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城東電気軌道 3

第二章 城東電気軌道開業

 1917(大正6)年12月ついに第一期工事が竣工する。同24日に運輸開始を申請、同30日から営業が許可された。


 出願から7年9か月を経てついに城東電気軌道は錦糸町・小松川間の営業を迎えることとなった。


 どうにか錦糸町・小松川間の開業にこぎ着けたものの、残りの小松川・上今井間、さらに上今井・浦安間の着工の目途が立たない。
 このまま会社は順次路線を延長していかなければ成長できない。しかし荒川放水路の横断問題が解決しないと開業している錦糸町・小松川間との路線がつながらない。社長の尾高は路線敷設の優先順位の見直しを図りつつ、旧計画の整理を乗り出した。
 まずは浦安延長線の特許を返上する。さらに砂町支線の敷設を計画する。これは錦糸町・小松川間の路線で亀戸町水神でTの字のように分岐し大島四丁目間を結ぶものである。1919(大正8)年10月13日に工事施工認可が下りると、翌1920(大正9)年1月13日に着工し、同年12月28日に砂村支線の営業を開始した。
 続いて1919(大正8)年11月25日亀戸と寺島村(現在の東向島)付近を結ぶ寺島支線を出願した。
 この頃の城東電気軌道の輸送人員は、第一次世界大戦の反動不況、1920(大正9)年の関東大震災の影響により1923(大正12)年下期で落ち込みが見られるものそれ以降は開業以来一貫して増加傾向にあった。
 1921(大正10)年2月28日には砂町支線を洲崎まで延伸を出願し、同年12月24日に特許を得た。
 さらに城東電気軌道は砂町支線から東西に延びる路線を4つ敷設することを申請するが、これは関東大震災復興を進める東京市とぶつかり、難色を示される。この東京市との衝突は城東電気軌道の限界を暗示し、ある意味運命を決定することとなる。


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(注8)


 大島・砂町4支線をめぐる東京市との論叢は城東電気軌道の限界と終局を暗示していたと言えよう。千葉進出を断念して城東に生きることを選択した城東電気軌道は東京市街地が関東大震災後急速に城東地域を飲み込みつつある中で、東京市に打ち勝つか、軍門に下るか、いずれかの未来しかないという現実を突き付けられたのである。
 しかしながら、城東地域における拡張政策を封じられた城東電気軌道に、残された手は多くなかった。


 さて、城東電気軌道は第一特許線の残りの小松川・瑞江間は工事竣工期日延長を3回行っていたが、江戸川線は東荒川・今井間は1925(大正14)年12月31日に開業した。


 江戸川線は全区間単線であったが、中間地点にあたる一之江附近の橋梁を複線構造とし、列車の交換を可能にしていた。
 荒川放水路への橋梁は断念することとなり、1926(大正15)年3月1日の小松川線・西荒川間開業にあわせて、西荒川・東荒川間に直営連絡バスの運行を開始した。



 しかしながら江戸川線は城東電気軌道の経営を好転させることはできなかった。というのも、江戸川線開業より5年前の1920(大正9)年5月に設立された葛飾乗合自動車株式会社が、小松川と行徳・八幡・浦安間を結ぶ路線バスの既に始めていたからだ。


 城東電気軌道の江戸川線と葛飾乗合自動車とは運行状況、運賃は大差がないが、浦安・行徳方面に直接行くには、葛飾乗合自動車の方が便利であった。
 いずれにせよ、最初に私が城東電車に興味を持ち、それを調べていた頃、今の荒川をどう越えたんだろう、という一番の疑問は解決した。要するに城東電車は荒川を越えなかったのだ。超えることができなかったというべきか。


 城東電気軌道は江戸川線に次いで洲崎線に着工し、1927(昭和2)年3月に稲荷前・東陽公園間、翌年1928(昭和3)6月に東陽公園・洲崎仮停留所を開業させた。
 しかし、恐慌が沿線工業地帯に深刻な不振をもたらしたこと、軌道の収容空間となる復興道路が完成する1930(昭和5)年まで市電の洲崎電停と連絡できなかったこと、同年に平行する四ッ目通りに市電が開業したことから、期待されたほどの成果はあげられなかった。
 なお、東陽公園前・洲崎間は市電と路線を共有することとなり、両社局で協定が締結されている。

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(注9)


 城東電気軌道は洲崎まで延びたが、一方寺島までの延長を計画していたのも驚きであった。いずれも洲崎、玉の井と遊郭につながるのである。その客を見込んだのであろうか。今の東武亀戸線は寺島線と同じ路線を走っていることになるのではないだろうか。
 このように城東電気軌道は電車事業で苦境に立たされたが、経営面でも苦境に喘いでいた。
 大正期に開業した電鉄会社、特に軌道会社は利益の半分以上は電灯事業などの兼業で生み出していた。しかし城東電気軌道は先に見た会社の歴史で、自前の電燈会社を持っていなかったため、ある意味異質であったと言える。
 ちなみに東京近郊で明治末期に電灯事業を兼営していた。代表的な事業者として、京浜電気鉄道(現京急電鉄)、多摩川電気鉄道(現東急世田谷線)、京王電気軌道(現京王電鉄)、王子電気軌道(現都電荒川線)などが挙げられる。


(注8)
 Rail to Utopia(https://rail-to-utopia.net/2018/03/218/)から参照。

(注9)
 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)より

by office_kmoto | 2018-08-30 06:21 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 2

第一章 城東電気軌道前史


 ところで城東電気軌道という軌道ってなんだろう?一般社団法人日本民営鉄道協会のホームページ(http://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/82.htm)によると、


 レールの上を車両が走るという点では鉄道と変わりませんが、原則として道路に設けられ、道路交通を補助することを目的としており、大正10年以来軌道法によって監督を受けています。鉄道が道路ではなく専用のレールを使って高速で車両を走らせ、人または貨物を運ぶのとは性格が違います。


 つまり電車と言っても、いわゆるJRなどの電車ではない。道路を走る市電やかつての都電をイメージしてもらえればいいかもしれない。
d0331556_06255227.jpg では城東電気軌道とはどういう歴史をたどったのであろうか。その歴史をたどるにあたり恰好の本が出版されている。枝久保達也著『城東電気軌道百年史』(HappinessFactory)である。(注5)以下この本を元に城東電気軌道を振り返ってみたい。

 明治、大正と東京の交通事情を知るには、その前の江戸時代の道路事情を知っておく必要がある。
 江戸時代の物流は水運が中心であった。そのため道路整備は限定的であり、市街の発展に伴い自然発生的に形成されていた。江戸の道路は狭く、もっぱら歩行者専用として作られており、馬車や人力車の通行をまったく想定していなかった。
 さらに幕府の軍事的要請もあり、道は狭く曲がりくねっており、意図的に通りにくい構造をしていた。
 そうした江戸時代に形成された道路は明治になり道路整備に迫られていく。ただ都市部では道路や鉄道の整備が進むが、江東地区はその整備がなかなか進まなかった。というのも幕藩体制の終焉により江戸詰の武士が各藩に帰藩し、明治初期の東京の人口は江戸時代と比べ半減していて、深川地区は都市計画の優先度が下げられてしまう。もともとこの地域は都市整備計画が遅れても水運が交通体系として確立されており、計画の優先度が遅れても問題がなかったし、そのために道路整備が遅れたともいえる。
 そのためこの地域における都市交通網の整備は路面電車の登場を待たなければならなかった。


 1910(明治43)年5月6日、実業家の本多貞治郎を総代とする計24名が発起人になり、軌道条例に基づく電気軌道の敷設を出願した。


 資本金30万円の城東電気軌道株式会社を新たに創立し、東京市本所柳原町2丁目から亀戸町、小松川村、松江村を経由し、瑞穂村(現瑞江)に至る延長5マイル(約8㎞)の軌道を新設する計画であった。


 城東地区は江戸時代から深川を中心に木材業、米穀肥料業、倉庫業などが繁栄していた。明治初期になると、味噌や足袋、煙草入など製造する家内工業が興りはじめ、一部ではマニュファクチャーへの発展が見られるようになっていった。
 さらに工業化の波はさらにこの地域に押し寄せており、人口増加の期待が寄せられた。しかし交通網の整備は遅れており、ここに鉄道が不可欠な状況であった。
 そのため城東電気軌道の計画は外部資本家の主導ではなく、地元の要望に根ざしたものであり、それを東京府も積極的に後押した。
 ところで城東電気軌道の総代となった本多貞治郎の存在が大きな意味を持つ。本多貞治郎は、鉄道史における京成電気軌道(現京成電鉄)の創業者として知られる人物なのである。


 1906(明治39)年、本多貞治郎、利光鶴松、井上敬次郎ら東京市鉄道系グループは、東京市本所区押上から柴又・八幡・中山・船橋・佐倉を経て成田に向かう電気軌道の敷設を出願した。他に郷誠之助・川崎八右衛門らの一派、貴衆両院議員200名からなる一派が同様の区間について出願しており、三派合同の上、1907(明治40)年に特許を得ることになった。これが現在の京成電鉄の起源である。


 ここに「特許を得る」とある。これはどういうことかの説明があるので付け加えておく。


 鉄道を開始するためには、法律に定められた許認可が必要となる。これを鉄道の場合は「免許」、軌道の場合は「特許」という。


 話を元に戻せば、本多貞治郎が城東電気軌道の敷設の出願を申請する総代となったのには本多の裏の考えが見え隠れするということである。
 すなわち城東電気軌道の出願は本丸の京成電鉄の会社設立、工事の準備に目途がついた後になされている。だから本多は自身が描く軌道ネットワーク計画の一環として城東電気軌道の総代になったと見ることが出来そうである。
 それが証拠に、城東電気軌道の創立事務所は京成電気軌道本社内に設けられた。軌道敷設の特許を得るためには専門的な知識を持った者、技術者・事務員が必要であるからである。
 本多は城東電気軌道だけでなく自らの構想実現のため周辺の鉄道計画に積極的に関わっていく。城東電気軌道の創立の後本多は江東電気軌道の出願に関わっていく。


 本多が企画した大資本と共に計画を進めた京成電気軌道が第一にあり、次いで地元主導の城東電気軌道計画に参画したことで事業エリアが面的に広がった。そこで両路線をネットワーク化するために本多が主導的に企画したのが江東電気軌道だったのではないだろうか。


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(注6)


 しかし江東電気軌道の出願は1916(大正5)年12月8日却下されてしまう。
 城東電気軌道株式会社はその創立に向けて動き出し、1912(大正元)年に発起人総会が開かれたが、そこには本多貞治郎の姿はなかった。
 本多に代わって計画の主導的立場になったのは、廣澤金次郎、千葉胤義、橋本梅太郎であった。
 そこで計画に大きな変更がなされた。すなわち路線起点は本所柳原町から変わらないものの、終点は松戸に変更され、路線長も当初の3倍近くなっている。それに伴い資本金も30万円から100万円に増加した。
 城東電気軌道はこれ以外にも延長計画を発表している。

 第一延長出願線(1912年725日)上今井・浦安町間
 第二延長出願線(1912年7月28日)浦安・小松川間及び南行徳・松戸間
 第三延長出願線(1913年9月13日)上今井・下今井間


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(注7)


 本多が失脚し、千葉胤義らが擡頭してきたのは、城東電気軌の経営方針を巡る対立があったことは想像に難くない。
 ではこの千葉胤義という人物は如何なる人物であるのか。千葉は国内外各地に主に電気・ガスの事業に携わっていた。ここが肝である。


 城東電気軌道の新たな主導者として名前が挙げられた千葉胤義と橋本梅太郎が平行して進めていたのが「江戸川電気株式会社」という電燈会社である。


 江戸川電気は1911(明治44)年9月21日に出願された。資本金8万円の小規模な電燈会社である。発起人の半数以上が後に城東電気軌道発起人に参加している。
 ここから千葉らが城東電気軌道に参画したのは軌道のためではなく、自らの事業であった電気事業の拡大のためではなかったのか、と疑われる。これは本多と同様である。
 では千葉が電力会社の拡大のため、なぜ城東電気軌道に関わったのか?そこに当時の電力事情が見え隠れする。
 電気は貯めることが出来ない。そのため地域ごとに発電所を作り、地産地消していた。1万人規模の都市であれば事業として十分成立するがそれ以下の小さな町村では投資に見合った利益が見込めない。
 さらにこの頃日本の電気事業に大きな変化が訪れつつあった。長距離送電技術が確立したことで、山奥の大規模な水力発電からから需要地に送電することが可能になった。このため効率の悪い自社発電所を廃止し、水力発電事業者からの買電に切り替える事業者が増えていく。これは江戸川電気も大きな影響をもたらした。小規模発電所で近隣の電灯を供給するだけでは遅かれ早かれ行き詰まることが、開業を前にして明らかになった。江戸川電気も大規模な水力発電所から電気の供給を受けることとなるが、そうなると周辺家屋の電灯需要以外に電力の供給先を確保しないとならなくなった。そこで目を付けたのが城東電気軌道であった。ここで大きな電気が消費が見込まれるからである。さらに千葉らが軌道の延長計画を持ちこんだのも、さらに電力の消費を見込んだのである。
 ところが城東電気軌道は資金不足、荒川放水路の建設、第一次世界大戦による物価高騰により、八方塞がりとなっていく。株主も経営陣も意欲を失いつつあった。千葉胤義は更迭され、社長の廣澤金次郎も辞任。大塚喜一郎が就任するが、すぐに辞任。尾高次郎が社長に就任し、再スタート進めることとなった。尾高はさっそく事業の整理を取り掛かることとなった。

 ここまで読んでくると、城東電気軌道はそれに参画する主たる者たちにいいように利用されたことがわかる。彼らの醜い思惑が城東電気軌道があったことが開業前にあった。そのために軌道が作られる前から、延長線が計画されもした。
 計画線とはいえ、地元を走っていた城東電車が、もしかしたら松戸までつながったかもしれないと思うと、その裏にある思惑とは別に大きな驚きであった。


(注5)
 この本、江戸川区の図書館には蔵書していない。一方江東区の図書館ではほとんどの図書館に置いてある。区分として「江東区関係」と分けられている。郷土史としてこの本はきちんと置かれるべき本として認識している。
 城東電車は江戸川区も走っていたのだから、この本は江戸川区の図書館にも置かれるべき本だと思う。
 ときどき思うのだが、江東区の図書館はきちんと置くべき本が置かれていると思う。私が読みたいと思う本が江戸川区の図書館になくて、江東区の図書館にあるというのがよくあるのだ。別に私が読みたい本が特殊というわけではない。最近出版された本でも江戸川区の図書館になくて、江東区の図書館にはあるというのを何度か経験している。
 江戸川区に住んで、区の図書館をよく利用させてもらっているし、有り難い存在とも思っている。ただせっかくならきちんと本を管理された図書館であって欲しい。だから本の選定、管理は江東区を見習って欲しいと思っている。

(注6)
 Rail to Utopia(https://rail-to-utopia.net/2018/03/209/)から参照。

(注7)
 Rail to Utopia(http://rail-to-utopia.net/2018/03/611/)から参照。


by office_kmoto | 2018-08-27 10:49 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 1

<プロローグ>


 昔から気になっていることがある。一之江境川親水公園にあるレールのモニュメントである。これはここが親水公園になる前からあった。


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 最初このレールのモニュメントを見たときは、これは何だろう、と思った。レールの前には説明板がある。そこにはつぎのように書かれている。


 城東電車は大正2年に創立し、江戸川線は大正14年東荒川~今井間で開通しました。車両が一両で「マッチ箱電車」と呼ばれ、昭和27年まで運行していました。
 城東電車廃止の翌日より、無軌道電車(トロリーバス)が走り、昭和43年までの約17年間運行されていました。トロリーバスはレールのない電車で、屋根について集電装置で架線から得て走っていました。


 このレールはかつてここを走っていた城東電気軌道電車のレールであった。もちろん私はこの電車のことは知らない。ただその後に走っていたトロリーバスには何度か乗ったことがある。特に記憶に残っているのは、小学校の一年生の時だったと思うが、遠足の時にトロリーバスを貸し切って、上野公園へ行ったことだ。

 そしてわりと最近できた松江七丁目第三児童遊園にも城東電気軌道電車のモニュメントがあった。(注1)


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 たまたま川本三郎さんのエッセイ『東京抒情』 (春秋社 2015/12発売)を読んでいて、城東電気軌道電車のことが書かれていて、その実体を知ることとなった。


 城東電車、正式には城東軌道株式会社は大正六年(一九一七)に開業した私鉄。当時は城東はまだ市外だから郊外電車といっていいだろう。
 路線は当初ふたつあった(のちに三つ)。ひとつは、市電の錦糸堀(日比谷など市中から来る市電の終点)に接続する形でそこを起点とし、総武線に沿って東に向かい、中川を渡って荒川放水路の手前、江戸川区の小松川町(停留所は西荒川)まで行く小松川線。これが前述したように大正六年に開業している。
 もうひとつは大正九年に開通した線で、やはり錦糸堀を起点とするが、水神森(亀戸駅近く)で小松川線と分岐して南に下り、竪川を渡って小名木川に至る線。これは昭和二年には東陽町を経て洲崎にまで延長され、ここで市中に通じる市電と連絡した。(砂町線)
 昭和十七年(一九四二)には戦時体制の市電の公営化によって東京市の市電に吸収される。


 大正十四年(一九二五)に開通した城東電車の三つ目の路線(一之江線)のことで、放水路沿いの東荒川と江戸川沿いの今井まで結んだ。現在の江戸川区のほぼ真中を東西に走っていた。(残影をさがして)


 現在、亀戸駅の南口側に亀戸緑道公園があるが、ここは昔、城東電車(戦後は29系統、38系統の都電)が走っていたところ。電車のレールと車輪がモニュメントとして残っている。
 その少し先に竪川があり、そこに橋が架かっている。現在は人道橋だが案内表示によれば城東電車の専用橋だったという。(残影をさがして)


 これを読んでもっともっと城東電気軌道電車(以下城東電車とする)を知りたくなり、調べてみようと思い始めた。
 調べてみると、この城東電車、錦糸町を起点に、亀戸、小松川を通って、今井まで走っていた。要するに今の京葉道路を、あるいはそれに沿って走っていて、さらに荒川を挟んで今度は今井街道に沿って走っていたのである。さらに城東電車は今の亀戸水神森で分岐し、大島から洲崎まで電車が走っていた。

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(注2)


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(注3)


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(注4)


 ネットで調べてみると、かつての城東電車の遺構がひっそりと残されていたり、その路線にその面影を見ることも出来るようであった。
 そして何よりもこの城東電車が私が生まれ育った場所の近くを走っていたこと。さらにこれまで歩いて来た道がかつて電車が走っていただろうと思われることなど、自身に身近な場所が関係していたことなどわかってくる。

 これは面白い。

 もっともっと知りたくなった。ネットを駆使し情報を探し、地元の図書館、隣の区の図書館でも資料を探し出した。そしてかつて城東電車が走っていた場所を昨年から時間があるとき歩いてみた。以下調べてわかったことを書きつづる。

(注1)
 ここの公園にあるレールのモニュメントは境川親水公園と比べ、レールの幅狭い。どうやらここのレールのモニュメントは単に置いただけのようである。レールの横にあるのはその当時の枕木であろうか。ちょっとした足場として使っている。
 ただのちに城東電車が走っていた場所を推察したとき、実際この公園のところを走っていたとするには無理がある。位置的にずれている。何故ならこのまま進むと国柱会にぶつかってしまうからだ。

(注2)
 城東電氣軌道株式會社/編「沿線案内 城東電車」(江戸川区中央図書館収蔵)
 サイズ 16×44cm
 地図1枚 色刷
 裏面:城東電車線路案内、古蹟名所案内、普通賃金表
 出版注記 出版年不明

(注3)
江戸川フォトライブラリー http://edogawa-photo.net/

 「江戸川区の歴史」の「昭和のはじめまで江戸川区内を走っていた城東電車(マッチ箱都電)」より昭和7年の地図

(注4)
江戸川フォトライブラリー http://edogawa-photo.net/

 「江戸川区の歴史」の「昭和のはじめまで江戸川区内を走っていた城東電車(マッチ箱都電)」より平成29年の地図




by office_kmoto | 2018-08-25 19:13 | 余滴 | Comments(0)

山口 瞳 著 /小玉 武 編 『山口瞳ベスト・エッセイ』

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 最近筑摩文庫は亡くなった作家のベスト・エッセイを立て続けに出版している。いわば寄せ集めなのだが、ただこの場合、その収録の仕方が魅力となる。山口さんのエッセイの中でそれを選んだことは、そこに編者の意図がそこに見ることが出来るのではないだろうか。おもわず、それをとったか、と思ったりする。
 今回小玉武さんが編者となっている。小玉さんは山口さんのかつての部下だったひとで、山口さんの評伝も数冊書いている。だからちょっと期待したのだけれど、どうも無個性で、それを選んだ意図が読み取れなかった。『男性自身』の中から選んだエッセイがあったが、これもそれを入れるならあれを入れて欲しかったなあ、と思ったりする。
 でも『男性自身』のエッセイは懐かしかった。

 また、つまらないことはする必要はない。仕事がないからといって、課長の灰皿を洗ってくるようなことはしなくてもよい。それは仕事ではない。堂々と机の上で本を読んでいたらよい。許可を得て展覧会を見にいったり、家庭用品のメーカーならデパートの売り場を歩いてくるとよい。遠慮することはない。(新入社員に燗する十二章)

 威張れる立場の人に決して威張るな。これを忘れないでほしい。反対に頭をさげるときもペコペコすることはない。取引きだから、堂々とやってください。新入社員にも部下がいる。高卒の女子事務補助員であり、給仕さんである。こういう人たちを可愛がってほしい。(新入社員に燗する十二章)

 山口さんにはこうした新入社員に対する心構えを書いた文章が多々ある。たぶんその中のひとつだろう。
 最初の文章は賛成だ。私も仕事がないときはいつも本を読んでいたものだ。もっともそういう時間はそうそうなかったが……。それでもわずかな時間があればそうしていた。無理して仕事を探そうとはしなかった。余計な仕事などしたくなかった。
 その次の文章の「威張れる立場の人に決して威張るな」も賛成だ。ただその次の文章の「反対に頭をさげるときもペコペコすることはない。取引きだから、堂々とやってください」とはなかなか出来ない。下げたくない頭を下げなければならない場面も多々ある。

 私は、戦争というものは、すなわち「母の嘆き」であると思っている。戦争となると、不思議なことに、死ぬことは怖くなくなってくる。しかし、私が死んだら母が嘆き悲しむだろうと思うと辛くなってくる。それは本当に辛い。「君死に給うことなかれ」と母親や愛人に言わせることが辛いのである。(卑怯者の弁 三)

 これは『男性自身』にあった。山口さんが戦争反対なのは「母の嘆き」を思うと辛いからだというのは、ただ闇雲に戦争反対と声を上げるだけしかないことよりストンと落ちる。

山口 瞳 著 /小玉 武 編 『山口瞳ベスト・エッセイ』筑摩書房(2018/03発売)ちくま文庫


by office_kmoto | 2018-08-22 05:24 | 本を思う | Comments(0)

8月18日 土曜日

 晴れ。

 ここのところやっと“命に関わる危険な暑さ”から解放された感がある。予報ではまた暑さはぶり返すとは言っているが、お盆も過ぎたことだし、少しは殺人的な暑さから解放されるかと思われる。
 今年はこの暑さで体力も落ち、免疫力も落ちたみたいで、帯状疱疹になってしまった。医者からそうなっていると聞いて、薬を処方してもらい、これで大丈夫かなと安心していると、胸から背中にかけて激痛が走る。これにはいささか驚き、その旨を説明し、リリカカプセ25mgという薬を追加で出してもらう。アメナリーフ錠200mg は1週間分飲まないと行けないらしく残りの2日分もその時出された。
 それでやっと湿疹の赤みも消え、良くなりつつあるし、痛みも治まったので、回復に向かっているのだろう。考えてみればことに夏は私にとってもこれまでなかった夏であった。だから生活のリズムも崩れ、そこにこの暑さも加わり、からだがついて行けなかったのかもしれない。

 久しぶりに神保町の古本屋を歩いてみる。とにかく久しぶりに地下鉄に乗って外に出たので、最寄りの駅にホームドアが付いていたのに驚き、街を歩けば、様相が変わっているのに驚く。かつてあった店がなくなりこれまでこの街に似つかわしくない新しい店が出来ている。
 店に入ればやはり今までとは様相が違う。思わずこの前ここに来たのはいつだったかな、と考え込んでしまう。様相が違うから当然戸惑う。どうも新しいことについて行けなくなっている。その分疲れる。
 日々変わらないとやっていけない時代なのだろうが、そのスピードが速すぎないか?。

 これといって欲しい本があるわけではなかったが、神保町へ行ったのは、古本を見ること、それとやはり今どんな新刊が出ているのか、地元の本屋では見ることの出来ない新刊本を見てみたかったからだ。やっぱり大きな本屋は新刊がたくさんあっていいなあと思う。三省堂や東京堂のイベントコーナーなど見ていて楽しい。
 東京堂では井狩春男さんの「返品のない月曜日」が東京堂限定復刊で並べられていた。“なんで今頃?”と思った。東京堂の担当者は鈴木書店を懐かしむ人がいるのかもしれない。それともかつてこんな問屋があって、そこにこんな人がいたんですよ、というのが面白いのかもしれない。

 古本は吉村昭さんの本を1冊と雑誌「東京人」の副編集長だった人が書いた文庫本を1冊購入する。
 帰りは岩本町まで歩き、秋葉原のブックオフにも寄ってみたが、面白い本はまったくなかった。ここのところブックオフはつまらなくなった。要するに私が読みたいと思う本がないのだ。ヤングアダルト向けの本といわゆる資格試験のための参考書が多くなり実用一辺倒になりつつある感じだ。文芸書も最近の作家が中心になり、ちっとも読みたいという気になれない。もちろんそれは偏見であることはわかっているが、ただわざわざ若者ぶるのもおもねるみたいで嫌だ。
 ノンフィクションでも最近の作家の書くものには内容の重みが感じない。う~んと唸らせられる本が読みたいのだが、そんなものはここにはない。まあ、考えてみれば、本を買ってすぐ売ってしまう人がブックオフを利用するわけだから、それをここで期待するのはそもそも間違いなのかもしれない。その点神田の古本屋は見るべき本がたくさんある。
 というわけでしっくりこないまま帰宅する。


by office_kmoto | 2018-08-19 06:55 | 日々を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈15〉

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 やっとこのシリーズを全巻読破したことになる。司馬さんが考えたこととして、その思想の有り様を、発表された文章から考えてみる、というのがこのシリーズコンセプトだから、全15巻読んでみて、それは何だったのだろう、と改めて考えてみる必要がある。
 司馬さんは自身戦争にかり出されて、実感したことは「この国はいつこんな馬鹿げた国家になったのだろう」ということであった。それを理由を探すために、自身の心を綴る手紙を書くように、日本の歴史を巡ってきた。それが司馬さんをして歴史小説を書かせる動機となった。太平洋戦争を起こした国家とはいつどこでどのように生まれたのか、その“鬼胎”を探した。
 日本史をさかのぼっていけば、すばらしい国であったこともわかってくるし、すばらしく、謙虚な人物たちにも出会った。司馬さんが司馬さんなりに日本史を探っていけば、かつて停滞していたと考えられていた江戸時代にも、すばらしく見るものがあり、逆に明治という国家がそれを一切否定してしまった。そこに二流、三流の人物たちが自分立ちの都合のいいように国家を歪な形にしていった。そこでは情報操作も行われた。そこに日本人の特質がそれを肯定して行ってしまった。このシリーズではくどいほど、特に晩年に、この過程を言いまわった。
 この巻でもそれがある。

 明治は、日本史の一時代区分という以上に世界史の事件であった。
 それほどに光彩にみちているが、しかし固有なるものの多くをうしなったという点で、見る角度によっては近世より痩せているともいえる。(近世の実景こそ)

 なにしろ明治以前の文章日本語をすてて、新言語が興ったのです。巨大な営みでした。明治時代、個々にみなさん手ないで縄をなうようにして自分の文章をそれぞれつくりましたが、それらを大完成させたのは、夏目漱石でした。
 文章というものは、多目的でなければなりません。政治や哲学を論じられるとともに、恋愛描写もできなければならないのです。漱石が、それを可能にしました。(私の漱石)

 明治後の日本人ほど政府を信じてきた国民はいないに相違ありません。すくなくとも明治二十年代以後、日本政府は、国民に信じられることによって成立していました。明治二十年代以後の日本人は、じつに国家や政府を信用していました。国家や政府が過ちをおかすことはないとどこかで信じていました。これが近代化が遂げられた最大の理由だと思います。その日本近代の国民的な習性を、軍部その他の勢力が、うまく利用して亡国に追いこんで行ったのです。むろん、軍部としても、それが愛国だと思っていたのですが。(日本人の二十世紀)

 一八八九年に帝国憲法が発布されて、法治国家の“国民”になったことがうれしかったこと、それから十六年後にロシアの南下を押しかえしたこと(日露戦争)が、国家への信頼と結びつきました。お上のなさることはまちがいないと思いこむようになって、大正・昭和を迎えてしまったのです。(人間の魅力)

 第二次大戦後、私どもは、暮らしを成立させているのは情報だということに気づくようになりました。情報が、米、塩、鉄とおなじ列にならぶほどに基本的なものだと知るのに、右の明治十二年から六十六年かかったことになります。(つまり、明治時代に情報が生存の基本だということを知っていて、そういう需要に応じた新聞があったとしたら、太平洋戦争のような国家的愚行はおこらなかったろう、ということです。くどくどいうと、その敗戦のおかげで、情報が、生存にとって欠くべからざるものだということを、私どもは知ったのです)。(大阪とプレスクラブ)

 このように司馬さんが語ることは、歴史を顧みることで、これからの自分たちが取るべき方向性を示してくれることを教えてくれた。
 最後に「私小説」がどうして日本文学の主流であるのかの文章が興味深かったので書き出しておく。

 ヨーロッパの偉大さは、千数百年来、神学者たちが――むろん哲学者たちもふくめて、
 「神は――絶対者は――存在する」ということを、糸巻きに糸を巻きつけるようにして営んできたことです。この知的作業は、おそらくヨーロッパ文明の基礎をつくる上で、決して徒労ではなかったとおもいます。このような作業の歴史は、日本だけでなく、仏教圏の国々にもありませんでした。空は科学と同様、相対的にとらえられるもので、それが存在するかどうか考える必要のないものだったからです。
 絶対ということです。
 日本の近代文学にもかかわりがあります。絶対というものは、私ども相対世界に生きている者からみれば存在しないものです。もしそれが虚構であるとすれば、神(God)も虚構です。Godが大文字であるように、いわば大文字の虚構を中心にすえて叙述の糸を巻いてゆくという――つまりその作家の神学的世界を創るという――欧米の近代文学は、日本がそれを受容しようとしても容易なことではありませんでした。
 日本の近代文学のなかに、「私小説」という特異な分野がうまれたのは、親鸞を生んでその思想を育てた日本の風土と無縁ではないだろうと思います。(日本仏教小論)

 ヨーロッパでは神をあることを前提に言葉を尽くして何とか証明しようとしてきた。それこそ言葉を埋めつくして説明しようとしてきた。生活の規範もその神によって規定された。
 言葉を駆使することになれたヨーロッパの人々はそこから物語を創造できた。しかし日本ではそれがなかなか定着しない。個々に神が存在するかのような世界では、個人の世界観でしか物語を創造することが出来ない。だから「私小説」が大きな位置を占めてしまうのだろう。むろんそれはそれで個人的には嫌いではない。個人の中に多様性を感じることで、物語を堪能できる。むしろ異質の世界での物語はなかなか中に入れないところがあるので、私としては安心して物語を読むことが出来る。
 次は司馬さんの対話集を読みたいと思っている。

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈15〉エッセイ1990.10~1996.2』 新潮社(2002/12発売)


by office_kmoto | 2018-08-19 06:22 | 本を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈14〉

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 この時期になると、司馬さんは文明評論家と化した感がある。これまでと重複するものが多く出てくるが、これは司馬さんの書かれた文章を片っ端から集めたとなれば仕方がない。
 これまでこのシリーズを読んできて気になった文章を掲げてきたが、以下書き出したものは、今まで書き出したものよりいくらかわかりやすいのではないか、と思い、また書き出してみる。

 漱石によって、大工道具でいえば、鋸にも鉋にも鑿にもなる文章ができあがるのです。ということは、たれでも漱石の文章を真似れば、高度な文学論を書くことができるし、また自分のノイローゼ症状についてこまかく語ることができ、さらには女性の魅力やその日常生活をみごとに描写することができます。(文学から見た日本歴史)

 言語の基本(つまり文明と文化の基本。あるいは人間であることの基本)は、外国語ではない。
 母親によって最初に大脳に植えこまれたその国のつまり国語なのである。
 国語(日本語)は、日本文化二千年の所産であるだけでなく、将来、子供たちが生きてゆくための唯一の生活材であり、精神材であり、また人間そのものを伸びさせるための成長材でもある。(なによりも国語)

 今は何かと言えばグローバル化と称し、英語がしゃべれることが重視される。確かにその必要性はわかるが、日本語がきちんと使えることが前提ではないか、と考える。自分たちがしゃべる日本語で自身を、そして自身の文化を考えられることが最前提だと思う。自身や文化を語る、あるいは思考する道具が日本語である以上、そこがしっかりしていないと、自身や自身の文化を語れまい。あるいは自身の考えを伝えることが出来ないのではないか。
 テレビを見ていると、あまりにも馬鹿な言葉遣いをするタレントの多いこと。また本来正しい日本語使わなければならないアナウンサーでさえ、おかしな言いまわしをするのを耳にする。おかしくないかと思うことが度々だ。もちろん私だってちゃんとした日本語使える訳じゃないが、だからこそきれいな日本語喋る人の日本語を聴きたいと思うのである。

 文明と文化の違いはこれまで何度か書き出した。今回も書き出したのはその説明がよりわかりやすかったからだ。

 近代日本が、わずか三十年のあいだに物狂いしたように帝国主義のまねをし、いまなお――どころかずっとのちまで――近隣の国々の猜疑からまぬがれずにいる。この日本のくるしみから察しても、他民族に屈辱をあたえるという国家行為が、国家にとってながい計算からいえば負の行為であることはいうまでもない。(女真人来り去る)

 しかし、文明はかならず衰える。
 いったんうらぶれてしまえば、普遍性をうしない、後退して特異なもの(文化のこと)になってしまう。(文化と文明について)

 人間は、冒頭のたとえのように、文化という(他からみれば不合理な)マユにくるまれて生きている。
 頭上に文明(たとえば交通文明とか、法の文明)があるにせよ、民族や個々の家々では、普遍性に相反する特異さで生き、特異であることを誇りとしている。そういう誇りのなかに人間の安らぎあり、他者からみれば威厳を感じさせる。
 異文化との接触は、人間というこの偉大なものを、他者において感ずる行為といっていい。(文化と文明について)

 文化というものは、魚が魚巣に住むように、サナギがマユにくるまれているように、それにくるまれていると快いというものであります。ときに、習慣と同義語でもあります。習慣は人の心をおちつかせます。さらに、すぐれた芸術は人の心を快くさせます。“くるまれて楽しい”ということが、文化なのです。(すばらしい時間を)

 江戸というのは金を使う場所だったわけです。これがまた江戸の気風を決定しておりました。江戸っ子は宵越しの金はもたないといいますが、これはずいぶん語弊のあることで、日本橋の商家の主人が金をもたないようでは、その商家は維持できません。ですから、これは主として大工、指物屋さん、あるいは他の職人の気風をいったものです。腕を磨けば、おまんまはついてくるんだ、という意味です。
 ともかくも江戸の経済というのは、その大きな消費によって成り立っている。(偉大な江戸時代)

 江戸については、先日NHKの「大江戸」で江戸中期の経済成長率が世界トップクラスだったと最近判明したと言っていた。
 もともと江戸は成立時から消費の町だった。家康が江戸に幕府を開いたとき、家康に従う他の藩は江戸の整備にかり出された。多くの職人たちが全国から集まって来た。彼らは江戸という町を作る一方、消費する側の人間たちであったからだ。また大名の参勤交代で武士たちが集まった。当然彼らも消費するだけの人間の集まりだった。
 しかし江戸中期になると、武士は没落していくと、今度は商人たちが武士に変わって江戸を盛り上げていく。しかし物資を供給する後背地を持たない江戸は、それらの物資を大坂から調達された。それら物資を集め、供給するための海運業が発達していくのである。

 この巻では有名な「二十一世紀に生きる君たちへ」が収録されている。

 私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
 歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
 だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは――もし君たちさえそう望むなら――おすそ分けしてあげたいほどである。
 ただ、さびしく思うこともある。
 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
 君たちはちがう。
 二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
 もし「未来」という町角で、私が君たちに呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。
 「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている二十一世紀とは、どんな世の中でしょう」
 そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角にには、私はもういない。

 私はこの文章を読むと、新聞などの広告に載る作家たちの“エール文章”の中で屈指のものだと思っている。
 司馬さんはやはり二十一世紀を待たず、1996(平成8)年2月12日に亡くなった。

 さて、司馬さんを文明評論家と称したが、一方で人物紹介、あるいは作品紹介文も多くここには掲載されている。司馬さんが薦める人物たちは共通の性質を持っている。すなわち人物に少年の部分を持ち合わせているかである。少年のような純粋で好奇心旺盛で心の持ち主が司馬さんが薦める人物たちなのだ。

 大きな塊というには、その内側に少年を飼っているいないか、ということだと私は考えている。(高貴な少年)

 ついでながら、創造は、人間の中の高度な少年の部分がやるのである。(“モンゴロイド家の人々”、など)

 そんな中、池波正太郎さんに関する文章が興味深かった。まず知って驚いたのが司馬さんと池波さんは同年代で、同じ年に直木賞をもらっているのだ。

 私ども、同年(一九二三年生まれ)である。震災のとしで、池波さんが一月、私は八月うまれだった。(若いころの池波さん)

 池波さんと私は縁がふかくて、同じ年(昭和三十五年――私は三十四年の下期だが、授賞式は翌年だった――)に、直木賞をもらった。(若いころの池波さん)

 それで司馬さんが書く池波さんはなるほどと思った。今までいくつかもの池波正太郎さんに関する文章を読んできたけれど、これほど的確に、しかも大きく肯かせるものはなかったので、最後に書き出しておく。

 私の記憶や知識のなかでは、江戸っ子という精神的類型は、自分自身できまりをつくってそのなかで窮屈そうに生きている人柄のように思えている。
 池波さんも、そうだった。暮の三十一日の日にはたれそれの家に行って近況をうかがい、正月二日にはなにがしの墓に詣で、そのあとどこそこまで足をのばして飯を食うといったふうで、見えない手製の鳥籠のような中に住んでいた。いわば、倫理体系の代用のようなものといっていい。
 この場合、こまるのは、巷の様子が変わることである。夏の盛りの何日という日にゆく店が、ゆくとなくなっていたり、まわりの景色がかわっていたりすると、たとえば鮭の卵をつつんでいる被膜がとれてしまうように当惑する。
 「いやですねえ」
 池波さんは、心が赤剥けにされてゆくような悲鳴をあげていた。
 なにしろ当時、東京オリンピック(昭和三十九年)の準備がすすめられていて、都内は高速道路網の工事やらなにやらで、掘りかえされていた。東京は、べつな都市として変わりつつあったのである。
 池波さんは、適応性にとぼしい小動物のように自分から消えてしまいたいとおもっている様子で、以下は重要なことだが、この人はそのころから変わらざる町としての江戸を書きはじめたのである。
 それはちょうど、ジョルジュ・シムノンが「メグレ警視」でパリを描きつづけたようにして、この人の江戸を書きはじめた。この展開がはじまるのは、昭和四十三年開始の『鬼平犯科帳』からである。
 メグレが吐息をつく街路や、佐伯祐三が描きつづけたパリの壁のように、池波さんは江戸の街路や、裏通りや屋敷町、あるいは、“小体な”料理屋などをすこしずつ再建しはじめただけでなく、小悪党やらはみだし者といった、都市になくてはならない市民を精力的に創りはじめた。昭和四十七年からは、『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』などがはじまる。
 かれらは池波さんが創った不変の文明のなかの市民たちなのだが、たれよりもさきに住んだのは池波さん自身だった。(若いころの池波さん)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈14〉エッセイ1987.5~1990.10』 新潮社(2002/11発売)


by office_kmoto | 2018-08-15 06:06 | 本を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈13〉

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 このシリーズは前回どこまで読んだのかわからなくなり、最初から読み直す方がいいかな、と思い再読している。
 ただどうも12巻までは読んでいたようで、この13巻から新たに読むことになるようだ。ここでも新たに知ったこと。驚いたこと、気になったことを書き出してみる。

 また文明と文化の違いを言う。これまで文明はどこでも誰でも参加できるものとしてその普遍的な性格を有していることを書いていた。そのため文化は汎用性ないことで、どこか一段低く見えてしまうところがあった。けれどそこに住む人たちにはなくてはならないものであることを書く。それがあるためその人たちの存在できるものなのだ。翻ってそれが集まって国家となるために、圧縮空気となる。

 ここで仮に定義しておこう。文明とは普遍的なもの、たれでも参加できる交通ルールのようなもの、そして文化とは特異なもの、不合理なもの、さらにはそれなしでは人間の心の安定がえられないもの。(バスクへの盡きぬ回想)

 これに対し、文化は特殊なものである。その家の家風、あるいは他民族にはない特異な迷信や風習、慣習をさす。
 「たれでも参加できます」
 というのが文明である以上、文明は高度に合理的である。しかし人間は文明だけでは暮らせない。一方において、
 「お前たち他民族には理解できまい」
 という文化をどの民族でも一枚の紙の表裏のようにして持っている。従って文化は不合理なものといえる。という以上に不合理なものであればあるほど、その文化はその民族の内部では刺激的であるといっていい。(日韓断想)

 しかしひるがえって考えてみると、民族というのは、そこに自然に存在している状態から、国家という形に統合される場合、このようなつよい圧搾空気のような思想や象徴が要るものかと思い、そのことにむしろ人類の厄介さを感じた。(バスクへの盡きぬ回想)

 「明治のころ本願寺に“反省会雑誌”という雑誌があってな、それが“中央公論”になった」(反省会のことなど)

 つまりは、遠来のキリスト教宣教師たちが謹直で実行力に富むのに対して、江戸期以来の日本の僧侶は無為徒食、遊惰の徒であったことをかれらは反省したのである。(反省会のことなど)

 へぇ、雑誌「中央公論」の元は本願寺で発行されていた雑誌だったんだ。
 次の文章は興味深い。

 小説を書き始めたのは、もちろんそればかりではありません。私のこれまでの経験の中でいちばん大きかったことは、やはり戦争末期に兵隊にとられたことです。命あって敗戦を迎え、
 「なぜ、こんなばかばかしい国に生まれたのだろう」
 という思いが強うございました。
 人の国を侵略し、うまくいかなくて敗れた。当然ですね。リアクションは必ず起こります。中国を侵略すれば、世界の列強からリアクションを受ける。中国からも受ける。自分の国を運営するうえで、他の国のことを考えない。浅はかな国でした。他の国の人を死なせ、自分の国の人間を死なせて敗戦になったわけです。そのとき、織田信長だったらそういうことをするだろうかと考えたのです。
 信長が特別偉いというわけではあえいませんよ。尾張から身をおこし、手ずから自分の王国をつくった男ならそんなことをするだろうか。そんなばかなことはしなかったと思うのです。自分の国を大切に思うなら、けっしてしません。私は決めました。日本という国を大切につくりつづけた日本人たちを書きつづることにしたのです。(時代を超えた竜馬の魅力)

 このように自分で国を作り上げた人物は、他国を侵略などしないと書く。このあたりはそうかもしれないと思う一方、自分の国大切にするばかりに、自国のことばかりしか考えられないことになりかねない部分もあるのではないか。少なくとも歴史はそうはならなかったことをたくさん書いている。日本においても明治から昭和はそうはならなかった。なぜそうなったか、司馬さんは次のように書く。それは人間の“質”が変わったことから始まった。

 自国の歴史をみるとき、狡猾という要素を見るほどいやなものはない。江戸期から明治末年までの日本の外交的な体質は、いい表現でいえば、謙虚だった。べつの言い方をすれば、相手の強大さや美質に対して、可憐なほどおびえやすい面であった。
 謙虚というのはいい。内に自己を知り、自己の中のなにがしかのよさに拠りどころをもちつつ、他者のよさや立場を大きく認めるという精神の一表現である。明治期の筋のいいオトナたちのほとんどは、国家を考える上でも、そういう気分をもっていた。このことは、おおざっぱにいえば江戸期からひきつがれた武士気分と無縁ではなかった。
 しかし、おびえというのはよくない。内に恃むものとしてみずからのよさ(文化といってもいい)を自覚せず、自他の関係を力の強弱のみで測ろうとする感覚といっていい。強弱の条件がかわれば倨傲になってしまう。
 日露戦争のあと、他国に対する日本人の感覚に変質がみとめられるようになった。在来保有していたおびえが倨傲にかわった。謙虚も影をひそめた。江戸期以来の精神の系譜に属するひとびとが死んだり、隠退したりして、教育機関と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた。かれらは、かつて培われたものから切り離されたひとびとで、新日本人とでもいうべき類型に属した。
 官僚であれ軍人であれ、このあたらしい人達は、それぞれのヒエラルキーの上層を占めるべく約束されていた。自然、挙措動作、進退、あるいは思慮のすべてが、わが身ひとつの出世ということが軸になっていた。
 かれらは、自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対して、狡猾に立ちまわらせるものだと信じていた。とくに軍人がそうだった。(あとがき 『ロシアについて』)

 謙虚というのはもしかしたらおびえの裏返しかもしれないと思ったりする。おびえがあったから、謙虚であったかもしれない。いずれにせよ謙虚であることはいい。しかしおびえがいつの間にか強がりと変質していく過程は、やはり明治という新しい国家がヨーロッパの文明の上っ面だけを受け入れたことで大きく変質していったところにある。しかも国家をあげてそれを推奨してきた。
 もともとヨーロッパでは自国を守ることが最優先とするから、どうしたって自分勝手にならざるを得ない。ただお互いギリギリのところで辛うじて均衡を保つことで何とかそれぞれの国家が存続できている。このあたりは一歩間違えれば、簡単にそれが壊れるほど危ういことはヨーロッパ近現代史をみればよくわかる。この危ういバランスを理解しないでヨーロッパの文明の上っ面だけを無条件に受け入れてきた日本は、どうしたっておかしくなる。

 さて、この本でもう一つ興味深かったのは日本の仏教が釈迦が唱えたものとは異質なものになっていることを書いた文章である。それは「浄土」という文章ある。

 ご存じのように、お釈迦さんは、原則として不立文字だったわけです。

 釈迦はキリストのように救済を説かなかったのです。釈迦は解脱を説いたのです。解脱は禅宗の悟りと同じで、それは文字を用いたり、ことばで説明したりすることでは、果たせないのです。釈迦が何を言ったか、釈迦はどういう思想を持っていたのか、よくわからないのです。

 不立文字とは、「大辞林」よると、

 禅宗の基本的立場を示した言葉。悟りは言葉によって書けるものではないから,言葉や文字にとらわれてはいけないということ。教外 (きようげ)別伝と対で用いられることが多い。

 とある。ところが仏教にはさまざまな経典がある。これは宗教において必ず起こることのようだ。釈迦に限らず、キリストなど教主が説いたことが後に弟子などが文章にして、こう言った、ああい言ったと書いたことから、それに接する後世の人々がさらにさまざまな形で受け取り、考えていく。そうすることで説は変質していく。そこに世俗の事情が絡んでくると、ある意味都合よく解釈されていってしまう。
 私は信仰とは本来個人的なものだと思っている。親鸞においても自身の解脱しか考えていなかったという。人のことなど考えていなかった。はっきり言って他人のことなどどうでもいい。しかし教主がそう言ってしまうと、信者はどうしていいかわからなくなってしまう。まして教団として信者の団体が形成されると、親鸞自身が説いた説では都合が悪い。当然教団にとって都合のいい解釈のみが採用されていくし、元々なかった、説かれなかった考えが加えられていく。それこそ他宗教の説も加えられたりする。キリスト教など布教活動において、土俗の宗教を取り込んでいった。宗教とはそういうものに変質していく傾向がどうしても拭えない。
 そんな中でかねてから気になっていたのは僧侶が葬式を取り仕切ることである。単純に考えて信仰(あるいは宗教)と葬式と関係ないものではないかと思う。それを司馬さんは僧侶が葬式を取り仕切るようになっていく過程を言っている。長くなるが引用する。

 いまは、日本語が紊乱しまして、上人と言うと、偉い人のようにきこえますが、上人というのは資格を持たない僧への敬称であって、たとえば空海上人とは言いませんし、最澄上人とも言いません。最澄(七六七~八二二)も空海も有資格者だからで、無資格者に対してはたとえば親鸞上人というふうに敬称します。ただ親鸞の場合は、ときに聖人と書きます。聖と言うのは乞食坊主のことです。
 聖と賎は紙の表裏だと言いますが、聖というのは、普通、中世の言葉では、正規の僧の資格を持たない、乞食坊主のことを言います。だから尊くもありました。

(略)

 そのお葬式屋はお坊さんに対して、形の上では尊敬してしますが、呼びかたが、お上人なのです。私は、東京で普通の町寺のお坊さんを中世の言葉、お上人様と呼んでいる例を知って、びっくりしたことがありました。
 これはどういうことかといいますと、日本の仏教は正規のお坊さんが、葬式の主役であったことは本来ないんです。だいたい仏教に、葬式というものはありません。お釈迦さんが、葬式の世話をしたり、お釈迦さんの偉い弟子たちが、葬式のお経をあげたという話も聞いたことがありません。またずっと下がって日本仏教の、最初の礎であった叡山の僧侶が、関白が死んだからといって、お葬式するために出かけていったこともありません。
 奈良朝におこった宗旨は、いまでもお葬式をしません。たとえば奈良の東大寺の官長が死のうが、僧侶が死のうが、東大寺のなかでお経をあげません。そのためのお坊さんが奈良の下町にいて、それを呼んできて、お経をあげさせる。それはお上人ですから東大寺の仲間には入れてません。
 葬式をするお坊さんというのは、非僧非俗の人、さっきのお上人でした。つまり親鸞のような人です。また叡山を捨てた後の法然も、そういう立場の人だったわけです。非僧非俗、つまりお医者で言えば、無資格で診療しているようなものです。

 (略)

 だから日本仏教には、表通りには正規の僧侶がいて、裏通りには非僧非俗がいて――つまり官立の僧と私立の僧がいて――どっち側が日本仏教かということも、思想史的に重要な問題です。私は鎌倉以後は非僧非俗のほうが日本仏教の正統だったと思います。
 もう少し歴史的な景色を申し上げますと、室町時代ぐらいまで、平安時代を含めますが、京都あたりの鳥辺山とかいろんなところに焼場、葬儀場がありました。そこに墓もあり、葬式の列が行くと、食い詰めた人たちが、非僧非俗のお坊さんの形になって、南無阿弥陀仏の旗を持ち、亡くなった方に供養のお経をあげますよ、と言ってまわるわけです。遺骸をかついでいる遺族たちはかれらをわずかなお鳥目雇い、葬式のお経をあげさせていました。
 戒を受けた立派な僧は、そういうことはしませんでした。
 日本は、室町時代ぐらいから、非僧非俗の人がお葬式という分野に入りこみはじめたのです。それはほとんど時宗という宗旨の徒(時宗)でした。これは僧にあらず俗にあらざる集団でした。
 鎌倉の日本仏教興隆期に法然、つづいて親鸞が出てきますが、同時に南無阿弥陀仏のほうでは一遍(一二三九-八九)がでてきます。

 たぶん人は死後の不安を感じ続けて来たのだろう。自分が死んだ後どうなるのか。出来れば極楽浄土の世界で住み続けたいと思うようになっていく。少なくとも現世で苦しんできた世界をそのまま続けたくはない。ましてその現世で生きるのが苦しければ苦しいほど来世に期待を持ちたい。そうした救いを宗教に求めるようになっていく。それがたとえばキリスト教が普及していった理由の一つではないか、と思っている。キリスト教においては、死後の安寧な生活を保証するために、今現在の生き方まで規定し、影響を及ぼしてしまう。
 仏教においてもたぶん同じだったのではないか。ただどういうわけか日本仏教においては誰でも救われる。現世でどんなにあくどい生き方をしても大丈夫という思想が広まっていく。そのひとつが阿弥陀仏だった。何と言っても阿弥陀仏はお節介と言えるほど、人を救ってくれるから、当然関心を引くわけだ。

 仏教は、発祥地のインドで衰弱していきます。その大きな理由の一つは、平等を説きすぎたからでしょう。釈迦はインド的な差別制度であるカーストをみとめませんでした。そのことがインド人にとって魅力だったという時代がすぎ、カーストを認めないことに、逆にそれじゃ空想じゃないかというとりとめなさを感じさせる時代がはじまったのだと思います。
 仏教は北上します。
 北上していくうちに、かつて西のほうからやってきて定住していたアレクサンドロス大王の兵隊の子孫、いまのアフガニスタン、パキスタンあたりに住んでいた連中と出会います。かれらはヘレニズムをもっていました。特技はヴィーナスを作る能力で、つまりは人間とそっくりの物をつくれる彫刻家をもっていました。そこへ非常に形而上性の高い仏教が北上してきて混じり合ったとき、土地の人が、そんな難しいことを言われてもわれわれにはわからない、その仏教はどういう形だ、教えてくれれば私たちが彫刻や絵画にしてみせる、と言ったであろうことが、仏像のはじまりだと言われています。
 これがガンダーラの発祥で、ギリシャの造形能力とインドの思弁能力や形而上性とが合致したのです。その場所から仏教と仏像が、日本に向かって歩きはじめたわけで、ずいぶん歳月がかかっています。
 日本にむかって歩きはじめた途中、こんにち流行りのシルクロードのあたりで、どうやら阿弥陀信仰やお経ができたようです。ですから、浄土教というのはお釈迦さんとも関係なく、仏教そのものの正統の流れともじかの関係はありません。
 釈迦は、みなさん自分で解脱しろ、と言う。
 ところがそうしなくてもいいと阿弥陀如来は言うのです。つまり阿弥陀如来には固有の本願というものがあって、人を救わざるをえない、人が逃げだしても救ってくださる、そういう救済思想が、仏教の名を冠して登場してきたわけです。
 仏教における救済思想の誕生は、キリスト教と関係があるのか、あるいはペルシャのゾロアスター教の刺激をうけたか、ともかくも救済宗教が既存した土地で阿弥陀仏教が成立したんだと思います。

 私は正統だって日本仏教の知識がないから、どこかごちゃ混ぜになってしまっているところがあるようだ。日本仏教にはさまざまな宗派があるから、それぞれが何を言っているのかわからない。わからないのにわかったような言い方で終わってしまっているのが、どこか自分でももやもやしている。ただそれを明快にするために仏教を学ぶにはあまりにも広大で、どこから手をつければいいのかわからないし、そのための厖大な時間を費やす余裕がないのが残念である。だから思うままに書いてみた。
 いま思うのは、信仰が人の生き方を規定してしまうこと。そしてそれが死後の世界まで及ぶのはどうなんだろう、と思うのだ。どこか人の不安をつけ込んで信仰が入りこんでいるようなところがありはしないか。それだけ人間は弱い生き物だということなのか。
 だからこそ信仰が人々の心の中に存在し、それが文化や文明まで成長し、世界を作っている。たぶんそういうことなんだろう。それに関しては尊厳を持ちたい。

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈13〉エッセイ1985.1~1987.5』 新潮社(2002/10発売)


by office_kmoto | 2018-08-13 05:50 | 本を思う | Comments(0)

貫井 徳郎 著 『乱反射』

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 この本も以前文庫本で読んだ。読んだ時、これは傑作だと思った。だから単行本が欲しいと思い、古本で手に入れたので再度読んでみた。

 物語は街路樹が倒れて二歳の男のがその下敷きになり亡くなる話で、大きくわけて二部に分かれる。まずなぜ街路樹が倒れ、男の子がその下敷きになり亡くなったのか。その後その原因追及がそのあと続く。だから物語は-(マイナス)44章から始まる。以降どんどんさかのぼっていき、街路樹が倒れる経緯が描かれる。そして〇章で街路樹が倒れる事故が起こり、その原因、関係者の追求の話となるようになっている。

 まずは街路樹が倒れて2歳の息子を失うことになる新聞記者の加山聡の家族が旅行へ行く場面から。
 家を空けて出かけるため、家にあった生ゴミをそのままにして置くわけにもいかず、生ゴミを車に積んで、サービスエリアで捨てた。

 「まあ、一回だけならいいか」

 まずは街路樹が倒れ、その下敷きなって息子を失う加山の小さなルール違反をここで描く。

 田丸ハナは子育ても終わり、これから自分は何をすればいいのか考えあぐんでいる主婦。近所に住む阿部昌子の家の近くに高層マンションが建つ計画が持ち上がりその反対運動に顔を突っこむ。ただし性格柄、けしかけることはしても、自分から率先して行動しようとするタイプではなく、誰かが先に立ってくれるのに追従することを望んでいる。
 阿部昌子の近所にする佐藤和代は、やはりマンション計画に反対しているが、田丸ハナを鼻持ちならない人間と見なし、田丸の言動をむしろ小馬鹿にし、面白がっている。

 三隅幸造はよくいる一昔前の頑固オヤジタイプ。定年退職後することがない。仕事一辺倒だったため、定年後妻にも娘にも相手にされない。むしろ妻が習い事に出かける姿を生き生きと見えてしまう。
 そんな時トイプードルのクマを飼い、溺愛し、自分の淋しさを紛らわす。
 三隅幸造はひどい腰痛持ちだった。だからクマの散歩のとき、屈んでフンの始末が出来ない。そのままフンを街路樹の根元に放置していく。

 「ずいぶんフンが溜まってきたなぁ」
 心の疚しさが、そんな言葉を吐かせた。誰も清掃しない街路樹の根元には、ここ数日分のクマのフンがそのまま堆積している。申し訳ないとは思いつつ、幸造は何もできなかった。ここなら通行人がフンを踏んでしまうこともないだろうと言い訳をして、罪悪感をわずかに軽減させるだけだった。

 内科医の久米川治昭は3つの病院を掛け持ちしているアルバイト医師。最近の医療訴訟にうんざりしているため、自分はそんな重篤な患者を診たくないし、責任も負いたくないので、アルバイト医師に甘んじている。

 安西寛は小さい頃から体が弱く、大学生になってもすぐ風邪をひく。病院に掛かるが、混雑する病院の待合室にいると他の病気がうつってしまうかもしれないと思い、夜間救急を利用する。その病院にはやる気のない久米川が夜間診療を担当していた。

 医者は淡々と診察するだけだったが、カルテを持ってきた小太りの看護師は軽く睨むような目をむけてきた。その程度の症状で救急時間帯に来るなんて、と内心腹を立てているのだろう。寛は気づかない振りをして、医者にだけ礼を言って診察室を出た。待合室ではさほど待たされることになく、会計をしてもらえた。薬局が閉まっているから、会計と同時に薬も出してもらえる。これが日中なら、ここまで済ませるのに三時間はかかっていただろう。やはり診察してもらうなら夜に限ると、寛は改めて強く思った。

 小林麟太郎は市役所道路管理課職員である。麟太郎は上昇志向が皆無で、競争や争い事大嫌いであった。事なかれ主義を通して役人人生を終えたいと思っていた。そんな麟太郎が道路拡幅に伴う街路樹伐採の事前調査している途中、田丸ハナに声を掛けられる。麟太郎は田丸に道路拡張のため街路樹を伐採する為の調査をしていると言う。それを聞いたハナは道路拡張のために生きている木を伐採されるのを不条理と感じ、反対運動を起こそうとする。この運動を起こすことで娘の佐緒里を見返そうと思ったからだった。
 佐緒里は彼氏に振られ、縁故採用された会社を1年あまりで辞めると言う。それを聞き、口論となり、佐緒里はハナのように夫に尽くすだけの人生は真っ平だとハナの人生を否定した。だからこの反対運動をすることで、自分にも夫や家族以外に積極性があることを佐緒里に見せられると思った。
 麟太郞はハナと話が終わった時、木の根元に大量の犬のフンがあることに気づく。同僚から、このまま放置しておくと苦情が出るから、麟太郞が片づけろと言われ、渋々処理をするが中途半端に終わらせてしまう。
 しかし再度市民からフンの苦情が寄せられ、麟太郞はその処理をすることになったが、その時子供たちに馬鹿にされた。

 聞くに堪えない、心ない言葉の数々だった。いったい誰が好きこのんで、犬のフンをなど片づけると思っている?汚い仕事でも誰かがやらないと大勢の人が困るから、こうしていやいややっているのではないか、何もわからない子供のくせにして、偉そうなことを言うな!
 激情に駆られて、手にしていた箸を地面に叩きつけた。

 根元にはまだフンが残っていたが、知ったことではない。そのままそこを去った。

 「あのう、ちょっとすみません」

 と安西寛はキャンパスで雪代可奈から声を掛けられる。休んだ講義のノートをコピーさせて欲しいと言われ、加奈が可愛いので、寛は二つ返事でノートを貸す。以来二人は同じ授業で隣り合わせに坐ったりする。寛は舞いあがっていた。
 寛は自分が体が弱く、風邪を引きやすい。けれど病院は昼間行くと待たされるし、他の病気を貰いかねない。だから夜間診療をしている病院に行くのだ、とその便利性を得意気に言う。
 そんな可奈から深夜電話があり、風邪を引いたらしく、病院に行きたいが、夜間診療をしている病院を教えて欲しいと言う。寛はいつも行く病院を教えるが、加奈が心配になり、その病院に行く。しかし加奈は寛に対してつれない態度を取った。もともと付き添わなくても一人で病院に行けると行っていたのに、なぜ来るのか。深夜ノーメーク、普段着で来ていたのでそんな自分の姿を他人に見られるのが嫌であった。しかし寛はそんな女心がわからない。こういう自分勝手な男は人の気持ちなどわからず、物事を自分の都合にいいように考える。そんな可奈はだんだん寛から距離を置くようになる。

 寛はまた熱っぽくなり、いつものように夜間診療をやっている病院に行くが、待合室に多くの患者が待っていた。

 「すみません。どれくらい待ってますか」
 疑問を解消するために、一番近くに坐っている人に話しかけてみた。寛とさほど変わらない年齢に見える男は、壁掛け時計に目をやって答える。
 「三十分くらいかな」
 「そんなに。来たときはもう、これくらい人がいたんですか」
 「うん、けっこういたね。夜だと空いているって聞いたから来たのに、思ったほど空いてなかったな」
 「夜なら空いている?そんな評判が立ってるんですか」
 「そうだよ。友達から聞いて、なるほどねと思ったんだけどさ」
 
 榎田克子は運転免許を持っているが、車庫入れが上手くできない。さらに家の車庫が道路に面しているため、車庫入れ時、路上の車を止めて、やっとの思いで車を車庫に入れる始末。
 妹の麗美の彼氏が借りた克子の車の車体を擦ってしまい、麗美のお気に入りの大型のSUV車を買い換えることになった。ところがただでさえ車庫入れがうまく出来ないのに大型のSUV車ではさらに車庫入れが難しくなる。道路で車庫入れを待っている車は渋滞し始め、あちこちでクラクションが鳴り始める。克子はパニックになりついに車を放り出して降りてしまう。

 足達道洋は石橋造園土木に勤務。樹木医の資格も有する。しかし息子の誕生をきっかけに極度の潔癖症になり、息子のおむつ替えは愚か、抱き上げることもできなくなる。夫婦生活も例外ではなく、妻の体を除菌シートで拭いてからという始末。

 街路樹伐採反対運動をやろうと考えたハナは、娘を見返すために始めた英会話教室で知り合った粕谷静江に道路拡張のため街路樹が伐採されることを話す。静江は積極的に街路樹伐採反対運動の中心人物になっていく。ハナは静江が自ら積極的に動いてくれため、自分が先頭に立たなくて済む。そのことを喜んだ。静江の友人の夫で市議会議員のアドバイスを受け、署名運動だけでなく、実力行使も辞さない態度が必要と言われ、伐採の準備に来ていると思ったハナたちは安達たちの調査を邪魔した。

 安達は単に市に依頼され街路樹の診断をしようとしていたのであった。それは5年に一度行われるもので、伐採とは関係ないものだった。結局その時はハナたちの反対があって街路樹の診断が出来なかった。そのためハナたちが反対運動をしない早朝に再度街路樹の診断を始めたとき、安達は木の根元にフンがあることに気づく。病的な潔癖症の安達は、

 しかし道洋の視線は、まるで磁力で弾かれるようにどうしてもフンには向かなかった。足は竦み、背中を悪寒が走り、意識が不意に遠くなりそうな心許なさを覚えた。

 (略)

 駄目だ、この木には近寄れない。道洋は白旗を揚げざる得なかった。足元に犬のフンがいくつもあるような、そんな恐ろしい状態で仕事ができるわけもない。無理に強行すれば、道洋はパニックを起こして我も忘れてしまうだろう。叫び出して逃走するか、あるいはその場で失神するか。いずれにしろ、能力の限界を超えた作業であるのは間違いなかった。

 (略)

 そのときふと、ある重要な情報を思い出した。ここの木は近いうちに、道路拡張のために伐採されるのだ。道洋たちは依頼されたことをそのまま忠実に遂行するしかないが、無駄な作業なのは確かだ。ならば、一本くらい診断しなくてもいいのではないか。先輩に押しつけ、気まずい思いをしてまでやらなければならない仕事ではない。この場をなんとか逃れたい気持ちが、道洋に言い訳を許した。

 こうして倒木寸前の病気の街路樹はそのままにされた。そして強風が吹いた日に、その木は倒れた。そして加山聡の一人息子健太がその下敷きになる。救急車が呼ばれ、近所の病院に問い合わせをしたが、治療を断られる。内科医の久米川治昭いる病院であった。しかも車を放りだして逃げ出した女性がいたため、救急車は渋滞のため先に進めなかった。そして健太は死亡した。
 悲しみに暮れる加山に上司はこれは人災だ。このまま泣いているだけでいいのか。原因を追及しろと言われる。
 そしてこれまで記したこの街路樹が倒れる原因になった関係者に会っていく。しかし誰も自分の非を認めない。単に≪石橋造園土木≫の安達道洋を業務上過失致死罪で逮捕されただけだった。しかも彼は病気であった。事故は複合的な原因で起こっただけに加山は安達道洋だけの責任として認められなかった。加山は街路樹倒木に関係ある人物たちに会っていくと、

 「みんな、そうなんですよ。私が訪ねていくと、みんな怒るんです。自分は悪くないと、開き直って怒るんです。どうして怒れるんでしょうね。やっぱり私の方が間違ってるんですか。私は言いがかりをつけているだけなんですか。誰のせいで健太が死んだのか、知りたいと思っちゃいけないでしょうかね」

 「誰も謝ってくれない。誰も自分の罪を認めてくれない。誰かひとりでも謝ってくれれば、ここまでの絶望感は味わずに済んだかもしれない。こんなにも人間を憎まずにいられたかもしれない。でも、誰も謝ってくれない。健太が死んだのに、おれの健太が死んでしまったのに、誰も責任を取ろうとしないんだ……」

 加山は咽が渇いたのでコンビニ足を向ける。小腹も空いたのでおにぎりとウーロン茶を買った。食べ終わったあと、ゴミをゴミ箱を入れようとした瞬間、あの時のことを思い出した。健太が生きていたとき、家族旅行を行った。そのとき家に溜まったゴミをそのままにしておくことが出来なかったのでサービスエリアに捨てたことだ。

 「ああああああああああ」

 「……おれだったのか。おれが健太を殺したのか」

 加山は自分は死んだ子供の父親だから関係者を責める権利があると思っていた。しかしあの時のことを思い出したとき、自分には他人を糾弾する権利がない。彼らがした行為と加山の行為に差異はない。彼らが責められるべきしたことならば、自分も同じように罪を背負った人間だった。加山は力尽きるまで絶叫し続けたのであった。

貫井 徳郎 著 『乱反射』 朝日新聞出版(2009/02発売)


by office_kmoto | 2018-08-10 04:28 | 本を思う | Comments(0)

帯状疱疹

 4~5日前から左胸に赤い発疹が出来はじめ、それが斑点になりピリピリと刺すように痛み始め、引きつる感じがしていた。その痛み、引きつりがひどくなったので、近くの皮膚科に行った。先生はその斑点を一目見て、帯状疱疹ですね。と言う。帯状疱疹?聞いたことがあったが何のことかわからずいると、パンフレットを取り出して説明してくれる。どうやら水疱瘡をやった人が、それが治ったあとでもウイルスが体内の神経節に潜み、それが60代を中心に加齢や過労、ストレスによって再び活動し始める、それが帯状疱疹らしい。要するに水疱瘡の再発ということなのだろうか?
 症状はからだの左右どちらかに現れ、胸から背中にかけてもっとも多く現れるという。まさに私の今の症状だ。
 やれやれ、また加齢か、と最近自分のからだに起こる不具合のほとんどが加齢に関係する。
 先日歯医者の半年に一回の定期検診に行った時も、歯が年齢に応じて、おかしくなっているところがあり、それは避けられぬことで、どうしようもないことなのだ、と言われたばかりであった。今悩まされている首の痛みにしても同様で、長年からだを使ってきたことで経年劣化してきて、首の痛みに悩まされている。そこへ体力や免疫力も衰えはじめてきているものだから、今回帯状疱疹にもなったわけだ。
 ということで、ここは院内処方なので、抗ヘルペスウイルス薬、アメナリーフ錠200mg錠5日分と、塗り薬を出してもらう。会計で5千いくらと言われ驚く。えらく高いと思ったのだ。簡単に診察してもらい、「はい、お薬出しておきますね」と言われ、5日分処方されて、5千円は高いと思ったのだ。
 とりあえず会計を済まし、診療内容の明細を見ると、薬の点数が1400いくつとなっている。薬が高いんだ。
 疑うわけじゃないが、薬価はどれくらいなのかネットで調べてみると1437.1円となっている。これが1回2錠、5日分の3割負担となれば、なるほど5千円は超える。今まで胃薬とか目薬とか、痛み止めやローションなど安い薬しかもらっていないものだから、ついつい貧乏性が出て来る。
 昔薬局経営に携わっていたとき、在庫がどんどん膨れ、問屋の支払いに苦労し、資金繰りに慌てふためいていたときを思い出す。これはまだ序の口の方なのだろう。薬代も馬鹿にならないものなのだ。

 5日後又来てください、と言われている。そういえば台風が近づいている。金曜日は大丈夫かなあ。早く治ってほしいけれど。


by office_kmoto | 2018-08-07 05:59 | 日々を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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