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片岡 義男 著 『くわえ煙草とカレーライス』

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 片岡義男さんの本は先日読んだエッセイがはじめてで、今回はじめて小説を読んでみた。
 私が本屋で働いていた70年代片岡さんの文庫はよく売れた。あの文庫本たちはちょっとおしゃれで、ファッショナブルな装丁であった。表紙によく南洋の海岸風景の写真がよく使われていた。いかにも若い男女が手にしそうで、書名もそれなりに若者受けするものであった。私はこういうのは駄目で、売ってはいたけれど、読む気はなかった。だからこの歳になって片岡義男さんの本を読むとはちょっと不思議な気分である。
 巻末にある片岡さんの年譜を見ると1939年生まれとなっているから、今年79歳となるはずだ。だからかここにある短編集は、それこそ「オーソン・ウェルズが日本のウィスキーのCMに出演していた」四十年前から何十年ぶりに、「私鉄の沿線の商店街で男と女がばったり会って」、昔どこでもあった喫茶店で、“あの時”“あの頃”を語る場面が多い。
 たぶんこれまで生きてきた年数が残されている年数より圧倒的に多いためそうなるのだろう。このあたりは自分もきっと同じような会話をしてしまうだろうなとは思う。なぜなら自分も同じように歳をとっているから。
 ストーリーでの出会い方が余りにも場当たり的な感じが拭えなかった。いかに出会いというものが突発的で偶然なものであるとしても、それを前提で話が組み立てられているのは鼻白む。話される内容も特段何があるわけじゃない。ただの思い出話だ。こういうのってその雰囲気を味わえばいいのだろうか?私はどう読んでいいのか、戸惑いながら読み終えることになってしまった。
 ただまったくここにある短編の雰囲気について行けないわけではない。ひとつ懐かしいな、と思えるのは、昔どこの街にもあった喫茶店で出されるカレーライスである。あるいはピラフ、ナポリタンやミートソースなど、腹持ちする食べ物が懐かしい。それは思い出でコーティングされてしまったところがあるにしても美味しかった。それぞれ独特の味があったと思う。
 今でも珈琲館ではサンドイッチ以外にカレーなど食べられるけれど、それほど美味しいと思えないのは何故だろう。妙に味が洗練されしまっている。多分どこの珈琲館でも同じ味のカレーが出て来るのだろうと思える。店独自のオリジナリティー(悪く言えば泥臭さ)がそこにはない。店独特の味つけがあった。ライスにしても妙に硬かったり、パスタが茹でられて時間が経ったのだろう、ふにゃけた感じも今となれば懐かしい。
 そんな懐かしい軽食を出してくれた、思い出の喫茶店を書き出してみたいと思ったりして、ふとそんな喫茶店を頭のなか思い出し、数えてみたりした。
 今回は話の内容にこれといって心に残るものがなかったので、本の内容とはそれほど関係ないことを書いてしまった。

片岡 義男 著 『くわえ煙草とカレーライス』河出書房新社(2018/06発売)


by office_kmoto | 2018-11-16 06:14 | 本を思う | Comments(0)

サマンサ・ワインバーグ 著 /戸根 由紀恵 訳『 「四億年の目撃者」シーラカンスを追って』

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 1938年クリスマスまであと3日という時に、南アフリカイースト・ロンドン博物館の女性学芸員であるマージョリー・コートネイ・ラティマーはトロール船の船長ヘンドリック・グーセン船長から電話をもらう。
 マージョリーは博物館の標本に使える魚をヘンドリック・グーセン船長から貰い受けていたが、この時は標本に使える魚はなさそうと思った時、

 「ぬるぬるした魚の山をくずしていくと、見たこともないようなきれいな青い魚があらわれました。体長は一・五メートル。少し藤色がかった青い表皮には淡い白の斑点があって、全体が玉虫色にきらめいていました。硬いウロコに覆われていて、足のようなヒレが四枚、小さな尾はまるで子犬のしっぽのような奇妙な形をしていました。ともかくきれいな魚で、魚というよりは中国の大きな磁器とでもいうのかしら。でもいったい何という魚なのかわかりませんでした」
 「な?変わった魚だろう?」と老水夫が声をかけてきた。「トロール船には三十年以上乗っているが、こんなのは見たことがないね。網にかかっているのを船長が見つけたときには指にかみつこうとしたんだ。きっと、あんたが気に入るだろうと思ってね」

 この魚が捕れたのはカルムナ川河口の水深四十尋(約七十メートル)の場所だったという。とにかくマージョリーはその魚を博物館に持っていく。魚は硬いウロコを持った硬鱗類のはずだが、硬鱗類の魚はとうの昔に絶滅していて、化石でしか見られない。それが目の前に実物がある。大切な魚に違いない。
 マージョリーは師事しているジェームズ・ブリアリー・スミス博士に連絡を取るがなかなか連絡がつかない。仕方なしにマージョリーは内臓を棄ててその魚を剥製にする。
 一方スミス博士はマージョリーの手紙にあるスケッチを見て驚く。その著書『生きた化石 シーラカンス発見物語(Old Fourlegs) 』につぎのように書いている。ちなみにこの『生きた化石』は後々シーラカンス発見に魅せられた人物たちに読まれ、シーラカンス捕獲に走らせるほど影響を与えた。

 「目をこらしてそれを見た時、頭をガーンとなぐられたような感じがした。そのスケッチの魚はそれまで見たこともないような異様な魚で、それはむしろトカゲに似ていた。そのとき私の頭のなかで爆弾がさく裂した。そのスケッチと手紙を見ているうちに、まるでスクリーンに映されるようにある種の魚が視野に入ってきた。その魚ははるか古代に生存していたもので、今日はすでに絶滅し、わずかに岩石の間に断片的な化石となって残っているものである」

 スミス博士はマージョリーに魚の内臓を保存しておくように返信するが、魚は剥製にするために内臓は棄てられてしまっていた。
 スミス博士はマージョリーの手紙とスケッチを見て、いろいろな本で調べ、その魚が四億年前に生存していたシーラカンスである確信する。そのシーラカンスはスミス博士によって「ラティメリア・カルムナエ・JLBスミス」と学名が付けられた。
 以後物語はスミス博士のシーラカンスに捕獲の物語と変わっていく。スミス博士はどうしても自分の目で生のシーラカンスを見てみたい。内臓をしっかり備えたシーラカンスを分析したい。だから2匹目のシーラカンスを探し求めた。シーラカンスを捕獲の為に賞金を掛けた。しかし2匹目のシーラカンスはその間第二次世界大戦があり、アフリカでの政情不安定などあってなかなか見つからなかった。

 一九五二年、第二のシーラカンス捕獲を心に誓ってから十四年が経過した今、(スミス)夫妻は再び東海岸のシーラカンス捜しに乗り出した。どうしても二匹目が見つからないことにふたりは焦燥感をつのらせていた。

 そしてついに知り合いの冒険家エリック・アーネスト・ハントが5フィート大のシーラカンスを手に入れた。コモロ諸島のアンジュアン島の南東沖ドモニという町に近いところで漁師に釣られた。スミスは南アフリカの首相にかけ合って、政府専用機でシーラカンスを運んだ。
 当時コモロ諸島はフランス領であった。だからそこで獲られたシーラカンスはフランスのものであった。それをスミス博士は知事の言質を取って南アフリカに持ち込んだが、シーラカンスが世界的に話題なってからはフランス政府は黙ってはいられなくなっていく。そして、

 「今後、本年末まで、モザンビークとマダガスカル間のインド洋海域にあるフランス領コモロ諸島でシーラカンスを採取するのはフランス人科学者に限るものとする。フランス人以外の科学者が探検することは全面的に禁止する旨を――同地フランス当局はすでに発表している」
 シーラカンスはフランスの魚になっていた。

 以後シーラカンスはフランス人科学者によって解明されていく。締め出された恰好になったスミス博士は自らの知力の衰えを感じつつあった。(もともと虚弱体質であった)1968年、70歳のスミス博士は致死量のシアン化物を飲んで自殺している。
 シーラカンスが他の地域にも生息している可能性があった。中米における先スペイン時代の古代文明圏の神への奉納品としてシーラカンスとみられる置物が見つかっている。

 地元で――ということは、おそらく中米沖で、シーラカンスが獲れたのだ。遠く沖に出ていけば、コモロ諸島と同じ条件の海域、つまり岩が多く、火山性の洞窟があり、水深の深い海域はいくらでもある。世界中のこうした深海のどこかにもシーラカンスが暮らしていて、ただし今までは適切な捕獲方法を知らなかっただけだ――こう考えて何の無理があるだろうか。
 ハンス・フリッケは、この可能性を否定しない。「コモロだけがシーラカンスの生息地だとは考えられない。誰にもみつからないといいのだが」

 そしてインドネシアのやはり市場でシーラカンスが見つかるのである。
 さて、シーラカンスの発見は何が貴重なのであろうか。たぶん四億年前に絶滅したと思われているものが、ほとんど進化もせずに生存している事実であろう。この本ではこのことには触れていない。
 それよりもシーラカンスを研究することが「失われた鎖の輪(ミッシング・リング)」の解明に役立つと考えられたのだ。
 チャールズ・ダーウィンは人間の祖先はサルであり、その祖先は爬虫類であり、さらにその祖先は魚類にさかのぼるというのであった。ダーウィンやウォレスといった19世紀の博物学者に率いられた科学者は、陸生生物の真の元祖には、呼吸する能力と、陸を歩く足が不可欠だと確信していた。

 科学者はジグソーパズルの細片を集めるように徐々に証拠をそろえはじめ、絶滅した動物の化石を利用することで進化論の正しさを証明していった。欠落部分である「失われた鎖の輪」のなかでも特に大きく欠けていたのは、海中の魚が陸に上がって暮らしはじめたメカニズム――文字通り、進化の歴史での「最初の一歩」のメカニズム――だった。海の生物と陸の生物をつなぐ証拠が見つかれば、進化論の正しさは一気に強化され、世界は神が創造されたとする「特殊創造説(クリエーショニズム)」を打破することができるはずだった。

 シーラカンスの発見はその「最初の一歩」を見いだせるものかもしれない、という期待があったのだ。そういう意味では生きた化石であるシーラカンスは貴重であったのだ。シーラカンスを細かく分析していくと、進化の過程に見られる兆候があったが、結局、

 最初の「歩く魚」決定選手権のチャンピオンの座はまだ空席のままだ。

 最後にシーラカンス争奪戦にあたり日本が度々出て来る。しかしそこには札束で頬を叩くかのように、金にものを言わせてシーラカンスを捕獲しようとする日本の水族館や企業が嫌らしく書かれる。
 さらに、

 ある気がかりな噂が流れはじめたのが、ちょうどこのころだった。シーラカンスのことが中国にまで伝わっていて、金目当ての漢方医が、この魚の脊索に入っている体液を一滴飲めば不老不死が約束されると言いはじめていたのだ。こうしてシーラカンスは日本人を仲介にして闇市場で取り引きされ、買い取った中国の開業医は、体液一滴につき千ドルという途方もない値段で客に売りつけているというのだ。シーラカンス一匹の脊索には透明で琥珀色したこの体液が三リットルほど入っていることから、魚の価値はおそろしいほど跳ね上がった。

 という記述もあった。ふと、高校時代の世界史の先生が言った冗談を思い出してしまった。あの時は北京原人だったが。シーラカンスは北京原人よりはるかに古い。その効能は北京原人の比じゃない。
 とにかく何に使うにせよ、金に目がくらむ人間たちの乱獲を恐れてしまう。今は厳しい規制がかかっているようだ。

サマンサ・ワインバーグ 著 /戸根 由紀恵 訳『 「四億年の目撃者」シーラカンスを追って』 文藝春秋(2001/07発売) 文春文庫


by office_kmoto | 2018-11-13 05:57 | 本を思う | Comments(0)

鈴木 伸子 著 『大人の東京散歩 「昭和」を探して』

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 こういう本は面白くて好きだ。“散歩本”なのだけれど、自分が歩いたり、関係したことがある町々のちょっとした歴史、あるいは雑学的な話はついつい引き込まれる。逆にまったく行ったことのない町などは簡単にスルーしてしまうけれど。
 まずは、日本橋、京橋、銀座、有楽町である。ここは昔よく行ったし、歩いた。でも47~8年前だから、あの頃の行った店や建物は今はほとんどなくなっていることだろう。いろいろ思い出すことがあるが、個人的なことなので省く。
 この本で知ったこと。
 日本橋はあの悪名高い高速道路が橋の上に覆うように架かっているが、その工事は大変だったらしい。

 川の上に高速道路をつくると言っても、水中に橋脚を建てる工事は技術的にたいへんむずかしいものだった。加えて川の下には地下鉄が走っているため橋脚を細くする必要があり、有機物の多い都心の河川の水質によって鋼材の腐食のおそれもあった。そして、昭和三十年代においても、付近は、都内屈指の交通量だったので、巨大な資材を搬入しながらの工事を行うことは困難。資材は道路ではなく水路で運搬された。

 ちなみに日本橋にある三井住友銀行、中央三井信託銀行にある米国製モスラー社製の巨大金庫の五十トンに及ぶ扉も日本橋の重量制限に引っかかり、橋を渡ることが出来ず、水路で運ばれたという。

 今は竹橋にある国立近代美術館は、以前は京橋にあった。

 有楽町駅界隈もだいぶ変わった。イトシアなんて商業施設が出来た。ここにあるドーナツ屋が一時話題になったけれど、あれまだあるのかな?ドーナツ屋は不振と聞いていたが……。
 そんな中、交通会館は健在だ。在職中よくここで事務用品・器機の展示会に行った。 屋上にあるスカイラウンジで食事をしたこともある。あの回るやつ。昼間だったから、どうってことなかったけどね。なんかお上りさんみたいだったな。今にして思えば、つまらないものだけど、それでもこうした回転式の展望台は日本全国で作られたらしい。

 このような回転式の展望台は、東京オリンピック前後の時期、最新スポットとして日本全国のあちこちに造られ、東京ではホテルニューオオタニと交通会館が、その二大名所となっていた。展望台の回転する仕組みは、かつての軍需産業における戦艦の砲台の技術を応用したもので、この銀座スカイラウンジの仕事は三菱重工によるもの。

 この話、どこかで読んだ気がする。
 そういえば、ここにはそごうがあった。あの三角形のデパート。今はビックカメラになっているはすだ。そごうも駄目になっちゃった。ここにユースホステルの会員登録所があって、その登録のため、高校時代はじめてここに来た。映画も有楽町で見たことがある。もうマリオンになってからだったかもしれないが……。
 朝日、読売、毎日の新聞社もかたまってあった。面白い話が書かれている。

 読売のベテラン記者の人に聞いた話だが、有楽町時代にあって今はなくなったのが「たれ込み」というもの。人が常に行き来する街中では、新聞社の受付にふらりと立ち寄って情報を流していくような行為が成立したが、今のように、オフィス街の新聞社の警備員のいる受付に、わざわざたれ込みにやってくる人はいなくなった。

 そうだろうな。今は時代がそういう時代だから、警備、セキュリティが厳しいのも仕方がない。受付を通し、パスカード首に提げないと入れないところばかりだから、ちょっと寄ってなんて出来なくなったのだろう。

 新橋の話も通り過ぎることはできない。
 私が本屋ではじめてアルバイトしたのが、新橋にある本屋であった。ここに2年働いた。その本屋は新橋の烏森口を出てちょっと歩いたところにあった。朝夕烏森口を通ったから、朝には昨夜の喧噪の残骸、夕方には店の人間の呼び込み、換気口から流れる煙など、目にして来た。

 戦時中、東京の主な鉄道駅前は空襲に遭っても燃え広がらないように、強制疎開地として建物を壊し、空き地となった。終戦後、そこに多くの闇市が発生。なかでも新橋は貨物と旅客駅のある交通の要衝でもあったため、東京最大と言われるほどの規模の闇市が発展した。

 ニュー新橋ビルの中はその闇市の露天を整理したものらしい。なるほど中はそんな雰囲気を今も色濃く残している。バイト時代よくビルの中を見て歩いた。
 サラリーマン時代も、今かかりつけの歯医者はちょっと前まで新橋から10分ほど歩く、内幸町で開業していたので年に何回か新橋へ通った。診察が終わり、新橋駅に戻るとトイレに行きたくなる。そこで用を足すのだが、ここのトイレ、使用料とは違いチップ制になっている。
 時たま新橋駅前で古本祭りをやっていて、何度か覗いたけど、場所が場所だからか、おじさん御用達の戦記物が多かった。

 中野の話もスルーできない。

 こちらは(中野ブロードウェイ)は昭和三十六年にできて、すでに五十年近くを迎えている。できた当初は、ショッピングセンターの上のブロードウェイマンションには、沢田研二をはじめ芸能人が住むなど、相当にカッコイイ場所だったらしい。今でも昭和三十年代の香り漂わせているため、二十代、三十代のお金持ちディレッタントたちには、わざわざこのヴィンテージ・マンションに引っ越してくる人もいる。屋上にはプールがあったり、廊下も絨毯敷きなど、内部は今時なかなかないつくりなのだとか。

 私は高校時代、このブロードウェイの地下にあった果物屋で数カ月アルバイトをしたことがある。
 で、上のマンションの住人から、みかん一箱の配達を頼まれた。そのとき店の先輩からこのマンションには沢田研二が住んでいると聞いた。みかん箱を抱えエレベーターで上がると、確かに廊下は絨毯敷きであった。
 ブロードウェイの3階には当時明屋書店があって、バイトで得た給料で、五木寛之さんの全集を買った。全集を買ったのはこれがはじめてであった。
 柳橋はそこが柳橋と知ったのは、会社のメイン銀行が店舗改装のため、一時的にこちらに移ったため、自転車で月に何度か行くことになってからである。(基本出入金の管理、振り込みはネットで行っていたので、それで済んだが、両替は銀行へ直接行くしかなかった)
 私ははじめてところに行くとついつい歩き回りたくなる。用が済んで自転車で走っているとここが柳橋であることを知った。そしてこの近くは問屋街でもあり、つい最近この付近に旧吉原があったことも知る。
 東日本大震災の時はこの近くある両国橋を歩いて渡った。

 両国の話も面白い。両国と言えば相撲。相撲と言えばちゃんこ鍋。ちゃんこ鍋といえば鶏肉(二本足の鶏を食べていれば手を付いて土をつけることもないという験担ぎ)。その鶏肉の話。

 両国駅は、昭和四十七年に総武線快速が東京駅に乗り入れるまでは、東京から房総方面に行く列車の乗り換え駅だった。そして、貨物輸送においても、大きな拠点であった。そのため、両国は千葉産の食肉用ニワトリが大量に入ってくる中継地でもあり、界隈には鶏問屋や鶏肉を使った料理屋が昔から多かった。

 そう私が子供の頃は千葉に海水浴へ行くとなると、両国駅から電車に乗った。この時のホームはまだ健在のようで、この前東京江戸博物館からの帰りに電車からホームを見ると、自転車を乗せることができる電車がここから出ているようだった。

 上野はやはり聚楽というレトロな建物であろう。たしかここも取り壊されてと聞く。私がここの1階にあった古本屋で文庫本を1冊買った時は、もうビル全体にネットが掛けられていた。ここは子供の頃から記憶にある。
 美術館へ行くために上野は何度も行っている。この時もその帰りに西郷さんの銅像があるところまで歩いて、その下に出たのであろう。
 面白いことが書かれている。

 以前に都立上野高校出身の天才写真家・アラーキーこと荒木経惟氏に聞いた話によると、昭和三十年代、上野高校の男子生徒の間では公園内の東京国立博物館前の通りを真夜中に一人で歩くという肝だめしが伝統的に行われていたとか。この道は、夜になると人通りの少ない博物館の塀沿いで、周辺はおかまの発展場。真夜中の年頃の男の子の一人歩きはひじょうに危険であるゆえの通過儀礼的な行事だったとか。
 もうひとつ、東京都の公園課の人に聞いた話だと、公園内の東京文化会館裏の古墳遺蹟「摺鉢山」には、その気がない殿方は不用意に近寄らないほうがよい。ここも、ある日のある時刻になると、突如男性同性愛者の社交場と化すのだとか。

 確かにあの暗がり、真夜中になると怖いわなあ。

 湯島の記述で思い出したことがある。

 昼間に来ると妙に目立つが、この湯島界隈はラブホテル街として有名なところ。しかし、その多くは昭和な感じの古びた建物で、今はなんと老人施設に転用されているところもある。

 本屋で働いていた頃、湯島まで本の配達をしていたことがある。配達先を探して道に迷った。その時ラブホテル街に出てしまった。ちょうど男女がホテルに入ろうとするところ目撃した。ここがラブホテルとわかって、へえ~真っ昼間から、と思ったものだ。
 ラブホテルが老人施設に転用されていると書かれているが、ラブホテルの成れの果てが老人施設というのは、どこか生々しい。

 こうして自分の思い出と照らし合わせて書いていくと切りがない。まだまだ書きたいところだが、このあたりで止めておく。

鈴木 伸子 著 『大人の東京散歩 「昭和」を探して』 河出書房新社(2009/10発売)河出文庫


by office_kmoto | 2018-11-10 06:51 | 本を思う | Comments(0)

木内 宏 著『礼文島、北深く』

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 古い本である。33年前に買ってからずっと本棚に読まずに収まっていた。ただ棚を見る度に気にはなっていた本でもある。
 今この本を読んでも、当時とはだいぶ状況が変わっているかもしれないし、あるいは今も変わらず同じ時間が流れているかもしれないが、そのあたりはわからない。
 でも北限の島の厳しい自然の中で生きている島の人々は読んでいて、J.M.シングが描く『アラン島』を彷彿させる。あの本も北の寒さが厳しい島民の生活の悲喜こもごもが描かれていて、ふと懐かしくもなってきた。
 さて、礼文島である。日本最北端の島で、樺太を間近に望む国境に島だ。

 ……俺は、あのとき、わかっていながら領海内へ入って行った。いったい、あれはなぜだったろう。粕谷船頭は短くなった煙草を、小さな舵のわきに置いた灰皿に無造作にひねった。
 ……密漁してやれというはっきりした目的意識があったわけではない。たいいち満船だった。それ以上無理して釣る必要などなかったのだ。それなのに、俺は、ちょっとだけでいい、ほんのちょっとだけでいいから、いっかい樺太の海に縄を流してみたい、そう思ったに違いないのだ。それは、なにもあの日に限ったことではなかった。樺太の島肌がはっきり見えてくる領海ラインに近づくと、なぜかいつも、もっと近くへ寄ってみたいという甘い誘惑にかられるのだ。島が手招きしているみたいな気がするのだ。あの島で生まれたわけでもないし、身寄りがいるでもない俺が、どうしてそうなるのか、まったく不思議な話だ……。

 それは、

 そのおばさんは樺太からの引き揚げ者だった。昭和二十年九月、磯舟に毛が生えたような粗末な木造船に何十人も鈴なりになって、命からがら逃げ帰った。
 島には彼女のような樺太からの引き揚げ者が少なくなかった。なかには礼文とはもともと無縁だったが、ここが樺太に近い土地だというだけの理由で定着した人もいた。私はそれら何人かの人たちに会ったが、すでに老境に達した彼らの話に共通するのは、サハリンという異郷の地になった樺太が未だに外国であるという実感を持てず、ふつふつとした望郷の思いを抱きつづけていることだった。朝起きると、まず窓を開け、あるいは高みに登って北の空を見る、と何人もの人から聞かされた。

 どこで暮らそうと同じことといいながらも、意識の根っ子は海の向こうにつながっているのだ。これを望郷の念と片づけてしまうのは簡単だが、それだけではないように思う。日露戦争から昭和二十年までは樺太が日本で一番北の島であり国境の島だった。敗戦で礼文がまた国境の島になった。ここから先へは行けませんというどんづまりになった。もはや進むべき先のない断崖絶壁に立たされた人々の意識のなかには、なんとかして出口を見つけたい、何かを突き破りたいという切なる願望があるのではないか。それは引き揚げ者の抱く気持ばかりではなく、この島自体が放つ、緊張感をはらんだひとつの雰囲気のようなものにさえなっている気がした。

 毎朝窓を開ければ樺太が間近に望むことができる島だ。かつてそこで暮らしていた島が見える。毎日そこにある。だからこそ、この島の漁師はそこへ引き込まれるが如く、領海を越えたくなるのかもしれない。
 いずれにせよ、礼文島は今国境の島となった。島が持つこれ以上先には行けない、出口のない閉塞感は島人をしてその脱出口を模索しているのではないかと著者は推察する。
 この島は鰊が来ていた頃は多くの人がこの島に来た。けれどその鰊が来なくなってから、島での生活が厳しくなっていく。だから漁のできない冬には出稼ぎに出る人が多くなっていった。

 「三十年前までだら、この島は内地から雇人が来た土地だよ。それが今はどうだ。出稼ぎ、出稼ぎで冬は寂しいものさ」
 「そうですね。確かに人の姿が少ないですものね。玄関が板で打ちつけられている家をずいぶん見ましたよ」
 「島じゅうだら、三、四百人も行ってるんでねべか」
 「漁師の三人に一人の割合ですかね」

 北海道庁の資料「季節労働者の推移と現況」を見ると、礼文島は函館周辺の渡島半島や積丹半島、留萌地方などと並び、北海道で最も出稼ぎの労働者の多い地域のひとつであることがわかる。しかも、その九割以上が零細な沿岸漁民である点で、北海道全体のなかでも際立った特色を示している。町役場の推計だと約三百五十人、漁師二・六人に一人が出稼ぎに行っている勘定になる。

 著者は出稼ぎはしなければしない方がいいに決まっている。しかし島に留まって生活を続けていくのとどちらが楽であろうか。著者は言う。

 だが、そんなふうに思うそばから、待てよ、出稼ぎが辛く、島にとどまるほうが楽だと単純にいえるだろうか、とも考えてみた。いや、どちらが楽というものではない。この島に生の根をおろすかぎり、一時的に出稼ぎに行こうが、島にへばりついて暮らそうが、人間の払う苦しみの代価に差はないのではないか……。

 厳しい自然。苦しい生活。どんづまりの国境の島。著者が島を歩いて、そこにあるゴロタ石だけを置いただけの墓や墓を作らず、寺の納骨堂に骨を預ける人が多くなっている現状を見て、島民たちはいつかこの島から出ていくことを前提にしているように思えてくる。島に永住しようとする気持が人々に稀薄だと思えてくる。島での生活は、仮の宿ではないかと著者は思うのであった。

 にもかかわらず、仮の宿という言葉が頭を去らない。
 島の人々の多くは、心のどこか片隅に、そう思えてならないのだ。その思いはゴロタの浜の墓地を歩いたときから、私は胸の底に澱のようにこびりついている。

 人々にはある時期を境に自然石を置いただけの質素な墓を作らなくなった。寺の納骨堂にただ預けておくようになった。それは自動車が急速に普及しはじめ、スーパーに冷凍食品が並べられるようになり、プラスチック製の高速ボートがはばを利かすようになった時期と一致していた。
 島の生活がいっけん便利になり、日常生活の質が都会に近づけば近づくほど、人々の脱出願望はふくらみ、百年の間、内に潜在しつづけてきた仮の宿の意識が、はっきり自覚されるようになった、ということだろうか。

 「島を捨てることは、だれもが考えてきました。建前はみな地域振興が大切だといいます。私だってそう思います。しかし、島でかせいだ金は、極論すれば、札幌に出した子弟への仕送りに使われているんです。まったく地域に還元されていない。札幌の人口が京都を抜いて百五十万人になった、大都会だと自慢していますが、札幌の力だけでなったのではない、その陰に離島や山村の血の滲むような犠牲があるんです。鰊時代も現代もこれは変わらない。歴史的宿命みたいな気がします。そういう私も、一時期仕送りが三人重なったことがあって苦しかった。いくら働いても底のないバケツでしたよ」

 この島民の言葉は考えさせられる。島で稼いだお金が島に還元されず、島を出て都会に行く子供たちのために使われる。大都会はそうした犠牲の上に成り立っているんだな、と思わされる。
 一方島でもインフラが整備され生活はしやすくなってはいく。時代がそうさせる。島民の生活スタイルも便利になってはいく。しかし人は一度その便利さや豊かさ(形ばかりのものかもしれないが)に触れてしまうと、より良い生活を求めてしまう。さらにより良い生活を求めてその代償の支払いに追いまくられる。こうして人々は島から出ていく。

 ちょっと時化ただけで木の葉のように揺れた二百トン級の連絡船に替わり、千トン級のフェリーボードが就航したのが九年前。同じ年に電話がダイヤル式になり、それから三年後に礼文空港が完成し、稚内から一日一便、十九人乗りのツインオッター機が飛んでくるようになった。
 そのころから島の生活は目に見えて変わりはじめた。ひと口でいえば、ゆったりした時間の流れが、いたるところで破壊されていったのである。それはいわば形だけの都市化だから肉眼でよく見えた。その破壊された時間が、冬になると時々昔に還るのではないかと錯覚することがある。フェリーが欠航した島が孤立する数日間だ。そんなとき人々は、ただじっと水平線に目を凝らし、「ひっでえ時化」と誰にいうともなく呟いては、ストーブの薪をかき回す。そんな瞬間の人々には、二十年前と同じ穏やかな表情が戻ってくる、と彼はいつも不思議に思う。
 マイカーがあたりまえになり、フェリーが大型化し、ダイヤル通話になり、空港が開設され、と確かに離島の抱える不便さは一面では解消された。だがはたしてそれで人々の暮らしの質が豊かになっただろうか。

 都市化の波は確かに多くの恩恵を島にもたらしはした。しかし、ゆっくりした時間の流れが奪われたことで日常がせわしくなり、生活の質自体は脆くなった。「ひっでえ時化だ」と呟いて沖を見つめ、薪ストーブをかき回す瞬間の人々の表情が不思議な安らぎたたえるのは、古い時代の自分たちの時間をとりもどしたいという意識が、彼らの内に潜んでいるからではないだろうか……。

 電気がきたので、八軒の漁家は競ってテレビを買い、洗濯機を求め、冷蔵庫をそろえた。陸の孤島が一気に文明がもたされた。ところが皮肉なことに、電化生活が可能になったら、とたんに人々は冬の宇遠内を棄てた。これは北部の鮑古丹の浜でも同じように見られた現象で、離島における経済発展のひとつの法則とでも思いたくなるほどだが、とにかく便利さを手に入れた人は、さらにその先にあるより大きな便利さを追求し、あるいはその代償の支払いに追いまくられるかのように、冬がくる前に東海岸や船泊湾に面した村落へと移動するようになった。その結果、宇遠内は夏だけの漁業生産基地に変じたのである。

 北海道や東北の人間が、よりよい生活を求めて東京に動くという図式とそれはなんら異なるものではない。根っ子にあるのは、人間だれでもついて回る快楽を求める本能である。

木内 宏 著『礼文島、北深く』 新潮社(1985/01発売)


by office_kmoto | 2018-11-07 12:53 | 本を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『温泉に行こう』

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 山口さんの紀行文をまた読みたくなった。山口さんはゴシップ好きである。芸能界から当時巷で話題になった人物たちのゴシップを散りばめ、たとえに使ったりする。読んでいて俗っぽいのだが、それが笑ってしまう。
 山口さんには新潮社の編集者が歴代付いている。それぞれニックネームが付いて、フミヤ、都鳥、パラオ、スバル、臥煙と称される。このお伴の編集者がいい味を出す。
 今回もと旅行会社に勤めていたスバル君が山口さんの温泉旅行に付き添う。
 ただ山口さんにつき合うのは結構大変のようだ。旅の途中入れ歯が壊れたり、感冒性腸炎になったり、その都度スバル君が駆けまわる。

 「旅の者が難儀しております」
 
 とその町の医者に駆け込む。でもそんなドタバタ旅行でも、行きつけの店や旅館に行って、さりげなく旅や人生を語る。

 函館に行ったら銀花へ寄ろうと思い詰めていた。そこへ行ったらママさんが僕のことを覚えていてくれた。それだけのことである。他に何もない。あまり意味がない。しかし、これが人生だという感情はどこからか湧いてくるのだろう。そうして、僕は、この世に生きるということは、こういうことであるに過ぎないという思いが、なおも激しく去来するのである。

 旅は、それがどんな旅であっても、常に冒険旅行であることを免れない。

 そして、

 温泉旅行というのは、家に帰って、自分の家の風呂に入って疲れを癒やしたときに終るのだとも思っている。

 とこの本は締めくくる。いずれもさりげなく、しかしまったくその通りだと思わせるところは、山口さんのうまいところだ。

山口 瞳 著 『温泉に行こう』 新潮社(1985/12発売)新潮文庫


by office_kmoto | 2018-11-04 05:48 | 本を思う | Comments(0)

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