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菊池 壮一 著 『書店に恋して―リブロ池袋本店とわたし』

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 著者はリブロ池袋本店が閉店になる2015年7月に店長であった人である。その著者がリブロ入社(当時は西武ブックセンター)から退社までの間の経験を語っている。
 全体を読んでみて、リブロが元気だったのは、西武が元気だったから成り立っていたんだな、ということである。だから西武が傾き始めると、リブロもそれに左右されてしまう。バックボーンとしてセゾングループのオーナーである堤清二がいたから、規模的にも個性的な書店としてありえたんだろうなという気がする。だから話題性を帯びたし、もてはやされもした。そういう意味ではリブロ出身者がやたら本屋について書いた本が出ているが、正直なところ、中小書店出身者としては、恵まれていたんだな、といつも思う。今回も同じ気持ちを持った。だからリブロ池袋本店の閉店模様を「プロローグ 最終営業日」を読むと、閉店を多くの人が惜しむ様子は、町の小さな本屋さんではあり得ない。町の本屋はさみしく、ひっそりと店を閉じていく。そんなふうにして町の本屋はなくなっていったはずで、自分がいた本屋もそうしてなくなっていった。
 経営難となって店を閉じなければならないことほど悲惨なものはない。私がいた本屋も資本力に勝る大書店が近所に出来たことで競争に負けた。その勝った大書店も今はもう身売りして、経営者も代わり、以前とは全く様相が違う書店になっている。本屋はどんどんなくなっていくし変わっていく。

 リブロ歴史は面白い。この本によると、リブロのルーツは西武ブックセンターで、池袋西武の書籍売場とする。正式に西武ブックセンターを正式に名乗るのは昭和50(1975)年の池袋西武の第九期改装に伴い、11階に約300坪でオープンしてからである。
 昭和60(1985)年株式会社リブロが創立される。西武百貨店内10店舗を運営するところからスタートして、店名も西武ブックセンターからリブロに変更された。
 その後リブロの親会社は、セゾングループの中で何回か入れ替わる。創業時は西武百貨店、翌年から四年間は西友、その後また西武百貨店で四年、そしてファミリーマートと変わる。平成6(1994)年にはファミリーマートの専務が二代目社長となり、四年後再び西友が親会社となり、西友は翌年パルコにリブロ株を大幅譲渡する。
 そして平成30(2018)年リブロは「万田商事株式会社(オリオン書房)」「株式会社あゆみBooks」と日販傘下で合併し、新たに統合会社「株式会社リブロプラス」設立されて、現在に至っているようだ。
 わが町の駅前にあった本屋が撤退し、その後をほとんど居抜きで入ったのがリブロである。日販が運営しているオンライン書店Honya Clubもいつの間にか「LIBO」と左端にロゴが入っていた。要するに日販と取り引きのあった書店を日販が直接運営すると店名がリブロになるのだろう。
 ちなみにあゆみBooksは隣駅前にあるが、もともとあのコーヒーチェーンのシャノワールが経営していたはずだ。シャノワールはあゆみBooksを切り離したのだろうか?
 シャノワールはカフェ・ベローチェというブランド名でコーヒーチェーンも経営している。私が勤めていた本屋の支店が撤退した後、ベローチェが入った。今はほとんど行かないが、以前何度か店に入ったことがあって、椅子に座って店内を眺めると、ここに棚があったんだな。あそこはレジだった。奥はバックヤードだった、とかつて関係していた店の様子を思い出したりしていた。
 さらにオリオン書房さんの名前は私が勤めていた本屋の社長から何度か聞いたことがある。ちょうど入社したばかりの頃で、うちの本屋とオリオン書房さんを含む書店が数社集まって、「首都圏ブックチェーン」なるものを作って、共同で読者サービスをしていた。本を買うと「首都圏ブックチェーン」で作った栞を挟んで、その栞を30枚だったかな?、とにかくそれを集めると、メダル型の文鎮を差し上げていた。「首都圏ブックチェーン」の会員である社長さんたちが啓蒙活動なのか、それとも慰安旅行なのかわからないが、アメリカの書店を視察に行って、その報告書なるものを読まされたことがある。
 いま私の手元には、その銅製のメダル型文鎮が手元にある。

 さて、本の話である。
 著者はいろんな作家さんとも交友があり、特に池波正太郎、吉村昭・津村節子夫妻、開高健さんらの交友は興味深く読ませてもらった。その中で気になった文章は、

 茅ヶ崎の家は今、開高健記念館になっているが、なかなか運営が苦しいようだ。後継者がいなくなってしまているので色々たいへんなのだろうが、開高文学はもっと光が当たっていいよな、と最近特にそう思う。

 開高さん一家は娘さんの道子さん、妻の牧羊子さんも亡くなって、誰もいない。

 知らないことも書かれている。

 棚不足とは、棚卸しをして確認した実際の在庫金額と、帳簿上の金額との差額のこと。要は、あるはずなのになくなっている本の合計金額のことである。この金額(=棚不足高)と売上の比率(棚不足高÷売上高)を棚不足率といい、書店の場合は一パーセントを切ればマシなほうと言われている。
 一パーセントというとピンと来ないかもしれないが、年商五〇億だとすると五〇〇〇万円。書店の平均経常利益率は一パーセントいかないのだから、いかに大きな金額かおわかりいただけけるだろう。万引きと内引きというのが定説。内引きは従業員がカバンに入れて持ち帰ってしまうケースが多いという。

 棚卸しをして、差益率がいわゆる平均値より低いと、まず万引きを疑った。だから店で出る理論値と実際に出た差益率の差が1%未満なら、それは万引きであろうと考えた。それ以上だと、棚卸しの数値がおかしいとまず疑い、私が経理を担当するようになってからは、棚卸しをやり直させた。お陰で現場では随分恨まれたものだ。それでも差益率が出ないと、今度は従業員の不正を疑うことになる。仲間を疑わなければならないので、気の重い作業であった。何度もアルバイトや従業員を入れ替えているので、どうしてもこういうことが起こる。

 我々はいわゆる「万引き保険」に入っているのだが、犯人を捕まえ、被害届を出し、警察にその受理番号をもらわないと保険申請できない。この受理番号をもらうまでに相当の手間と時間がかかるので面倒になり、保険申請をあきらめる書店も多いと聞く。

 「万引き保険」なるものがあるとは初めて知った。ただ私も万引きを捕まえ、警察に引き渡したことがあり、その日は半日警察にいることになった。

 閉店後何日間かは在庫の引き継ぎ、棚卸し、事務所整理、備品撤去など忙しく過ごしたが、店舗の明け渡しが済むと、とてつもない喪失感に襲われた。私は自分の本はほとんど池袋本店で買っていたし、毎朝昼晩全体を巡回して歩くのが習慣になっていたから、どこに何があるかはほぼ頭に入っている。可愛いペットや家族が突然いなくなってしまったような感覚だった。これからどこで買えばいいのだろう。他の大型店をのぞいてみるのだが、並べ方や分類がなじまない。書名を見ても著者名を見てもまるで響いてこない。「本を買うという行為、読むという行為」がパタッとできなくなってしまった。
 池袋本店の棚作りが他より勝っていたなどと言うつもりはないが、行きつけの本屋を失うということはこれほどショックなのだということを思い知らされた。間違いなく活字中毒者だったのに、全く読みたいと思わないのだ。

 (略)

 書店ゼロ自治体が四二〇になり、全国の書店数は平成一二年(二〇〇〇年)に二万店を超えていたものが、今は一万二〇〇〇店程度。私と同じ思いをした人も少なくないだろう。

 これはよくわかる。これまで自分の会社が本屋をやってたので、社内で本を買うことが多かった。新刊情報も今みたいにネットで得ることがなかった時代だったから、店で本を見て知る。注文も社内でした。実際今自分の本棚にある本はかなりの冊数が自社内買った本だ。そんな店が一店舗、また一店舗なくなって、最後は書店業撤退となったとき、本当にこれからどこで本を買えばいいのか。本の情報をどこで得て、注文すればいいのか、困った。
 私のいた会社のメイン業は薬局であったが、調剤薬局で「かかりつけ薬局」なんてことを言っていた。本も同じで本好きには行きつけのお店があるもので、それがなくなるとどうしていいかわからなくなった。今みたいにネットで本が当たり前に買えるようになっても、行きつけの本屋さんがあればうれしいと思っている。残念ながら今の私にはそんな行きつけの本屋さんがない。

 「第5章 これからの書店人へ」には興味深いことが沢山書かれている。書店がどんどん減っていく中で、新規の書店も減少傾向にある内なる原因のいくつかをあげている。
 まず、「定期建物賃貸契約」についてである。これは今までのような貸主に正当な理由がなければ、借主は立ち退きを拒否できたのが、この契約は期限が来れば貸主は借主を追い出すことが出来るというもの。リブロ池袋本店はこれを盾に追い出された。リブロが西武と蜜月な状態ならそんなことも起こらなかっただろうが、西武が2005年にセブン&アイ・ホールディングスの傘下に入ると、それまでの関係はビジネスライクと変わったようだ。その結果リブロ池袋本店は条件面で折り合わず閉店となる。
 この法律は元々は悪質借家人の居座り防止を意図に出来たものだが、これを盾に商業施設のデベロッパーはさまざまな条件を出し、強気一辺倒となる。
 そのためこうした商業施設に入るテナントはいつ追い出されてもいいような店作りをし、その結果効率ばかりを追求することになり、その苛酷な条件を呑めるテナントばかりになり、どの商業施設も金太郎飴のように似たようなものになっていくという。なるほど、そう言われれば、どこの商業施設も似たような店が入り、同じ匂いがする。
 しかし著者は言う。このようなデベロッパーによるテナントいじめはいずれ自身の首を絞めることになると。実際商業施設の中でシャッターの閉まった店舗が出始め、中にはがら空きという施設も出て来ている。だからそうならないようしてほしいものだ、と提言する。
 さらに小売店いじめに「減損会計」、「資産除去債務」という会計処理を強いられることだ。「減損会計」とは黒字の出ていない店舗は潰れてもいいように引当金を積んでおきなさいというもので、「資産除去債務」も撤退するときの費用も引き当てておけというもので、これは利幅の少ない書店にはかなりきつい。
 さらに経営を圧迫するのが「最低賃金」である。これがどんどん上げって行く。国を挙げて「最低賃金」の額を引きあげているが、労働者にいい顔するためのパフォーマンスがかえって経営を圧迫するから、労働者を雇うどころでないし、利幅の少ない書店が人を雇えなくなっていく。
 さらにPOSレジの存在。今やPOSレジのない店など成り立たなくなっている。ところがこれがレジ会社でさまざまで統一されていない。そこへ単に現金会計だけをするだけでなく、やれクレジットカードだ、プリペイドカードだ、ポイント付与だとか、操作が複雑化している。これを使いこなすのも大変だし、アルバイトに教え込むのもマンツーマンで時間をかけてしなければならない。しかも厄介なことに、一度このシステムを入れればずっと使えるというものではなく、バージョンアップ、入れ替えを何度も強いられる。
 こう厄介なことを列挙されると、これじゃなかなか新しい店を出そうということにはなれないだろうな、と思ってしまう。

 これからの書店はますます少なくなっていくのは間違いない。差別化すること、本腰を入れられることを見つけて複合化すること、自分の店がだめになっても食いつなぐすべを探すこと。多くの人がそれに気づき、すばやく着手すべきなのである。

 本屋大賞についての意見はもっともだと思った。
 今や本屋大賞は、「誰が見ても売れる、売れている本が選ばれる傾向は最近とみに顕著である」と言う。その上で、

 とにかく今のままでは、「昨年のベストヒット賞」になり、どうでもいい賞になってしまうのではないだろうか。「読者が気づいていない名品を発掘して、教えてやろう、売ってやるぞ」の気合を持って欲しい。選考委員はもっと読むべし。売れている本しかわからない人は、投票を辞退すべし。

 と厳しいが、もっともだと思う。この賞は読者のためにあるものではなく、本屋の売上の為にあるものになっている。
 懐かしいことも書かれていた。

 また、担当ジャンルの売上スリップを持ち帰って家で集計するというのも皆がやっていた。これは自己啓発と言えば自己啓発、無償残業と言えばその通りなのだが、商品知識を身につけるには最適だったなと思う。少なくともパソコンのデータを眺めるよりは、一枚一枚確認するという行為のほうがはるかに頭に入る、と今でもそう思う。

 私も売上スリップを家に持ち帰って、せっせと数え、ノートに記録したものだ。当時はまだパソコンもなかったから、すべて手書き。まったくのアナログだ。けれどこうしてやった作業は手を動かした分忘れることはなかったし、今でも思いだせる。手間と時間はかかるけれど、商品知識を得るのはもってこいの作業であった。

 私が書店人生を始めた頃は、トーハン、日販とも本社内に店売があり定期的に商品を抜きに行った。ジャンル別、出版社別にきれいに並べており「はあ、この出版社はこんなものを出しているんだ」という発見があり、知らない本はその場で手にとって内容の確認ができ、商品知識もつく、いい学び場であったと思う。
 
 (略)

 日販といえば、飯田橋と水道橋の中間あたりにミニ店売があり、ここは王子より新刊が入荷するので、度々訪れていた。コミックの人気商品などは「本日○時入荷予定。書店様は一店五冊までお願いすます」とポスターが貼られ、整理券をもらって並んだものだ。

 私も書店員時代にほぼ毎朝、水道橋にある日販の店売へ通った。客注品や補充用の新刊など仕入れてきた。ここに書かれているように店売の棚は本当に本を知ることが出来るいい学び場であった。新しい発見がいつもあった。自分が読みたい本も何度か仕入れてきた。
 毎日通っているものだから、お客から注文があった本で店売の棚で見かけた本は、「それは問屋の店売にありましたから、明日昼には入荷します」と答えることも出来た。
 本日発売のコミックだけでなく、話題の新刊書、ベスセラーで重版が出来上がった売れ行き商品も配布してくれた。私の時は、整理券の発券はなかったが、新刊を配ると言うと順番に並んで待っていた。売れるのが間違いない新刊は配本がないか、少ないので、ここで配ってくれるのは有り難かった。
 店の先輩(私は一緒に仕事をしたことがないが)で、独立して自分の店を持った人も店売に来ていて、新刊コミックなどこちらが必要ないときは、頼まれ並び、商品を受け取って先輩にそのまま渡したものだった。この先輩、自殺して店はなくなった。
 店売のあるビルには店の担当者もいて、どうしても欲しい新刊が手に入らないときは、頼んで、デスクの下に隠してある箱からこっそりと分けてもらったりした。よくしてくれた担当者もいて、一度新小岩のちょっと路地あった行きつけの店に連れていってもらったこともあった。
 
 ここに書かれる著者が書店人生を始めた頃の話は私も経験しているから、気になって略歴を見てみると、1955年生まれとある。私は翌年の生まれだから、同じ頃書店員を始めたことになる。この時は店の大小は関係なく、やって来たことは同じなんだな、と思った。いずれにしても、ここに書かれることは私にとって懐かしいことで、ついつい自分の思い出も書いてしまった。

菊池 壮一 著 『書店に恋して―リブロ池袋本店とわたし』 晶文社(2018/10発売)


by office_kmoto | 2019-03-30 22:21 | 本を思う | Comments(0)

藤沢 周平 著 『周平独言』(新装改版)

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 時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なものが存在する。この不変なものを、時代小説で慣用的にいう人情という言葉で呼んでもいい。
 ただし人情といっても、善人同士のエール交換みたいな、べたべたしたものを想像されるにはおよばない。人情紙のごとしと言われた不人情、人生の酷薄な一面ものこらず内にたくしこんだ、普遍的人間感情の在りようだといえば、人情というものが、今日的状況の中にもちゃんと息づいていることに気づかれると思う。
 現代は、どちらかといえば不人情が目立つ時代だろう。企業が社員を見捨てたり、ささいなことで隣人を訴えたり、親は子を捨て、子は親を捨てる。
 だがそういうことは、いまにはじまったことではないだろう。昔も行われたことが、いまも行われているのである。

 (略)

 私はいま、時代小説というものにひきよせてモノを言っているわけだが、これを歴史という立場から言えば、いまにはじまったことでないという意味は、もっとはっきりするはずである。いったいどういう世の中が来るのかと思うようないまの状況も、歴史にてらしてみれば、こういう価値観の混乱は、戦後の一時期にも現れたし、また明治の初期にも現れたことだと思いあたる。
 まして人間そのものが、どれほど変ったろうかと思う。一見すると時代の流れの中で、人間もどんどん変るかにみえる。たしかに時代は、人間の考え方、生き方に変化を強いる。たとえば企業と社員、嫁と姑、親と子といった関係も、昔のままあり得ない。
 だが人間の内部、本音ということになると、むしろ何も変っていないというのが真相だろう。

 (略)
 
 小説を書くということはこういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと、仮に答えを出す作業であろう。時代小説で、今日的状況をすべて掬い上げることは無理だが、そういう小説本来のはたらきという点では、現代小説を書く場合と少しも変わるところがない、と私は考えている。
 ただ時代小説には、表現上の一種の約束がある。現代小説とは一線を画す独自のスタイルがある。私は、時代小説を普通思われているように型にはまった狭いものとは考えたことがなく、さきに述べたような理由から、テーマを現代にとったり、手法の上でも現代小説に近い試みをやってみたりする。しかし、そこを譲ってしまうと、時代小説が成り立たなくなるという一線があって、表現の上のその約束は、やはり大事にしたいと思う。
 はじめての方に、時代小説には閉鎖的な一面があるかも知れないと書いたのはそういうことを指すわけで、時代小説に限界があるとすれば、それは中味ではなく、形式の中にひそんでいるはずである。
 しかし、それほど窮屈に考える必要はないので、時代小説であるためにまもるべき一線といっても、それを壁のようにかたいものと考えることはない。のびちぢみもし、押せばへこむ柔軟な線である。そしてその中でどんな試みをしようと自由である。ただ、どんなに新しい衣装を着せようと、時代小説は時代小説で、だから現代小説で書いてもいいということにはならなし、またその必要もないのである。(時代小説の可能性)

 長々と引用した。これはなぜ藤沢さんが書く小説がなぜ現代小説でなく時代小説なのかを説明した文章である。これを読んでいると、小説が人間の根底にあるものを書くものであれば、時代小説であれ、現代小説であれ、それは単に“器”の問題であるというわけだ。たまたま藤沢さんは時代小説という“器”で人間を描いているということである。
 そして時代小説はその時代の有り様、風景に拘束されるけれど、それを窮屈に感じることはないと考えている。守るべき一線さえ守っていれば、そこに様々な手法で物語を構築出来ると言うのだ。
 考えてみると、現代小説があらゆる可能性を実験するのはいいのだが、結局小難しくなってしまい、何を著者が言いたいのか、なかなかつかみにくい部分がある。
 まあ、それはそれで面白いことは事実であるが、そんなに面倒なことをしなくても時代小説という“器”を利用することによって、そこに人の有り様、ここで言う「人情」を落とし込むことによって、むしろわかりやすく人に訴えかけてくる。そこが時代小説の魅力といっていいのではないか。
 もちろん歴史的背景をきちんと把握した上での舞台設定は大変だろうが、我々が知っている舞台背景がそこにあることは安心できる。むしろ現代小説では無茶苦茶な舞台設定を理解することに一苦労させられる。
 今時代小説が受け入れられるのはそういう点にあるのではないかと考えたりする。まして現代がモラルハザードの状態に陥っているところに、時代小説の中で「人情」が、かつてそこにあったんだということを思い出させてくれるから、それは受け入れやすい。

 私には、流行というものが持つそういう一種の熱狂がこわいものに思える。人を押し流すその力の正体が不明だからである。それがダッコちゃんにも結びつくが、戦争にも結びつく性質を持っているからだろう。
 筋道をつければこういうことで、以上は流行というものについての私の基本的な考え方ということになるが、それでは私はいつもその筋道に照らして、流行を白い眼でみているのかというと、そうでもない。なんというか、ほかにもっと理屈抜きの流行嫌いの気持がある。(流行嫌い)

 これは藤沢さんが流行り物が嫌いな訳を書いたものである。このエッセイには幾度も流行り物が嫌いだと書いているが、まあ、理屈はそうであろうとも、要するに偏屈だと自身も認めている。

 彼らはじつにいい顔をしているのだ。高名なお師匠さんとか、政治家などにありがちな構えがひとつもなく、彼らはありのままの顔をさらしている。彼らは語るべきほどのものを持たない。自慢できるのは、せいぜい可愛いい孫ぐらいのものかも知れない。それなのに、ありのままのその顔がすばらしいのは、彼らの顔の背後に、ずしりと重い人生が重なって見えるからだろう。
 人生を肯定的に受け入れ、それと向き合って時に妥協し、時に真向から対決しながら、その厳しさをしのいで来たから、こういういい顔が出来上がったのである。えらいということはこういうことで、そういう人間こそ、人に尊敬される立場にあるのでないか、私は思ったりする。実際人が生きる上で肝要なのは、そういうことなのである。
 こういう質朴で力強い生き方にくらべると、世にえらいと言われる人のえらさには、夾雑物が多すぎるように見える。(えらい人)

 この文章は藤沢さんが小学校での講演を依頼されたときに思ったことだ。そのとき小学生が藤沢さんの話を聞くのは、藤沢さんが“えらい人”と思われているからではないだろうか、と考える。でも本当に“えらい人”とはどういう人をいうのか、それを書いた文章である。

 私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだんに消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終ることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する。
 だが実際にはそうならず、私がこの世におさらばした後のもやはり若干の物を残るだろう。そのことを私は、ある意味では醜態だと思い、気味悪いことだと思うのである。(書斎のことなど)

 これ、実に私もそう考えている。身内で亡くなった人の持ち物を整理をしていると、本当に人はいろいろな物を残すものだ。当の本人は急に亡くなってしまったから、まさか自分の身のまわりを人に任せるなんて考えてもいなかったろう。もしかしたらそのうちと思っていたかもしれない。そんな身内を見てきているから、元気な内に自分の身のまわりを整理しておくべきと考えてしまう。

 サルスベリは、庭にステッキを突き刺したような恰好でひと冬を越し、生きているのか死んでるのかちっともわからないなどと言っているうちに、五月になると突如として芽を吹き、その芽は枝になり、葉をつけた。((初夏の庭)

 ここのところ日々暖かくなってきているので、木々が芽吹き始めていて、昨日より今日、そして多分明日はもっと、芽吹いた芽が大きくなっていくのを見ることが出来る季節である。ところがサルスベリは相変わらず裸木のままだ。とにかく目覚めるのが遅い。そんなことを知らなかった昔は、枯れちゃったのかな、と私も思ったことがある。

 今回藤沢周平さんのエッセイを2冊続けて読んでみたのだが、実はもう1冊藤沢さんの自伝を図書館で借りてきていた。だが途中で投げだしてしまった。というのも今回読んだ2冊から書き出したところを見てもわかるように、藤沢さんはものすごく丁寧な人である。書いている文章に、その内容に妥協がない。それは小説家として文章を書く人だから当たり前のことかもしれないが、それが馬鹿丁寧と言っていいほど、細かい。特に自伝を読んでいて、関わった恩師や友人のフルネームを書かれても、そこまで詳細に書く必要があるのかな、と思った。そのうちそれが鬱陶しくなって投げだしてしまった。
 また書かれた文章の表現方法でも丁寧だ。例えば「人々」と続ける場合、藤沢さんは「人人」と書く。これ、慣れないとこれ結構戸惑う。


藤沢 周平 著 『周平独言』(新装改版)中央公論新社(2006/10発売)


by office_kmoto | 2019-03-24 07:43 | 本を思う | Comments(0)

藤沢 周平 著 『帰省―未刊行エッセイ集』

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 私は政治というものに、時にかなり懐疑的な感想を抱くことがある。国を治め、天下を平穏に保つのが、政治の目的だろうと思うが、古来政治によって世の中が平和で、万民が幸福だったなどという時代がどれほどあったろうかと考えるのだ。
 飢餓があり、戦争があった。人類の歴史というのは、政治的には失敗の連続ではなかったが。政治というのは、声が高いわりには非力で、人間を本当に幸福にしたことなどなかったのではないか、といった感想である。(雪のある風景)

 と書くが、とはいえより良い政府、より良い政治を期待する気持は人一倍あると言う。

 そういう期待の支えになるのは、歴史の進歩ということである。複雑怪奇な軌道を残しながらも、人間集団は少しずつ進歩してきた。(雪のある風景)

 いわゆる明治の人の気骨というものを、私は封建期の比較的よき遺産に数えられるべき堅固な道徳観と、明治時代という新しい文明を切りひらいた世代の自信の産物ではないかと思っているのだが、そういう一本の太い筋が通っている明治の人の談論風発の前には、懐疑的でやわらかいところを持つ大正人や、わりあい単純でしかも一度手痛いモラルの喪失を味わった昭和世代の弁論はどうも分がないように思われるのである。(明治の人)

 多分こうした明治の人の気骨が魅力となっていて、司馬遼太郎さんはいくつもの人物伝を書いたのだろう。

 寒い間は、梅林のつぼみが少しずつふくらんで行くのを眺めて通るのがたのしみだった。梅には一時的な寒さあたたかさを意に介さず、季節にむかって咲くという強さがあるように思われる。少少の寒さにはへこたれずにつぼみふくらませて行く姿には、どこかひとをはげますところがあった。そして一輪、また一輪と花をふやして行くあたりに梅のいちばんいいところがあらわれ、花が咲きそろってしまうとつまらない気がするのはどうしてだろうか。梅とはそのあたりの感じがいささか異なるようである。さくらは満開がいい。(梅林と鉄塔)

 今我が家にも梅が咲いている。満開だ。その可憐な花が魅力的だと思って手に入れた.
でも最近、咲き誇っている花を見て、「それほどでもないな」と思っていたので、藤沢さんも同じように思っていたのを読んで、やっぱりそんなものなのかな、と思った。

 私は若いとき、結核で骨を五本も切った人間である。病気が癒ったときも、このハンディのために、どのくらい生きられるものか、生きられるだけ儲けものという意識があった。(四十の坂

 藤沢さんも吉村昭さん同様結核の治療で肋骨を切った人だったんだと知った。ただ吉村さんはその手術が局部麻酔のため、想像を絶する痛みに耐えたと何度もエッセイに書いていたが、藤沢さんにはその自伝を読んでもさらりと流している。もしかしたら手術の方法が違うのかもしれない。

 手術は三回、右肺の上葉切除につづいて、手術した側の肋骨を五本切り取る捕捉成形手術が2回である。うまくいけば最初の一回で余裕があったが、三度目の手術を告げられたときは私は疲労の極みに達していて、どうなることかと思った。
 しかし私はどうにか生きのびた。(「死と再生」 『半生の記』文藝春秋 1994/09発売に収録)

藤沢 周平 著 『帰省―未刊行エッセイ集』 文藝春秋(2008/07発売)


by office_kmoto | 2019-03-21 05:21 | 本を思う | Comments(0)

リチャード・ブラント著 / 井口 耕二 訳 『ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛』

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 インターネット通販でAmazonを使ったことがない人は今やほとんどいないんじゃないかと思われる。この本はそのAmazonの創業者ジェフ・ベゾスの生い立ち、Amazonを立ち上げるまでの経緯、そしてAmazonを立ち上げてからのその後を書いている。ただし、この本が書かれたのは2012年なので、Kindleが発売された頃までの記述で終わり、その後の著しい変化は、もしかしたらここに書かれる以上にドラマチックかもしれない。ただ私はどのようしてAmazonが生まれたかを創業者ジェフ・ベゾスと知りたいのでそのことを中心に書き出してみる。

 ジェフ・ベゾスの実父がどういう人物であったかは、ほとんどわかっていない(ベゾス自身も知らない)。ジェフ・ベゾスは1964年1月12日、ジェフリー・プレストン・ヨルゲンセンとしてニューメキシコ州アルバカーキで生まれた。母親のジャクリン(ジャッキー)・ガイス・ヨルゲンセンは当時17歳、ちょっとあごの張った魅力的なブルネットで、地元の銀行で働いていた。この結婚は長続きせず、ジェフが1歳半とまだ赤ん坊のころに離婚。以降、実父の姿はジェフ・ベゾスの人生から消える。

 その後母親はキューバ移民のミゲル・(マイク)・ベゾスと再婚する。マイク・ベゾスは1962年、15歳の時、カトリック福祉局が実施したピーターパン作戦でマイアミに入り、アメリカ入国後、デラウェア州にあるカトリック系の施設に入る。英語もすぐマスターし、高校を卒業後ニューメキシコ州のアルバカーキ大学工学部に入学し、地元の銀行でアルバイトをしている時、ジェフを妊娠中のジャッキーと出会う。ジェフが4歳の頃にジャッキーと結婚し、ジェフを養子として引き取り父親となる。
 ジェフが幼稚園の時ヒューストンに引っ越し、そこの小学校で初めてコンピュータに触れた。
 その後プリストン大学でコンピューターサイエンスを専攻する。ジェフはコンピューターに強く心を惹かれ、プログラミングの大好きなオタクであった。

 「コンピューターは昔から得意でした。必ず上手に使ってきましたし、コンピューターはすごいツールだと思います。コンピューターにはいろいろなことを教えられるし、教えればきちんと処理してくれます。20世紀に人類が生み出したすばらしいツールなのです」

 大学卒業後ジェフは最初アントレプレナー(起業家)になるつもりでいたようだが、それにはまず経験が必要と考え、金融決済システムを手がけるスタートアップ企業ファイテルで、貿易情報のネットワーク構築に従事し、以後ジェフはここを皮切りに金融系企業を渡り歩く。しかしジェフはアントレプレナーの夢があり、1994年ウォールストリートの会社を辞める。インターネットの魅力、その可能性にかけた。
 ここで面白いのはジェフは何かの岐路に立つとき、フローチャートを作成するのである。コンピューターオタクらしい。この時「後悔最小化理論」を思いつく。

 年を取って人生を振り返ったとき、どちらの道を選んだほうが後悔しないのかと考えるのだ。

 インターネットを使って商売するにあたり、何を売るかをまたディールフローチャートを作成し、本を売ることを思いつく。そのチャートでどうして本を売ることになったのか。

 1.よく知られた製品であること

 インターネットで注文するとき、その製品がどういうものか疑わしいものがある。本はそういう心配はない。

 2.市場が大きい

 ベゾスは「製品の豊富さという面で本は圧倒的なトップ」と言う。

 3.競争が激しい

 書店にはバーンズ&ノーブルとボーダーズ・グループという大手チェーンがあり、両方を合わせるとシェアは25%である。あとは無数の独立系書店でそのシェアが21%残りは書店以外のスーパーや雑貨店、会員割引で本が買えるブッククラブ、カタログ通信販売であった。そこには最も優れたシステムを持っていれば、書籍オンライン販売に参入できる余地があった。

 4.仕入が容易

 本は卸してくれるところがあった。

 5.販売書籍のデータベース作成

 ISBN番号で検索する書籍のデータベースが簡単に作れる。

 6.ディスカウントのチャンス

 オンラインショップなら自前で在庫を用意せず取次に直接発注が可能なので、価格面で優位に立てる。

 7.オンラインの可能性

 ソフトウェアを使えばカテゴリー別で書籍の分類・検索・整理ができ、パワーのあるコンピューターさえあれば何百万タイトルの本がデータベースに用意できる。

 以上から電子商取引には書籍販売がダントツで最適だという結果にたどり着く。あとはその準備に入るだけであった。会社設立の第一歩は、優秀な人材を見つけ、シアトル郊外にガレージのある家を借り、スターアップを立ち上げる。
 このガレージで起業するというのは、マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルのスチーブ・ジョブスと同じなのが面白い。きっとアメリカでの起業はガレージで始まった会社が多くあるのだろう。
 さて、

 ともかく、会社はカダブラ(魔法の呪文、「アブラカダブラ」をもじった名前)という名で1994年7月に登記された。ベゾス夫婦がシアトルに到着したころのことだった。その7カ月後、ベゾスは社名をアマゾン(Amazon)に変更。Aから始まるのでアルファベット順で最初のほうに並ぶし、アマゾンは世界最大の川で会社の目標を体現する名前でもあったからだ。だれでもスペルがわかるのも大きなポイントだった。
 「オンラインの場合、スペルがわからなければ目的の場所に行けません。これはとても大事な点なのですが、世界ではあまり気にされていません」
 ただし、表記は必ず「アマゾン・ドット・コム」とし、新しいタイプの事業だとわかるようにした。いわゆる「ドット・コム」企業で初めて成功したのがアマゾンである――その後バブルがはじけ、ドット・コムがマイナスのイメージを持つようになってしまったが。

 書籍販売の入門コース、数点分のオンライン買い物体験、コンピューターが1台、エンジニアがふたり、妻、そしてガレージ――これだけを手に、ベゾスはオンライン書店の構築に乗り出す。

 最初はどの企業にもある苦労や苦難、あるいは中傷などがあったが、年々売り上げは上昇していく。しかしベゾスはその上がってきた利益をどんどん設備投資に使って行き赤字体質がしばらく続くことになる。

 シャンプーシェア最初につかんだ者が有利なポールポジションを獲得し、それを抜くのは難しい。だから、「早く大きくなる」が新たな最重要課題となった。

 市場からもアマゾンのこの頃の経営体質を危惧する者もあったが、その後利益追求体質に変更していくことで、ベゾスがかつて金融系企業で働いていたころのノウハウや学んだ考えが生きてくる。以後Amazonは大成長をしていくこととなる。

 ベゾスの仕事はこの現象で大もうけする方法を見つけることで、この点については彼は天才的だった。

 ところで、この本を読んで知った事は他にもあるのでそれを書き出す。

 2010年最終四半期においてアマゾンの収益は35%がマーケットプレイスによるものだった。

 新しいロゴはamazonという社名をシンプルに示す形になった。ただし下側には、aからzへ矢印が引かれている。新しいロゴには、AからZまでどのような名前の製品もアマゾンを利用して買えるという意味が込められている。

 最後にベゾスがインターネットについて語った言葉はうなずける。

 「インターネットでは、皆、自分の意見を発表することができます。しかし、ブログや電子メールの場合、人は無礼になりがちです。礼儀という遺伝子をオフにする力が電子メールにはあるようで……遠慮のないもの言いでサービス改善のフィードバックを返ってきたりします。レストランで料理がまずかったら黙って立ち去るだけです。店の奥に入ってシェフのえり首をつかみ、『料理なんてやめちまえ』と言ったりしません」

 確かにネットは礼儀の遺伝子をオフする。その匿名性が担保されていることをいいことに、言いたい放題、やりたい放題の傾向を生み出す。それはインターネットの最大の問題点であろうが、匿名性の担保は一方で最大の魅力でもあるから、このあたりはインターネットを使う人間の良識がすべての鍵となる。もっともこの良識という曖昧なものほど当てにならないのも事実ではあるが。

リチャード・ブラント著 / 井口 耕二 訳 『ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛』 日経BP社(2012/10発売)


by office_kmoto | 2019-03-17 06:28 | 本を思う | Comments(0)

安藤 祐介 著 『本のエンドロール』

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 本のエンドロールって、何だろうと思っていたら、奥付のことを言っている。なるほど言われてみれば、そうだ。そこには著者、出版社、そして印刷会社、製本会社などがそこに記される。そしてこの物語はこの奥付に記される印刷会社の物語である。そこにはその本に関わった人々の個々の名前はないが、その名の無い人たちが本の企画、印刷に格闘する姿を描く。
 ご存じの通り、出版業界は右肩下がりの状況のなか、印刷業界も当然業績が落ちている。本が読まれていないという現状を、たとえば電車の中で座席に座っている人のほとんどがスマホをいじっていて、本を読んでいる人がほとんどいない、というのを見てもわかる。
 当然物語もこういった出版不況を反映していて、印刷受注の減少のため印刷機械を止めざるを得なくなるのを辛うじてなんとか防いでいるという始末が描かれる。営業がとにかく受注を拾ってくる中、ひたすら理想や夢を語る人間がいる。「印刷会社はメーカーです」と言いきる浦本はとにかく本作りにかける夢を追う。そのため印刷に限らず、本来編集者がすべき企画の段階まで入り込んでいく。一方著者や編集者からの無理難題を受け入れざるを得ず、会社の上司や仲間から非難される。そんな浦本が目標としている先輩である仲井戸にとって浦本は鬱陶しい。

 「理想を語るからです」

 「彼に限らず、理想を語るような人間は信用できません。独りよがりで、自分らしさみたいなものを貫くためには他人の犠牲もいとわない連中ですから」

 「理想を語るような人間の多くは、無責任ばかりです」
 「理想や理念を訴えてはいるが、具体性が無い」

 この本は読んでみると、表に出て来ない本作りの印刷業界の実態を描いてるように見えて、実は、人は何を仕事とするか、何のために働くのかを、登場人物に合わせて語っている。浦本のように仕事の中に夢や理想を追いかけるタイプと、仲井戸や工場の実務を担当する野末のように単に生きるためと割り切って仕事するタイプ。あるいは特色製作職人の吉崎のようなタイプ。いずれにせよ、それぞれの生き方やスタンスがお互い葛藤する。
 ただ個人的に言わせてもらえば、浦本のような理想や夢を追いかける人間には鬱陶しい。私はサラリーマン時代、こうした地に足が付かず、夢や理想を語る経営者に振り回され、苦い汁を飲まされてきたので、浦本のようなタイプは腹が立つ。仲井戸が言う通り、人のことを無視した語り草が気に入らない。
 また毎度のことなのだが、本に関わる人間が本に対する思い入れの強さにうんざりする。ここでもそれがある。

 「印刷会社は本の助産婦みたいな仕事だと思っています。物語は本という身体を得て世に生まれてきます。生まれてくる時のお手伝いをする私たちは、本の助産婦じゃないかと。だから、数え切れないほど多くの出産に立ち会える」

 「物語はソフトで、本はハード。魂と肉体のようなものです。私たちの仕事は、物語という魂に、本という肉体を授ける仕事でもあるのではないかと思い至りました」

 これはDTPオペレーターの福本が言った言葉である。
 確かに本はその内容によって、人の気持ちを動かすものがある。だけどそれは読んだ側の人間の気持ちであり、感想だ。実際本を扱う側の人間は単にそれを提供するだけのことだろう。そこに先回りするかのように、過剰な思い入れをしてしまうのは迷惑千万である。本には力があるとか、平気で物を言う関係者の白々しさが鼻持ちならない。もっと冷静になれないものかといつも思う。こういう人間のそばには近寄りたくないな、と思う。特に書店員の過剰な思い入れが嫌だ。そこに現れる多くのPOPは鬱陶しいし、気味が悪い。ちょっと静かにしろよ、と言いたくなる。
 私は本屋で店の責任者を任されたとき、いつも思ったのは本屋だって商売であり、本は商品以外の何物でもないということであった。
 だからこの物語の理想論を語る浦本みたいな人間に、いつの間にか周りの人間たちが感化され、現実的な人間たちが本を作るということに夢をかけて追いかけることに同調してしまう最後が気に入らなかった。

安藤 祐介 著 『本のエンドロール』 講談社(2018/03発売)


by office_kmoto | 2019-03-14 05:57 | 本を思う | Comments(0)

3月10日 土曜日

 晴れ。

 今日やっとうちのウメが咲く。今年は去年と比べいっぱい咲いている。


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 昨日は東京で春一番が吹いたという。天気予報でそれを聞いて、遅いなと感じた。自分の中で春一番って、2月の中旬から下旬あたりにあるイメージがあったからだ。でも3月でも問題ないようだ。その違和感は、今、もうだいぶ暖かくなってきているから、いまさらというところから生まれているのかも知れない。
 当然今は花粉がピークで、くしゃみ、鼻水、目のかゆみに悩まされている。こんな時に孫と一緒に外でバトミントンをしたり、自転車で公園巡りをしたりするものだから、余計に症状がひどくなる。まあ仕方がない。
 何度もテッシュで鼻をかみながら、くしゃみも何度もして、本を読むが一向に進まない。そっちの方が気になってしまう。
 こんな時に本を6冊も借りてきてしまい、果たしてこれら2週間で読めるのかしら?と自分でも呆れている。しかも一冊は600ページほどある本である。孫が面白がって、借りてきた本の総ページを計算する。それが2,365ページもあり、「馬鹿じゃないの」と呆れられる。だよな、と自分でも思う。
 しかし面白そうな本ばかりである。気になって仕方がない。今読んでいる本を読んでから読もうと思っていたが、その本が面白くない。日本における洋食の発祥について書いた本だが、いつ、誰が牛肉を食べたかとか、コロッケは誰が作ったとか、とんかつがどこの店が最初にメニューとして出したかとか、カレーは……、とか考えてみればどうでもいいことで、そう思うと気が乗らず、投げだしてしまい、借りてきた本の1冊を手に取り読み出してしまう。こっちの方が面白い。孫も本を借りてきているので、一緒に本を読む。
 結局読んでいた本は借りてきた本を読んでから、また読み直すことにする。

by office_kmoto | 2019-03-11 06:32 | 日々を思う | Comments(0)

彩瀬 まる 著 『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出』

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 これは著者が気ままな一人旅をしていたとき、常磐線の電車の中で東日本大震災に被災したときの話から始まる。
 第一章はその時経験したことが書かれている。第二章は震災後被災地を訪ね、ボランティア活動に参加したことが書かれ、第三章は3月11日に避難した時に世話になった人を訪ね、再会したときの話である。なんといっても第一章と二章であろう。まずは3月11日に地震にあったときの状況だ。
 沿線沿いが燃えているという車内放送があり、電車は何度が動いては止まっている。苦笑交じりで隣の女性と顔を合わせた瞬間、車内の乗客の携帯が一斉に鋭いビーブ音を立てる。緊急地震速報である。

 揺れる。すこしずつ、円を描くように揺れはじめる。
 はじめの数秒は、なんとも思わなかった。それなのに次の瞬間、がくん、とまるで後頭部を殴られたような衝撃が全身を貫いた。地面の底から、低いうなり声にも似た重低音が湧き上がってくる。弾む床に足のうらが突き上げられ、横転するかと思うほど激しく車体が傾ぐ。まずい、と腹の底がつめたくなった。大きい。しかも、いつまでたってもおさまらない。それは、私が今まで体験したどんな地震とも違っていた。比べようもなく鋭くて、重さに限りがなかった。振動というより、上下左右からの暴力的な攪拌に近い。

 車内にいる乗客はそれぞれ携帯をいじり、情報収集に努めていて、周囲の会話からつなみという単語が耳に入る。そこは海から500メートルもない場所であった。
 このまま待っても状況は好転しないと思い、電車を降りて、駅舎のあるホームへよじ登った。一緒にいた女性はリカコと名乗った。
 町役場から『津波警報が発令されています。沿岸部にいる方はすみやかに非難してください』という放送が流れた。
 「リカコさんまずい、津波が来ている!」
 役場の職員だろうか、スピーカーで、
 「津波が来ます、高台に避難してください!」
 「津波が来ます、津波が来ます!」
 と叫びながら走って行く車とすれ違う。
 死に物狂いで坂の上にある中学校にたどり着く。リカコさんと一緒に最上階の三階へ向かう。

 この世のものとは思えない光景に、息を呑んだ。
 たった今歩いてきた道が、家が、商店街が、目に入るすべての町並みが濁った水に飲み込まれていた。水の深さは、建物の二階部分にまで達している。

 夜、校庭に出てみると、

 星が恐ろしいほどよく見えた。オリオン座が、図形の内側に含んだ等級の低い星まで見事にくっきりと光っていた。
 繊細な星空に目を奪われた後、なにげなく海の方向を見て、鳥肌がたった。
 なにもない。そこが水なのか地面なのかすら分からない、平坦な闇がどこまでも彼方まで広がっていた。同じ闇でも、例えば夜の海を見たときの感覚とはまったく違う。だって、そこには、住宅地があったのだ。電車が通り、たくさんの車が走って、商店がつらなっていた。そこに広がっていたのは、血の通った人間の町を根こそぎ引き千切った後に残る、目が潰されるような暗闇だった。数秒間、なにも聞こえなかった。なにも感じられなかった。寒くて寒くてたまらなかった。

 11日は著者は避難した学校の教室でショウコさんという人に助けられて、その家へ避難することになる。リカコさんはいったん家に帰ってここに迎えに来るからといって出ていったが戻って来ない。どうすべきか迷ったが、ショウコさんの家で避難することにする。
 翌日12日、ショウコさんの家にいると、

 午後四時前、不思議な防災放送が入った。柔らかい薄曇りの空へ、スピーカーで拡大された女性の声が響く。
 『福島第一原子力発電所で爆発事故が起こりました。住民の皆様は屋内に避難し、窓を閉めて、外出をお控えください』
 大変なことになった、と手分けして窓を閉めて回った。放射能、被曝、白血病など、恐ろしい単語が次々と頭をかすめ、青ざめながらテレビのニュースにかじりつく。

 夜には避難範囲が半径十キロ圏から二十キロ圏に拡大された。ショウコさんの家はまだ五キロほど距離があった。ガソリンの余裕もなかったので、とりあえず避難を見送ることとなった。ただ、

 五キロ。風で拡散する物質に、果たして五キロの距離がどれだけ意味を持つのだろう。

 翌日13日、ショウコさん一家はやはり避難所に避難することになり、著者も一緒に避難する。そして一夜をここで過ごす。次の日、14日、

 またアナウンスが流れた。先ほどよりも、切迫した声だ。
 『繰り返します。福島第一原子力発電所の3号機で爆発事故が発生しました。みなさま建物内に避難して下さい。また、一度建物内に入った方は、ぜったいに外に出ないでください。ここからどこか他の場所へ移動する方、もしくは外から屋内へ避難する方以外、けっして扉を開けないでください。出たら出たまま、入ったら入ったままです。この避難所にはたくさんの方が避難しております。全員の安全を確保するため、以上のことを必ず守ってください』

 パニックはなかった。代わりに、神経を剃刀で削られるような憔悴と恐怖が蔓延していた。だって、こちらに向かってくる煙に一体なにが含まれているのか、誰も分からないのだ。

 なにより、とショウコさんは力強く言葉を足した。
 「私たち、あの津波を生き残ったんだから、ぜったいに運が良いわよ。だいじょうぶ、死なないわ」

 15日、ショウコさんは移動を決意する。福島市の親戚のところへ避難することにしたのだ。それならば著者は市内で車を降ろしてもらい、自宅へ帰ることにする。しかしその日は新幹線に乗れず、駅の待合室で一夜を過ごし、翌朝始発に乗って東京へ発った。
 その後自宅に戻ってからは、被災地とは違う不安に翻弄される人々の姿を見ることになった。

 不安に駆られて買い占める、西日本へ避難する、避難してきた方のもとへ支援物資を持ち寄る。すべて、同じ場所で起こったことだった。関東に帰って目にしたのは、被災地とは全く異なるかたちで不安に翻弄される人々の姿だった。

 第二章では、偶然被災したとはいえ、現地でお世話になった人びとがそこにいる。だから見過ごすわけにはいかない。復興のためのボランティア活動へ参加する。ただまた地震が起こるのではないか、という不安に駆られる。

 人生において、「数分前には想像も出来なかった極めてむごいこと」は、本当に起こる。起こってしまうのだと、もう日本中の誰もが知っている。そのむごいことに殺されるか、逃げ切れるか、それは本当に紙一重でしかない。もしまた同じことが起こっても、逃げ切れるだろうか。大丈夫だろうか。
 息を詰めてそこまで考えて、ようやく私は、こんな不安をとうの昔に腹へ押し込んで、現地の人たちはそこに住んでいるのだと思い至った。

 住民たちが放射能の危険があるにも関わらずなぜ避難しないか、その理由を福島に住む友人のミツコさんから聞かされる。

 「私も大学時代に、ここを離れてようやく実感したものですが、都会にはない田舎の考え方というものがあります。例えばこの辺だと、産まれた家でそのまま成人し、家業を継いで、家族を作り、一生同じ場所に住み続ける人はそう珍しくありません。うちの父もそうです。それはずっと同じ風景を目に映し、ずっと同じご近所さんたちと一緒に何十年も生きてきた、ということです。そういう人たちにとって、まったく知らない土地に移動することは、転勤に慣れていない都会の人には想像しにくいほど大きなストレスになります。ある程度年齢を重ねた世代ならなおさら、『他の土地に行くより、放射能の影響を受けたとしてもここに居たい』と願う人は多いです。もちろん他にも、金銭的だったり仕事面だったり、家庭の事情など、様々な理由があると思います」

 実際ボランティア活動をした時の体験談が書かれる。

 車を降りたときから、私は防塵マスクをつけていた。うすぼんやりと、怖かったのだ。いくら線量が低くても、やろうと自分で決めたことでも、怖かった。二十七キロという数字がただ怖い。根拠のない、だからこそ解消されない不安だ。

 どれだけ心を徹しても、捨てきれないものはあった。そういうものは、それとなくどのメンバーも避ける。後回しにして、それ以外のものを先に片付けていくうちに、自然と溜まって残っていく。

 津波に浸かった家の中の物を全部片づけてくれと言われても、神棚とか仏壇とかガラスケースに入った人形とか、あるいは旅の思い出品など、簡単に片づけられないものがある。そこにある家の記憶が躊躇させる。それが以前この家に入ったボランティアも著者と同じ思いだったのだろう。それらが捨てられず、後回しにされていて、次に来た著者たちボランティアも同じ思いになって、残してしまう。手がつけられないのだ。

 少しずつ床の見えるスペースが増えてきた室内を眺めながら、家というのは記憶の蓄積なのだ、と痛いくらい思った。家族の記憶、自分がいたわられた記憶、人生を肯定する記憶。それを根こそぎ失うことは、どれだけの肌寒さだろう。

 家の人からお礼にと言ってタマネギをもらう。

 「今日はお疲れさま。ありがとうな。お礼にいくらでも持っていってくれ。心配しなくても、出荷制限がかかっていないから安全だよ」

 原発三十キロ圏内のタマネギをくれる依頼主には善意しかなかった。けれどそれを貰う人、貰わない人、半々だった。

 ボランティアセンターへ戻り、解散した後も、私は手にしたタマネギのことで頭がいっぱいだった。正直なところ、原発三十キロ圏内で作業したこと、さらに線量の高いと言われる側溝の掃除を行ったことで、心がすでにすくんでいた。食べるか、食べないか、どうしよう。おそらくこのタマネギ食べたぐらいで私の人生に変化が起こることはない。それでも少し胸が濁る。

 (略)

 出荷制限がかかっていなくても、二十七キロという距離では、ひょっとして見落とされている良くない要素があるのではないかと、根拠のない妄想がふくらんでしまう。善意で野菜をくれた男性の「安全だよ」を信じきることが出来ない。つまり私は「出来る限り福島県の農家の方を支援したい」などと言ってきたにも拘わらず、「原発から五十キロ離れた農家の野菜は食べても、二十七キロの農家の野菜は食べたくない」と根拠のない差別を行っているのだ。

 結局そのタマネギはミツコさんに引き取ってもらうのであった。けれどそれを笑うことは出来ない。私たちだって、震災からしばらく経って、安全基準を満たした福島県産の野菜を敬遠していたし、いまだに、同じ野菜なら福島県産以外の野菜を手にしてしまうところがあるのではないだろうか。
 この本はたまたま偶然気ままな一人旅をしていた著者であったが、実際に被災地で津波と原発事故を体験した。しかも著者は旅人だ。その著者が地元の人に助けられながら避難して行った。同じように被災しているにも拘わらず、しかも一介の旅人である著者を助けてくれたことに感謝する。だから放射能の危険があってもボランティア活動へ出かけて行った。いずれも経験者でなければ語れない貴重な物語である。しかもそこでは人間として素直な不安を隠さず伝えている。それが我々の隠せない気持ちと同じであるだけに、考えさせられる。そしてどこか恥ずかしい気分にもなってしまう。

 もうすぐ東日本大震災から8年を迎えることになる。

彩瀬 まる 著 『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出』 新潮社(2012/02発売)


by office_kmoto | 2019-03-09 06:26 | 本を思う | Comments(0)

春に3日の晴れなし

 ここのところ晴れが続かない。雨の日が多い。一昨日は晴れたのに、昨日は曇り空で、今日は朝から雨が降っている。
 しかし間違いなく暖かくなってきており、千重オオムラサキは落葉していた枝に小さな葉をのぞかせている。さつきは蕾が少しずつ大きくなってきている。そしてウメのつぼみが大きく膨らませ、もうすぐ咲くだろう。


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 昨年秋に植えたチューリップは葉を膨らませた形で伸びてきている。ユリも生長はおそいけれど、しっかり葉を出しているし、水仙も芽を出してきている(うちの水仙は遅咲きなのだろうか)。そういえば昨日は啓蟄だった。少なくとも庭の草木を見ていると、春はもうそこまで来ているようだ。もうすぐまた趣味の園芸が出来る。

 今年はシンビジュームが豪華に花を咲かせた。いくつもの花芽が出ていたのを喜んでいたけれど、実際花を咲かせると、これを買ってきたときのように、いやそれ以上に豪華に花を咲かせている。しかも株分けしたもう一つの鉢もしっかり花を咲かせ、かなり満足している。そして驚いたことに親の鉢にはもう一つ花芽を延ばしているのを見つけた。思わず、「元気じゃないか、おい!」と声を掛けたくなってくる。
 親の鉢は一階の出窓に、子の方は二階の出窓に置いてあるが、そこで写真を撮ったら逆光でうまく写真がとれず、仕方がないのでわざわざ外に出して撮ったのがこれである。


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 しばらくは花を楽しめるはずだが、また来年も豪華に咲かせるように、昨年やって来たような管理をしようと今から考えている。

 我が家の草木は年に一回しか花を咲かないものばかりで、そこまでの時間の方が圧倒的に長いから、こうして花を咲かせてくれると、おもわずやったね、という気分でうれしくなる。その長い管理の月日を忘れさせてくれる。

by office_kmoto | 2019-03-07 07:45 | 日々を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『わが町』

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 この本は山口さんが暮らしていた国立をモデルにしたものであろう。その町のラビット交通の運転手仲間を中心に草野球、釣りなど、交友を描いた連作短編である。どこか話はポンポン飛んでしまうところがありつかみ所がないところがあるが、それでも「おや」と思わせる文章がある。

 ヒメジョオンは帰化植物である。外国から積荷が船で運ばれてくる。その荷物に植物の種子が付着している。荷物は、さらに鉄道によって全国に移動する。そこで、鉄道の沿線に、これらの草が生え、花が咲く。その土地で野生化したものを帰化植物という。
 繁殖力がきわめて強い。
 田舎には帰化植物がすくない。ひとつには交通量がすくなくて、土地に変化がないからである。
 川原に昔から生えていて、大水で全滅したとする。そのあとに、ヒメジョオンがいっぱいにはびこってしまう。
 関東大震災や戦災の焼け跡は、たちまち帰化植物に占領された。また、郊外の工場が倒産などでほうっておかれると、いつのまにか帰化植物がしのびこんできて、凄い勢いで繁殖する。
 ヒメジョオンの花は決して美しくないことはない。その白色には一種の風情がある。しかし、河居のような知識がなかったとしても、誰でもが不吉と荒廃を感ずるだろうと思う。
 「ああ、あれだね」と、わたしは言った。「東京駅のそばに、ずっと復興しないビルがあった。あの庭に咲いていたのもヒメジョオンだったんだね」
 「そう。その通り」
 「いやな感じだね」
 「不思議だよね。植物ってやつは。荒れはてたところをすぐに嗅ぎつける能力のある種類があるんだ」(密会)

 私はヒメジョオンの花が風情があるとは感じられない。どちらかと言えば、ずっとそのままにされている空き地に咲いている感じがいつもある。子供頃にあった多くの空き地には必ずヒメジョオンの花が咲いていた。そのことが「不吉と荒廃」を感じさせる植物に思える。

 いま、わたしは、こんなふうに解釈する。家に両親がいるということが、子供たちを、元気づけ、安心させる。安心して外へ出てゆく。日曜日は、そういう意味で、特別な日だった。かりに、疲れた父親は昼寝をしているにしても――(日曜日の子供たち)

 これ、母親が仕事から帰ってくると、孫が喜んで飛びつくのを見て思うことである。明日が休日だと、とくにその日の夜の喜びようはひとしおのようで、うれしさを全身で表す。やはり親がそばにいるというのは子供のとって一番の安心なんだ、と思う。私はそんなうれしそうな孫を見ると、よかったな、と孫に声を掛けたくなるのである。

 「そういう男がいるらしいね。なにもかも早く済ませて早く死んじまうような」(梨畑)

 ここでは戦争後遺症みたいな友人の死を悼んでいるのだが、今でも自分の人生に早めにけりを付けてしまった人を知っている。「もうこれでいいや」と言う言葉を聞いたことがあって、その時似たようなことを思ったことがある。

 甚さんのおかみさんが「仮末代」ということを言った。もともと、甚さんたちは、この町に住みつこうと思ってやってきたのではない。居酒屋を続けようと思っていたのではない。仮に住んでみたのである。それが末代までのことになってしまった。それがよかったかわるかったかということを言っているのではない。そうなってしまったと言うのである。(わが町)

 私は山口さんのエッセイ、小説の中で、この「仮末代」という言葉が一番好きな言葉である。そして人生っておおかた「仮末代」なんじゃないか、と思うことが多い。

山口 瞳 著 『わが町』 新潮社(1968/12発売)


by office_kmoto | 2019-03-02 06:20 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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