きながら、上田は自分の結婚相手に関するしたたかな判断を下していた。


 「今夜、婚約者が結婚式の打ち合わせにくるんだ」
 上田は下を向いた。
 看護婦は二、三度呼吸を整えてから、
 「そうですか」
 と、言い、立った。
 そして、テレビの上に置かれたウィスキーの空き瓶から水仙を抜き取ると、上田の目の前でその茎を折り、ゴミ箱に捨てて部屋を出て行った。それだけのことだった。最後に上田を見つめた看護婦の目は、深い水色をしていた。



 上田は結婚式の前日、アクアマリンのネクタイピンを看護婦に贈った。看護婦たちの多くは頭に被るナースキャップをとめるためにネクタイピンを使ってとめていることを上田は知っていた。その看護婦にネクタイピンを渡す。彼女がそれを受け取ってくれたことで上田はほっとする。


 寝た女よりも寝なかった女の方が別れがつらい。上田はまたひとつ人生の重い教訓を学んだ。


 上田は17年勤めた病院を辞める。


 胡蝶蘭の花束を抱いた中年の看護婦が入ってきた。
 「おつかれさまでした」
 独身のまま、今では外科病棟の婦長になっている彼女は、十七年前とおなじ静かな微笑を上田に向けた。
 「お互い、年をとったよな」
 看護婦の目尻の皺が、十七年という年月の長さを教えていた。
 「私、送別会には出られませんので、これを」
 花束を上田の机に置いて、看護婦はドアを閉めた。
 彼女のナースキャップのうしろには、アクアマリンのネクタイピンが吸い込まれるような深い水色を保ったままとめられていた。


 最後に思い出しておかしかったことを書く。


 大きな医学会は東京と地方の主要都市で一年交代で開かれることが多い。学会の予告を載せた雑誌が届くと、「なんだ、今度はまた東京か」とか、「おっ、福岡だぞ。ふぐだぞ」などといった会話が病院の医局で交わされるようになる。要するに、演者にならない大多数の医師たちにとって、学会とは絶好の息ぬきの場所なのである。
 「佐藤先生は福岡にふぐを食いに行くため休診です」と書いてしまうと、非難が集中するのは目に見えているが、「学会で出張します」と書けば誰も文句は言わない。毎日お婆さんの便秘の話やお爺さんのボケた話ばかり聴かされてうんざりしている平均的な医者たちにとって学会はオアシスなのである。
 私もその一人である。専門が肺癌なので、日本肺癌学会総会というのに出かける。今年も肺癌の治療で目立った進歩のないことを雑誌を読んで知っているので、二、三演題を聴くとすぐに学会場から出て、知らない街を勝手に散策する。(医者と学会)



 これがなぜおかしかったのかというと、自分が勤めていた会社の経営者も地方で開かれる薬剤師会の学会に毎度出かけて行ったからである。経営者は薬剤師であったが、薬剤師としては日々現場に出ているわけではなく、薬剤師が不在のとき、単に薬剤師の免許を持っているからというだけで薬局に出ていただけであった。だからはっきり言って現役ではない。
 そんな経営者が学会出席のため高い交通費と宿泊費を会社に請求する。経理を預かっている者として、経営者が学会に自身のレベルアップするため参加しているとは思えなかったので、その学会って何なのか、親しくしていた薬局長に訊いたことがある。彼は親睦会、同窓会、あるいは観光旅行と言ったか、とにかく学会そのものは彼に言わせるとどうってことないと聞いて、なるほどと納得したのを思いだしたのである。どうりで経営者は学会が近づくと浮き浮きしていたわけだ。自分の金を一銭も出さなくて観光旅行が出来るなら浮かれるはずだ。


南木 佳士 著 『医者という仕事』 朝日新聞出版(1997/07発売) 朝日文芸文庫

南木 佳士 著 『医者という仕事』 朝日新聞出版(1995/05発売)

by office_kmoto | 2018-06-20 06:27 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

南木 佳士 著 『山中静夫氏の尊厳死』

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 南木佳士さんの作品に魅せられて、自分の本棚に南木さんの本を置きたくなりせっせと集めている。今回その集めた本を再度読み直したものであった。
 いつものように言葉を拾って、その言葉をもって自身の昔を思い出し、考えている。

 嘘を支え続けるには体力も努力もいる。真実を支点にした人間関係ならば、その支点をはさんで両者が揺れ合えばいいのだが、嘘はついた方にその責任のすべてがかかってくる。

 往路から復路に入り始めた自分の人生に想いをめぐらす。ゴールとしての死が、おぼろげながら視野の先に入ってきたのを感じる。

 「辞めそこなったのかなあ」

 「一日の内で使えるやさしさっていうか、他人に対する気遣いのようなものには限度があって、おれはそれを病院で使い果たして家に帰ってくるんだ。だから、あまりしゃべりたくないんだ」

 「分かりました。明日から気をつけます。それと、部屋のことですけど、できれば個室をお願いします。これまで精一杯他人に気を遣って生きてきましたんで、死ぬときぐらいはゆっくりしたいもんですから」

 死という不条理な出来事はふところを大きく開いてすっぽり受け止めるしかなく、理屈で遠ざけようとするほど背後に大きな影となって忍び寄るものなのだ。これは十七年間、死者を看取り続けたきた今井の得た一つの結論であった。

 小説家に限らず、仕事などというものは結局のところ、なるものではなく、なってしまうものなのかも知れない。結果の前では意志の力なんてたかが知れている。死はそのいい例である。誰も死にたくて死ぬのではない。結果として死ぬのだ。

 「死者を診すぎたんですよ。人生の負の場面だけを見すぎたんですよ。死者を診る数にもその人なりの限度があるんでしょうね。とにかく休みましょうよ」

 「辞めそこなったかなあ」という思いは、会社の経営が悪化して、仲間や同僚がひとりひとり辞めさせられ、最後に自分一人しかいなくなったときなど、何度も思った。彼らのことを思い出すとき、己が一人残った罪悪感みたいなものがいつもつきまとった。
 ちょうど読み直していた南木さんの『薬石としての本たち』の中に次のような文章があった。

 日々、末期がん患者を看取りつつ小説を書く。そんな無謀な生活をみずから破たんさせ、負うていた重荷をそっくりそのまま他の医師たちに背負わせ、彼らの死を糧に生きのびた。善良で、脆弱な心身の持ち主としての医師の役を務め、ひとの生と死を凝視する小説家を演じてきた男は、じつはとてつもない悪党だったのではないか。(曇天の霹靂)

 彼らを切り捨てることで会社が何とか生きのびてきたと同じように、自分も生きのびてきた。それでも会社がその後順調であれば、彼らを犠牲にしてきた意味もあっただろうが、相変わらずその場限りの経営を続けていっただけで、いつも苦しい状態が続き、最後は身売りとなった。
 悪党なら悪党らしく振る舞えればいいと南木さんは書いているが、そうはなれず、そのことに苦しむこととなるが、自分にしてもとことん悪党になれきれなかった。まして彼らの犠牲で今の自分があるのだと思い出してしまうから、最悪であった。そんなときいつも「辞めそこなった」と口に出してしまう。
 確かに仕事はなるものではなく、なってしまうものかもしれない。もともとこの会社に勤めたのも、アルバイトから社員に引き上げられて、そのまま居着いてしまっただけで、それが「仮末代」となってしまっただけだったのに、こんな苦い思いを抱えながら生きることを迫られるとは思ってもいなかった。だから「なんでなんだよう」といつも叫びたくなった。

南木 佳士 著 『山中静夫氏の尊厳死』 文藝春秋(1993/11発売)


by office_kmoto | 2018-06-17 18:12 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

清水 義範 著 『夫婦で行く東南アジアの国々』

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 このシリーズもこれで7作目となる。最初は興味のあるヨーロッパやその周辺の旅行記だったので、面白く読んできたが、さすが東南アジアとなると、その民族の複雑さ、込み入った歴史について行けなかった。正直読むのが苦痛であった。
 7作目となると、行く場所が少なくなってきたので、今回は東南アジアとなったようで、清水さん自身あまり気乗りしないようだった。気分的にそこへ行くというのもしっくりきていない感じだった。
 でも清水さんの奥さんは、

 「東南アジアって、日本人がよく行くところだからいいのよ。バルカン半島の国々もいいところだったけど、日本人があまり行かないところだから、旅行記がそんなに売れなかったでしょう。東南アジアの旅行記のほうが売れると思うわ」

 と商売っ気が見え隠れするのがおかしかった。
 今回ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、バリ島、ジャワ島、マレーシアと旅行するのだが、各国で出される料理が清水さんの口に合わない。そのためこの旅行記の面白味の一つに各地の料理を楽しむところが今回はない。口に合わないため、辟易している感じで括られていた。かろうじて食べられるものを口にして、あとはビールばかり飲んでいた。まあこれは好みだから仕方がない。

清水 義範 著 『夫婦で行く東南アジアの国々』 集英社(2018/01発売) 集英社文庫


by office_kmoto | 2018-06-15 06:35 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

長岡 義幸 著 『「本を売る」という仕事―書店を歩く』

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 まずはこの本を読んで驚いたことを書く。

 「いま中学生の娘が小学生だったとき、読書感想文の宿題が出ました。先生は『この本は(新古書店の)ブックオフにありますからね』と、話したというのです。これでは、新刊を扱っている本屋に子どもたちがやってこなくなりますよね」

 再販制の本を探していると書店員に尋ねても「再販?」という反応。本の定価販売制度のことですと説明しても、なぜか通じない。五、六人に聞いたのに、全員が同じ対応だった。
 出版産業の根幹となる制度だと業界が一丸となって再販制度護持を訴えているのに、書店の現場では、そもそも再販制という言葉自体がほとんど知られていなかったのである。
 出版社の認識も大差ない。当時、「法律で定価販売が義務づけられているので、値引き販売はできません」と説明している出版社さえあった。

 これを読んだ時唖然とした。
 今は学校の教師が読書感想文のための本を本屋ではなくブックオフを勧める世の中になっているんだ、と思った。しかも家業が本屋の娘を前にして、堂々と臆面もなく言える無神経さが呆れる。
 再販制の意味を今の若い書店員が知らない、というのも、へぇ~、そうなんだ、と思った。でも今の書店員って、本を知らないバカな店員が多いようだし、知らなくてもネットで検索も簡単にできるから、専門知識も不要なのだろう。まして再販制など普段の業務には関係ないし、きっとマニュアルにも書いていないのだろう。
 さらに驚くのがこの出版社の話。定価販売を法律で義務づけられていると平気で言っちゃうんだ。
 もっとももう本屋をやめて30年以上経って、リタイアした60過ぎの親父が未だに再販制などに出版業界の事情に興味があるのもおかしな話だが……。
 ちなみに本の定価を出版社が決めても独禁法違反にならないのはその適用除外に出版物がなっているだけのことで、法律で決められているわけじゃない。むしろ猶予されているだけのことである。

 さて、この本は街の本屋さんがどんどん消えて行く中頑張っている本屋さんの探訪記である。こうした本はこれまでもいくつも読んできたので、少々食傷気味なのだが、ただこの本はこれまでの本に紹介された本屋さんみたいに、生き残るために特化したり、専門化したりしたお店ではない。あくまでもその地域に根付いた本屋であること。そして出版物をコアとする街のよろず屋さんのようになり、街の本屋さんだからこそ出来る生き残りがあることを教えてくれる。そうした本屋さんは地方の本屋さんにその姿を見ることが出来る。ただ地方だからそうならざる得ないというのではなく、本来街の本屋さんってそれが正しい姿なんじゃないか、と思ったりする。本屋さんはその街のインフラでもあったはずで、それを我々は蔑ろにしてしまったのではないか、と思う。
 特に東京はひどい。この本によると、東京では個人経営の新規書店がこの10年に2軒しかなく、2016年に辻山良雄さんの「本屋Title」を加えて3軒だけという衝撃の事実がある。(著者によるともう1軒あるという)これじゃあ、街が街でなくなるのも当然のような気がする。とにかくちょっとサンダルでも履いて本屋に本を見に行こうと出かけることが出来なくなっている。本屋に行くのに電車を使って行かなければならないなんて、異常だろう。
 本屋さんがなくなっていくデータがここに示されている。それを書き出してみる。(この本では縦書きのため、年、数字が漢数字になって読みにくいので横書きに変えた) 

 書店の全店調査をいている出版社、アルメディアの調査では2017年5月1日現在、全国の書店数は12,526店だった。19990年に22,296店あった書店が17年間で43パーセント以上も減少していた。単純計算で毎年500~600店ずつ書店がなくなっていたことになる。
 2016年も数字を詳しく見ると、よりいっそう厳しさを実感せざるを得ない。支店を含む新規開店が133店、閉店が632だった。新しい店舗が一軒できると、その一方で5軒近く消えているわけだ。アルメディアが統計を発表しはじめた1999年以後に開店し、2017年を待たずに閉店した書店も加えれば、一度でも営業したことのある書店の半数前後しか営業を継続できなかったということでもある。
 もう少しさかのぼると、バブル崩壊直前の1990年代初めには、23、000~24,000店の書店があったとされる。このとき存在していた書店で、いまも同じ場所で営業を続けている書店はおそらく3割前後にしかならないだろう。なくなった書店の過半は、小規模の街の本屋であることは間違いない。
 では、大型書店やチェーン店はどうか。――決して安泰とはいえそうもない。
 97年には、ジュンク堂池袋本店が1,000坪という広大な売場で開店した(2001年2,000坪に増床)。この前後から、ナショナルチェーン書店は、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返しつつ、売り場面積の拡大を続けた。近年まで書店数は減っても、新規書店の大型化が進んだことから、すべての書店を合わせた売場面積は増加の一途だったのである。ところが、2013年前後に総売場面積も減少に転じ、2014年には閉店した書店の平均売場面積がはじめて100坪を上回った。規模を追求して売り上げを伸ばそうとしても、現実は厳しかったということだ。


 その一方で、2000年はアマゾンが日本に上陸して、急激に規模を拡大し、いまや紀伊國屋書店などを大きく抜き去り、事実上、売上高日本一の書店になっている。“リアル書店”は、ますます居場所を失っているかのようだ。
 書店が苦境に陥っている最大の理由は、出版市場全体の急激な縮小のゆえである。ピーク時1996年、トータルで2兆656億円の推定販売額を誇っていた書籍・雑誌の市場は、2016年には3分の2以下の1兆4,709億円に縮小した(出版科学研究所調べ)。とりわけ雑誌の落ち込みは激しく、1兆5,633億円だったのが2016年に7,339億円になってしまった。半減以下だ。雑誌の販売に頼る小規模の街の本屋にとってはまさに痛打となっている。

 よく出版業界は不況に強い、と言われる。しかし現実はそうでないことをこの本は教えてくれる。バブルが崩壊して、他の業種がおかしくなったのと同じように出版界も景気が悪くなっていたのである。
 ではなぜ出版業界は不況に強いなんて言われたのであろうか?その見せかけの「成長」が続いたカラクリを説明してくれる。

 出版産業の総販売額がピークを迎えたのは1996年のことだ。90年代はじめにバブルが崩壊しても成長が続いていたことから、出版は不況に強いという、もっともらしい言説が流通したものである。だが、“幻想”は打ち砕かれる。その後、ほぼ一貫して右肩下がりを続け、いまや販売額は最盛期の3分の2以下だ。
 ならば、街の本屋の苦境はピークを過ぎた97年以降に深刻化したかと言えば、そうではない。90年代に入ったばかりのころ、新刊書店の全国組織、日本書店商業組合連合会(日書連)は、書店の閉店が年間1,000店に達していると訴えた。その多くが中小零細規模の書店だ。ではなぜ、90年代半ば以降まで出版産業が伸長を続けたのだろうか。
 当時、売場面積1,000坪を超える大型書店の新規開店が徐々に増えはじめた。通例、取次は、新規書店の初期在庫の支払いを数カ月先延ばしする(業界用語では「延べ勘」ないしは「延べ勘定」と呼ぶ)などして、立ち上げを支援する。ところが大型書店の一部では、数年間、初期在庫の支払いを猶予するなどの優遇策が採られていると言われていた。そして数年後、また大型の新規書店が開店する。初期在庫分の精算時期が近づき、その支払いを繰り延べるための「飛ばし」ではないかとまで囁かれた。

 大型店の出店で市中在庫が増え、取次段階で売り上げが立ち、成長が続いていたかのように、私を含め皆が錯誤していたのが、90年代の出版市場だったのだろう。しかし、その“恩恵”を与れなかった街の本屋は、バブル崩壊と軌を一にするように大量閉店・廃業がはじまっていたのが実情であったわけだ。
 日書連加盟店数は1986年の12,953店をピークに30年連続減少し、2017年には3,504店になっていた。日書連傘下の東京都書店商業組合を見ると、1990年に加盟1,400店を超えていたのが336店(2017年4月現在)まで減った。

 出版科学研究所が推計した2016年の出版物販売額はトータルで1兆4,709億円(前年比3.4パーセント減)となり、その内訳は書籍7,370億円(同0.7パーセント減)、雑誌7,339億円(同5.9パーセント減)と41年ぶりに書籍と雑誌の販売額が逆転してしまった。街の本屋が少なくなり雑誌の販売額が減ったのか、雑誌の売れ行きが落ちて街の本屋が成り立たなくなったのか?出版産業にそのダブルパンチが直撃しているのは間違いない。

 いやぁ、これには驚いた。大型書店の出店で仮の売り上げを計上していたとは知らなかった。まず驚いたのが支払い延べ勘定が数年あるとは異常だろう。そして中小書店が閉店に追い込まれる中、大型書店がどんどん出来ていくわけが、前の出店の支払時期が迫るために、また大きな書店を作ることで、とりあえず数字上据え置く為のものだったのだ。
 一方街の本屋さんが廃業に追い込まれる数字がここに如実に表れている。やはり東京がひどいことがよくわかる。
 ではなぜ街の本屋さんが廃業に追い込まれるのか。そこには様々な事情があるのだが、何といっても売り上げの減少だろう。1970年以降、出版業界では書籍より雑誌の販売が上回る「雑高書低」が続いていて、街の本屋は稼ぎ頭と言えば文庫、コミック、雑誌の三つであった。その雑誌(コミックを含む)が売れなくなったことで、中書書店が成り立たなくなってしまったのである。

 最後に取次の太洋社の倒産の話を書く。昔神田村で仕入をしていた頃、太洋社にもお世話になったことがあり、特に小学館や集英社の本や雑誌、コミックなどここで仕入をしていた。そのこともあって、太洋社の倒産の事情が気にかかった。そして太洋社が中小書店を支えていたので、その倒産が取引のあった書店に悪影響を及ぼし、閉店に追い込まれた事情を知って、これまた驚いた次第である。

 2015年6月には、当時取次四位の栗田出版販売が東京地裁に民事再生法の適用を申請。翌年4月、取次三位の大坂屋と統合し、大坂屋栗田(OaK出版流通)として再出発した。同年2月5日には、この時点で取次七位だった太洋社が経営悪化を理由に自主廃業を取引先に通知した。しかし、有力な取引先であった中堅書店の芳林堂書店が2月26日、自己破産を申請したことによって債権回収が困難となり、3月15日、太洋社も東京地裁に破産を申し立て、即日破産手続きの開始となった。國弘晴陸社長の「ご報告とお詫び」という文書には「もはや万策が尽きた」と綴られていた。
 栗田出版販売は大坂屋との統合で存続を果たし、書店はいままでの取引関係を維持できた。書店が連鎖倒産したという話は聞かない。
 一方、太洋社倒産の影響は甚大なものとなった。自主廃業を通知した時点で約300法人800店舗の書店と取引していたと伝えられ、太洋社は取引書店に新たな取次を紹介するとしたものの、信用調査会社の発表や新聞報道では、倒産・廃業したと名前の挙がった書店は20店舗以上に達した。太洋社の事情に明るい出版業界関係者によると、一店舗で複数の取引口座を持っている書店もあったので、実際の取引書店は実店舗数で500前後だったらしい。このうち100店に近い廃業店が出ているのではないかとのことだった。太洋社との取引で辛うじて存続していた街の本屋が次々と姿を消す事態となってしまったのである。

 さらに他の事情もある。
 普通本屋を開業するにあたり、取次に担保を差し出す。これは本屋の支払いが滞ったときに穴埋めするためのもので、これを取引信認金(保証金)という。通例、信認金は月商の2カ月分か3カ月分となる。
 太洋社が潰れれば他の取次と取引せざるを得ないわけで、新たに用立てなければならなくなる。(栗田出版販売が書店から預かっていた信認金は、そのまま新会社に引き継がれたそうだ)
 しかも倒産である。太洋社の信認金は宙に浮いたまま、まるまる戻って来ないで、たぶん焦げ付いてしまったのが多かったのではないか。
 ではなぜ太洋社は自己破産したのか。

 「業界全体が落ち込み、その波を受けたのは確か。それ以上に、大手取次の攻勢による帳合変更合戦に巻き込まれ、取引書店が減ってしまったことが大きかった」

 太洋社は、大手取次の草刈り場となり、規模の大きい有力書店が次々と別の取次に移っていた。

 書店の取引状況を調査しているアルメディアのまとめでは、2005年に579店、2010年に521店あった太洋社の取引書店が1015年は382店に減少。売上高は2005五年に過去最高の486億円に達したものの、2010年の400億円を経て、2015年には171億円に激減していた。

 著者は面白試算をしている。すなわち取次の一書店あたりの取引額はいくらあるのだろうかと算出しているのである。方法は以下の通り。
 取次各社の2015の決算/取引書店数=一店舗あたりの売上高

 日本出版販売:6,610億円/4,315店=1億5,319万円
 トーハン  :4,951億円/4,845店=1億219万円
 大坂屋   :681億円/698店=9,756万円
 栗田出版販売:329億円/638店=5,157万円
 中央社   :235億円/405店=5,802万円
 太洋社   :171億円/382店=4,476万円

 太洋社の年商4,476万円、月商にすると370万円ほど。この月商を書店にそのまま置き換えると、マージンが20%で粗利益は70万円強。このうち人件費に割けるのがこの半分とすると、平均的なサラリーマン一人の収入にも満たないことになる。

 太洋社取引店の平均月商が300万円半ばだったとすれば、300万円以下の書店はかなりの割合だっただろう。破産した太洋社を筆頭に大坂屋に事実上吸収された栗田出版販売も含めて、大手取次が相手にしない、あるいはしたくない、小商いの書店を下位取次が“守ってきた”とも言えるわけだ。

 とにかく中小書店における環境は厳しいことは事実である。著者は次のように言う。

 書店業への愛着を持ちつつ、それぞれの事情を抱え、やむなく店を閉じ、また、かろうじて存続させているのが、いまの街の書店なのである。

 まさにこの通りなのだろう。

長岡 義幸 著 『「本を売る」という仕事―書店を歩く』 潮出版社(2018/01発売)


by office_kmoto | 2018-06-13 08:43 | 本を思う | Trackback | Comments(1)

6月10日 日曜日

 雨。

 昨日からDVDで孫の保育園での写真をまとめたり、ここのところ録りためていたビデオをBlu-rayに落としたりする。さらに図書館で借りてきた伊勢正三、吉田拓郎、泉谷しげるのベストをウォークマンに落としたり、そのCDをコピーしたりと、パソコンを駆使した。
 孫の保育園時代の写真は、保育園の先生たちが園児たちの園内の様子を撮ったもので、それを商魂たくましく、ネットで販売しているのである。プリントしてもよし、ファイルとしてダウンロードしてもよし、いずれも一枚税込みで100円。ということはシャッター一押しで最低100円だ。そこに園児数人写っていれば、その人数分売り上げとなるから、これは止められないよなあ。気のせいか園児一人で写っている写真が少ないような気がする。効率の問題からして、やっぱりそうなんじゃないかと疑いたくなる。 親達も普段、保育園での自分たちの子供の姿を見ることが出来ないから、こうしてアップされると買わざるを得ない。結構あくどい商売をしているのである。
 とはいえ、何だかんだと言ってもわが孫の写真も結構な枚数買う羽目になった。それをどうするかである。3年間だと結構な枚数となる。それをプリントしてアルバムに貼ったら数冊のアルバムが必要になるから、これはひとつDVDにまとめてテレビ画面で見る方がいい。そこでWindows Liveムービーメーカーを使ってPhotoDVDを作った。


d0331556_05204324.jpg  このWindows Liveムービーメーカーは以前にも数回使って、やはりPhotoDVDを作ったことがある。しかしもしかしたらもう少し面白い機能がこのソフトにはあるのではないかと思い、図書館でマニュアルを借りてくる。
 昔はこの手のマニュアル本をよく買ったものだが、だいたい全部読まない。必要なところをつまみ食いみたいに拾い出し読んでいた。これも要らない説明が多すぎるのだ。それにソフトがどんどんバージョンアップしていくものだから、その度にマニュアルを買っていたら大変なことになる。それで今は図書館で借りて間に合わせた。
 ページをめくっていくと大体は知っている機能なので、ふむ、ふむ、と思いつつ、さっさとページを飛ばしていく。
 写真に音楽を入れることが出来ることはわかっていたが、このソフトに対応する音楽ファイルの形式がソニーのウォークマン対応のomaでは駄目なことをこの本を見てわかる。mp3ならいいらしい。そこでomaをmp3に変換するにはどうすればいいのかネットで調べてみると、ソニーから変換ソフトが無償提供されている。で、さっそくダウンロードして使って、mp3形式に変換した。
 それからWindows Liveムービーメーカーの画面からそのmp3形式に変換したビートルズのナンバーを挿入してみると、写真の画面にビートルズが流れる。なかなかいい感じで、ちょっとうれしくなる。

d0331556_05211525.jpg 何で今、伊勢正三、吉田拓郎、泉谷しげるの歌を聴くのよ、と言われそうだが、私が高校時代よく聴いた。いわゆるフォーク全盛の時代であり、巷でよく流れていた。文化祭の時、クラスの友人二人が伊勢正三の「22歳の別れ」と「置き手紙」をアコースティックギター片手に歌っていた。結構様になっていたのを覚えている。
 今回聴いたベストの中に「あの唄はもう歌わないのですか」のライブはいい。おそらく最近のライブ音源だろう。昔と違い通った声ではなく、枯れた感じが、曲の哀愁をさらに感じさせるものとなっている。
 吉田拓郎はよく聴いた。エレック時代のレコードから「今はまだ人生を語らず」までみんな持っている。今はプレーヤーがないのでこのレコードを聴くことは出来ず、しまったままになっている。
 南木佳士さんが吉田拓郎のことを書いている。それを読んでまた聴きたくなった。それでCDを借りて、ウォークマンに入れ、聞くことにしたのだ。さらにせっかくなのでCDをコピーしておく。ジャケットもプリントしてそれらしくする。
 今日はプリンターも大活躍である。先に作った孫のDVD、Blu-rayも表面をプリントした。

by office_kmoto | 2018-06-11 05:28 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

吉村 昭 著 『旅行鞄のなか』

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 柏原成光さんの『人間 吉村昭』に、吉村さんが4回も芥川賞候補にノミネートされながら、受賞できなかった焦りから、ペンネームで雑誌に投稿したこよが書かれている。それは、

 彼が新しい筆名を使ったのは、『文学者』の同人仲間の一人が、それまで長く使っていた本名を止めて、新しい筆名を使って、いわばまったくの新人を装って応募して、ある雑誌の新人賞を取ったばかりか、芥川賞までとったという例が身近にあったからである。(柏原 成光 著 『人間 吉村昭』 )

 その詳細がこの本にも書かれている。

 さらに、それから三年後、筑摩書房で応募作品として中篇「星への旅」を郵送した。文壇へ登場の望みは薄れて、会社勤めをしていた私は、第一歩からやり直す気持で応募作にペンネームをつけた。戸川雄次郎氏が菊村到というペンネームで文学界新人賞に応募して受賞、その作品が芥川賞をうけたことが念頭にあった。
 「星への旅」が太宰治賞に決定した翌日、筑摩書房に行った私は、臼井先生にお会いした。十一年ぶりに先生の前に立ったのである。
 先生は、現在、どんなものを書いているのか、と言われ、「新潮」に長篇小説「戦艦武蔵」を執筆中で、それは本名で発表されるだろうことを口にすると、ペンネームなどやめて本名にすべきである、と忠告して下さった。(臼井吉見先生)

 吉村さんはペンネームを使ったことを恥じたのであった。

 この本は吉村さんの小説の余話として、取材の裏話が書かれていて興味深かった。もちろんエッセイなので吉村さんの身辺話もある。私は「義妹との旅」が良かった。
 吉村さんの弟さんの死については『冷たい夏、熱い夏』があり、弟さん闘病生活が描かれる。弟さんは亡くなりそのお墓の下見に、義妹と二人で行くことになってしまう。 ここからが面白いのだが、吉村さんはたとえ義妹でも二人だけで好ましくないと考えるのである。まさに吉村さんらしい。それを聞いた吉村さんの妻も「おかしな人ね」と呆れるし、義妹も気にならないと言うが、それでも吉村さんは兄に同行を頼む。
 お墓を下見した帰り、兄と別れ、義妹と二人だけになる。義妹は哀しみに涙をする。それを慰める吉村さん。それは傍から見ると、「ただなる関係」と見てしまうあたりはおかしかった。

 義妹は、静かに鳴きつづけ、東京駅に下車してからもハンカチを使っていた。
 「それじゃ、元気でな」
 私は、京浜線の電車に乗る義妹に声をかけ、歩き出した。彼女が、弟の位牌だけのある家にもどってゆくのかと思うと、胸が痛んだ。
 中央線のホームにあがって、京浜線のホームをみると、ぼんやりとベンチに座っている義妹の姿がみえた。

 身近な人の死の哀しみをホームでの義妹の姿で描くのはさすがだな、と感じた。

吉村 昭 著 『旅行鞄のなか』 毎日新聞出版(1989/06発売)


by office_kmoto | 2018-06-10 16:37 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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