<   2018年 09月 ( 11 )   > この月の画像一覧

貫井 徳郎 著 『後悔と真実の色』 『宿命と真実の炎』

d0331556_18095671.jpg 先日テレビで『乱反射』をドラマ化したものを見た。人々の「まあこれくらいいいかな、という小さないい加減さ」が積み重なって重大事故となるドラマであるが、その「まあこれくらいいいかな、という小さないい加減さ」の突っ込み方が少し物足りなかったのと、原作にある「小さないい加減さ」のもう一件が省かれていた。多分時間の関係で端折らざるを得なかったのだろう。
 ここのところテレ朝は私の興味のある原作をドラマ化してくれて、結構愉しんでいる。この前の『dele』も楽しく見させてもらった。

 というわけで貫井徳郎さんの違う本を読みたくなり、この2冊を読んだ。最初の『後悔と真実の色』で、これは若い女性を襲った連続殺人事件を捜査一課のエース、西條輝司ら警視庁捜査一課第9係たちが犯人を追う話である。
 犯人は殺した女性の右手の人差し指を持ち去っていた。犯人は最初は名前がなかったがネット上で犯行が公になると、〝指蒐集家〟を名乗る殺人鬼となる。
 今やネットで犯行が公開され、騒ぎになることは往々にしてあるが、この時はまだネットで事件が騒ぎになるのは珍しかったかもしれない。そんなネットで騒ぎになる中、殺人は繰り返されていく。
 一方西条ら捜査陣は地道な捜査を続け、犯人を追う。事件を追う刑事たちにもさまざまな人間がおり、刑事としてのスタンスには温度差があるのが面白い。西条は犯人を挙げる執念で、一人浮いてしまうところがあったが、それも単に事件を解決したい一心でまわりが自分をどう見ようとも関係なく、まわりと対立しようが事件に迫っていく。当然中には西条をよく思わない人間が出て来る。
 そんな中、西条らがつかんだ重要な捜査情報がリークされてしまう。西条は謹慎処分となる。
 西条は謹慎処分となっても家に帰りたくなかった。夫婦間がうまくいっていなかったのだ。愛人の美叡のところへ転がり込む。ただそれを写真に撮られてしまい、西条を快く思わない刑事にそれが流れてしまう。そしてその刑事から週刊誌に流れ、写真は公になってしまう。謹慎処分を食らった刑事が愛人宅に転がりこんだとなれば、西条はもう刑事としていられない。辞職願を書かされることとなる。刑事でなくなった西条は妻からも見放され、家を出て、何もかも失い、ホームレスまでに落ちていく。このあたりは極端な展開だ。
 美叡の力も借りて西条は何とか立ち直っていくが、今度は実家に帰った美叡が殺されてしまう。
 ここまで読んできて、あまりにも西条の情報が犯人に漏れていることがわかってくる。これは身内に犯人がいるのではないか、と思え、そしてここでこの本は読んだことがあると思い出した。というかここまで読まないと読んだことを忘れていたのが驚きであった。
 犯人はこの連続殺人事件の最初の現場に駆けつけ、そのため西条と捜査のためコンビを組んだ交番巡査の大崎であった。犯人はこいつしかいないと確信できた。
 大崎はネットを駆使し、犯行を拡大し、大崎に加担する人間をリクルートし、捜査を攪乱し、最後はネットでリクルートした人間を使って西条の娘まで誘拐させた。
 大崎が最初から〝指蒐集家〟として殺人鬼になったわけではない。たまたまズタズタに切り裂かれた女の現場に駆け付けたとき、切断された指が転がっていた。犯人と争ったとき、自分の指が切断されたのだろう。大崎がその指を拾ったとき、〝指蒐集家〟として殺人鬼となった。
 大崎は交番勤務で地域を回っているとき、何人か不倫をしている女たちを見てきた。そしてそれが許せなかった。大崎の母は、大崎の父親の不倫相手に殺されていた。女がいずれ父親と結婚してくれるという空手形を信じていたが、らちが明かないと短絡的に考え、大崎の母親を殺したのであった。以来大崎は不遇の人生を歩むことになった。だから大崎を不幸にした女たちが許せなかった。そして西条も自分が単に交番巡査であることを小馬鹿にしていると勘違いし、さらに捜査情報をリークしたことに怒った西条に足蹴にされたこともあって、西条も許せなかったのであった。

d0331556_18110940.jpg そして『宿命と真実の炎』である。これは西条の第二弾である。しかし警察を辞めた西条がどのように事件に係わっていくのか。それが見物であった。西条は警察を辞めて行きつけの古本屋を訪ねる警備員となっていた。
 事件は交通巡査連続殺人事件であった。話は誠也とレイがオートバイに乗った白バイ隊員杉本宏治を交通事故に装って殺害するところから始まる。そしてこれはうまくいって自損事故と扱われた。
 その後二人は巣鴨署所属の白バイ隊員の小川道明を刺殺する。最初は誠也が盗んだバイクでひき殺そうとしたが失敗したので、レイが小川を刺した。当然殺人事件として捜査本部が立ち上がる。野方署刑事課の女性刑事高城理那は、本庁からは九係から来た村越とコンビを組む。この村越は前回では、捜査情報を新聞記者の流し、その見返りにたかる刑事として描かれている。西条のスキャンダルを週刊誌に流したのにも加担している。ただ今回は女たらしは変わらないにしても、高城をうまくサポートしていく。
 高城は聞き込みを続ける中で、小川が最近事故死した杉本宏治とかつて同じ東府中署に所属していたことを知る。杉本の事故死を詳しく調べてみると不審な点があり、殺された捜査本部はこの事件を連続サツカン殺人事件として取り扱うことになった。
 そして三人目の警察官殺しが起こる。殺された梅田も東府中署に在籍していたことがあった。
 高城と村越は杉本がスピード違反で追いかけていた男が自損事故で死亡してしまった事実を見つける。その男の息子が梅田殺害現場の防犯カメラに写っていた。捜査本部は男の父親が白バイで追いかけ廻され、その揚げ句自損で死亡したという怨みが動機となって三人を殺したのではないかと男の逮捕に至る。
 連続サツカン殺人事件の捜査はこれで終了した。捜査本部も解散し、高城は自分の署に戻る。そんな時練馬署の白バイ隊員千葉義孝が自殺したという記事が載っている庁内報を目に留める。千葉も杉本、小川と同時期に東府中署にいた。千葉の自殺事件を担当した機捜の綿引であった。綿貫は西条に歪んだ嫉妬心を持っており、西条のスキャンダルを村越から紹介された記者に売った男であった。
 さてこのように警察を辞めた西条との関わりのあった刑事たちがここでも登場するが、如何せん西条は警察を辞めている。だからこの連続サツカン殺人事件の捜査には関われない。それをどう事件と絡ませていくかが、著者の力量であろうか。
 高城がかつて警視庁にいた西条を伝説の刑事として慕っていた。捜査が一時膠着状態になったとき、高城は西条ならどう考えるだろうか、と思うのであった。コンビを組んでいる村越の勧めもあって高城は西条にアドバイスを求めていく。このあたりは何とか西条を登場させなければならない、強引さがあり、不自然さを感じた。
 とにかく高城の捜査は西条のアドバイスによってなされ、それが捜査本部の捜査になっていき、事件は解決したかのような様相を呈するが、犯人が捕まっても、また東府中署の警察官が自殺とはいえ、死んだことに不信感を持つ。そして極秘に再捜査が始まった。高城は杉本らのかつての上司に話を聞きに行く。そして知り得たことは、


 「ある事故で、白バイ警官が死んだ」


 加害者は赤信号を無視して、白バイに衝突し、警官が死んだ。ただこの事故、加害者が赤信号を無視したのではなく白バイの方が信号無視をした、という目撃情報もあった。しかしその情報は警察によって葬り去られ、加害者は実刑判決を受けた。加害者の吉岡正昭は出所後離婚した。吉岡には息子がいて、妻にも連れ子もいた。二人は兄弟として一緒に暮らしていたが、吉岡夫婦の離婚で二人は別れることとなった。この二人の兄弟が誠也とレイであった。ただ吉岡は自分の息子は死んだと言っている。しかし誠也は昔知り合った男を殺して入れ替わり、淵上誠也と名前を変えて生きていた。
 誠也には弟のレイに負い目があった。昔誠也が万引をしたのをある男に見つかり、それを父親に言わない代わりに性的処理を強要されていた。男は執拗であったが、あるとき誠也がレイと一緒にいるところを男に見つかってしまう。男は誠也より綺麗な顔をしている弟を気に入り、誠也の代わりにレイを性的処理させた。それが負い目となった。その負い目が男への復讐となった。
 男への復讐がなったとき、誠也がすべき本当の復讐はレイと生き別れの原因を作った警察への復讐ではないかと思い至るようになっていく。そのために誠也は他人に入れ替わった。父親には自分が死んだものと言い含めた。警察への復讐を心に込めた誠也はレイと再会する。自分の復讐心をレイに打ち明けたとき、レイもその話に協力していく。いや、むしろレイの方が警察の復讐が積極的で、主導的だったあった。誠也はレイの望むことをしてきただけのように思えてくる。レイが望めば、誠也の会社の同僚さえ殺してしまうのである。
 この本は最初から犯人がわかっている。だから彼らが何故連続警官殺しをしなければならなかったのか、その動機が徐々にわかっていくところに面白味がある。それがギリギリ最後までどうなっていくのかハラハラした。
 一方西條輝司は高城に事件の真相に迫っていくアドバイスをするが、その存在は前作に比べ薄い。警察を辞めたあと警備会社に勤めたり、兄の勧めでサラリーマンにもなった。高城に捜査のアドバイスをしたり、行きつけの古本屋の娘の離婚問題を解決したりして、何とかその存在をアピールする。ただこうした捜査のアドバイスや古本屋の娘の問題解決をしているうちに、自分はサラリーマンには向かないことを自覚していく。


 非凡であることは、生まれ持っての宿命とでも言うべきものなのだろうか。人目を避けて静かに生きていたいと望んでも、課せられた宿命がそれを許さない。

 
 西条は犯罪解決に取り組める警察とは別な仕事を目指そうとしていくようだった。これはこのシリーズの続巻の可能性を示唆しているのかもしれない。


貫井 徳郎 著 『後悔と真実の色』 幻冬舎(2009/10発売)


貫井 徳郎 著 『宿命と真実の炎』 幻冬舎(2017/05発売)

by office_kmoto | 2018-09-29 18:13 | 本を思う | Comments(0)

マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールー 著 / 柳沢 由実子 訳 『バルコニーの男―刑事マルティン・ベック』

d0331556_06043616.jpg 今回も旧訳とこの新訳を比べて読んでみた。
 事件は連続少女暴行殺人事件である。物語はまず辻強盗が連続していて、グンヴァルド・ラーソンたちが犯人を追っていた。しかしなかなか犯人は挙がらず、マルティン・ベックはラーソンに発破を掛けているとき、老婦人から電話が入る。
 婦人のアパートの前のバルコニーに不審な男がいると言う。電話を取ったラーソンはベックの言い方に腹を立てていたので、ぞんざいな対応をしてしまう。
 その後最初の少女暴行殺人事件が起こる。場所は辻強盗があった近くであった。さらに二件目の少女暴行殺人事件が起こり、ストックホルム市民は恐怖に打ち震えた。ベックは辻強盗が連続少女暴行殺人事件の犯人を見ているはずで、さらに最初の少女殺人で一緒にいた三歳の男の子も犯人と接触しているはずだとにらむ。
 ベックはラーソンたちに辻強盗の犯人を早く探し出せと、さらに発破をかける一方、言葉もうまくしゃべれない三歳の男の子にも苦労して話を聞いたりする。
 辻強盗にはたれ込みがあり、犯人が捕まる。ベックたちは辻強盗に少女暴行殺人事件の犯人を見ているはずだからよく思い出せと迫る。辻強盗はその男らしい容姿を伝える。
 それを聞いたベックは何かが引っかかる。それが何かわからず悶々とするのだが、辻強盗が言った少女暴行殺人事件の犯人らしき容姿が、ラーソンが老婦人からバルコニーにいる男の容姿とよく似ていることに気づく。


 ルンドグレン(辻強盗の犯人)が言ったという犯人の特徴が、二週間ほど前にラーソンが外からの電話に対応したときに相手の言葉として繰り返したものとまったく同じと言っていいほど似ているのだ。 


 話が急展開し、犯人が捕まる。
 物語としてうまい構成になっていると思う。

 私は基本高見浩さんの旧訳を支持している。柳沢さんの訳がスエーデン語からの直訳であっても、警察という男世界では、男性の訳者の方が臨場感があると思っている。特に今回から登場したグンヴァルド・ラーソンはこのシリーズの名物男で、そのぞんざいな話し方は高見訳を支持してしまう。
 辻強盗のたれ込みがあり、ベックとラーソンが踏み込んだとき、ベッドに一緒にいた女に対し、ベックがその女に名前を聞いた。


 「名前は?」

 「リスベ・ヘドヴィグ・マリア・カールストム。あんたは?」
 「捜査官」
 「私は、ストックホルム大学で現代語を専攻しているの。英語ですでに二単位取ってるんです」
 「なるほど。これはその実習というわけか」とグンヴァルド・ラーソンが後ろを振り向きもせずに言った。
 「一年前に成人しているし、避妊もしています」
 「この男とはいつからの付き合い?」ベックが聞いた。
 娘は相変わらず服を着ようともしない。腕時計に目を落として言った。
 「きっかり二時間と二十五分前に、ヴァーナディス・プールで」
 部屋の反対側では強盗男がパンツとカーキのズボンをはいているところだった。
 「ご婦人たちに見せるほどのものじゃないな、それは」グンヴァルド・ラーソンが冷やかした。
 「お前、最低」
 「そう思うか?」
 グンヴァルド・ラーソンはそれを強盗から目を離さずに言った。



 旧訳では、


 女にドレスをわたしながら、マルティン・ベックはきいた。
「きみは誰だね?」

 「あたしはリスベット・ヘドヴィグ・マリア・カールストゥルム。あなたは誰?」
 「警官だ」
 「あたしはストックホルム大学で近代文学の講座をとっているの。ついこのあいだ、英語の最終試験をパスしたところよ」
 「その成果がこれだというわけかい?」とグンヴァルド・ラーソンが振り向きもせずに言った。
 「この男とつき合ってどのくらいになるのかね?」マルティン・ベックがきいてみた。
 女はあいかわらず衣服を着る素振りを示さずに、腕時計に目やってから答えた。
 「ちょうど二時間と二十五分になるわ。、ヴァナディス・プールで知り合ったの」
 向かい側の隅では、辻強盗男がそそくさとパンツとカーキ色のズボンに足を通している。
 「ご婦人がたにお見せするにはお粗末なシロモノだな」グンヴァルド・ラーソンが言った。
 「下品なひとね、あなたって」
 「そうかね?」
 グンヴァルド・ラーソンは辻強盗に目をすえたまま答えた。



 「いまイェルムと話したところだ。そういえば、あんたを探してたよ。電話してほしいそうだ。マリア署の連中がホーンスツルスストランドの植え込みでパンティを一つ見つけたそうだ。我々にも連絡もしないで、この巡査、鑑識にこのパンティを回して、タント公園の女の子のものかどうか調べろと言ったそうだ。そんなわけで鑑識の連中はこのピンクの、サイズ四十四の馬鹿でかいパンティを前にして、いや、これ、コルベリにさえ大きいと思われるサイズだよ、どういうことかといぶかったということだ。まったくね。おれだってそう思うよ。警察はバカの集まり、ってところかね?」
 「おれもときどきそう訊きたくなるね」ベック。



 旧訳では、


 「たったいま、イェルムと話をしていたんだがね。そうそう、彼があんたに電話をくれと言っていたっけ。それで、話というのはだな、マリア署のやつがフールンストゥル・ストランドのそばの草むらで、女ものパンツを見つけたんだとさ。やっこさん、それっとばかり、こっちに知らせもせずに鑑定室に持ちこんだというわけだ。タント公園の少女の死体から奪い取られていたパンツかもしれんというわけでね。鑑定室の連中ときたらコルベリにでもでかすぎる超Lサイズのピンクのパンツを前にして、ポカンとつっ立っていたそうだよ。でも、連中を責めるわけにもいかんだろうしな。この商売をやってたひにゃ、どれだけ馬鹿になるこったろう?」
 「そいつはわたしも、しょっちゅう自問していることだ。彼は他に何か言っていなかったか?」



 もしこのパンツを発見したと言って、ラーソンのところに見せたら、その大きさの合わないことで怒鳴り倒されたことだろうと思う。

d0331556_06045895.jpg さて今回の話とは関係ないが、この旧訳の初版にはスピンが付いている。角川文庫も昔は新潮文庫のようにスピンが付いていたことをこれで知ることが出来る。
 ところでこのマルティン・ベックシリーズは私がこのシリーズを読み始めたころはシリーズ5巻目までは文庫本でしかなかった。そして以後「角川書店海外ベストセラーシリーズ」として最初に単行本で出版されている。ということは親本として最初の5巻までは単行本があるのではないかと思って、古本で探してみたが見つからない。ということは多分このシリーズは最初は文庫本でスタートしたのだろうと考えていた。
 この本の解説を香山二三郎さんが書いているが、そこに「七四年一二月刊行の『サボイ・ホテルの殺人』はシリーズ初のハードカバー版となったが、」と書かれているから、どうやらこれが正解のようだ。
 そういえばこの「海外ベストセラーシリーズ」は昔面白いものを出していたけれど、今はほとんどシリーズとして出版されていないようだ。


マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールー 著 / 柳沢 由実子 訳 『バルコニーの男―刑事マルティン・ベック』 KADOKAWA(2017/03発売) 角川文庫


マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールー 著 /高見 浩 訳 『バルコニーの男』 角川書店KADOKAWA(1971/08発売) 角川文庫

by office_kmoto | 2018-09-25 06:08 | 本を思う | Comments(0)

佐藤 優 著 『十五の夏』〈下〉

d0331556_07095996.jpg
 下巻は全編ソ連の旅である。東ヨーロッパからキエフに入り、その後モスクワに出た。

 「赤の広場」の「赤」は、共産主義を意味するものではない。帝政ロシア時代から「赤の広場」と呼ばれていた。ロシア語の古語では、「赤い」と「美しい」は同じ形容詞を使っていたという。「赤い広場」とは色を意味するものではなく「美しい広場」という意味だ。

 その後ソ連領の中央アジアのブハラへ出て、ウズベキスタンの首都タシケントへ向かい、さらに飛行機でハバロフスクに出て、夜行列車でナホトカに出る。そして船で横浜に帰ってくるルートである。
 これを読んでいると当時(今もそうなのかわからないが)ソ連内を旅する場合インツーリストという旅行会社にホテルから飛行機、汽車をすべて先に日本で予約していないとビザが下りなかったようで、これがあればすべてが優先的にされるようだ。しかもべったりとガイドが何もかも取り仕切ってくれる。ときに鬱陶しい感じがするが、一人旅をするには便利なようだ。
 ガイドブックなどにはロシア人は不親切であるし、食事もまずいと書かれているようだが、実際旅をしているとそうではなく、親切だし、食事も美味しいと書く。こういうのって主観だから、人それぞれなんだろうし、たまたまそんな場面の遭遇してしまった可能性だってある。だから下手に鵜呑みにできないことを何度も書いている。

 さて、彼は日本にいる時に「日ソ友の会」で仲間から紹介されたモスクワ放送局の日本課長を訪ねる。
 彼のこの旅プラン自体高校生離れしているが、旅をする前に充分な資料を、それこそ高校生とは思えない程、ソ連に関して集めていたし、それに接する機会を求めていた。 高校生がソ連に関係する団体に入りこんで、データを収集するとは驚きである。
 そんな日本でのソ連との関係を友好にしたいという仲間たちと食事をしている時、北方領土問題で早稲田の学生と初老の男性が口論となった。
 今日本とロシアとの間で最大の問題は北方領土帰属問題であろう。日本は北方領土は日本の領土だから帰せと主張する。ロシアはそれは出来ないと言い張り、戦争が終わっても今日まで両国間で平和条約が締結出来ないでいる。そのためプーチン大統領はこの問題を棚上げして平和条約を結ぼうじゃないかと提案したくらいだ。
 私もロシア(当時はソ連)が終戦間際、いきなり入り込んできて、それこそ火事場の泥棒みたいに北方領土を取っていったと思っていた。しかしここは江戸時代に領土の線引きが行われていて、日本人が住んでいた島だ。だから北方領土は日本の国土じゃないかと思っていた。
 戦争で勝った負けたで国土が増えたり、なくなったりするのは歴史的に当然のようにある。勝った側は莫大な費用と犠牲をかけて勝利したわけだから、そのご褒美を当然要求する。ロシアだけじゃない。日本だってかつてそうであった。日露戦争の時など、対費用効果に見合わないといって、小村寿太郎が結んだポーツマス条約に納得できないといって暴動が起こったくらいだ。
 問題はサンフランシスコ条約を締結するときに、日本が北方領土をどこまでソ連に引き渡すか、そこを曖昧なまま条約を締結してしまったことが、今日まで問題を複雑化してしまったようだ。

 「日本政府の北方領土返還要求は、支離滅裂で、到底、国際社会からの批判に堪えることができません。まず、日本は1951年のサンフランシスコ平和条約2条C項で南樺太と千島列島を放棄しています。この放棄した千島列島に、国後島、択捉島も含まれています」

 「そんなことはない。日本はウルップ島からシュムシュ島までの千島列島は放棄したが、歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は放棄していない。少なくとも日本政府はそう言っている」
 「それは、日本政府の反ソ・反共政策に基づくプロパガンダです。サンフランシスコ平和条約締結時点では、日本は国後島と択捉島を放棄していました。1950年代半ばに日ソ国交交渉が始まったときに立場を変えたのです」

 どちらの言っていることが正しいのだろうか。実証的には、早大生の言っていることの方が正しい。

 この後著者はこの紀行記の付属する話として(かつて外務省で担当した立場からだろう)、詳しく北方領土問題の歴史、日本政府のぐらつく姿勢を自らその事情を書きつづる。

 1951年9月8日に署名されたサンフランシスコ平和条約で、日本は国際社会に復帰した。この条約の2条C項に、「日本国は、千島列島並びに日本国が一千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。日本は、歴史的には日本領土である南樺太と千島列島を放棄した。

 国会においても、政府はサンフランシスコ平和条約2条C項で放棄した千島列島に国後島と択捉島が入っていることを明確にしている。

 ここではサンフランシスコ条約で放棄した千島列島のうち、国後島と択捉島が千島列島に含むか含まないかが問題になっている。サンフランシスコ条約では千島列島に国後島と択捉島が含まれている。それをいやそんなことは言っていない。国後島と択捉島は千島列島に含まないと日本は後で言いだしたのだ。サンフランシスコ平和条約で放棄してしまった国後島と択捉島は、「あのときああ言ったけれど、やっぱり無理」と言っているのと同じことなのである。
 いずれにせよ、サンフランシスコ条約で国後島と択捉島は含む、含まないがはっきりしないまま条約に日本はサインしてしまった。その後そうじゃないといっても、これは問題の種になる。さらにここでは触れていない歯舞、色丹島の帰属問題はどうなるんだろう。どういう扱いになっているのかわからない。
 北方領土四島返還がロシアとの間でいつも大きな問題になるが、我々がこの四島が単に日本の領土だから帰せと言ってはいないか。それらがソ連に渡った詳しい経緯を知らずに言ってはいないだろうか。これはちょっと調べてみる必要がある。特に歯舞、色丹島の扱いが私にはわからない。

 さて、

 ハバロフスクからナホトカへ向かう汽車のコンパートメントには3人の日本人男性がいた。一人はヨーロッパ放浪中フィンランドで現地の女性と恋に落ちて結婚し、日本に連れて行く途中という二十代青年。もう二人が四十代くらいの都立高校の教師で毎年海外旅行を二人でしているという。
 彼が毎年海外旅行をするのは出費が大変じゃないですか、と訊けば、「そうでもないよ。本を買えば、かなり相殺できる」という。この人は洋書をかなり読む。日本で洋書を買えばかなり高い。けれど西ヨーロッパで学術書を20冊くらい買えば、ナホトカ経由でヨーロッパを往復する交通費は補填されるというのだ。これは面白かった。
 またフィンランドで恋に落ちた二十代の男性は、高校時代に五木寛之の『霧のカレリア』を読んで憧れたという。
 この本には五木寛之さんの『青年は荒野をめざす』とか『さらばモスクワ愚連隊』など初期の小説がよく出てくる。私も高校時代五木さんの東ヨーロッパやロシアを舞台にした小説をよく読んだんで、思わず懐かしくなったが、この旅行をしている彼にしても、またこの二十代の男性にも影響を与えるほど魅力的な小説だったんだなあ、と今になって思ったりする。
 考えてみればあの頃は五木寛之さんが舞台にする東ヨーロッパやロシアは何故か切なく魅力的に映った。今でもその影響が私にはあって、ヨーロッパの雨に濡れた細く曲がった石畳に、特に夜など憧れたりするのは、元をたどれば五木さんの小説のどこかにあったのではないかと思ったりする。
 今でも北欧にも魅力を感じているが、それだって五木さんの白夜小説を読んだところが影響しているのかもしれない。だから彼らの言うことがわかる。

佐藤 優 著 『十五の夏』〈下〉幻冬舎(2018/03発売)


by office_kmoto | 2018-09-23 07:15 | 本を思う | Comments(0)

佐藤 優 著 『十五の夏』〈上〉

d0331556_06552646.jpg
 『国家の罠』でこの人が東京地検の検事とやり合う場面を読んで、この人はかなり肝っ玉が据わっている人だと感じたことを覚えている。
 その著者が15歳の時、高校一年生の時に、一人で東欧からソ連へ一人旅に出かけたときの話がこの作品である。15歳の少年が一人で東欧へ旅しようなんて普通思わない。それをやったわけだから、なるほどあの時感じた肝っ玉が据わっていると感じたのも当然なわけだ。
 話は1975年の高校一年の夏休みに東欧と、当時まだソ連と呼んでいたロシアへ旅行したときの話である。東欧はまだこの時、ソ連の影響がかなり濃厚に残っていたはずだ。国家が国民に大きくのしかかった時代である。国が国民を監視し、そのことを気にしないとならない国々であった。
 旅をするにもいろいろな制約があり、細かい手続きをしないとプラン通りの旅が出来ない国々でもあった。
 そこへ行きたいと思う高校生はすごい。両親も高校入学のご褒美として資金援助する。また高校の先生も日本と社会体制が違う国を見ておくことはいいことだとして応援してくれた。
 旅行の準備のため相談に行った旅行会社の女性社員も社員の立場を超えて、あれこれ旅の裏技を伝授してくれる。それでも旅は出来る限り自分ですることを彼に言う。
 彼にはハンガリーに文通している友人がいるのでその友人をハンガリーに訪ねていくことになる。そこからソ連に入るプランだ。
 お金を節約するために運賃の安いエジプト航空でエジプトに入り、そこからスイス、西ドイツ、チェコスロバキアとポーランドを経由してハンガリーに入っていく。飛行機の中で会社の社長はエジプト航空を利用したことを褒め、この旅が彼の人生にいい影響を与えるはずだと言う。旅の途中彼に親切にしてくれた人々も、彼が高校生の一人旅であることを聞き、驚くが、この旅が彼の人生に良い影響を与えるはずだと同じように言ってくれる。
 日本の東欧のガイドブックでは、旅がしづらいことが書かれていた。確かに旅のしにくい国もあったが、実際そこを旅してみると人々はやさしく、親切であった。
 そんな人々の温かさを感じつつ旅をしていると、日本人の団体旅行の添乗員の意地悪さが際立ってしまう。
 ブダペストのホテルで日本人団体旅行の中にいた大学教授夫妻と親密になる。その時、

 僕たちが話をしているところに日本人の添乗員が近寄ってきた。
 「あなたは個人旅行ですよね」と僕に尋ねた。
 当たり前のことをどうして訊くのかと不思議に思ったが、僕は「はい」と答えた。
 「実は、ここは団体席で、食事は人数分しか準備していないので、あなたは別の場所に行ってほしいんだけど」と添乗員が言った。
 福井先生の奥さんの顔色が変わって、「1人くらい増えても問題ないじゃないですか。追加料金は払います」と言った。添乗員が返事をする前に、僕は「わかりました。それじゃ失礼します」と言って、テーブルを離れた。福井先生夫妻が申し訳なさそうな顔をしている。添乗員は、僕が団体に紛れ込んで、ただ食いでもすると思ったのだろうか。腹が立ってきた。こんな奴がいるところで、食事をしたくない。

 訪ねていく国々の人々が一人旅で苦労している彼をあれこれ助けてくれているのに、同胞の日本人の大人の態度がこれである。読んでいて嫌になってしまう。
 それでもハンガリーでは文通をしていたフィフィと親交を温める。彼は観光名所を訪ねるより人々の生活模様を見たいと、人々の中に入ろうとする。人々の中に入ってみて、なまの生活ぶりを実感していく。このあたりは、たとえば清水義範さん夫婦のパッケージツアーとは違うところだし、最近清水さんの旅行シリーズが面白味に欠けるのもこのあたりに限界があるのかもしれない、と思ったりした。そういう意味で、この旅行記は時代を経ているけれど面白い。
 フィフィから書店に日本語を話す店員がいることを聞き彼は会いにいく。その時の彼が感じたことは重要なことだと思った。ここまで感じられる旅が出来るのもすごい。

 「第二次世界大戦まで、ハンガリー人は生活していくためにドイツ語の知識が不可欠でした。戦前に教育を受けた人はハンガリー語とドイツ語のバイリンガルです。戦後、ドイツ語は必要なくなりました。ドイツ語の代わりにロシア語が必修科目になった。小学生からロシア語を勉強します。しかし、日常生活で用いる機会がないので、かつてのドイツ語のようには定着していない。1956年にソ連が入ってくるまで、ソ連を嫌う人とソ連に好感を抱く国民の比率は半々でした。しかし、ハンガリー動乱で国民の圧倒的多数がソ連を嫌いになった。そうなると知識人は、ロシア語やソ連事情について一生懸命に勉強するようになりました」
 「どうしてですか」
 「ハンガリーが生き残るために、ソ連との関係が死活的に重要だからです」
 生き残るために外国語の勉強をしなくてならない状況があるということだ。好奇心でしか外国語の勉強について考えていなかった僕には、書店員の話がとても衝撃的だった。

 フィフィと別れ、彼はルーマニアに入る。あのチャウシェスク時代のルーマニアである。国民も節約を求められていたこの国は観光客には旅をしにくい国であった。
 その後ソ連のキエフに入り、モスクワに入ったところで上巻は終わる。
 この紀行記は著者が15歳の時旅したときのことを思い出して、あるいはメモや記録をもとに書かれたのだろうと思われる。出来るだけ15歳に近い時期に書かれたものとして書きたかったのだろう。当時の「僕」が近々の「僕」に感じられるよう苦労されている。ただ国や人々の分析や、歴史などどうしても今の自分が出て来てしまい、惜しいなあ、と思った。もちろんそうした大人の分析は貴重であるし、考えさせられるのだが。でもそれは仕方がない。上手くバランスがとれていればいい。
 下巻が楽しみである。

佐藤 優 著 『十五の夏』〈上〉 幻冬舎(2018/03発売)


by office_kmoto | 2018-09-20 06:57 | 本を思う | Comments(0)

小沢 健志 編 『写真で見る関東大震災』

d0331556_05225822.jpg 関東大震災に関する本は数冊読んできたが、その震災の被害模様を写真で見てみたいとかねがね見たいと思っていた。この本はそんな被害模様を写真で見ることが出来た。ただ残念なことに文庫本なので、写真が小さい。文庫本オリジナルなようで、親本はないみたいだ。


 関東大震災は大正12年(1923年)9月1日午前11時58分44秒に発生した。マグニチュード7.9。震源地は相模湾底。激しい揺れは相模湾沿岸の各市町村から、横浜、東京、房総の関東、さらに東北方面まで及んだ。
 地震直後、各地で火災が発生、発火の諸条件に加えてちょうど昼食どきと重なったこともあり、東京市内で約80ヵ所から火の手があがった。のちの調査資料によると、東京(当時人口約400万人)だけで、
 家屋全壊 約13万戸
 家屋半壊 約13万戸
 家屋焼失 約45万戸
 死者   約10万人
 行方不明 約4万5千人
 という想像を絶する大災害であった。
 また沿岸の津波被害も甚大であった。一例として三崎で約6メートル、洲崎で約8メートル、他沿岸全域が大きな被害を受けた。例を見ない災害はとうきょうを中心に一府6県に及んだことで、広く「関東大震災」と呼ばれるゆえんである。失われた総財費は約55億円(当時)といわれる(当時の国家予算約15億円と比べると異常な大災害であったことがわかる)。
 東京は3日間燃え続け、上野池ノ端付近で焼け止まった。

 (略)

 とくに被害が激しかったのは、隅田川の東側、深川区、本所区(現・江東区、墨田区)であった。密集した家屋の倒壊、道路不通に加えて、情報伝達の機能の崩壊と、誤った誘導があった。
 午後3時すぎには火の海となり、逃げ道を失った下町の住民は誘導に従って、本所被服廠跡の約2万坪の空地へ逃げ込んだ。背負っているふとん、家財に周囲からの飛び火がついて燃えあがり、この地で大震災による死者の3分の1にあたる約3万8千人が焼死した大惨事となったのである。
 一瞬のことを感じることなく、語り合う若い娘たちの写真は、見るのも痛々しく、またあのさなかよく撮影したとおもうし、よく残ったものと思う。生き残った老婦人からの直接の聞きとりであるが、猛火の旋風が吹き来ると着ていたゆかたがあっという間に火がついて上空に巻き上げられ、丸裸にされたまま必死に逃げたという。
 被服廠跡に重なり合った焼死体の悲惨な写真と、また逃げ場を失って隅田川に飛び込んで焼死・溺死した数千人が浮かぶ死体の写真は現代でも直視できない。この写真集にも一部掲載したが、当時販売した絵ハガキがあった。まりの悲惨さに発売後、当然ながら直ちに発禁になった。ただし焼死体写真は無残な現実を撮影し得たことで、そのあまりの悲惨さを現代に伝えることができたのである。



 震災当時は本所区横網町1丁目と呼ばれ、そこには陸軍被服廠のおよそ2万坪に及ぶ広大な跡地が広がっていた。その半分は、すでに東京市が公園建設を決定していた土地である。地震のふた月前には工事も始まっていた。人口密集地である本所区の被災者がそこを避難場所に求めたのは当然であった。


 関東大震災の被服廠跡では、地震の翌日より死骸の処理を始めたが、火災がなかなか収まらず、火葬に着手したのは9月5日からであった。それから15日までの11日間約3万8千体が露天で焼かれ、雨ざらしのまま築かれた白骨の山は3メートルを超えた。その惨状を見兼ねた篤志家より大瓶70個が寄贈され、遺骨はそこに移されたものの納まり切らず、なお木箱十数個を要した。


d0331556_05235032.jpg



 最初の写真は「上野駅前 浅草・神田方面からの避難者たち」と説明が付いている。


 被服廠跡に非難した人たちの写真ではないが、たぶんこんな状況だったのではないか。ここに火の粉が舞い落ちれば、荷台に積んだ蒲団や家財に燃え移っても不思議ではない。ましてこの状況では身動きなどできないだろう。被害が拡大したのもうなずける。


d0331556_05425747.jpg



 西郷さんの銅像に貼られているのは行方不明者を尋ねる張り紙だろうか?
 被服廠跡の写真はやはり悲惨だ。


d0331556_05245392.jpg



d0331556_05250519.jpg



 2枚とも「被服廠に並べられた死亡者。衣服は気流にのった強い炎にあおられるように焼けてしまい、裸体になってしまったという」キャプションが付いている。
 次の写真は「本所被服廠跡死者の骨の山」というキャプション。

d0331556_05291301.jpg



 そこにあった数多くの花束の写真。キャプションには「納骨堂ができる前に作られたお堂。前に積まれているのは花束の山」とある。さらに集められた遺骨は地域ごとに大きな壺に収められているが、山のようになっている。


d0331556_05321637.jpg



 ここにも浅草凌雲閣の写真もあったので、掲載しておく。


d0331556_05334659.jpg



d0331556_05335757.jpg



d0331556_05341242.jpg



d0331556_05342736.jpg



 しかし震災後、その被害状況を写した写真が絵はがきとして売られていたというのは驚く。もっとも東日本大震災のときも、緊急出版として震災の被害状況を写した写真集を発売しているから、人はそれを見たくなるのだろう。実際被災地の書店ではそんな写真集がよく売れたと書いてある本を読んだ。写真は「大正大震災写真帖表紙」を飾る凌雲閣である。


d0331556_05343873.jpg



 その他興味深い写真はまず御茶ノ水の写真。


d0331556_05385561.jpg



d0331556_05390240.jpg



 さらに三越正面の写真。あのライオン像が見える。


d0331556_05402765.jpg



 洲崎遊郭の全壊の写真もある。


d0331556_05414832.jpg


 当然報道機関も機能しなくなった。


 わずかに焼け残ったのは、内幸町にあった「都新聞」(東京新聞の前身)と有楽町の「東京日日新聞}(現・毎日新聞)、「報知新聞」(読売新聞との合併前)の3紙だけである。しかし3紙とも、社内の活字は散乱し、電気も止まり、輪転機は動かない。そのうえ通信は完全に麻痺してしまった。ただ、幹部の「新聞は休まない」との号令で、発行に全力を挙げることになる。
 大地震発生直後「号外」を出したのは「東京日日」と「報知」だけである。床に散る活字を活版係が拾い、タブロイド判大で数百枚を手刷りし、市内各所に張り出した。



 「東京朝日」や「東京日日」は、「大坂朝日」「大坂毎日」の傘下にあったため東京ででの新聞発行再開より、大震災の様子をいち早く大阪本社へ伝えることが最優先で、60時間かけて大坂へ記者は向かったと言う。

 吉原でも娼妓たちも数多くの犠牲者を出した。


d0331556_05465955.jpg



 東京・新吉原は娼妓の数が3千500人という廓でも全国きって歓楽地帯である。この地震が起きたのは、すでに昼近く、大方の客も帰ったあとで、妓たちは一息ついたころであった。いきなり激震を伴う大音響とともに身体が板の間に叩きつけられた。突然のことで、慌てふためき外へ飛びでた途端に豪華な建物がいきなりメリメリッと崩れ落ちた。表では江戸町の「美華登楼」が最初に火を吹くと、南風の烈風によって燃え上がり、数楼に飛び火していた。逃げ惑う女たちの前には、早くも炎が轟音を立て火の粉を散らしながら降り注ぐ。
 逃げ道といっても、遊郭の一帯は逃亡防止のため、川や塀をめぐらしてあり、残るは遊郭の敷地内にある小さな「弁天池」だけだった。追いつめられた状況のさなか、避難場所がこの池に集中したのも無理はない。だが吉原を襲った未曾有の火熱ですでに池の水は熱湯になっていた。
 人々は追いかけてくる火勢に耐え切れず、我先にと池に飛び込んだ。ここの溜池の底は泥沼化しており、飛び込んだ者は足を取られて、もがいている。ではあるが、次々に飛び込む者は絶えない。なかには溺れる寸前の女から髪の毛を掴まれ命綱にされ、喘ぎながら一緒に泥中に沈んだという哀れな話もある。
 楼内のみならず近隣からも弁天池に非難したため、犠牲者は700人に達したという。
 この災害を逃れた娼妓たちは「人身売買禁止令」に基づき、借金返済不要で自由の身になったというが、行く先も金もなく、再建した娼家にまた居座ったという話を聞く。



小沢 健志 編 『写真で見る関東大震災』 筑摩書房(2003/07発売)ちくま文庫

by office_kmoto | 2018-09-18 05:53 | 本を思う | Comments(0)

嵐山 光三郎 著 『「下り坂」繁盛記』

d0331556_05575947.png
 この本も「週刊朝日」に連載されていたコラムを集めたものだ。こういうコラムは面白いものもあれば、どうでもいいようなものも多々ある。この本をどちらかと言えば、つまらないものだった。ただ人生においての「下り坂」の肯定文章は納得できたし、良かった。

 「時流から取り残される」とは、なんと素晴らしいことだろうか。取り残されてこそ自分があって、生きてきた甲斐があった。いまの時代は時流がいっぱいあって、中高年世代には取り残される条件がそろっている。それなのに、インターネットにはまりこんで時流にとりこまれるのは、とんでもないことである。(序章 「下り坂」の極意)

 登り坂は苦しいだけで、周囲が見えず、余裕が生まれない。どうにか坂を登りきると、つぎは下り坂になる。風が顔にあたり、樹々や草や土の香りがふんわりと飛んできて気持ちがいい。ペダルをこがないから気分爽快だ。そのとき、
 「楽しみは下り坂にあり」
 と気がついた。光や音や温度を直接肌に感じた。鼻歌が出る。なだらかな下り坂をゆっくりとカーブしながら進む快感があった。
 しばらく走ると小さな坂に出る。坂を下ったスピードを殺さず、一気に登っていく。登りつつ「つぎは下り坂だ」とはげましている自分に気がついた。下り坂を楽しむためには登るのである。
 人は、年をとると「まだまだこれからだ」とか「第二の人生」とか「若い者には負けない」という気になりがちだ。そういった発想そのものが老化現象であるのに、それに気がつかない。下り坂を否定するのではなく、下り坂をそのまま受け入れて享受していけばいいのだ。(序章 「下り坂」の極意)

 自転車で旅をすると、上り坂がつらかった。若いころなら登ることができた坂道なのに、途中でへばって自転車から降りて、押しながら登った。
 そのかわり、下り坂は気持ちがよかった。ペダルを漕がなくてもスイスイと進む。
 なだらかな山道を、口笛を吹きながら下って、「人生も下り坂がいい」と気がついた。そうとわかると、還暦後のコツはこれでいこうと決めて、下り坂を楽しんだ。下り坂ほど気分のいいものはない。下り坂の極意を感得すると繁盛した。(「下り坂」繁盛のコツ「平気で生きて居る事」)

 人生を坂道に喩えることはよくある。確かに自転車で坂道を上るときはきつい。しかし坂を登り切って下っていくときの気持ちよさ、ペダルを漕がなくてもスピードが出て気持ちがいい。
 昔、本屋で配達を手伝っていたとき、湯島から本郷へ向かった時のことを思い出す。湯島から本郷のダラダラ坂を上っていくときのきつさは、坂道を上る前にそれなりの覚悟をもって、一気に登っていく。荷台には配達の本が詰まっているからなおさらきつい。
 その時の体調如何で上手く上り切れる時もあれば、途中でバテてしまい止まってしまうこともある。
 配達を終えて店に帰る時は、荷台も軽くなっているし、上り坂が逆に下り坂になるから、一気に降りてくる。この時出来るだけブレーキを掛けないのがいい。これがあるから帰りは楽しかった。天気のいい日は最高であった。
 そんなことを思い出したので、なるほど下り坂はいいはずだ。ところがそれがそう思えないところが人生のむずかしいところだ。相変わらず厄介事を抱え、それが屈託となり、あれこれ考え、悩み、不安になる。なかなか嵐山さんが言うように、「人生も下り坂がいい」とはなれないものだ。

嵐山 光三郎 著 『「下り坂」繁盛記』 新講社(2009/09発売)


by office_kmoto | 2018-09-14 06:00 | 本を思う | Comments(0)

9月10日 月曜日

曇りのち雨。

 年金事務所に年金請求書を提出に行く。ついに私も年金受給者となるわけだ。年金請求書は7月に届いていて、8月に必要な書類を区役所から取り寄せたり、いろんな書類をコピーして添付したり、銀行へ行って印を押してもらったり、結構手間がかかった。
 でも昔会社でこういう書類作成はやってきたので、こういう提出書類の作成は嫌いではない。
 いくつか記入漏れはあったが、何とか提出が終わり、12月から年金が支給されることになる。
 帰りに年金事務所の近くにあるコーナンへより、毎年植えているチューリップの球根と水仙の球根を買う。今月末あたりに植えようと思う。
 帰りに図書館にも寄って予約していた本を借りる。これは孫と一緒に作る工作本だ。そして2週間に1回行く整形で首の牽引をやってもらい、痛み止めなどの薬をもらう。その後スーパーで買い物をして帰る。

 佐伯一麦さんの『遠き山に日は落ちて』を読む。何となく読みたくなったのだ。この本は佐伯さんの本の中で好きな本で、何度も読みたくなる。特に心が疲れた感じがする時に読むと、安らぐ。
 斎木と奈緖が蔵王山麓の長いこと住まなくなっている家を借りて、そこで生活を始める。家や庭は荒れ放題になっているが、それを片付け、生活しやすいようにしていく。庭を掃除すると、かつてここに住んでいた老人が植えた草木が芽を出し花を咲かせる。庭には大きな丹波栗の木があり、屋根に「ゴツッ」と硬い音が響く。毬栗が屋根に落ちた音だ。ここが好きだ。ここには自然に生命合わせて生きている村人の姿があり、じつにいい小説だと思う。そこにある村人の姿はしみじみと感じ入る。主人公たちや村人たちの生活にはそれぞれの屈託が淡々と描かれる。それなりに生きてくれば、さまざまなことをかかえこむことにもなるが、それでも生きていかなければならない。「そういうもんだよなあ」と思わせる。それがいいのだ。
 またあの大作『鉄塔家族』をまた読みたくなる。


by office_kmoto | 2018-09-12 06:26 | 日々を思う | Comments(0)

城東電気軌道 7

エピローグ

 大分長くなってしまったが、これで城東電気軌道のことを書き終えたと思う。一之江駅の手前まで調べることができた。これより先今井まで城東電車は走っていたが、その痕跡を見つけることは難しいだろうと思い、ここで止めた。
 ふと新中川はどう越えたのだろうと思う。城東電気軌道は最初から資金難で、荒川を越えることが出来なかったくらいだから、新中川も越えられなかっただろうと想像はできる。しかしこれは問題なかった。
 いわゆる新中川が中川放水路と呼ばれていたが、これは人の手で掘られた川であった。調べてみると掘削が始まったのが、昭和14年からで、城東電車は大正14年12月31日に江戸川線が開通している。つまりこの当時中川放水路はなかったことになる。新中川を越える問題は存在しなかったことになる。

 城東電気軌道のことを調べてみようと思ったのは、最初にも書いた通り、境川のときからあったレールのモニュメントが何の電車のレールなんだろう、と子供頃から疑問に思っていたことを解決することであった。
 調べてみると、これが面白い。いろいろなことがわかってくる。そしてその痕跡が人知れず、今も残されていることに驚いた。それが面白くて、コツコツと調べ、歩いた。ただ続けて調べた訳でなく、片手間で調べ、歩いたため、2年くらい掛かっている。
 今は昔と違い、本や資料だけで調べるだけでなく、インターネットというツールがあるから、それをフルに活用した。まずはインターネットで検索し、調べて、次に本や資料を図書館で漁った。痕跡を歩くにしても、ネットで調べてから歩くことが出来たので、効率良く歩くことができた。これは昔にはなかった、できなかったことだったので、何か新しい方法で調べているという妙な興奮があって面白かった。きっと今の大学生はこんな方法で卒論や論文など書いているんだろうな、と思った。
 本や資料を探すのに図書館に通ったが、昔、こんなことをやったなあと懐かしくもあった。ちょっと勉強したな、という気分も味わえ、楽しかった。もちろん勉強などという大袈裟なものではなく、単に興味本位で調べたことなので、正確性に欠けるところがあるだろう。でもこれはあくまでも個人的な事情から発したことなので、これでいいと思っている。


by office_kmoto | 2018-09-11 05:48 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 6

第5章 城東電気軌道の面影を歩いてみる


 山田 俊明 著 『東京の鉄道遺産 百四十年をあるく』〈下〉発展期篇には次のように城東電気軌道の面影を見ることができる場所を説明してくれる。ただここではどちらかというと都電が走っていた場所として都電のレールや車輪などのモニュメントやオブジェとして残されている場所を紹介している。しかしここは都電の前は城東電気軌道が走っていた場所でもあるので、一緒に見てればいいかもしれない。長くなるが書き出してみる。


 江東区は、営団地下鉄東西線が開業するまで、亀戸駅周辺を除けば、高速電車の便はなく、住民の足としては都電が主役を務めていた。この地域の都電のルーツは、城東電気軌道という私鉄である。一九一七(大正六)年一二月に錦糸町~小松川間を開業し、その後、荒川左岸(東荒川~今井間)や洲崎方面に路線をのばしていった。同社は、一九三七(昭和一二)年三月、東京乗合自動車(青バス)に合併され、その東京乗合自動車が東京地下鉄鉄道に合併(一九三八年四月)されたため、東京地下鉄道の軌道線となった。さらに、一九四二(昭和一七)年二月一日、戦時体制下の交通調整(統合)の一環として東京市に買収され、都電の一員となったのである。都電生え抜きの路線ではなかった故に、専用軌道の部分がかなりあり、遊歩道として整備された箇所を中心に、かつての路線跡を比較的容易にたどることができる。
 亀戸駅前の京葉通りを少し東へ進むと水神森という所がある。そこから南へ入っていく亀戸緑道公園という桜並木の遊歩道があるが、そこが都電29、38系統の跡である。29系統は須田町と葛西橋を結び、38系統は錦糸堀車庫前を起点に江東区南部を一周し日本橋に至る系統で、ここから明治通りに出るまでの一キロほどの間が専用軌道になっていた。


d0331556_20483262.jpg


 両系統とも一九七二年一月一一日限りで廃止されたが、その後に植えられた桜の木が大きく育って、今では江東区の花の名所になっている。三〇〇メートルほど進むと、太鼓橋のように湾曲した都電の専用橋で有名だった竪川の橋梁がある。現在は人道橋となっているが、下部は都電時代のままで、銘板も付いている。著者もこの区間を乗車した記憶がある。当時、問題視されていた「地盤沈下」や「江東ゼロメートル地帯」を実感させられた場所の一つである。今や竪川は暗渠となり、まわりの景観はずいぶん変わったが、江東区の都電風景を象徴するような橋がしっかり保存されていることはうれしい限りである。現在の竪川人道橋の欄干には都電の浮き彫りがあり、橋上にはレールが埋め込まれ、亀戸側の橋のたもとには、車輪(レプリカ)も置かれている。車止めも都電のビューゲル(集電装置)を模したものという凝りようである。往時の都電風景を忍んでノスタルジックな気分に浸りたい人や、下町の都電の風情を追体験したい人にはおすすめの場所であろう。
 竪川人道橋から先は、大島緑道公園と名前が変わるが、相変わらず美しく整備された遊歩道が続く。新大橋通りと交わる所が、大島三丁目の停車所跡で、ホームが残っているわけではないが、なんとなく往時の雰囲気が感じられる。新大橋通りを横断すると、遊歩道は右にゆるやかにカーブしていく。このあたりは、いかにも廃線跡といった感じで、少しばかりわびしさも漂っている。明治通りに出た所で専用軌道区間は終わる。
 明治通りを南下し、29系統は境川から東へ折れて葛西橋へ。38系統はさらに南下し、南砂町三丁目から専用軌道に入り、汽車会社の工場の二辺を回り、永代橋へ抜けていた。その先は永代橋を西進し、永代橋を渡り日本橋に至っていたのである。
 汽車会社(現在は東京都住宅供給公社南砂住宅という団地になっている)を回る専用軌道部分は、南砂緑道公園として整備されている。多種類の樹木を配した植栽がすばらしく、緑の乏しいこの地区にあって、ほっと一息つける貴重な空間となっている。ちなみに鉄道車両メーカーの老舗であった汽車会社(汽車製造株式会社)は、都電廃止と同じの一九七二年川崎重工業に吸収合併され、この工場も閉鎖された。
 緑道に入って間もなく、越中島貨物線のガードをくぐる。複線仕様のプレートガーターの片側のみを使用しているという面白いスタイルである。銘板には「大正十五年 鉄道省」の文字が読める。このガードをくぐるとすぐ左手に、枕木とレール、その上にギア付きの車輪を配したモニュメントは置かれている。
 説明板には、「城東電車は大正6年から設置され、この緑道公園の区間は昭和2年にしかれましたが、昭和47年11月に廃止されるまでチンチン電車の愛称で親しまれていました」と書かれており、都電もみならずその前身の城東電気軌道にも言及している。廃線跡は各地にあるが、このように緑道公園として美しく整備した上に、モニュメントや説明板をしっかり設置しているところは少なく、実に好ましい印象を受ける。緑道が終わりに近づいた頃、左手の道端に目をやると、大砲のレプリカが置かれていて驚かされる。説明板には「長州藩大砲鋳造所跡」とある。都電とはまったく関係ないが、思わぬ発見でうれしくなる。
 日比谷公園を起点とし、須田町からは29系統と同じルートを走るものの、水神森から専用軌道に入らず、京葉道路をそのまま東進する25系統もあった。この系統は京葉道路上の亀戸九丁目を過ぎると、専用軌道となり、旧中川も専用の橋梁で渡り、江戸川区に入り、荒川放水路の手前の西荒川に至るルートであった。残念ながら、その専用軌道跡は道路用地に転用され、都電の橋梁も新しい道路橋に架け替えられてしまい、往時を偲ぶことは難しい。旧中川を渡った江戸川区側も区画整理や再開発が進行しており、都電の痕跡を見つけることは困難だ。しかし、まったく都電の記憶が失われてしまったのかといえばそうではない。
 旧中川の新しい道路橋(亀小橋)のたもとの歩道上には、都電をあしらったタイルがはめ込まれている。橋のどちら側を通ってもそれが目に付くようになっており、この地に都電が存在したことを、後世に伝えたいという意欲が感じられる。旧中川の西側(江東区側)には、浅間前という停車場があった。浅間神社の前という意味だが、その浅間神社は本殿の位置が少し変わったといわれるものの現存しており、その境内に都電のレールが数本保存されている。注目すべきは、左端の路面電車専用溝付レールであろう。横腹には「BV JVST 1930T T100 lbs」という刻印(ロールマーク)があり、イギリスのボルコ・ボーン社の1930年製レールのようだ。1930年とは昭和五年である。説明板の「大正時代に作られたイギリス製のレールです」という記述と一致しない。城東軌道のこのあたりの区間は「大正六年」に開業しているので、開業後だいぶ経ってから製造されたレールということになる。


 この本を参考に実際歩いてみてみた。まずは砂町・洲崎線の跡を歩いて見る。この本にあるように亀戸水神森から南下してみると、今は亀戸緑道公園といって遊歩道が整備されている。そこを少し歩いていくと、都電の29系統、38系統というプレートが貼っているものが立っている。奥には車輪がある。これは都電の車輪のレプリカらしい。歩道の足もとをみてみると、レールがそのまま埋め込まれている。「橋の記憶」という説明板がある。なるほどここに城東電気軌道、都電が走っていたわけだ。


d0331556_06294491.jpg


d0331556_07050224.jpg


d0331556_06311993.jpg


d0331556_06300031.jpg


d0331556_06302151.jpg


d0331556_06303358.jpg


d0331556_06304886.jpg


d0331556_06310273.jpg


 さらに南下を続けると新大橋通を越えた先が大島緑道公園に変わる。さらに南下し続けると明治通りとぶつかる。ここで専用軌道は終わったようだ。
そのまま明治通りを南下し、南砂町三丁目交差点を少し越えて右に入ると南砂緑道公園となる。ここも専用軌道だったようだ。南砂緑道公園は大きく西に向かいながら蛇行し永代橋通りにでる。永代橋通りを出て更に西に向かえば洲崎にでる。
 その南砂緑道公園にもモニュメントがある。越中島貨物線の下をちょっと先に進んだ場所だ。やはり都電の車輪がある。その先に説明板もある。


d0331556_06371501.jpg


d0331556_06372555.jpg


d0331556_06374178.jpg


 そしてその越中島貨物線のガード下には何と「城東電軌こ線」というプレートがある。


d0331556_06375121.jpg


 こ線とは「跨線」と書く。鉄道線路をまたぐ路線のことである。要するにここは越中島貨物線が城東電車砂町・洲崎線をまたいでいたところなのだ。
 ちなみに越中島貨物線とはウィキペディアの概要に次のようにある。


 1929年(昭和4年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現越中島貨物駅)まで延伸された。また、1989年(平成元年)までは東京都港湾局所有の専用線により豊洲や晴海までつながっていた。この専用線は鉄道による貨物需要が低下したため廃線になった。1972年(昭和47年)まで沿線(江東区南砂)に汽車製造東京製作所が存在し、製造された車両は専用線を経由して小名木川駅より各社へ向けて輸送されていた。


 余談だが、この越中島貨物線をはじめて見たとき、なんか不思議な感じがした。こんなところに列車(貨車)が走っているんだ、とちょっとびっくりした。それもそこはレールが伸びているだけなのだ。ネットで調べてみると、一日一往復しかしていないらしい。そのための路線なのだ。

 次に小松川線の跡を歩いて見た。城東電車は亀戸9丁目までは京葉道路を走っていた。そこから東南方向へ逸れていたらしい。ここに浅間神社がある。結構大きな神社だ。「浅間神社」というバス停から団地を越えていくとある。その神社の柵のギリギリに城東電気軌道のレールが残されている。いかにも邪魔ななんだけど、といった感じで隅っこに追いやられている。ネットで城東電気軌道のレールがあると知って行ってみたとき、どこにあるのかすぐわからなかったくらいだ。


d0331556_07085721.jpg


d0331556_07090843.jpg


d0331556_07091886.jpg


d0331556_07092993.jpg


 さてここからは江戸川区で走っていた城東電車のことになる。もともと城東電気軌道に興味を持ったのは最初に書いた地元にあったモニュメントからである。
 城東電気軌道を調べるにつれ区内だけではそれでは追いつかず、江東区内を歩いたし、その歴史も詳しく調べることになってしまったが、最大の関心事は城東電車が区内でどこをどう走っていたのか、それを知りたかったのだ。
 城東電車を調べていたとき、たまたま偶然この春、区の中央図書館のイベントコーナーで「江戸川遺産」というミニ開催されていた。その「江戸川遺産」の有形遺産として「城東電車編」が設けられ、区内を走っていた城東電気軌道が現在どこを走っていたか、写真が展示され、そのMAPが無料で配布されていた。これはものすごく参考になるので、これを元に城東電車跡を歩いて見た。


d0331556_20113715.jpg


 江戸川線は東荒川-中ノ庭-松江-一之江-瑞江-今井橋を走っていた。今回は東荒川-中ノ庭-松江-一之江の跡を追ってみた。
 まず東荒川である。東荒川は現在の小野原稲荷神社あたりのようだ。


d0331556_20131553.jpg


 この辺りをちょっと先を歩いてみると、城東電車が走っていたであろう路線が今の道路を通してわかる。


d0331556_20164081.jpg


d0331556_20151506.jpg


 そして首都高速7号小松川線の下を渡る。


d0331556_20211626.jpg


 次の停留所「中ノ庭」はいま東小松川二丁目児童遊園になっているところにあったようだ。公園の前の道も城東電車が走っていたように見える。


d0331556_20233555.jpg


d0331556_20234919.jpg


 そしてここで気づいた。このままずっと先に進めば、あの境川親水公園にある城東電気軌道のモニュメントに真っ直ぐつながるじゃないかと。この時はわくわくした。
 「松江」界隈を走っていたであろう道は真っ直ぐ延びている。


d0331556_22035019.jpg


 そして高圧線の鉄塔が見えてくる。


d0331556_20323663.jpg


 この鉄塔、『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』にも見ることが出来る。


d0331556_20342191.jpg


 城東電車のことを調べ始めたすぐの頃は、電車は今井通りを走っていたものと思っていたが、そうではなくすぐ側を通っていたことは後で知った。その路線図を見てみるとやはり真っ直ぐな路線となっている。そして城東電車が通っていたであろうその道もここまで、そして環七にぶつかるまでほぼ真っ直ぐ延びている。


d0331556_20381992.jpg


 ブラタモリでタモリさんが言っていたのを思い出す。番組でかつて走っていただろう電車跡を歩いていたが、そのときタモリさんは電車が走る場合、出来るだけ真っ直ぐな方が良いと言っていた。それに従うと、この道は確かに真っ直ぐであり、城東電車が走っていただろうと思わせる。
 この道は今井通りの裏道として昔から認識していたが、まさかここに電車が走っていたとは思わなかった。しかもこの道、子供のころから通っていて、今も図書館へ行くとき、また反対側の都営新宿線の一之江駅へ行くときなどよく通っているのである。いつも通っている裏道が城東電車が走っていた路線であったのではないかと気づいたとき、本当に驚き、ものすごい発見をしたように思えた。
 電車が通っていた道は環七にぶつかるが、その前で行き止まりとなる。環七が通ったことでこの裏道は寸断され、そのまま通れなくなった。


d0331556_20404689.jpg



by office_kmoto | 2018-09-09 21:53 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 5

第4章 区史などにみる城東電気軌道

 城東電車は当然江東区史、江戸川区史にその歴史を残している。今回はそれを拾って見てみたい。
 まずは江東区史(『江東区史 中巻』 江東区編 1997年発行 )から城東電車を見てみたい。

 亀戸町を中心とした城東地区は明治末年頃より大工場が立ち並び、大正期には工業地帯化し、そこに働く労働者も多くなり、人口も急激に増加してきた。
 ところが、鉄道・軌道の類は地域の北端を東西に走る総武線と亀戸より北へ向かう東武鉄道亀戸線があるだけで、駅は亀戸駅が一つあるのみであった。また、市電は城東地区まで路線を延長していなかったため、大島町と砂町には大正に入っても鉄道も軌道もなかった。


 先に見た『城東電気軌道百年史』には明治43年(1910)5月6日本多貞治郎他23名より軌道敷設が出願され、翌年3月7日に特許状が下りたと書かれていた。その出願者は亀戸町他沿線の資産家がほとんどであった。この願書を東京府が内務省へ進達した文書には次のよう書かれていた。


 「本軌道ハ東京鉄道株式会社特許線終点本所錦糸堀停車場附近ニ起リ亀戸町ヲ通過シ千葉県下行徳手前江戸川渡船場附近ニ至ルモノニシテ沿線中小松川及亀戸町ノ如キハ近来諸工場之続々設立ヲ見ルニ至リ人口著シク増加シ将来益発展シツゝアル状況ニ有シ該区間ニ於ケル交通機関ノ施設ハ一般ニ渇望スル処ニシテ之カ軌道完成ノ暁ニ於テハ沿道部落ハ勿論千葉方面ト東京市トノ連絡ヲ告ケ運輸交通ニ多大之便益ヲ与フルノミナラス地方産業ノ発達一般商業ノ振興ニ資スル処亦鮮ナカラソト信ス」


 また南葛飾郡長より東京府への文書には、


 「軌道敷設ニ関係アル亀戸町外四ケ町村ノ利害関係ニ付各意見ヲ求メタルニ何レモ町村発展上有益ナル事業トシテ歓迎シ且速ニ布設ノ実現ヲ期待シ居ル状態」


 とあり、軌道敷設は東京府や関係町村から期待されていた。
 ここには城東電気軌道の各路線を次のように紹介されている。


d0331556_06423357.jpg


 ここの年月日は開通した年月日で、「区内を通過せず」はこれが江東区史なので、江東区を通過しないという意味である。


 小松川線は総武線錦糸町駅・市電錦糸堀終点と連絡する錦糸町を起点として、総武線の南側を東進し、亀戸を通り浅間前より中川を渡り小松川町に入り西荒川に至る路線である。この線は本線とも呼ばれた。
 砂町洲崎線は小松川線の水神森より分岐して南下し、竪川を越え大島町の中央を南北に貫通し、小名木川を越え砂町の仙気稲荷で西に曲がり、深川区に入り洲崎に至る路線である。洲崎では市電と連絡していた。
 江戸川線は東荒川より江戸川西岸の今井までを結ぶ路線であった。南葛飾郡は荒川放水路の開削以後、明確に放水路の西部と東部で性格を分けた。西部が工業地帯化・都市化を急速に進めたのに対し、東部は農村地帯のまま置かれた。そのため城東電車の路線の中で江戸川線のみは農村部を走ることになった。


 乗車賃は小松川線開通時(大正六年)には全六区で一区一銭であった。大正七年には料金改訂と普通定期乗車券・学生定期乗車券の発行を行っている。車両は四〇人乗りの四輪車を二両連結で運転していたが、大正一四年度よりは、八四人乗りのボギー車を導入している。乗車人員は大正七年に年間二一四万人であったが順当に増加していき、一二年には七六二万人余、関東大震災以後急増して一三年には一一一三万人余となった。その後、不況が慢性的に続く中で、工業地帯の中を走る城東電車は不景気の影響を強く受け、乗客が一時減少する。しかし他に軌道のない、城東区唯一の足(城東区成立の昭和七年には同区域に一八の停留所あった)であり、工業の発展・人口の増加と共に乗客数も回復していった。昭和一四年(一九三九)の年間乗客数一三八九万人を超えている。


 それでは城東電気軌道が走っていた江戸川区ではその区史(江戸川区史 第3巻』 江戸川区編 1976年発行)にどのように書かれているだろうか。


 大正六年十二月三十日、まず第一期として錦糸堀-小松川間三・三八九キロメートルの小松川線が開通し、ついで同十年一月一日、水神森-大島間一・〇キロメートルが開通した。この線は全部工業地帯を通っているので、都心と郊外を結ぶ近郊電車というより工場関係通勤者の市内電車と同一に見るべきものであった。当時の乗客数を『小松川町誌』は次のように記している。

 大正十年  七〇九万八二八六名
 大正十三年 一一一三万四四一八名
 大正十四年 一〇六四万〇七六一名

 大正十四年十二月三十一日、東荒川-今井橋間の江戸川線が開通、三・一七八キロメートルの間に、東荒川、中ノ庭、松江、一之江、瑞江、今井の停留所が設けられた。翌十五年三月一日小松川線が二〇〇メートル延長されて西荒川までくるようになると、東荒川と西荒川を結んで同社の連絡バスが走ることとなり、乗り継ぎ、乗り換えの不便はあるものの都心から今井までの交通はぐっと楽になった。沿線の村々からはバスよりはるかに多くの利用者があり、春には篠崎堤の桜を見る人々でマッチ箱のような電車は満員となり、また瑞江あたりからは手拭を下げて乗り、松江あるいは東小松川で下りて銭湯に行くという姿も見受けられた。
昭和八年における本区内一日平均乗降者数が、京成電車が約三〇〇名なのに比較して、城東電車が約二三〇〇名と記録されていることからも、この城東電車の好評ぶりがうかがわれる。


 以上が江東区史、江戸川区史に記載されている城東電気軌道の様子である。
 江戸川線が農村部を走っていたという記述を裏づける写真が『宮松金次郎・鉄道趣味社 写真集 東京市電・都電』にある。それを見るとまさにそんな感じであった。


d0331556_06433358.jpg
(注12)


d0331556_06435292.jpg
(注13)


d0331556_06441171.jpg
(注14)


d0331556_06442908.jpg
(注15)


d0331556_06445012.jpg
(注16)


d0331556_06451090.jpg
(注17)


d0331556_06494294.jpg
(注18)


 ところでこの(注18)の写真である。これを見たときこれは一之江境川親水公園にあるレールのモニュメントあるところの写真とよく似ている。

 江戸川区史に瑞江あたりから松江に銭湯に入るために手ぬぐいを下げて乗っている乗客がいたというのは面白い。私が記憶している松江に二つほど銭湯があった。うち一つは今も残っている。この銭湯に浸かったのだろうか。

 城東電気軌道は他の本にもその記載がある。探し出した本は3冊ある。何と言っても、これまで城東電車の写真を示してきた写真集である。
d0331556_07085644.jpg 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)だ。
 この写真集には城東電気軌道電車の写真がたくさん掲載されていて、なるほどこんな電車が走っていたんだと思いつつページをめくった。
 さらに当時の模様が文章で書かれていて、これも貴重である。いくつか書きだしておく。


 錦糸町を起点に水神森を経て西荒川に至る線が小松川本線です。距離にして3.6K.M.片道運転所要時間は15分、運転間隔約5分です。更に荒川方水路(放水路)を越えて東荒川から今井に至る間、江戸川線です。距離は3.1K.M.片道運転所要時間は13分、此の線は単線ですから運転間隔も13分になつて居て、松江~一之江間には待避線の設けがありますので此の間隔で双方から発車致します。
 元に戻つて水神森から南へ分岐して洲崎に至る線、之は砂町洲崎線と呼びます。此の間4.6K.M.で運転時間は15分です。錦糸町からですと水神森迄4分かゝる訳です。
 そして本線と洲崎線の発車間隔は各々5分毎に相互に発車します。次は賃金です。此の3月1日(昭和七年)から改正されて、1区3銭、2区5銭、3区7銭、4区9銭、5区11銭、6区13銭、7区15銭となって居まして、その区界は錦糸町-水神森間、五ノ橋通-モスリン裏間、モスリン裏-西荒川間、五ノ橋通-小名木川間、小名木川-稲荷前間、稲荷前-洲崎間、それから東荒川-一之江間、松江-今井間では各1区の扱いをします。之で線路と賃金と時間が分かりましたから今度は車両です。
 当社の車両は次の様に大体に於いて三通りに分類する事が出来ます。

 A. 木造四輪単車
 B.木造ボギー車
 C.半鋼製ボギー車


 ちなみにボギー車って何かとウィキペディアで調べてみると以下の通り。


 ボギー台車(ボギーだいしゃ)とは、車体に対して水平方向に回転可能な装置をもつ台車の総称である。またボギー台車を装備した車両をボギー車と呼ぶ。


 ここに電車の写真がいくつもあるが、車体の種類、材質どうなのか、素人にはよくわからない。私には写真に添えられているキャプションをたよりするしかない。


d0331556_06030721.jpg
(注19)


d0331556_06032501.jpg
(注20)


d0331556_06033840.jpg
(注21)


d0331556_06035656.jpg
(注22)


d0331556_06041013.jpg
(注23)


d0331556_06042974.jpg
(注24)


d0331556_06044338.jpg
(注25)


d0331556_06045634.jpg
(注26)


 写真を見てみると、なるほど車体は木製みたいだとわかる。車体が木製だから戦禍を免れなかったのかもしれない。今現在城東電車は残っていないようだ。もし残っているなら見てみたいものだ。


 扠て電車は「小名木川」から右折に線路に水がたまつて居る、見るからに汚たならしい工場、小家屋の一群へ突進します。「大島」「竪川通」を経て「水神森」で本線に合し再びコンクリート道路上を総武線と若干並行して「錦糸町」に至ります。錦糸町駅は白木屋支点の1階の一部フオームが構へられて居ます。


d0331556_06112438.jpg
(注27)


 「水神森」で洲崎線を右に尚もコンクリート道路を「モスリン裏」迄伝つて行きます。此の「モスリン裏」と云ふのは東陽モスリン会社の工場裏と云ふ訳で此の外に何々通り、何々裏、何々前と云つた様な軌道線特有の、親しみのある停留所の呼称が沢山あります。


 「モスリン裏」から稍々斜に右に折れて「浅間前」に至ります。併用道路は此所の亘り線の終りです。此の区間は線路に敷石もない原始的な昔の京浜電車の蒲田町附近の様な路線です。全線中割合に数多い橋梁の内で一寸渡り答へのある橋を渡りますと間もなく「小松川」、左手に車庫と変電所があります。それから一足で西荒川終点、四園の風趣はお世辞のないところ誠に汚ならしいドブと工場ばかり。


 電車を下りると、イアーこれは、電車に比較して又いとも華麗な車絡バスが待つて居りました。之に乗つて堤を上つて長い長い百足のような荒川放水路の木橋をずつと遠くの常磐線の鉄橋を眺めつゝ暫時、木橋を渡り終へて少時、いと古めかし東荒川駅です。駅と云つては趣が出て来ません。電車発着所です。これらの車輌は皆ポールを1本こつきり持つて居りません。電車も古めかしい、線路も古めかしい、唯、線路の傍に連続する鉄柱だけが若干の近代味を見せるだけ、乗客も殆ど質朴な人達ばかり、響の交錯する市中を僅30分たらずの所で、こんな風景を見る事が出来やうとは?


d0331556_06124775.jpg
(注28)


 此の辺りは水地が多いので住宅地には不向きですからいたる所釣堀が沢山あります。車中に釣竿を肩にした人々を多く見受けられるるのは之の故です。「一之江」-「松江」間が複線になって居まして双方から出る電車は此の区間で待避します。「一之江」には、名ある宗教家田中智学氏の昭和3年4月創設した妙宗大霊廟あり、其の周囲を繞る申孝園の堂閣崇大、麗塔巍然、諸の亭園樹林、泉石池丘の配置整然たる、春は幾百株の老桜、夏は郡中第一の瀧、四季をりをりの花等の人工と自然を調節美化した信仰的芸術の所産たる一境地があります。之は恐らく名所葛飾の勝を活かしたものと云へませう。

*ここに再掲する記事は、鈴木金次郎氏(その後、宮松姓)が、戦前に模型鉄道社が発行していた雑誌「鐵道」(昭和7年4、5月「鐵道」第36、37号)に掲載したもの。


 荒川放水路を挟んだ東側にも城東電軌は路線を持っており、西側とは小松川橋を連絡バスで渡り、結ばれていた。この線は後に、市電となっても他線との連絡がなく、離れ小島の存在である。最終的に都電26系統を名乗るも、系統板も掲げずに運行されていた。城東時代から廃線時までオープンデッキの単車しか走っていない。市電となってからは400形が4輌で運行されたが、路線の中間部である一之江~松江のみ複線となっていて、そこですれ違い、両端部は単線と云う形態が最後まで続いた。
 昭和27年5月20日にトロリーバスに代替される形で廃線となった。一挙に近代化された形だが、同時にトロリーバスは、荒川放水路の橋を渡って運行され、電車時代は叶わなかった直通運転が実現された。そのトロリーバスも昭和43年9月28日には廃止となり、電車時代より運行期間が短かったのは、何とも皮肉である。


 ところで「城東電気軌道1」であげた城東電車の路線案内の面白い説明がここに書かれている。拡大してみよう。


d0331556_06395539.jpg


 多数の縦の黒線と白も米粒のような描画は、煙と煙突。荒川西部は、当時既に工業地帯である。洲崎~仙気稲荷は、「工事中不開通」のスタンプが押してある。


 よく見てみると確かに「米粒のような」ものがある。これは煙突から出る煙だったのだ。そういえば永井荷風の『日和下駄―一名東京散策記』 (講談社1999/10発売 講談社文芸文庫)にも次のような文章があった。


 尤も深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒から吐く煤烟と絶間なき機械の震動とによりて、稍西洋なる余裕なき悲惨な光景を呈して来た。(第五 寺)


 そして仙気稲荷~洲崎の間には、「工事中不開通」のスタンプが押してあったのだ。


d0331556_06442366.jpg もう一冊は、原口隆行著『日本の路面電車<2> 廃止路線・東日本編-思い出に生きる軌道線』JTBパブリッシング(2000/04 発売)JTBキャンブックスである。
 この本はシリーズものになっていて、いわゆる日本全国の廃止路線のことを書いた本である。その中に城東電気軌道のことが書かれている。内容は基本的には城東電気軌道の歴史をコンパクトにまとめたものだ。
 ただ城東軌道の敷設が何故許可に関して『城東電気軌道百年史』にはなかったことが書かれている。


 大正6年といえば、都心部で激しい競争を繰り広げていた東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道が合併して誕生した東京鉄道が東京市電電気局が司るという合意が暗黙の了解として成立していたはずである。
 なぜ、このような時にこの城東電気軌道が新たに私鉄として設立されたかは定かではないが、おそらくこの地帯が低湿地帯で雨が降るとすぐ浸水するといった地理的条件が災いしたのであろう。


d0331556_06501051.jpg


 言っていることがよくわからない文章である。ここがよく浸水する地域だから、許可が下ろされたみたいな書き方だ。浸水することが「災いした」と書くことは、城東電気軌道にババを引かせたみたいだ。
 確かにこの地域は今でもゼロメートル地帯として有名だ。歩いているとわかるが、たとえば橋を渡るっていると道路が川より低い位置にあることが実感出来る。
 当時は排水設備が不十分だったろうから、大雨が降れば簡単に浸水しただろうな、と推察できる。当然城東電気軌道も浸水に苦労しただろう。そのことを書いた文章があったのはこの本だけであった。


 こうして半端な状態であったがともかく路線網を完成させた城東電気軌道では、その後も次第に乗客も増えてきたことから車両の更新をはかり、木造ながらボギー車を投入、次いで半鋼製車もつぎ込んだが、相変わらず水害には悩まされ続けた。雨が長引いたり、大雨になるとたちまち路線が水浸しになって運行ができなくなるほどだ。
 同社にとって水の問題は深刻であった。昭和13年(1938)9月1日の台風では大きな被害を被り、車両の手当てがつかなくなり、東京市電局から数両借り入れて対応しなくてはならなかった。


d0331556_06512694.jpg 最後の1冊は山田 俊明 著 『東京の鉄道遺産 百四十年をあるく』〈下〉発展期篇 けやき出版(立川)(2010/03発売)である。この本はいわゆる城東電気軌道の面影を現在探ることが出来る場所を教えてくれている。次の章でこの本を元にして城東電気軌道が走っていたところにその面影を見ることが出来る場所を訪ねてみたのでそれを書いてみたい。


(注12~28)
 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)より


by office_kmoto | 2018-09-06 04:26 | 余滴 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto
プロフィールを見る
画像一覧
通知を受け取る