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伊集院 静 著 『ねむりねこ』

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 この本はブックオフの低価格コーナーで見つけた。表紙をめくると、伊集院さんのサインがある。どうやらこの本は献呈本であったようだ。
 ブックオフではそれがサイン本であっても、その本が出版されて時間が経ったものは安くなる。付加価値は認めない。だから低価格コーナーで著者のサインがある本をよく見かける。私も数冊ブックオフでサイン本を買っている。
 さて、

 春先、この原っぱで、ナズナを見つけた家人が、実の柄を茎から少し剥がし、耳元で振って笑っていた。子供の頃、姉や妹たちが同じ仕種をして遊んでいた。私も家人の手からナズナを貰って振ってみた。懐かしい音色だった。目を閉じると、四十数年前の記憶があらわれる。音の記憶はたいしたものである。(野の花の強さ)

 これ、みんなやるのだろうか?私も孫と近くの親水公園を散歩したときぺんぺん草を見つけ、同じように実を柄から少し剥がし、それを耳元で振ってみた。孫は微かな音が不思議なのか、しばらくぺんぺん草の柄を指でつまみ回していた。

 人間もそうだが、純粋種は危ない。傲慢が見え隠れする。(野の花の強さ)

 生きることにも、丁寧が大切だとわかるには時間がかかるのが、私たちの一生である。(パリの煙)

 本当に世話になった人にはお礼を返すことができないようにできているのが、この世の中ではないかと思う。いい例が自分たちの親だ。大半の人は、親に世話になりっぱなしで死別してしまう。大半の子供が、それを悔んだまま、大人の顔をして生きている。そうであるなら、悔みがあることが、人生なのではないか。“悔み”の周辺に生の肝心があるような気がする。何もかも上手くいった人、何もかも与えられ、手にした人は、結局、生きる上で肝心に触れてはいないということではないか。(ハズレてばかりだね……)

 社会は安定すると必ず偏向する。それが人間というものの弱点であり、歪むことを平気ですることも人間の本質である。私たちが流されたり、愚行をしないためにも見定めることしかあるまい。(風を見る)

 生きることは実践である。懸命に生きようといい加減に生きようと、その生き方で得たものしか人には身に付かない。いかに良い教育を受けようとも人は学んできたものが正しいと実感できなければそれらのものは何も活用できない。己を知る鏡は他人の中にある。人との出逢いは実践の中で最大の出来事だ。(松井秀喜の軌跡)

 これらは伊集院さんがよく口にすることである。伊集院さんが若い頃の苦い経験から出ているのだろう。ただこれらの言葉群は確かにその通りだと思うが、いささか鼻についてきたところがある。外連味はないにしても、こうストレートに言われてしまうと反論の余地がない分、逃げ道がない。ここが山口瞳さんとの違いだと思う。
 山口さんが亡くなって、サントリーの広告文を伊集院さんが引き継いでいるが、山口さんには「遊び」がある。伊集院さんの文章にはそれがない分、きつい。

伊集院 静 著 『ねむりねこ』 講談社(2003/10発売)


by office_kmoto | 2018-07-30 05:23 | 本を思う | Comments(0)

宮部 みゆき/半藤 一利 著 『昭和史の10大事件』

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 この本は宮部さんと半藤さんがそれぞれ昭和史の10大事件を出し、それをまとめて事件をめぐる二人の対談である。二人が語った昭和史の10大事件とは、
1.昭和金融恐慌
2.二・二六事件
3.大政翼賛会と三国同盟
4.東京裁判と戦後改革
5.憲法第九条
6.日本初のヌードショー
7.金閣寺焼失とヘルシンキ・オリンピック挑戦
8.第五福竜丸事件と『ゴジラ』
9.高度経済成長と事件―公害問題・安保騒動・新幹線開業
10.東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)

 である。
 読んで知り得たことを書き出す。

半藤 まず、昭和元(一九二六)年は一週間しかないんですよ。私は編集者の頃、一ぺん探したことがあるんです、「昭和元年生まれ」という人を。とくに女の人は全然いないんですよ。

宮部 とくに女性が?

半藤 なぜいないかというと、当時は数え年でしたから、生まれて一週間たつと二つになっちゃうんです。

宮部 あ、そっか。

半藤 女の子の場合は、すぐ年をとっちゃうのは気の毒だというので、みんな昭和二年一月生まれにしちゃっているわけです、届けを。(昭和金融恐慌)

 昭和元年が1週間しかなかったとは知らなかった。そういえば昭和の終わりである六十四年も1週間しかなかったのではないか。すぐ平成になったと記憶している。その昭和の元号が『書経』から取られていることも知った。

半藤 『書経』の「百姓昭明、協和万邦」からとったんでしょ。ある人が「半藤さんは何年生まれ?」と聞くから「昭和五年」と言ったら、「あなたの友達には、昭とか和の付く名前の人が多いだろう」と言う。なるほど、私の知人にも「昭(吉村)」、「昭五」とか「和子さん」「昭子さん」とか、「昭」とか「和」の付く名前が、本当に多いですよ。(昭和金融恐慌)

半藤 満州国を昭和七(一九三二)年につくっていろいろどんどんやって、日本の国力は金融恐慌勃発四年後の昭和六年がGDP(国内総生産)のどん底だったんですけど、その昭和六年から、満州事変、第一次上海事変、満州国建設などがあって少しずつ景気が良くなりだして、昭和十二年が、たしか戦前の最高の時期なんです。

宮部 え?十二年ですか。

半藤 そうです。驚くなかれ、経済成長率が七年から十一年まで平均七パーセント、十二年は二十三・七パーセント。ウォール街発の世界大恐慌から世界で最初に脱却したのが日本なんです。(大政翼賛会と三国同盟)

半藤 その正月(昭和二十一年一月一日、天皇の「人間宣言」が載った日)の同じ日の同じ新聞に、「GHQの指令により、歴史、地理、修身の授業を禁止すべし」とある。

(略)

宮部 何年ぐらい続いたんだろう。歴史、地理を教えないのは。

半藤 宮部さんの時代まで、あるんじゃないの?

宮部 いや、私は教わりました。ただ、やっぱり現代史のところまでは授業が届きませんでしたね大正デモクラシーあたりで「もう時間がないから、あとは教科書読んどいてー」みたいな。まさか、あんまり教えたくないということだったのかな。

半藤 いや、もしかすると、そうかもしれないと思いますよ。終戦後の教育の影響が、ひきずられていたのかもしれない。たとえば、教わってこなかったから、今は教えるべき先生が分からなかったということもある。

(略)

宮部 そう考えると、学校で教えられなかった近代史を、初めて国民に広く教えたくれたのは、司馬遼太郎さんかもしれませんね。

半藤 結果的には、司馬さんなのでしょうね。(東京裁判と戦後改革)

 GHQが日本の歴史、地理の授業を禁止させたというのは驚いた。修身の禁止はわかる。戦前戦中にようにならないようにするためだ。しかし日本史、日本地理の禁止までそれが及んでいたとは。
 私の高校時代の歴史の授業も確かに宮部さんの言う通り近現代で時間切れになってしまった。それが単に時間切れだけだと思っていたが、それだけでなく教える教師の方がGHQの命令の影響でまともな歴史の教育を受けていないため、そうなってしまった可能性があるかもしれないというのは面白い。
 そして私も近代史をよく知ることになったのは、やはり司馬遼太郎さんの本を読むことになってからだから、これも宮部さんが言う通りであった。

半藤 今、いわゆる東京裁判史観というのがあって、連合国側は日本人にものすごく酷いことをしたみたいに言う人がいるけれど、もし日本人が日本人の戦争指導者の裁判をしたら、多分、死刑七人じゃすまなかったと思います。

宮部 もっと大勢、怨嗟の的になった人たちがいたということですか。

半藤 そう思います。具体的に言うと東京裁判では、戦争を指導した人たち、軍令関係、たとえば参謀本部とか軍令部とか、そういう戦争遂行のため指導した連中は一人も死刑になっていない。全部セーフです。日本人が裁いたら、それではすまなかったと思います。たとえば特攻作戦を計画し、作戦をつくり、命令して沢山の若者を死に赴かせて、本人は口をぬぐっている人たちを許せますか。ただ、だからといって、もし日本人が裁いたとしたら、きっと、ものすごい怨みが、現在までも残っていたでしょう。(東京裁判と戦後改革)

 こう書かれると、確かに日本人が日本人の戦争責任を裁いたら、死刑を下された人数は厖大な数になるのではないかと思う。

半藤 東京裁判っていうのは、当時の私たち日本人はたしかにみんな黙って見つめていただけでした。そうして責任はないということを、自分で自分を納得させたんじゃないでしょうか。(東京裁判と戦後改革)

 金閣寺の放火についてその犯人の動機についての半藤さんの意見は傾聴に値する。

半藤 水上勉さんも『金閣炎上』という小説を書いています。小林秀雄もこの事件を書いているんです。(「金閣焼亡」)。どれもこれも、疎外された孤独な若者の犯行というテーマです。ところが、私は、違うんじゃないかな、と。そういう見方も美的でいいかもしれないけれど、戦後史の事件という見方でみると違うよ、と。

半藤 彼が言ったという言葉、「火をつけたことは悪いとは思わない。金閣の美しさを求めて、毎日訪れる参観者の群を見るにつけ、私は美に対し、またその階級に対して、次第に反感を強くしていった。世の中の美は、自分にとって醜いと感じたが、反面、その美に対する嫉みを抑えることができなかった。これは自分たち若い世代の者が、悪い環境に置かれているためかもしれない」と。このへんから金持ちと貧乏人の差が出て来たんですね。

宮部 朝鮮戦争特需で急激に伸びているところと、まだまだとても復興どころじゃないというところとの差ができたということですね。

半藤 そうです。戦争成金がまた大手をふりだした。それにたいする妬みというか反逆というか、ある意味では、文学的な事件なのですよ。(金閣寺焼失とヘルシンキ・オリンピック挑戦)

 金閣寺炎上に関しては興味があって、三島由紀夫や水上勉の小説を読んだが、それらはどれも犯人の動機を金閣寺の美と結びつけてしまうところがあった。(ちなみに酒井順子さんも『金閣寺の燃やし方』という作品がある)でもその犯罪の動機をその美にあるというのはあまりにも観念的な気がした。実際の動機はもっとリアルで現実的なものがあったのではないかと思ったことがある。だから半藤さんの意見は賛成である。

 「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)」では宮部さんの意見は興味深い。

宮部 それまでの大久保清事件などは、取材もいっぱいされたし、発言する人もいたけれど、所詮、女性を狙った下種男の犯罪だった。全容が明らかになったら、悲しい顰蹙しか残りませんでした、という。ところが、宮崎勤事件がそれまでの女性を狙った事件と違ったのは、宮崎勤が、ある種、人によっては自分もそうした要素があるんじゃないかと思わせるような、引力を持っていたというかな。もちろんこいつもとんでもない奴なんだけれど、そんな、魔的なものを持っていたんですよ。

宮部 次の大きな事件はやっぱりオウム真理教事件だし、その次が神戸の少年A、酒鬼薔薇(聖斗)事件だと思いますけれど(神戸連続児童殺傷事件)、犯罪が内的な想像を現実化するためのものとして発生するようになったし、また、そういうふうに発生しているんだよなって社会が解釈するようになったきっかけだと思うんです。その意味で非常に重要な事件であると思います。(東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件)

 確かに宮崎勤の事件やその後起こった数々の残忍事件からその自己中心的な動機、異常さは誰にも内在するのではないかと考えさせるようになったかもしれない。もしかしたらちょっとしたきっかけで簡単にたがが外れてしまうのかもしれないという恐怖を感じさせる。そんな嫌な事件を最近多く見聞きするので、人間は簡単なことでそこまで至ってしまうのかな、と考えてしまうところがある。

宮部 みゆき/半藤 一利 著 『昭和史の10大事件』 文藝春秋(2018/03発売) 文春文


by office_kmoto | 2018-07-28 22:07 | 本を思う | Comments(0)

南木 佳士 著 『小屋を燃す』

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 久しぶりに南木さんの新刊が出て、さっそく読む。「畔を歩く」「小屋を造る」「四股を踏む」「小屋を燃す」の四篇が収められる。うち「四股を踏む」「小屋を燃す」は雑誌「文學界」に掲載されたときに読んでいる。
 いずれにせよ、この四篇は南木さんの後半の人生を描く。

 東信州の田舎町にある総合病院を今春、定年退職した。入学金四千円、年間授業料一万二千円の東北の新設官立医学校を卒業し、すぐ就職したわけだから、勤続四十年。最後の職場となって責任者を押し付けられた人間ドック科の送別会、それと、就職時は三百人程度だったが、いまでは職員数二千数百人の大所帯に膨らんだ病院全体の送別会だけに出席し、あとの誘いはすべて断った。中途も含めて退職者五十二名のうち大半は看護師で、医師は一名のみだった。(畔を歩く)

 いよいよ定年で、今回が最後の診療になりますので、次回からは信頼できる若手の医師の予約を入れます。申し送りはきちんと文書でおこないますから大丈夫ですよ、と告げた。あら、もうそんな歳だったの。そうか、これがお話でき最後なのね。(四股を踏む)

 そして、祖母と一緒に暮らしたことがある姉を失う。

 祖父、母、祖母、父の順に死に、いま姉が消えてゆく。上州の寒村のおなじ屋根の下で生きた者たちのなかでたった独りこの世に遺されることの爽快な寂寥感が全身に拡がる。(四股を踏む)

 長いこと勤めた病院を定年で職場を去るという人生の一つの節目があり、親族を失い、「上州の寒村のおなじ屋根の下で生きた者たちのなかでたった独り」残されたことから、これから先、南木さんの作品がどう変わっていくか楽しみであった。
「小屋を造る」は南木さんと同じ世代で、現役を終えた仲間たちと小屋を造り、そこで“遊ぶ”。造った小屋で酒を飲み、食べる。仲間が語るそれぞれの人生に自分の過ぎてきた人生を重ね合わせ、自身の思い出を語る。四篇の作品のスタイルとしての特徴は、ある一事を文章から独立させ、強調する。ただ全体的に少々読みにくい。もともとこの人の作品には小難しいところがあるのだが、この四篇ともその傾向が強くなった感じがする。それは南木さんの人生の節目からくる一時的な変化からなのか、それとその傾向が強くなるのか、これからを見てみたいところである。
 もちろんこれまでのように自身を振り返り、自虐的なところを文章に表すところは健在で、ただそれが今回小難しくなっているだけだ。それでも年齢的に同世代なところで同感するところがあり、いつものように感心しながらそのフレーズに魅了される。

 そうしてみると、こういった記憶そのものが、思い出すたびに創られ、そのときの状況によって上書きを重ねられ、次第におのれの生存に都合よく改編されてきた薄っぺらな広告冊子みたいに感じられ、(畔を歩く)

 これまでに為してきた努力のすべては大いなる錯覚、あるいはとんでもない厚化粧にすぎなかったのだ。(畔を歩く)

 なりゆきのなかに身があって、その外からいまのなりゆきをながめられる視点なんて、老いて日々を生きのびるのに精いっぱいになってきた身には備わっていない。たぶん、そんなものはもとからなかったのだ。(四股を踏む)

 丈を高く見せるべく懸命に背伸びし、あげくのはてに足首の関節を痛め、それでも努力して背負う荷の嵩を増やすために足し算を重ねたきたつもりの半生の、ささやかな総和がいきなりゼロを掛けられてきっぱり意味をなくす。(小屋を燃す)

 特に最後の文章は無理して背伸びをし続けたのに、最後に梯子を外されるが如く、ゼロを掛けられ、すべてが無になってしまう。同じように経験をしてきただけに、身に沁みた。

南木 佳士 著 『小屋を燃す』 文藝春秋(2018/03発売)


by office_kmoto | 2018-07-25 05:32 | 本を思う | Comments(0)

杉本 章子 著 『東京新大橋雨中図』

d0331556_05491469.jpg この本には思い出がある。本屋時代、この作品が直木賞を受賞した時の仕入の話だ。私がいた本屋の仕入れ先の一つにS図書があった。S図書は新刊としてこの本の出版社である新人物往来社の新刊を配本してくれる。ただこの本の出版社の本は私がいた本屋では売れない。ほとんどが返品となる。もともとこの出版社はそれほどメジャーな出版社ではない。そのためうちの本屋だけでなく、新刊として配本されても返品となるものが多いようだ。
 だからこの本が直木賞受賞したとき、S図書の返品倉庫にこの本があるものとにらんだ。実際S図書の返品倉庫を漁ってみると、3冊ほど出て来た。さっそくそれを仕入れ直して、店で売った。何と言っても芥川賞や直木賞受賞作品となると売れるのである。ただ仕入はしたものの読んだことはなかった。今回川本三郎さんの本を読んでこの本が紹介されていて、読んでみたくなった。

 この本は最後の浮世絵師として呼ばれる小林清親の話である。
 清親は本所御蔵屋敷御勘定掛だった。ただ江戸末期、明治維新と大きな時代の変革期に生きたため、その時代に翻弄された。
 幕臣らは維新によって、江戸を離れ、徳川十六代家達の住む駿府へ移る者が多かったが、清親も母ともに駿府に移った。しかし大勢の幕臣が狭い駿府に移っても仕事がなく、貧しい生活を強いられる。武士としての誇りを捨て撃剣興行に身を投じたりしたが、江戸恋しさもあって3年で江戸に戻ってくる。母親はかなり弱っていてやっとの思いで江戸に戻ってきたのであった。
 しかし江戸に戻ったからといって住むところがあるわけでもなかったが、たまたま目にした借家が錦絵の版元であり、それまで暇に飽かせて描いていた絵が有力な版元の大黒屋の目に止まる。


 「いま歌川派の先生たちの出しているものは、昔で言えば、さしずめかわら版の絵ですよ。なにしろ目新しい建物とか乗り物とかを、毒々しい絵具でもって描き写しただけですからね。どなたも浮世絵の古い技法を使っておいでだ」
 「……」
 「しかし小林さんの絵は違う。あなたならきっと、新しい風景画が描けるはずです。ひとつ、うちで働きながら、修行なすってみませんか」



 ただその作風は未熟であったため、河鍋暁斎の口利きで、写真家・下岡蓮杖の弟子・桑山が経営する写真館で色つけの修行を始めた。
 江戸に帰ってきても母親の状態は弱る一方で、ついに亡くなる。兄弟で葬儀を行うが、兄の虎造とは連絡が取れない。虎造は母の金を盗んだため、顔が出しにくかったかもしれないと清親は思ったが、いずれにせよ夜逃げして音信不通であった。清親は嫂の佐江に心引かれていたので、虎造たちの行方が気がかりであった。
 そんな時、修行していた写真館で、それは外国人あたりに人気があり、密かに広まっている女性の写真の色付けを頼まれる。その写真は肩から着物をずらした佐江の姿が映っていた。清親はその写真の出先から、虎造と佐江の行方を探る。
 虎造は病に臥していた。母の金を盗んだのは、借金取りに追われたのは共同事業を持ちかけられた相棒に騙されたからで、佐江があのような写真のモデルになったのもそのためであった。清親は他の兄弟と図り金を工面して佐江に渡した。

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 清親の腕は上がり、光線画と名付けた『東京新大橋雨中図』は、爆発的に売れた。その絵の中にある蛇の目傘をさした後ろ姿の女は、清親が思いを寄せた佐江を描いたものだった。
 しかし光線画の人気もやがて下火になっていく。版元の景気も悪くなり、ニーズのある西南戦争の錦絵や大久保利通と西郷隆盛の似顔絵などを描くようならざる得なくなった。火事場に出向き臨場感あふれる絵を描くよう版元から求められた。この時、身重の妻と幼い娘を家において、火事の現場に出向いたことが原因となり、もともと妻とも不仲になっていていたのが、このことで決定的になり、妻は実家に帰ってしまう。夫婦の関係は修復されず、ついに清親が娘をひきとり離縁となった。
 一方光線画はますます下火になっていく。さらに手間の掛からない石版画に移行していき、清親の描く繊細な描写はそこには求めることが出来なくなっていく。生活のため躊躇していたポンチ画を描いていく。
 物語はそうした屈託の中の清親に、一人の女性が現れることで終わっていく。
たまたま清親は足を挫いて歩けなくなった老女を負ぶって家まで送り届けたことからその老女の家族と親密になる。清親は引き取った自分の娘の面倒まで見てもらう。清親は老女の娘で清元の師匠・延世志に思いを寄せ、正月に使う箸を延世志の家族と自分と娘の分を含めて買うところで物語は終わる。

 とにかく清親の人生は幕末・維新と激動の時代に生きた絵師だっただけに、時代に翻弄され続けた人生だった。まして新しい時代が幕臣であった清親にとって無理にでも迎合しないと生きていけなかった。そこには新しい時代に対する屈託があった。


 「この、明治野郎っ」
 と罵声をあびせかけた。
 「なんです、それは」
 きょとんとして清親は訊ねた。
 「気に入らねえ野郎どものことを、おれはそう呼ぶのさ」
 芳年は裾前の埃を払いながら、言った。
 「なるほど」
 痛快な罵詈に、思わず笑った。
 変わっていく世の中、変わっていく町々、変わっていく人々……気に入らない野郎どもが、一日一日と、お江戸を変えていく。江戸を奪った野郎どもに、「明治野郎」と怒鳴ってみるのもわるくない。


 最後に風刺画としてのポンチ画を描こうとするのも、


 幕府を倒した新政府の輩を、思うさま絵筆の先で皮肉ることができるとは、もと御家人として本懐の至りではないか。


 と思うからであった。
 その清親の描いた絵を見てみたくなった。近いうちに図書館に行ってその画集を見てみたい。


杉本 章子 著 『東京新大橋雨中図』 新人物往来社(1988/11発売)

by office_kmoto | 2018-07-22 05:53 | 本を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『江分利満氏の酒・酒・女』

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 この文庫の最後に「この作品は徳間文庫オリジナル版です」と書いてあるが、これはどう考えたって山口さんのこれまでのエッセイのアンソロジーである。なのにオリジナル版というのちょっとおかしくないか。こうして集めたという意味でオリジナル版ということなのだろうか。ただ初出ぐらい記載してもいいんじゃないか、と思うが、それは一切ない。
 気になる文章を書き出してみる。

 私は見た目の悪いものはいけないことだという考えに立っている。(酒のエチケットは「健康」に尽きる)

 作法というものは失敗を未然に防ぐためにあるものと考えている。(酒のエチケットは「健康」に尽きる)

 バーの女性と親しくようと思ったら、胃の話をするにかぎる。夏は冷房で冬の如く、冬は暖房で夏の如く、二の腕あらわにした夜会服めいた衣装が多いから冷えるだろうし、夜昼逆で、神経はつかうし、そこに酒がはいるから、3年勤めたら、まず胃をやられるにきまっている。胃の話をすればグッと親密度が増すというものだ。(いい酒場は心を解放する)

 だそうだ。
 我々の年代が集まると、いつの間にか病気の話、からだの話に花が咲く。

山口 瞳 著 『江分利満氏の酒・酒・女』 徳間書店(2010/09発売) 徳間文庫


by office_kmoto | 2018-07-20 07:01 | 本を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈12〉

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 まずは「へえ、なるほど」と思うことをあげる。

 田沼意次は、いろんなところで悪者になっているけれども、江戸時代というのは、際立ったことをやると没落する気分の時代でした。そんな時代は余計なことをやった。むろんそのために足を引っ張られて没落し、田沼が採用した優秀な探検家や官僚たちも失落したわけですけれど、田沼は北海道のために目のさめるようなことをやっている。(北海道、志の場所)

 南方植物である稲を北海道に植えて成功させたように、日本の農業技術は誇るべきものです。何といっても農林一号という小麦はアメリカの現在の小麦の先祖ですから、品種改良については明治以後の農事試験の腕は相当なものです。(北海道、志の場所)

 陽性のひとにとって、たとえば豊臣秀吉がその好例であるように、行動上の失敗も、倫理的破綻すら愛嬌になり、七難を隠してしまうが、陰性のひとの場合、わずかなほころびでもひとにはことごとしく見えてしまうものらしい。むしろほころびがないというだけで、ひとに不快をあたえることもありうる。(あとがき 『ある運命について』)

 最後の文章はひどく納得してしまう。陽性の人は得であるし、陰性の人はとことん不利だなと思う。

 さて、今回特に気になったのは“日本語の文章”についてである。私たちが誰でも普通に文章が書いている。得手不得手はあるだろうが、物事を、あるいは自分の想いを文章で表すとき、多くの語彙から選んでいるはずだ。しかしそうできるようになったのはごく最近のことだという。段階的に説明すると、

 江戸期は、あらゆる階層が文章を書いたといっていい。ただ、江戸期の文章日本語は叙事、叙景に長じているが、観念的な分野まで覆いきる日本語の文章を作った人は多くない。(文章語の成立について

 何故かというと

 明治以前、どの藩校、有名私塾、あるいは民間の寺子屋にも、国語教育というものは存在しなかった。藩校や有名私塾で教えられるものは漢学で、寺子屋にあっては読み書き・そろばんのみであり、その読み書きについても、市民生活に必要な書簡や帳付けのための基礎教育をほどこす程度のものだった。(捨てられたかけた日本語)

 しかし、

 江戸後期では本居宣長と上田秋成のほか数人があげられるし、末期には何人かみごとな例があるが、問題は明治維新でのすごさである。それらの共有財産がいっさい使用不能の過去のものになってしまった。(文章語の成立について)

 では、何故明治維新がすごいのだろうか?

 国語教育がはじまるのは、明治になってからである。それも、すぐではなかった。
 明治維新の目的を洗ってみれば、植民地化されることから脱するための富国強兵ということであり(この目標においては、その後に展開される自由民権運動も同心円のなかにあった)、そのため徹底的な文化大革命がおこなわれた。教育の面でも同様であった。
 新政府は、旧幕府所有の洋学機関を接収し、これを開成学校・医学校と称し、やがて法学・理工科系を大学南校、医学系を大学東校とし、明治十年の東京大学の成立にまでいたる。この間、国語学・国文学を研究教授する機関は、国公立学校には存在しなかった。理由は、それらは固陋だということに尽きていたらしい。(捨てられたかけた日本語)

 ちなみに大辞林によると固陋とは、「古いものに執着し、あたらしいものを受け入れようとしない・こと(さま)。かたくな、とある。

 私は、社会的に共有されるという意味での文章を、ここでは成熟度の高い文章(あるいは文体)とよぶことにしている。そういう文章は、多目的工作機械のように、さまざまな主題の表現のために多様性をもつものと思っている。
 幕府瓦解後、文章は社会的に成熟せず、書き手たちの手づくりだった、ということについてすでにのべた。その極端な例として泉鏡花をあげた。右の多様性ということでいえば、鏡花の文章では恋や幻想は表現できても、米ソ問題や日本農業の将来は論じられにくい。――といって鏡花の文学価値はそのことで減じることはない。
 ただ文章が特異すぎ、文章の社会共有化についてのるつぼの中に入れられる(無意識にまねされる)ことがなく、いまなお孤立している、というだけのことである。(漱石など)

 いわゆるさまざまな事象を表現できる日本語を明治期の書き手は自ら語彙を作り、なんとかそれを表現しようとした。けれどそれはまだその書き手が書いた文章のみに通用する表現方法であって、他者が使えるものではなかった。また極小的であり、限定的であった。だから他に応用がしにくい。それが出来る語彙が出来て初めて、語彙の共有化ができる。そういう意味で司馬さんは漱石の文章は以後書き手に共有できる文章表現だったという。
 その文章表現の共有化で面白い話がここにある。

 私は昭和二十七、八年ごろ――筆者は文芸評論家だったろうか――ちかごろ作家の文体が似てきた、という意味の文章を書いているのを読んで、じつに面白かった。ただ、惜しいことに、筆者はそのことを老婆のように慨嘆しているだけだった。なぜ驚かないのか。(昭和三十年代の意味)

 江戸末期に共有化されていた文章日本語が、維新で瓦解し、あらゆる文章参加者が、それぞれの手で文章をつくり、すくなくとも昭和のある時期まで作家たちはまちまちの手製の文章で作品を書いてきた。それが似てきたという。(昭和三十年代の意味)

 つまり昭和三十年代になって初めて文章を書く上で共有できる語彙、表現が多く見出されることとなったわけだ。その理由は司馬さんは桑原武夫の言葉をあげている。氏は「昭和三十年代、雑誌社が週刊誌を発行してからだと思います」と言っている。
 それまで週刊誌が新聞社系統でしか出されていなかったのが、雑誌社が、自社の社員や嘱託した記者に書かせる大量の文章が世間に広まったことで、多くの表現方法(語彙)を目にすることが出来るようになり、人々はそれを真似て文章を書くようになった。
 この真似が文芸評論家をしてステレオタイプに見え、似てきたと感じさせたののだろう。

 最後に日本が中国及び韓国となかなか友好的なれないのは、いまだに続いている。その理由は基本的に日本側の歴史にあることは間違いない。けれどあえて言わせてもらえば、中国、韓国の人々の中にあるプライドの高さというか、意識の頑なさも、双方が友好的になれないところがあるんじゃないかと感じることがある。それを司馬さんは書かれている。

 なにしろ、私どもの民族は、十六世紀末、何の名分もなく、強盗として朝鮮に押し入った。また、二十世紀初頭から日本の敗戦までの三十五年間、侵略し、支配した。さらには人間としての名誉をうばい、民族的自負心の芽まで摘んだ。この事実が存在する以上、私どもは朝鮮・韓国人と話をしているとき、しばしば立ちすくまざるをえない。
 その上、尋常ならざるプライドのつよさ。

 (略)

 私が勝手に感じている韓国の「伝統」というのは、自分の価値観を錐のようにするどく絶対化し、他の価値をみとめず、むしろ激しくそれを攻撃するというもので、李朝文章における漢文でさえはげしく、するどい。
 このするどさは、岩石をうがつことができる。しかし、石のむれや樹々に対して、それぞれの個性をみとめ、おだやかなにところを得しめるという作用は、あまりないように思える。(はじめに 『日韓ソウルの友情』)

 安倍首相がよく口にする「未来思考」という言葉は、こういう事実があるから、それを置いといて、次に進みませんかと言っているようにいつも思える。それは多分に日本側に都合いい言葉である。それは日本史をひもとけば一目瞭然である。
 もともと日本が口にする言葉じゃない。たとえば中国や韓国の人々がそう言ってくれるのであれば有り難い言葉だと思う。
 安倍首相は過去の歴史の責任を我々子孫に負わせるのはどうか、とも言っていたが、責任ではなく、我々の自覚の問題である。少なくとも我々の歴史の中で、やってはならないことをしてきた事実をいつでも思い至ることが重要であって、そういう歴史を持っていることを自覚しなければならないと思っている。
 ただ中国や韓国の人々もそう頑なにならずいて欲しいとは思う。もっともお前等がそうだから言っているだけだ、と言われてしまえば黙るしかないのだが。まずは我々が姿勢を正すことから始めないといけないのだろう。

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈12〉エッセイ1983.6~1985.1』 新潮社(2002/09発売)


by office_kmoto | 2018-07-18 04:42 | 本を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈11〉

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 このシリーズは基本、未収録エッセイが主になっているが、書かれている内容はこれまでのエッセイと重複することが多くなる。だからおさらいという感じでまた書き出しておく。

 漢帝国の初期の政治原理は、老荘の黄老術であった。そのことは劉邦の性格でもわかるし、かれが重用しつづけた名宰相の蕭何が若いころから黄老家で、社会の実態に対して政治は無為であるべきだという方針をとりつづけた。そのあとを継ぐ曹参も蕭何と同学の人であったことは『史記』の諸事歴でよくわかる。これらの自然にまかせるという黄老的な政治方針は、秦の法家主義とながい戦乱で疲弊しきっていた世間を安堵させ、人心を安らかにした。なによりも民間の経済がおどろくほどさかんになった。
 漢帝国は武帝(在位、紀元前一四一-前八七)の即位の段階で国庫が未曾有に満ち、天下がゆたかになっていた。このことは黄老主義のおかげであったろうし、同時にその役目もおわったといっていい。武帝はかれの代になってはじめて儒家の董仲舒の献策を容れ、儒教主義をもって国家の指導原理とし、思想界の統一をもはかった。武帝という中国史上の最盛期を象徴する人物によって儒教が国教となり、その後、中国は沸騰からしずかに停頓へむかうことを思うと、武帝は中国の文明史上の分水嶺に立つ人物ともいえるのではないか。(沸騰する社会と諸思想)

 大草原には大遊牧国家ができるわけですが、中程度だと中クラスの遊牧国家ができ、古代の長城の外に強弱の系列ができました。牧草地が大きいか小さいかで、強弱が決まるのです。モンゴル高原は、適地である上広大でしたから、ここで成立した遊牧国家は大きかったんです。(遊牧文化と古朝鮮)

 それで面白かったのはその遊牧国家が広げた領土がその滅亡後、そのまま中国の領土になってしまうという事実である。

 清朝の瓦解は二十世紀ですが、瓦解すると、清朝の故郷は中国領になります。これが中国のおもしろいところです。征服王朝が滅ぶと、その土地は中国のものになるんです。つまり元王朝ができてそして滅ぶと、かれらの故郷であるモンゴル高原は中国領、というわけです。元王朝というのは、非常にアクティブですから、はるか雲南省まで退治した。その雲南省も元が滅ぶと自動的に中国領になってしまいます。清朝がまたすごい。明よりもさらに国境をひろげました。たしか、チベットの従属は清朝になってからです。要するに十三世紀から二十世紀まで――その間にむろん明が入りますが――この二つの征服王朝が中国の領土をひろげたといえます。異民族による征服王朝がせっせと中国領をひろげてやがて滅び、いまは中国内部の小民族になっているというのは、他国の歴史ではありえないのではないかと思います。(遊牧文化と古朝鮮)

 もともと遊牧民族は行動範囲が広い。だからその領土は当然広くなる。それが滅亡後中国領土になり、何度は遊牧民の征服王朝が興れば、その都度広がることになっていった。

 昔ならば木を植えては防衛にならず、草だけのズンベラボウにしていました。こういう傾斜では馬をかついで上がるわけにはいかず、まして城壁で阻まれます。騎馬民族というのは、馬を捨てたらただの人で、だから長城一重で防げるんです。山海関の関所の扉さえ開かなければ、かれらは入ってこないんです。(遊牧文化と古朝鮮)

 昔から万里の長城を見て、あんなもので匈奴の侵入を防げたのかな、と思うところがあった。いくら小高い壁を作ったって、入ろうと思えば入れたのではないか、と思うところがあった。けれどこの文章を読んで、なるほど騎馬民族は馬を捨てたらただの人でしかなくなってしまう以上、馬が上れなければ入りようがなかったわけだ。

 以下、改めて知ったことを書き出す。

 明治初期の政府は、大名が国許においては士族にかつがれて反乱の核になりかねないからと、かれらを東京に集中させました。そして華族令をつくって、かれらを西洋風な華族にします。東京に集中させるときは、どの大名も喜んだんです。つまり大名の個人経済というのは実に貧しいものでした。ほとんど藩士たちの石高や御扶持米になります。自分の取り分の中から行政費が出ていくわけです。自分が使える金というのは、ないに等しかったんです。それが東京に行けば、お上からまるまる自分が使える金というものをくれるもんですから、こんないいことはない、ほとんどが喜んだといわれます。(役人道について)

 内実というのはこんなもんなのだろう。

 日本のいい会社はほとんど社長権を制約していますでしょう。でも社長権というのは行使しようと思ったら無制限にやれます。極端にいうと、社長権を子供に継がせると急にいい出しても、通ってしまうほどです。ところがほとんどの社長は会社は預かりものだと思っていますから、自分の出来る範囲内のことを可愛らしくしています。可愛らしくないやつを世間が叩くわけです。自分が我慢してきた、日本歴史そのものが我慢してきたのに、あいつは何だという「公」の思想が無意識のうちに批判の基準にあるのです。(役人道について)

 最近の安倍首相のやりたい放題を批判する精神とはこれと同じだろう。

 江戸期を通じて、江戸およびその背後農村の商品生産力はきわめてひくく、大阪・京を中心としたそれは質量ともに比較にならぬほど高く、くだる(上方から江戸へ)という語感は、明治後の舶来ということに似ている。江戸生産のものは「くだらない(上方製ではない)もの」ということから、低評価の意味に転じ、いまでも「つまらぬ」という言葉と同義語につかわれている。江戸という、当時世界的な大都市の消費物資のほとんどを、遠い上方から二百数十年運びつづけたという異常な歴史は、他の文明圏にあったろうか(この意味から、大坂の栄えは、じつは江戸期のこの構造の終焉とともに終わっているとさえいえそうである)。(「菜の花の沖」余談)

 これは「くだらない」の語源である。

 キリスト教は、ゴッドという、ありうべからざるものを先に設定しました。そうすれば、ゴッドは実在するという神学を成立させざるをえないでしょう。ありますぞ、ありますぞというために、分厚い思想ができあがってゆかざるをえません。論理的に矛盾があっては思想になりませんから、論理の完璧さをそれぞれの神学者がつくっていって、西洋文明、ヨーロッパ文化の基礎をなしたと思います。キリスト教では、なぜそういうことを問えば、矛盾のままでは説明せず、それはこういうわけでこうだといいます。神学的な矛盾はときに屁理屈であっても、どこかで繋いであるんです。(日本仏教と迷信遺産)

 大学時代、西洋史を勉強していて、思ったことは、神の存在を説明するそのあり方であった。もともと在りもしない神をいかにも在るように、あれこれこねくり回して、さも在るんだぞ、と説明するところから西洋の論理的思考が始まったと思っている。そうして物事を考えることで、神だけでなく、人間にまで思考方法が及び、哲学が生まれた。さらに論理的に物事を考えることによって、科学や技術も進歩する。ヨーロッパが当時先進地域であった根本的理由はここにあると思っている。
 ものごとを説明するというのはこうした人間の生活全般に及ぶ。

 戦国時代に、ようやく武田とか上杉とか、「地方」が出てきますが、「地方」の力があったにもかかわらず、なぜ京へのぼりたかったかというと、すでに室町幕府が非力になっていて、その室町将軍の執権になりたかったからです。やがては将軍になるかもしれませんが、すぐにはそれを公言しないんですね。たとえば、鎌倉の将軍の執権が北条氏であったように、武田信玄も、今川氏も、京にのぼるのは、中央志向というよりも、将軍の執権になりたかったからです。執権になれば、兵馬の権が与えられ、そして全国の者に号令することができます。
 織田信長もはじめはそのつもりだったのですけれども、トラブルがあって将軍義昭を追い出してしまい、取りつく島もなくなります。何か権威を借りて権力を成立させなければならなくなり、そのために天皇を思い出しました。思い出したというより、天皇を発見したんです。発見したとたんにかれは死にますが、そのあとは秀吉が継承しました。天皇の権威によって関白になり、関白になることによって天下に号令できたわけです。(中央と地方)

 これも日本史においてわからなかったことの一つであった。今川義元や武田信玄、そして織田信長などその地域で力をつけ、その力を誇っていたのに、そこに留まるだけでなく、いつも京都を目指していくのは何故なんだろう、と思っていた。なるほどこの説明でそういうことだったのか、と知った。

 江戸期、とくに中期からは諸大名がきそって殖産興業をはかり、ほうぼうから人材を呼び集めます。自らの藩で学問させるということが、首都である江戸に劣等感を持たせたぐらいです。しかし商品生産の上では、京都、大坂の後背地には決定的に劣っていました。中央と地方は非常にいいバランスだったわけです。
 江戸という土地を踏まなければ、絵師、大工、指物師になれないということはありませんでした。漢学者、僧侶になるにも、とくに江戸へゆく必要はなかったのです。江戸期に和蘭学がおこりますが、和蘭学は長崎が源流でしたし、江戸後期には大坂、あるいは末期になると宇和島、越前大野とか、ほうぼうではやりました。(中央と地方)

 明治維新で、それまでの三百数十年の地方文化がダメになりました。一ぺんに奈良時代の都鄙の構造に戻ったといえます。維新成立のときには、江戸期の文化はなお目の前にあったんですけれども、文明開化というつよい政治的・文化的価値の前に、当時の流行語でいえば「旧弊」といわれて無価値も同然になりました。
 明治の東京は、世界史から見ても異常な都市でした。単なる首都というのではなく、欧米文明の吸引装置であり、伝播装置を兼ねていました。
 文明開化は、東京という装置でのみ作動が可能だったのです。地方は文化的には江戸時代の名残りがゆるやかにつづいていましたが、たとえば新しい学問をするには東京へ行かねばならなくなりました。三田の福沢先生の許で洋学を学ばなければならない。東京帝国大学工学部へ行ってはじめて鉄橋を架ける能力が認められる、ということで、もう徹底的に、奈良の都の規模を何百倍かにしたような、巨大な文明開化の装置になりました。(中央と地方)

 江戸時代は地方が元気であった。その地方をダメにしたのは明治政府だった。おそらく地方の低迷が今でも続くのは、こうした明治の政策が根源だったのだろう。確か司馬さんは明治において、東京は配電盤の役目をしていたとも言っていたはずだ。

 かれ(松浦武四郎)はアイヌ語でアイヌ仲間のことを「カノイ」というところから、いったん北加伊道とし、ついで加伊を海に変え、北海道とした。たまたまかれの北海道人という雅号と一致している。(武四郎と馬小屋)

 楊枝と、それを毎朝用いる習慣は、もともと古代インドのものであった。原始仏教の修行者集団の日常規範のなかにそれが入っていたことは、法顕の著『仏国記』に、「仏、此ニ在リテ楊枝ヲ嚼」み、それをすてると、土中に刺さってすぐさま根付き、樹になった、という記述があることでも察せられる。(鋳三郎と楊枝)

 鰊は、ふるい和語で「カド」といったということは、この作品のなかでもふれた。いまでは、カドということばは、ニシンの子を「カヅ(カド)ノコ」とよぶ場合にのみ生きている。(あとがき「菜の花の沖 四」)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈11〉エッセイ1981.7~1983.5 新潮社(2002/08発売)


by office_kmoto | 2018-07-15 05:46 | 本を思う | Comments(0)

7月12日 木曜日

 曇り。

 今月の集英社文庫に気になるものがあって、文庫なら近くの本屋でもあるだろうと、散歩がてら駅前の本屋に行ってみた。本屋に行くのは久しぶりである。
 しかしないのである。え~、文庫もないのといった感じであった。単行本の新刊がないときがあるのはある程度心得ていたが、文庫の新刊もないのか、とちょっとがっくりくる。配本が少ないので、すぐ売り切れて、品切れになったのかもしれない。いずれにしてもこれだからなあ、という思いが募る。
 仕方がないので他の出版社の新刊を見ていたら、本多孝好さんの文庫が角川文庫から出ている。あれ?これシリーズになって2巻目が出ていたんだ。単行本は見ていなかったけれど。それで文庫の最後にある初出を見てみると、雑誌に連載されていたことがわかった。ということはいきなり文庫で続巻がでたようである。
d0331556_21004974.jpg 当然購入することとなる。レジへ持っていくと、今角川文庫を購入すると4種類ある内の好きなブックカバーがもらえると言う。でその4種類のうちまあまあ自分の年齢でもおかしくないと思われる、あの鳥獣戯画のようなブックカバーをもらった。
 今文庫各社は夏休みの図書の宿題目当てに夏のフェアーをやっている。そのノベルティである。毎年やっている。そして今回そのおこぼれにあずかったわけだ。まあ一種の夏祭りだからそのカバーも蛙や兎がお祭り騒ぎしている様子がデフォルメされ、そこに角川文庫の犬のキャラクター「ハッケンくん」があちこちに加わっている。

 城東電気軌道の資料が集まったので、それをまとめている。その城東電気軌道の停留所の一つに「モスリン裏」というのがある。たまたま川本三郎さんのエッセイにも城東電気軌道の停留所「モスリン裏」の話が出てきて、このモスリンとは東京モスリン亀戸工場のことだと書いている。そしてこの東京モスリン亀戸工場の悲惨な実情を書いた細井和喜蔵の『女工哀史』があると書いてあったので、さっそく図書館で借りて読んでいた。
 ところが城東電気軌道電車の貴重な写真集である宮松金次郎さんの写真集の文章を読んでいると東陽モスリンとある。あれ?これ同じ会社のことを言っているのかな、と思いつつネットで調べてみると、城東電気軌道の停車場の「モスリン裏」のモスリン工場は東陽モスリンのことで、東京モスリンはまったく別の場所にあった。つまり川本さんの間違いである。それがわかったので、この本を資料として使おうと思い読んでいたのが意味がなくなってしまった。途端に読む意欲も薄れ、そのまま投げだしてしまう。こういうことってあるんだなあ。
 ということで買ってきたばかりの本多孝好さんの文庫を読み始める。
 ところで集英社文庫の新刊はどうしようか。どこか出かけたとき、大きな本屋で買うしかないか、と思いつつ、そんなのが結構あって、覚えていれば買うけれど、忘れてしまうことも多く、今回もそんなことになりかねない。やれやれ……。

追記:
後日13日に、隣の駅前にあるブックオフで探していた集英社文庫の新刊の1冊を見つけた。売値は新刊書店より安く、410円だった。状態は新刊と変わらない。もちろん即購入。なんかものすごく得した気分になったけれど、ブックオフにあって新刊書店にないなんて、ちょっと情けないな。

by office_kmoto | 2018-07-12 21:03 | 日々を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈10〉

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 例によって司馬さんの書かれる文章からいろいろ面白いことを教えてくれるているので、それを書き出してみる。まずは小西行長についてである。

 (小西)行長という人は、なにやら奇妙である。名前ばかりは変に有名で、そのかわりには資料もとぼしく、先行の伝記のたぐいもほとんどない、関ヶ原の敗者という以外に、ひとびとの網膜に焼きつくには人間として明度が不足している人物ではないかと思ったりしていた。(遠藤周作氏『鉄の首枷について』)

 その小西行長の伝記を書いた遠藤周作について司馬さんは次のように書く。

 歴史小説を書く動機は人によってさまざまにちがいない。私の場合ごく単純で、気がかりな人間を書くことだけのことである。日常、電車に乗っていても、向いの座席にそういう気をおこさせる人がいる。
 私どもはこの社会に――あるいは日本史という時間的な箱の中に――同乗している。ドアがひらいて乗ってきた行長という乗客が、目の前の釣革にぶらさがっても、ひとびと――たとえば明治後の作家や伝記作者たち――は気づこうとはせず、たとえ気づいていても、その人物が何者であるかということまでの関心はもたなかった。
 遠藤周作の場合、そういう乗客に感心をもったということが、まずおもしろい。端的にいえば以上のようなぐあいの乗客をあえて知りたいと思った遠藤周作の側に、むしろ問題の重要さがあるように思われる。つまりは誰に関心をもち、その誰における何を知りたいということはすべて作家の側の課題であり、本来無心である誰の側の課題ではないのである。(遠藤周作氏『鉄の首枷について』)

 それで司馬さんが書いた小西行長がとった行動が興味深かった。行長は加藤清正とともに秀吉の朝鮮出兵の司令官を務めたていたが、行長は一方で和平工作をしていたことが書かれる。

 軍司令官である行長が、内内に敵に接触することによってこの暴挙の尖端を和平という形に変質させるべく工作し、それを三成が黙認し、秀吉に気づかれないようにとりつくろうという方法をとった。(遠藤周作氏『鉄の首枷について』)

 和平交渉といっても行長が考えたことは日本を明の属国としてもらうことであった。その上で秀吉を封じて日本国王にしてもらう。それを司馬さんは「手品」と書く。

 この北京における手品作業によって、秀吉が明の属邦のぬしになってくれさせすれば、行長や三成らは明の大都督として日本における地位が労せずして徳川、前田、毛利をしのぐことができるのである。この草案では徳川、前田、毛利は哀れにも亜都督にすぎない。さらに行長、三成らの政敵である加藤清正らは名も載っていないから没落せざるをえない。いま一ついえば、この手品で秀吉を次ぐ者は三成ではなく、行長であった。なぜなら行長を大都督の筆頭になっており、その上「行長だけには世々西海道(九州)をあたえる」という特別な事項も書き入れられている。
 すべては、日本が明の属邦になれば、という一点で形式論的には手品が成立するのである。(遠藤周作氏『鉄の首枷について』)

 行長のとった行動は和平工作だけでなく、自身の立場をよくする行動があったことには驚く。しかしこの辺りは三成と同じで実力を伴わない、頭でしか物事を考えることが出来ない、それこそ自分の都合よく考えてしまう傾向が行長にもあったということだろうか。

 北前船というのがある。江戸時代に千石船で日本海を行き来していたのを思い浮かべるが、実は全盛を迎えたのは明治時代だったというのは意外だった。

 このことで、明治政府の開化方針にかかわらず、北前の大型和船が、大阪から下関経由北海道までの海路を織るように往来していたのがわかる。江戸期の流通の主役ともいうべき北前船が、史上空前の全盛をむかえるのは皮肉なことに明治になってからで、その繁栄が明治四十年ごろまでつづく。(千石船)

 ところでこのシリーズは司馬さんが書かれたエッセイや評論は年代別に並べられている。当然その時司馬さんが書かれた小説の主人公やその時の時代背景などを語ることが多くなる。または司馬さんが旅で訪れた地域の話が続くことになる。
 今回はシルクロード、特に西域に諸民族の話が続いた。特に遊牧民族の話が面白かった。
 まずは文明の成り立ちを考える上で、歴史上中国が果たした役割が重要であった。

 文明というのは、多様な稼業ちがいの諸民族が、たがいに異質な文化を持ちこんで、それらをるつぼのなかで溶かしあう条件をもった場所に興るものであったように思われる。すくなくとも中国大陸の場合は、そうであった。(あとがき『項羽と劉邦』)

 そんな中まず人類史上遊牧とはどういうことになるのか。驚くのは遊牧は農業より新しい生存様式であったということだ。
 普通遊牧の方が簡単に誰でもそこに参加できる。しかも難しい技術や道具は農業よりいらないように見える。極端なことを言えば、馬に乗れればいいんじゃないの、というイメージを持つ。だから遊牧は農業より古い生存様式のように思っていた。ところが、

 遊牧というのは、人類が農耕を覚えて以後、はるかに時間を経て出現した大文明であった(この場合の文明とは、人間の暮らし方のシステムという意味として用いたい)。黒海のほとりのステップでアーリア系のスキタイ人が発明したとされるこの文明の形態は、たちまち東へすすんで黄色人種(モンゴロイド)を刺激した。(イリ十日日記)

 むしろ狩猟などとともに農業からみれば未開の生存様式のように思われてきた。むろん、こんにちそのように見ている史家はいないにちがいない。一歩踏み進めて、遊牧は紀元前のある時期に出現したとほうもないモダニズムであったとさえいえそうである。
 遊牧という生産形態を、暮らしのシステムとともにつくりあげ、不動の文明(たれでも参加できる文化)として確立したのは、中国からみればはるかな西方のスキタイ民族であった。
 紀元前六世紀から前三世紀にかけて、黒海北岸の草原に展開しつつそれをつくりあげたこの民族は、まず人間が馬にじかに乗るという騎馬を成立させた。移動用住居であるフェルト製の天幕(ユルト、パオ、ゲル)や、野菜を摂らずとも十分にその不足を補う馬乳の発酵液などを用いた。(複合された古代世界の舞台)

 しかもそれは画期的なものだった。

 ただし、はるかな古代、草原は人間だけは棲息しがたかった。
 採集すべき木ノ実もないし、けものに近づこうにも、一望の平坦地であるために相手が遁げてしまう。採集時代の人間はやはり森のある土地がその棲息の適地で、農耕時代になると、人間たちは森から出て低地に棲み、河の氾濫が繰りかえされる湿潤の地やオアシスで穀物などを栽培した。むろん、この段階においても草原はみすてられた地だった。
 「草原で住む」
 という暮らしのシステムを考えついた偉大な民族は、スキタイであった。この古代民族は、紀元前三世紀に亡んで、いまは存在しない。

 (略)

 かれらはイラン系の民族で、どこからきたかは諸説がある。紀元前六世紀にこの草原に出現して、まず馬に騎るという他の人類にとっては奇抜すぎることを創始した。
 と同時に、遊牧を考えだした。草原に群棲している羊の群れのなかに入りこみ、それらが草を食って移動してゆくままに人間も移動する(こういう角度で遊牧生活史を考えることは、一九四〇年代に内蒙古地方に滞留して遊牧生活を観察研究した今西錦司氏によって最初になされた)。さらには、他の肉食獣からかれらを守るという役割を人間が果たすことによって人間のほうから羊の群れに寄生するというふしぎな方法の発明であった。それまで人類は羊を人間の住居にひきよせ、手もとに置いて飼うことをしてきたが、人間が群れのなかに入りこんで移動するという暮らし方はなんとも奇抜なものであった。
 その「文明」を成立させるためには、機敏に人は駆けまわらなければならない。そのため騎馬が必要であったし、さらに家屋を固定せず、簡便に移動しうる天幕(ユルト)も開発せざるをえなかった。山羊を飼い、馬も飼った。豚だけは飼わなかった。豚は農民という定着者のための家畜で、遊牧者がこれを飼うと、軽快に移動できなくなるのである。ヘロドトスも、スキタイは豚を飼わなかった、と書いている。(天山の麓の緑のなかで)

 その歴史、特色をいくつか語っていく。

 かれらはあらそって西アジア、中央アジア、ときに小勢力ながら北アジアの草原にあつまり、遊牧というモダニズムに参加し、人口をふやし、それぞれ大集団を形成して、おのれが得た草原に固執し、あるいは草原を争奪しあい、それぞれ盛衰をくりかえした。
 遊牧の形態は、どの民族がそれに参加しても、スキタイが発明した様式どおり、ステレオタイプのように似ていた。(イリ十日日記)

 そのなかの最大の勢力が、匈奴(紀元前四世紀より出現し、約五百年つづいた)であった。このような消息を遊牧の地理価値として換算すれば、匈奴は、遊牧の第一等地場所ともいうべきモンゴル高原に位置していたことで強大になった。まず、この広大な草原が多くの遊牧部族を収容しうる。そこに諸部族を統一しうる人物さえ出れば、つねに圧倒的な人口と兵力をもつことができた。紀元前の匈奴や、十三世紀のチンギス汗の大膨張を思いあわせればいい。(イリ十日日記)

 遊牧民族の言語には、
 「曾祖父ということばさえない」
 とよくいわれる。それほどに自分たちの歴史に関心がなく、現在というものしかかかわらない。未来を思うのは、やってくる冬の営地のことぐらいである。農民のように土地所有(耕作権だけであっても)を必要とする者は、所有権にかならず先祖代々という意識と口やかましい実証がつきまとい、何代もこの地所を耕してきたということで、歴史性が付着する。その農耕社会が王国や帝国をなす場合、収税官に文字と記録が必要になり、やがてはその社会そのものの歴史が書かれるようになる。遊牧民には、そういうわずらわしさを必要としないのである。(イリ十日日記)

 最後の日本史における中世がどうして生まれたのか。その過程はわかりやすかったので、記憶しておきたい。

 中世の開幕というのは、かつて律令制による国家の農奴であった農民が、自分が拓いて自分のものになったらしい田畑の畔に立ち、しみじみとわが土をみつめたところからはじまったと私はおもっている。(中世の開幕)

 (律令時代は)法的な原則では公地公民であり、国家の公田であり、そうではありつつも、便宜的には国家に対し「不輸租」という荘園にされた。開墾者は、つまらぬものであった。かれらはせっかく開墾しながらも、その新田を公家や社寺に寄進してその名義のもとに荘園にしてもらわねばならず、取りぶんはいくらもなかった。(中世の開幕)

 (板東の北条氏レベルの新興有勢者が)流人の頼朝を擁し、武力をもって板東政権を樹て、やがて律令打ちこわしの革命を全国に及ぼしたというのは、目のさめるような中世の開幕である。
 ――自分でひらいた田は、これだ。
 という労働と欲望と所有の直結は、鎌倉リアリズムを成立させた。その田畑の面積や良否についてひと粒の土までこまかく見る認識力ができた。鎌倉期の彫刻にみる写実とそれ以前に作者の眼光の底にある認識能力が、所有権のあいまいな律令時代にくらべ、別種の民族がそこに誕生したかと思えるほどにちがうのは、社会そのものがそれほどまでに変わったためである。(中世の開幕)

 なるほど鎌倉期における彫刻などに見ることが出来るリアリズムの根源はここにあったのか、と思った。

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈10〉エッセイ1979.4~1981.6』 新潮社(2002/07発売)


by office_kmoto | 2018-07-11 05:22 | 本を思う | Comments(0)

川本 三郎 著 『本のちょっとの話』

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 この本のあとがきに次のようにある。

 通常の書評からこぼれ落ちてしまう細部について書かせて欲しいと提案した。いわば落ち穂拾いである。ふだん捨てられがちなパンの耳とか、ごはんのおこげの方を大事にするそういうコラムにしたい。

 だからこの本はちょっとした作品に対するおまけみたいなものを書いている。おまけだけれど、おまけにはおまけの楽しみがあるように、読んでいて、ほ~とか、へぇ~とかいう話が書かれる。

 それがどうしたといわれても困る。ただその事実が「!」をつけたいほどうれしいのである。

 で、そのおまけの話で気になったものを書き出してみる。

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に電車に乗る乗客が「氷山でぶつかって船が沈みましてね」と答えるのがあって、それがタイタニックに乗っていた乗客だというエピソード。

 ジョン・ダニングのことが出ていたけれど、そういえばクリフォード・ジェーンウェイシリーズはその後どうなったのだろう?

 高村薫が描く合田刑事が『チボー家の人々』を読んでいたとはちょっと驚いたけれど、そういえば何だか長編を読むのを趣味にしているとうっすらと覚えている。

 鴎外や漱石を文庫で読むことは今日でも容易だが、難しいのはついこないだまでの人気作家たちの作品が読めなくなっている、という意見。まったく同感!

 本などで文章の間違いを見つけると“鬼の首を取ったように”喜び勇んでお叱りの手紙を書く。それを物書きのあいだで俗に、“鬼首レター”と呼ばれる。
 そんな“鬼首レター”を書く読者をめぐる小説が清水義範の作品にあるらしい。ちょっと読んでみたくなる。
 で、そこには“鬼首レター”を書く輩は、どこかの地方都市の現役を退いた老人が多い、と書かれている。これはちょっと笑える。

 グレアム・グリーンの父親は寄宿制の学校の校長で、彼が一番恐れていたのは少年たちが自慰の悪習に染まることだった。だから厳しい監視体制を敷くが、息子のグリーンに同級生を監視するように命じる。
 グレアム・グリーンはイギリスの秘密諜報部に属しスパイ活動に従事し、また後にスパイ小説で有名になるが、その原点が“自慰監視事件”にあったという説があるという。これも大笑い。

 昭和初期にあった円本ブーム。これはものすごく売れた。出版社も儲かったが、作家もおもわぬ不労所得が入った。荷風は自分の作品がそこに入った結果、まったく労せずして、現在に換算すると五億円の収入があったという。すごい!

 『動物記』で知られるシートンの父親は成人したシートンにこれまでかかった養育費を請求したという。おまけに利息までつけて。驚くのは息子のシートンは父親の請求する養育費をきちんと払ったという。

 とまあ、こんな感じで、一つの作品を違う側面からエピソードを引っ張り出せるのは、それだけの読書量があるからで、いかにも川本さんならでは書ける話が楽しかった。

川本 三郎 著 『本のちょっとの話』 新書館(2000/03発売)


by office_kmoto | 2018-07-07 05:40 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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