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4月29日 月曜日

 曇り。

 この十連休、一昨年買った5年連用日記の休日でない部分を修正しておく。明日は「退位の日」そして5月1日は「即位の日」、5月2日が「国民の休日」と赤ペンで書き直す。日記は元号記述ではなく、西暦なので元号は「令和」に直す必要はない。

d0331556_20524160.jpg 小路幸也さんの東京バンドワゴンの第14弾『アンド・アイ・ラブ・ハー』(集英社 2019/04発売)を読み終える。思えばこのシリーズの第1巻を買った店は今でも覚えている。上野駅の中にある明正堂だ。あの時は1巻だけでなく2巻も、もしかしたら3巻も一緒に買ったかもしれない。とにかく以来毎年付き合って来ている。
 このシリーズは登場人物相関図が必要なほど、登場人物が多い。堀田家の家族だけでも大人数なのに、そこへ近所に住む人たち、家族の親戚、友人と人間関係がどんどん広がっていくので、「あれ?この人誰だったけ?」と毎回悩んでしまう。しかもこのシリーズ1年に1冊と決まっている。新たな巻を読むときは、今はやっと家族の名前と関係は覚えて来たけれど、それ以外となると忘れていているので苦労する。
 物語はここのところパターン化している。東京バンドワゴンの近所に不審者と覚しき人物が登場し、その人物が堀田家家族とどんな関係があるのか、それが明らかにされるところで物語が展開する。もちろんその不審者は怪しいけれど危害を加える人物ではないところがミソ。すべてが明らかになって物語の終わりにサチさんの独白でしめられる。その独白のひとつに、


 でも、さよならをするためには、出会わなければなりません。
 そして、さよならをきちんと告げられるような縁を結んできたからこそ、本当のさようならを言えるのです。
 出会いとさよならはいつも同じ数だけあります。そしてさよならをした後にもきちんと日々を過ごしていたのなら、また別の出会いが、縁がひとつ増えるはずです。



 今回は我南人のバンド仲間、ボンさんが亡くなり、戦災孤児となり堀田家で一緒に暮らしてきた女医の大山かずみさんが眼が悪くなり、堀田家を離れ施設へ移っていく、別れがあった。


 使っていたプラチナの万年筆のインクカートリッジがはまらなくなってしまっていた。最初は何でだろうと思っていたが、もしかしたらカートリッジの先が千切れて残ってしまいそれで新しいカートリッジが入らなくなったのではないか、と思い、先の尖った細いペンチで、それを取り出すことが出来、元に戻った。

よかった。

 以前必要以上に持っている筆記用具を処分したことを書いたと思う。必要以上にあるのは勤めていた薬局で薬のメーカーのノベルティグッズとしてボールペンなどが増えていったことによる。
 もう仕事を辞めてそんなに筆記用具は要らない。それで長いこと使わないためインクが出なくなったボールペンを処分したのだ。(お湯に浸けたりすれば復活するらしいが、面倒なので)
 それでもまだ多くのボールペンが残っていて、また整理しようかと思っている。特に最近は0.5㎜のボールペンは細くて見えづらく、使いにくい。しかもそれが本数が多い。数本を残して処分しようかと思う。

 明日、28日に誕生日を迎えた孫の誕生日パーティをする予定。それで我が家の平成は終わることになる。

by office_kmoto | 2019-04-29 20:58 | 日々を思う | Comments(0)

4月27日 土曜日

 曇り時々雨。

 毎年この時期に『東京バンドワゴン』の新刊が届く。早速梱包を解いて、本のページを拡げると、インクと紙の匂いが漂ってくる。それは新刊ならではもので、製本所からそれほど時間が経っていないもので、しかも店頭にそう長い時間晒されていないものでしか匂ってこないものではないか。ネットで注文したものだから、製本所から来た本を流通倉庫ですぐビニールシートで梱包され、配送されたものだからだろう、真新しい本の匂いがする。
 それは懐かしくもある。昔本屋で働いていた頃に、新刊の梱包を解いたばかりの本から匂うにおいであった。とくにここのところ図書館で借りた無味無臭の本や、自宅にある古い本から匂うカビ臭い本のにおいに慣れていたものだから、ものすごく新鮮に感じた。

 平成もあと三日となる。そして今日から新天皇即位記念とゴールデンウィークが重なって十連休が始まった。あいにく今日は雨で昨日からの肌寒い日が続いてしまっている。

 十連休は娘が一日を除いているので、孫の面倒を見なくても済む。だからじっくり本を読もうと思い、図書館で六冊も借りてきたのだが、果たして予定通り本が読めるだろうか?読みたいと思って借りてきた本なので楽しみにしているが、『東京バンドワゴン』の新刊も読みたい。この連休中には全部は無理かもしれない。

 まあ、いいか。


by office_kmoto | 2019-04-27 20:36 | 日々を思う | Comments(0)

司馬 遼太郎 著 『胡蝶の夢』〈1〉

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 この物語はだいぶ以前に読んでいる。ただ記憶にあるのは松本良順だけで、ここに関寛斎も登場したというのが記憶にない。それで司馬さんが寛斎を物語にどのように書いているか知りたくて、もう一度読んでみることにした。
 第一巻は島倉伊之助(のちの司馬凌海)の目を通して松本良順を描く。ちなみに司馬凌海はポンペの説である7種類の新薬を解説した『七新薬』を訳し、寛斎はその校正をしている。
 第一巻は伊之助が祖父の伊右衛門に連れられて奥詰老医師法眼松本良甫へ奉公させるため佐渡から出るところから始まる。もちろん伊之助を医者にさせるためである。
 しかし伊之助は人付き合いが悪く、本人には悪気はないのだが、人の気持ちを斟酌できないところがあって、孤立していく。ただ佐倉の順天堂を主催する佐藤泰然の次男、後の良順に気に入られ、薬箱持ちとなる。良順は伊之助が変わり者であるけれど可愛くて仕方がない。伊之助がみんなから疎まれても、伊之助の考えていることが理解出来た。いや理解しようとした。そして何よりも「伊之助は物憶えの化け物のようなもので、脳の袋が物を憶えたくて、たえずずきずきしている」ことに気がついていた。とにかく記憶力がいい。

 たしかに伊之助は、頭の造作がどこか狂ってうまれてきたのではないかと思えるほど記憶力がよく、むしろ珍奇とさえいえる。

 良順は伊之助のその能力を重宝した。

 良順は蘭語を学ばなければならない。できれば一日じゅうそれをやっていたいのだが、そういう時間はとてもなく、結局便法をとらざるを得ない。便法とは、伊之助という異能としか言いようのない頭脳を使うことだった。伊之助に蘭書を読ませておき、あとで伊之助を教師としてその蘭書を学ぶという方法だった。これならば、粗末な辞書をひっくりかえして語彙の意味をあれこれ当推量する時間がはぶけるし、文脈の不明なところも。伊之助に調べさせておけばほぼ間違いない。この方法を用いると、良順の時間が省ける上に、良順の語学力の向上のうえでも悪い結果は出ない。

 ところが伊之助は変わっている。麹町の丁子屋の娘お真魚のもとへ松本家屋敷を抜けて夜這いへと通う。それが目に余る。さすがの良順もこれ以上屋敷に置いておくことが出来なくなり、良順の父親のところである順天堂へ行かせることにした。しかしここでも塾生たちと折りあいが悪く、特に塾頭である佐藤舜海(佐藤尚中)とも折りあいが合わなかった。
 そこへ良順がどうしても和蘭の医学を学びたくて、長崎の海軍伝習所に第二期教師団のポンペの元へ旅立つ時、良順は伊之助を呼び戻し、一緒に長崎へ向かうことになる。第一巻はそこで終わる。
 司馬さんの小説にはその時代の歴史的背景といわゆる「司馬史観」が散りばめられている。それが今回も同様でそれが興味深い。それを書き出してみる。

 物好きこそ文化の熟成期のあらわれといえるし、同時に江戸文明ぜんたいの熟成期の特徴といえる。

 言葉は悪いけど、物好きというのは、好奇心が非常に強い人たちのことであり。かれらがそれを追求したことで文化が熟成していく。特にこの江戸時代にそれを多く見ることが出来る。その好奇心は権力者側にとって時に危険なものになりかねないところがあり、それを習慣や法や制度で抑え込む。けれど抑え込まれれば抑え込まれるほど、狭い穴から吹き出す水のように最初はちょろちょろであっても、力が溜まれば一気に噴き出す。それが江戸末期であったろう。司馬さんは次のように書く。

 中国・朝鮮の場合、社会の体制が、血肉化した儒教でもってできあがっている。

 (略)

 その結果としては、社会全体としての好奇心が無いにひとしくなる。この両国が鎖国をまもることができたのは、好奇心の喪失ということが大きいであろう。

 (略)

 日本の場合、儒教は薄くしか社会を覆っていないために、徳川幕府は儒教をもって好奇心を喪わせるというぐあいにはゆかず、結局は、法と制度を巧妙に組みあわせ、権力をもって強力に作動させることによって、ともすれば噴出しようとする好奇心をおさえた。この意味では、思想的習慣に頼らず、多分に法に頼ったといっていい。

 (略)

 徳川期の日本社会は、つよい知的好奇心を内蔵している。松本良順という若者にいたるまでの蘭学の歴史は、抑圧された好奇心の歴史といっていい。

 ついでながら天文、暦数、地理に関する学問は伝統的に幕府の天文方が担当している。

 幕府はやがて在来、唯一の科学機関だった天文方を母体とし、洋学調査機関に発展させ、蕃書調所(のちの開成所。明治後、開成学校、大学南校を経て、東京大学になる)を設立。

 東京大学の系譜はとにかく込み入っているのだが、興味がある。

 徳川家は、法理的にいえば元来、大名の大いなるもので、その武力によって諸大名を慴伏させ、いわば大名同盟の盟主といったようなかたちで、君臨してきた。その一見絶対的であるかに見える権力は、その武力が衰えれば相対化せざるをえず、つまりはその力学が変化したのが、ペリーに屈して条約を結んだときであるといっていい。

司馬 遼太郎 著 『胡蝶の夢』〈1〉 新潮社(1979/07発売)


by office_kmoto | 2019-04-26 06:12 | 本を思う | Comments(0)

4月21日 日曜日

 晴れ。

 午前中区議会議員と区長の選挙に行く。

 午後より荷風全集の『断腸亭日乗』にある「城東電車」記述がある箇所を書き出す。これが結構大変で、旧字体と荷風独特の言い回し、送り仮名の振り方で苦労する。

 『断腸亭日乗』は摘まみ読みみたいに読んでいる。これまで全集の2巻までしか読んでいないが、これが以外に面白い。

 大正12年9月1日。関東大震災があった日。荷風は書巻を手にしたまま庭に出ている。この書巻とはこの日記である「断腸亭日乗」のことだろうか?揺れは続き船の上に立っているようだ、と書く。
 その1カ月後の10月3日に日比谷公園へ行っている。仮説の小屋が建ち並び、糞尿の匂いが漂いまるで支那の町のようだと書く。
 被災した東京の町を「外観をのみ修飾して百年の計をなざゝるは国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ」と手厳しい。
 11月5日には震災後私娼窟が大繁盛していることを書いている。そういえば阪神淡路大震災でも東日本大震災でも震災後いわゆる性を商いとしている職業は忙しかったと読んだことがある。震災のストレスと避難場所では一目が気になるためだという。
 大正15年12月14日。大正天皇の崩御の日が近いことを新聞で知る。その新聞に天皇が食べた物と排泄物を詳細に記載してあるのを読んだ荷風は、この風習は明治天皇から始まったこととはゆえ、「飲食糞尿の如何を公表するの必要ありや。車夫下女の輩号外を購ひ来つて蝶々喃々、天子の病状を口にするに至つては冒瀆の罪之より大なるはなし」と書いている。
 昭和天皇の時も下血のことが毎日報道された。それを報道する理由は天皇の容体をを心配する国民のためなのだろうが、下血の量で一喜一憂するのもどうかと思ったものだ。
 幸い今の天皇は自ら生前退位されるからこういう心配はない。私はこういう形で自らの身の処し方を決められた今の天皇は立派だと思う。
 以上が荷風全集第21巻『断腸亭日乗』の1巻目である。その2巻目(荷風全集22巻)では、昭和2年7月9日に森鷗外の忌日なので墓参りに行く。荷風は墓前に手向けてあった花に名刺が付いているのを目にする。名刺の主は慶應義塾大学部教授文化学院教授与謝野寛とある。与謝野鉄幹である。荷風はこれを見て、「先師の恩を忘れず真心より其墓を拝せむとならば人知れず香華を手向け置くも可なるべし、肩書付の名刺を附け置くは売名の心去らざるが故なり、老狐の奸策さても〱悪むべきなり」と書く。

 だよな。

 墓前に手向ける花に自分の名刺を付けるなんて初めて聞いた。荷風が怒るのも当然だ。
 同年7月24日では芥川龍之介が自殺した記事を電車の中で隣の人が読んでいた新聞で目にする。荷風は芥川とは交際したことがなかったらしい。だから関心はない。「余は唯心ひそかに余が三十六七歳の此のことを追想しよくも今日まで無事に生きのびしものよと不思議なる心地せざる得ざるなり」と書く。これはちょっと笑った。
 さらに文人のゴシップは続く。同年9月22日に夏目漱石の未亡人が漱石の若い頃の失恋ごとを曝露したことに荷風は怒っている。

 「縦へ其事は真実なるにもせよ、其人亡き後十余年、幸いも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや、見す〱知れたる事にても夫の名にかゝはることは、妻の身としては命にかへても包み隠すべきが女の道ならずや、然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係わらず之を訐きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり」

 と書く。
 昭和3年7月14日では、偏奇館の近くにある山形ホテルに独り者の荷風は食事に行くことが度々書かれているが、この日果物を煮た皿の中に蠅が入っていた。当然不愉快になり、もう二度と山形ホテルには行かないと書く。けれど後になって山形ホテルに食事に行っている。独り身の荷風としては自宅の近くの食事処は必要に迫られるところであったから、いつまでも怒ってばかりいて居られなかったのだろう。
 同年8月24日には、荷風の下書きした原稿が溜まってしまったので、処分のためそれを燃やした。けれど近所から苦情が来たものだから、通っている病院の帰り、たぶん隅田川だろう。そこへ風呂敷ごと捨てる。しかし原稿は浮いてきてしまい、船頭にすくい上げられる。荷風は間違って落としたと嘘を言って原稿を受け取る。原稿は水を吸って二倍ほど重さになり、持ち帰りに苦労したことが書かれる。
 で翌日、前日の失敗を繰り返さないため、風呂敷を解いて紐で束ねた原稿を永代橋から捨てた。今度はうまくいった。そして28日にも同じように永代橋から下書きの原稿を捨てている。
 ふともしこの原稿が誰か拾い上げていたら、と思った。荷風の『ふらんす物語』は製本前の印刷されたときに発禁となった。だから本当なら本として存在しない。けれど出版元の博文館の社員がそれを持ち出して、自分で製本したものが出回り、これが古本業界では横綱級の貴重本となっているらしい。となれば、もしこの時荷風の捨てた下書きの原稿を拾った人がいたなら、と思ったのである。
 昭和4年3月11日の記述。三越呉服店でエレベーター事故があり死傷者が出た。三越は死傷者と新聞社に口止め料を出した、といつも行く酒館太牙の女給から聞いた。荷風は「新聞社は平常好んで個人の秘密を訐きながら三越呉服店の珍事の如きは金銭のために之を記載せず、その陋劣憎むべく厭ふなり」と書いている。
 まあこんなことは今でもよくあることだろう。
 ところで昨日池袋で八十七歳の老人が運転する車が100キロ近いスピードで赤信号を無視し横断していた人を次々になぎ倒した。その事故で三歳の女の子とその母親が死亡している。で不思議なのはこの事故の報道で男は昔の肩書き付のフルネームで「さん」付けで報道されていることである。これがよくわからない。警察が現行犯逮捕しなかったから、容疑者にもならいものだから、こういう報道の仕方になるという。
 私には孫がいる。だから幼い子が亡くなる事故を聞くと、その事故が理不尽なものであればあるほど、怒りを抑えられない。大体87歳になって(しかも足が悪いとニュースで聞いた)車を平気で運転しているなんて信じられない。アクセルが戻らなかったと男は言っているらしいが、戻らなかったのは自分の足で、その弱った足でブレーキとアクセルを踏み違えたのだろう。年寄りの運転で事故を起こすお馴染みのパターンだ。そんな年寄りの犠牲になった幼い命に、怒りを覚えない方がおかしい。なんで警察はこの男を現行犯逮捕しなかったのだろうか。それでなくとも年寄りの運転ミスによる事故が増えている。こういう事故を二度と起こしてもらっては困る。抑止力のためにも警察は即刻逮捕すべきだったのではないか。
 これを書いている時神戸の市営バスが横断歩道を渡っていた人をはね、二人が死亡したというニュースを見た。運転手は現行犯逮捕された。バスの運転手は逮捕され、元通産省の幹部は逮捕されないのはおかしいではないか。それとも年寄りだからか。
 いずれにせよ、子供が事故や事件に巻き込まれるのを聞くのは忍びがたく、今回も年寄りが起こした事故は怒りを隠せないので、荷風が書いている三越のエレベーター事故の顛末に半ばこじつけて書いてしまった。


by office_kmoto | 2019-04-21 19:55 | 日々を思う | Comments(0)

乾 浩 著 『斗満(トマム)の河―関寛斎伝』

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 前に高田郁さんの『あい―永遠に在り』を読んだ。この本は関寛斎とあいが北海道へ開拓へ向かう前で話が終わっている。それでどうしても関寛斎が北海道へ入植していった後を知りたかった。それで図書館で関寛斎に関する本を検索していたら、この本がヒットし、読んでみることにした。
 私はどうして寛斎が北海道へ向かわなければならなかったのか。その寛斎の考えを知りたかったのと、なぜ寛斎は自殺したのか、それを知りたかった。
 寛斎は将来を約束された人であった。それをすべて投げ捨てて、もとの徳島で市井の医者に戻って行く人であった。

 これは、四男の又一が希望した道である。そして、寛斎自身も農業への期待と憧憬が芽生えていた。それは、市井の医師として多くの患者に接してみて、食事が満足に得られずに栄養失調によって倒れる人たちをまのあたりしたからである。患者の多くは、食事さえきちんととっていれば病も悪化しないですむ人たちであった。それには、農業によって十分な食料を生産、確保しなければならないと考え始めたからである。

 医食同源を信奉する寛斎は、人間の健康維持には食べ物は欠かせないもので、その食べ物を生産する農業こそ、医の根源だと考えた。
 (北海道はほとんど原生林に被われた未開の大地だ。酷寒の地なので、伐り開いていくことはかなりの困難が予想されるが、北海道を開拓すれば何十万、何百万を救えるかも知れない。また内地の手狭な農地にしがみついている居候の次男、三男たち、さらに、小作たちが彼の地に行けば、広大な農地が伐り開いただけで自分のものになる)

 寛斎の脳裏にそのような考えが芽生え、それが年を追うごとにだんだん膨らんできた。又一も、父親の寛斎からそのような話を聞き、札幌農学校に進むことを決意したのであろう。

 寛斎が自身の考えを実行に移すきっかけはやはり四男又一が札幌農学校で学んだことが大きいかったようだ。しかしいくら農業が医の根源だという信念の持ったとしても、それがすぐ北海道の開拓の先駆けとなるのはすごいとしかいいようがない。しかもあの陸別である。この冬マイナス三十度以上を記録した極寒の地である。この当時の北海道開拓には想像を絶する苦難が襲ったに違いない。しかしただこの本にはそうした苦難は割とさらっと流されている感じだ。

 鹿皮の頭巾を被って出ても、頭が叩かれるような痛みが走る。頬が強張り、睫も凍りつく。

 そんな中、原生林に木を切り倒し、その根を掘り起こす。大地は凍りついているだろうし、原生林も大木だ。切り倒すと言ったって、今みたいチェンソーがあるわけではない。斧で人力で木を倒すのだ。そしてその下には大きな木の根っこがある。深く根がそれこそ、突き刺さるような感じではっているはずだ。しかも大地は凍り付いている。それを取りのぞくには想像を絶するものだったろう。しかも寛斎は北海道に渡ったときは、七十三歳である。朝起きて冷たい川で水浴し、仕事が終わればまたからだを川の冷たい水で洗う。どうしてこんなことが可能なんだろうか?元気と言うより、超人である。
 そんな寛斎だが、一緒に北海道に渡ってきた妻のあいを亡くしたときは悲しみにくれた。それこそ開拓の気力さえ失った。このときあいのことを思うのは、

 「婆は儂より偉かった!ずっと偉かった」
 天井を仰いで溜息をつくとともに、口癖になっている言葉が自然と飛び出た。
 「だからこそ儂にとっては、アイは欠かせない存在になってきたのだ!アイは女学校や専門学校、大学を出ているわけではなかったが、儂より偉かった。ずっと偉かった!そして、だれよりも女としての品性を備えた人間であった!」
 自分にはすぎた妻であったと寛斎は思った。

 そこに息子と孫による土地を巡る争いが寛斎を苛む。
 寛斎は仲間と一緒に大地を伐り開いた土地をその仲間に分け与えることをずっと考えていた。自作農の創出を考えていたのだ。農民が自分の土地を持つことが生きがいにもなり、生産力も上がるはずだと考えていた。ところが四男又一は農業学校で学んだアメリカ式の大規模農業を考えていた。だから土地を分け与えることなどとんでもないという考えであった。この点で寛斎と又一は衝突した。そして北海道の土地と建物すべて又一の名義になっていた。寛斎はそんなことを気にする人間ではないが兄の餘作は納得できない。今度は又一と餘作の争いとなり、それが兄弟間に広がり、さらに長兄の息子大二から斗満における財産分与請求の訴えが起こされた。骨肉の争いが大きくなっていった。
 詳しくは書かれないが、どうやらこの身内の醜い争いを仲裁できないかったことが自殺の原因になったようである。この争いが最愛の妻を失った八十三歳になった寛斎には応えたのだろうか?

 用意していた農薬の小瓶を取り出し、ためらうことなく一気に飲み干した。
 焼けつくような痛みが咽喉から臓腑に伝わり、臓腑が燃えるように熱くなって体中に広がってきた。やがて、全身に痺れを感じ、次第に薄れてゆく意識の中で、母の胸に抱かれたような安らぎの心は芽生えてきた。
 (アイ、儂もおまえのそばに行く。儂は生き方が下手であったが、悔いてはいない。世に受け入れられなかったし、息子たちにも理解して貰えなかったが、理想に向かって懸命に努力した。その情熱だけは誰にも負けぬ。天女のようなおまえに抱かれてゆっくりと眠ろう)

 寛斎は確かに大きな理想をもって生きた人だった。そして信念のひとであった。けれどやはり生き方が下手であった。

乾 浩 著 『斗満(トマム)の河―関寛斎伝』 新人物往来社(2008/08発売)


by office_kmoto | 2019-04-17 05:07 | 本を思う | Comments(0)

阿刀田 高 著 『私が作家になった理由(わけ)』

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 この本は日経新聞の「私の履歴書」に掲載されたものを中心に阿刀田さんがどうして小説家になったのかを書いたものである。
 読んでいると阿刀田さんは小説家になりたくて小説家になったわけではないようだ。むしろ自分には小説家としての才能はないとさえ思っていた。

 私は若いころから小説をよく読んでいたけれど、三十代なかばまで小説を書いたこともなければ、書こうとも思わなかった。理由は簡単。
 ――とても書けない――
 その能力は自分にはない、と考えていたからだ。

 大学を卒業して、結核の病歴があるため、なかなか思うような就職が出来ず、国会図書館の司書となった。ただ給料が安いため、アルバイトして雑文を書いていた。
 それが小説が書けるかもしれない、と思えるようになったのは、ロアルド・ダールを読んだことによる影響が大きいらしい。ロアルド・ダールは開高健さんもよく読んでいたらしく、実際ダールの作品を翻訳している。

 日本の小説に私小説風が多いのに対し欧米の短編には意表をつく作りものがある。
 ――あんな作風を日本の風土の中で、日本人を登場させて書いたら、私の独自性が創れるかもしれない――

 そこでいくつか作品を発表する中で出来たのが『ナポレオン狂』である。これが直木賞受賞作品となった。この作品のモデルとなったのは国会図書館勤務時代に訪ねた、粉川忠という個人コレクションであるゲーテ図書館の館長である。
 そして直木賞受賞後司書を辞め、作家となった。

 そして「知っていますか?」シリーズが生まれた背景が興味深い。

 「小説とはべつに、なにか読み物を連載してみませんか」
 婦人雑誌の編集部から声をかけられ、
 「やさしいギリシャ神話なら書けそうだけど」
 と応じた。


 阿刀田さんの『ギリシャ神話を知っていますか』を書けそうと思ったのは、幼いころ父親が押入に隠していた蔵書『世界裸体美術全集』をたぶん隠れて見ていたからだという。その画集の中の作品はギリシャ・ローマ神話を題材に取っているものが多かったので、親しみがあったのだ。
 ここからいくつかの「知っていますか」シリーズが生まれることとなる。これを契機にして海外取材が多くなったという。そこでおかしいエピソードが紹介される。

 まず死海。イスラエルとヨルダンの国境に位置する湖だ。塩分が濃いから入るとプカプカと浮く。が、バランスを崩すととたんにひっくり返る。眼、口の中、鼻の孔、傷あと……水が触れるとピリッと痛む。尾籠なことながら、水中でおならをしたら、一瞬、鋭い痛みが背筋を走った。

 そして私が阿刀田さんの作品で一番好きな『海の挽歌』の話がある。

 もともとは古代カルタゴの将軍で、ローマと戦い、相当な戦果をあげた。もしハンニバルが勝っていたら、「古代ローマ帝国は存在せず、世界史は大きく変わっていただろう」は、けっして突飛な想像ではあるまい。悲劇の将軍であり、孤軍奮闘、剛にして潔く、日本サムライに似ているみたい。私は憧れを抱き、
 ――小説に書いてみたいな――

 と思ったという。しかし歴史に「イフ」はあり得ない。物語は史実は変わらない。動かしようがないのだという「歴史の意志」を描く。

 一九九二年に発表した中編小説『海の挽歌』は、古代カルタゴの英雄ハンニバルを描きながら現代の日本人の男女の交わりを、恋の名残を……かつて恋しあい、今は男は妻を東京に残し、チュニジアに住む昔の恋人を訪ねてくる、という状況を綴ったものだ。
 ハンニバルがローマを破っていたら世界の歴史は変わっていた……かもしれないが、大きな歴史の意志はたいして変わりもせず、同じ世界史を示した、と、こちらが真実かもしれない。
 同様に、古い恋も、“あのとき一緒になっていたら”というイフがつきまとうけれど、登場人物が少し変わるだけ、似たような現実が流れるだけなのだろう。

 これが『海の挽歌』の内容である。モチーフは変わりようのない歴史の意志が、男の過去の終わった恋と重なるところである。いくらイフを考えても、それはあくまでもイフであって、それが現実になることはない悲しみがうまく描かれていると思っている。

 最後に阿刀田さんの読書について書かれた文章がまさにその通りだと思う。

 さらに言えば、長い年月をへだてて古い愛読書に再会すると、内容だけではなく、そのころの自分が、自分を取り囲む状況が鮮明に蘇ってくる。

 昔、愛読したものを、しばらくぶりに読んでみると新しい発見があって楽しい。昔の自分が蘇って、もう一度、若いころを生き直すようなところがあって、これは他に替えがたい喜びとなる。

 さて、

 たとえば……スマホでも読書はできる。しかし、これで今までのような読書をする人は少ないし、情報を簡単に、広く、安く入手できることは確かであるけれど(その価値はけっして小さくないけれど)古い読書は、苦労して情報を手に入れるぶんだけ優れた情報への敬意を生み、それが示してくれた人への尊敬も培われる。読書にはこの効能が思いのほか大切なのだ。

 と書く。
 私はスマホであれ、電子書籍であれ、そうして読書を楽しめるならそれでいいと思っている。情報を伝える媒体を紙ですることが普及し、それが今日まで続いているが、それが電子媒体に変わりつつあるだけだ。
 ただ私は今もそうだがずっと紙に書かれた文字を読むことが私の中で何の疑問もなく存在する。媒体が紙から電子媒体に変わりつつあっても、そこは変わらない。こればかりは時代の流れとは別に長いことそうであったため、変えようがないのだ。だから本は紙であるのが私の中で当たり前なのだ。
 でも、幼いころから電子媒体に馴染み、そこで本を読むことが当たりとなっていったら、私が本が紙であることに何の疑問がないように、本が電子媒体であることに疑問を挟む余地のない世代がこれから増えていくのかもしれない。
 我々の世代は時に電子媒体に疑問を挟むことがあるが、それは紙での情報を読むことがスマホなどの電子媒体に比べ、手間と時間がかかるため、そこに付加価値を付けているにすぎないのではないか。
 考えてみれば、我々が数多くの本が読めるのは、それ以前と比べ、印刷技術の進歩のお陰で在り、それは電子媒体が安価で簡単に情報を得られるのと同じではないか。
 最近そう思うのである。だから紙か電子媒体かなんて二者選択を迫るような不毛な議論はやめて、好きな方をとればいい。その好みが一方に傾けば、そっちが主流になり、そこに市場原理が働き、いずれ方向性が決まるに違いない。
 それに私も含め紙の本が本としての存在感、あるいは手触り感を実感出来るということはあっても、それは所詮好みの問題だし、それが電子媒体にないのは当たり前だし、そもそもそこを省いたから、電子媒体の存在感があるわけだから、それを議論の的にすべきではない。あくまでも好みの問題、使い勝手で語ればいいじゃないかと思うのだ。

阿刀田 高 著 『私が作家になった理由(わけ)』 日本経済新聞出版社(2019/01発売)


by office_kmoto | 2019-04-12 06:43 | 本を思う | Comments(0)

川本 三郎 著 『ミステリと東京』

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 この本はミステリーから東京の風景を見ることを主題としているが、一方で川本さんお気に入りのミステリー紹介にもなっている。
 普通ミステリーと言えば犯人捜しがメインになるから、そこに描かれている風景に目をあまりやらない。しかし考えてみれば犯人捜しは、町歩きになるから、それが舞台が東京となれば、必然的に東京の風景を描写することになるわけだ。
 また、

 アンダーグラウンドに生きる者こそが、都市をその隅の隅にいたるまでよく知り得る。

 犯人たちの行動を見ることは、その都市の表も裏の顔を見ることになる、と川本さんは言う。こういう川本さん流のミステリーの読み方も楽しいかもしれない。
 川本さんは言う。
 明治以来東京はつねに「普請中」だから、変化が激しく、かつてあった景観がどんどん変わって行く。もちろんこの失われた東京を歴史的背景を使ったミステリーもあるが、耐えず「普請中」だから、そのミステリーが発表された当時は新しくても、時間が経つうちに、期せずして、そこに詳しく書き込まれた風景がノスタルジーを生んでしまうこともある。
 そこで個々に挙げられているミステリーから東京の特性をいくつか書きだしてみる。

 東京はこの二つの災禍(関東大震災と東京大空襲)によって大きく変わった町である。

 都市生活の特色は、誰でも容易に匿名の個人になれることにある。その匿名性は、ムラ社会にはない、個人の自由を与えるが、同時に、個人を犯罪の闇に惹きよせる。

 はなやかな消費都市になっている現代の東京ではつい忘れがちであるが、東京はついこのあいだまで日本最大の工業都市だった。昭和四十三年のデータでは東京の工場数は全国の一三・八パーセント、従業員数一二・九パーセントで、これは大阪を抜いて日本で第一位。つまりこの頃までは東京は「工業都市」だったのである。

 ここに紹介されたミステリーはネタバレを防ぐため、知りたいところで切ってしまうので、ついついその先はどうなの?と気にかかる。そのためまだ読んだことにないミステリーはついつい読みたい気分にさせられる。いくつか近いうちに読んでみようと、書名をメモした。

川本 三郎 著 『ミステリと東京』 平凡社(2007/11発売)


by office_kmoto | 2019-04-09 06:28 | 本を思う | Comments(0)

高田 郁 著 『あい―永遠に在り』

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 関寛斎のことは司馬遼太郎さんの『街道をゆく』に記載がある。また『胡蝶の夢』に寛斎が登場人物としてある。ただこの長篇小説、記憶にあるのは松本良順だけで、これはもう一度読み直してみるかな、と思っている。
 で、『街道をゆく』で寛斎の記述がどこにあるのか、これを探すのに便利な本がある。『「司馬遼太郎・街道をゆく」エッセンス&インデックス』という分厚い本である。いわゆるレファレンスブックである。ここで「関寛斎」を探せば、シリーズの何巻にその記述がわかる。これがないと、シリーズ全43巻、片っ端から探さなければならないので、こういう時便利な本である。ちなみにこの『街道をゆく』のレファレンスブックは実はもう一冊ある。この本は確かまだこのシリーズが途中のときに、発売された本だったと記憶する。だから完全版じゃない。
 で、関寛斎の記述があるのはシリーズ15巻の「北海道の諸道」と32巻の「阿波紀行・紀ノ川流域」である。そこから関寛斎という人物について書き出したい。それで関寛斎の略歴がわかると思う。

 寛斎は、(徳冨)蘆花に自分を紹介したように、「元来、医者」であった。
 
 (略)

 オランダ医学を単に蘭方という。江戸期でも幾節かの発達の痕跡があるが、幕末に熟成した。寛斎はその熟成期の代表者のひとりである。

 (略)

 蘭方家の多くが農民の出か、窮迫した下士層の出であることを思わねばならない。蘭方を習得することによって士分階級に入ることができたし、できるどころか、小大名にひとしい位階をもつ将軍の侍医(奥御医師)になる例もすくなくなかった。
 寛斎も、九十九里にちかい土地の貧農の子としてうまれた。飢餓が、学問習得についての克己心と、身分上昇へのあこがれを持続させたということも、寛斎のある時期、あったかもしれない。
 が、成人後その形跡がみられない。
 かれは、十九歳で佐倉の蘭学塾順天堂に入り、五カ年まなんだ。この間の学資は、かれの故郷で寺子屋をひらいていた養父が出してくれた。
 業をおえて銚子で開業し、やがて土地の富商で先学者でもあった浜口梧陵のすすめをうけ、さらにその援助をもうけて長崎に留学した。
 長崎では、ポンペが開講していた。

(略)

 長崎での業を卒えてから阿波徳島藩(蜂須賀家)にまねかれ、医官の筆頭の座につく。ほどなく戊辰戦争がおこり、新政府に請われて官軍の野戦病院長になり、奥州まで出かける。
 この閲歴の延長線上に、ごく自然なかたちで、軍医総監とか大学総長、あるいは公使、外務大臣という職が待っているはずであった。かれの多くの学友は、そのような明治風の立身出世の道をたどった。
 寛斎は戊辰戦争がおわると、さっさと本藩にもどり、士族の籍まで返還し、一介の開業医としてすごした。

 (略)

 この徳島での開業期間中も、貧民には無料で治療した。なかには関大明神というおふだを神棚にはって毎日おがんでいたひともいたという。
 開業は四十四歳のときで、つねに貧者への種痘は無料でほどこした。たとえば六十三歳ときの一カ月の無料種痘が一千五百人、六十八歳のときのそれが三千人に及んだ。
 六十代半ばになってから、医をすてて北海道の開拓民になりたいとおもう気持がつよくなった。

 開拓すべき場所は、札幌農学校にまなんだ四男が選定した。寛斎が、徳島の屋敷をたたみ、結婚後五十年になる老妻をつれて北海道にわたったのは、明治三十五年、七十三歳のときであった。

 寛斎はこの又一(四男)の精密な調査と論文に従って、陸別(当時は斗満)の地で原生林を伐り、根を掘り起こし、地を平らにし、牧草や野菜の種を蒔く。しかし周りに住むウサギやネズミの小動物が喜んで、野菜が大きくなるのを待ちかねて食べられてしまう。蚊も多く、それまで動物の血を吸っていたのが、人間の血の味をしるようになった。寛斎の顔は南瓜のように腫れ上がり、まぶたが膨らんで目が開けられない日もあった。
 ただ又一の影響で開拓民となった寛斎だが、又一のアメリカ式に儲かる農業で対立する。寛斎は開拓は社会の報謝であり、自ら開拓した土地をどんどん分けてやった。

 寛斎は同志ができると土地をどんどんわけてやる方針をとった。そのことは、徳島にいる長男生三の憤懣のたねとなった。長男は寛斎から土地その他をむしりとるために異常な情熱をもっていた人で、財産相続についての訴えを法廷にまでもちだしたりした。

(略)

 寛斎の最大の打撃は、その妻をうしなったことであった。妻愛子は、札幌の病院で死んだ。遺言は、
 葬儀は、いま行わないでほしい。良人の寛が死んだときに一緒に執行してもらいたい。二人の死体は同穴にうずめ、それによって草木をやしない、牛馬の餌とされることを望む。

 (略)

 寛斎が死ぬと、その遺言どおり、死体にふだん着を着せて、数人の者がかついで、寛斎が最初に鍬をおろしたゆっくえぴら(青竜山)の丘にのぼり、その亡妻の横に塚穴を掘ってうずめた。

(略)

 ゆっくえぴらの墓まで丸太敷きの段々道がのぼっており、両側にエゾマツの老樹は堵列している。のぼりきると、遺言どおり二つの小さな土饅頭がある。それきりである。(『街道をゆく』15巻)

 『街道をゆく』の32巻は、阿波紀行となっており、徳島人となった関寛斎を語る上で寛斎の略歴を語る。重複するが書き出してみる。

 関寛斎(1830~1912)は、ひとことでいえば、幕末・明治の名医である。
 さらにいえば医術によって暖衣飽食しようとしなかった人である。
 もうひとつ言いかさねると、人生に強烈な意味を見出そうとし、その後半生、古代インドの苦行僧のように身をくるしめる人でもあった。

 (略)

 栄爵や栄職をつぎつぎとすてて、後半生、北海道の陸別にほとんど単独で入植し、斧をふるって密林をひらき、みずから、くわをとって畑をつくったひとである。陸別は北海道の内陸で、道内随一といわれるほど寒冷地であり、さらに畑を荒らす小動物の多いところで、寛斎が穀物や野菜を育てるしりから、大よろこびしてそれをたべるという大変な土地だった。
 寛斎について、ふたたびふれたい。
 前半生、寛斎は、必要にせまられて転々とした。
 かれは、農民の出だった。いまの分県でいうと千葉県東金市(上総国山辺郡)が、生地である。
 十九歳のとし、印旛沼の南の佐倉にあった蘭方医佐藤泰然の塾に入り、医術を学んだ。
 二十七歳、下総国(千葉県)銚子で開業した。そのころ、醤油醸造家で紳商として知られた浜口儀兵衛(梧陵)の知遇をうけた。儀兵衛は、寛斎を大器に育てようとした。寛斎は、恩を感じつつも、遠慮した。
 ときにコレラ流行の最中だった。儀兵衛は寛斎を江戸にまねいてその惨状をみせ、長崎で開講中のポンペに就いてあたらしい医学をまなぶべきだとすすめた。

 (略)

 寛斎にはすでに妻子があったが、儀兵衛はその生活費はみてやるといった。さらには長崎への旅費やら同地での滞在費も、儀兵衛は出すといった。
 ついに寛斎はその好意をうけ、足かけ三年、長崎にいた。
 文久三年(1862)、三十三歳のとき銚子に帰ったが、そのとき阿波蜂須賀家からまねかれ、翌年三月、徳島にきた。以降、徳島人となる。
 幕末、藩主に従って京都に滞留したとき、鳥羽・伏見の戦いがおこった。そのあと阿波蜂須賀家が新政府軍(官軍)に属したので、江戸に移った。
 ほどなく上野で彰義隊戦争がおこり、また寛斎は多忙になった。正規の医学を修めた医者は、日本にわずかしかいなかったのである。
 かれは神田の旧講武所に負傷兵を収容し、ここを仮設病院にして治療にあたった。医師はかれひとりしかおらず、他に助手がいたにすぎない。
 戊辰戦争の舞台が奥羽にうつったとき、かれは全軍の軍医部長(当時の呼称は、奥羽出張病院頭取)として従軍した。
 明治二年、戦いがおわって江戸に凱旋したが、かれは宮仕えきらい、そのまま徳島に帰った。
 新政府はかれを招こうとし、東京へよんでしかるべき官職をあたえたがひと月でやめ、この間、山梨県甲府に病院をつくるために行ったものの、それも翌年、約束の期限がきたといって徳島に帰っている。
 かれは徳島がすきだった。明治六年、徳島城外の住吉島村で医院をひらき、ついで城下の士族長屋に移った。四十五歳のときである。
 このとし、士族をすてた。かれは旧藩のころ高禄の士分だったが、新政府による藩の廃止(版籍奉還)とともに士族に禄高相応のものが貰えることになっていたのを、ともにすてて平民籍になったのである。虚なるものを好まなかった。
 この時期、東京に設けられた大学東校から教授になるよう再三言ってきたが、そのつどことわり、また陸軍省からも軍医部の重職につくようにいってきたものの、応じなかった。
 明治三十五年、七十三歳のとき、徳島の医院をたたみ、結婚五十年の老妻をつれて北海道に入植し、明治四十五年、八十三歳のとき、開墾屋敷で死んだ。

 医は仁術などというが、日本の医家の歴史のなかで、寛斎ほどの人は見ない。
 かれは幼時に母をうしなった。生涯孤児の意識がつよく、八十を越えても、生母の夢をみたらしい。そのようななみはずれた感情が、貧者への同情になってあらわれたのかもしれない。さらに少年の日の貧がわすれられなかったということもある。
 ともかくも、徳島ににおいては、かれの患者の六分の五まで貧者で、かれらから一銭の金もとらなかった。
 かれが日本第一流の医家であることは、徳島でも知る人は知っていた。このため、富める者は遠くからもきた。かれらに対しては、十分予告した上で、高い治療費をとり、それらを無料診療にまわした。無料で種痘もした。その人数は五千七百人のぼったという。土地のひとは“関大明神”とよんで、後ろ姿をおがんだりしたというが、いまはほとんど忘れられている。
 かれが住んでいたところは、いまの地名でいうと、徳島市中徳島一丁目で、この通りは戦前までは、
 「関の小路」
 とよばれていたらしい。いまはその通称もわすれられ、碑もない。おそらく徳島大学医学部にも、寛斎の碑はないにちがいない。(『街道をゆく』32巻)

 このように関寛斎に関する司馬さんの文章を書き出してみると、その人物像を医家としてそのさまじい生き様を賞賛し尽くしている。北海道、阿波の二度にわたって寛斎について書いているところからもそれを見ることが出来る。
 そして吉村昭さんの歴史小説『白い航跡』の序盤に寛斎が登場する。
 戊辰戦争で奥羽越列藩同盟と戦う新政府軍とともに高木兼寛は薩摩藩兵と平潟(茨城県北茨木市)に上陸した。この時漢方医から関寛斎のことを聞く。

 「関寛斎殿と言われる名高い蘭方医がおられてな。軍とともに上陸された」

 寛斎は上野に立てこもる彰義隊との戦いで、医家を指揮して手当にあたり、負傷者の治療にあたり、西郷隆盛から感謝され、その後奥羽出張病院頭取に任命され、平潟の赴任せよと命じられてここに来ていた。

 「関殿は、私などの手に負えぬ重傷者の手当など見事にやっておられる」

 兼寛は寛斎が負傷者の体に食い込んだ弾丸を造作なく摘出するのを見て、神業に思えたのであった。

 さて、高田郁さんの『あい―永遠に在り』である。この本は関寛斎の妻であるあいについて書いた物語である。菊池壮一さんの『書店に恋して―リブロ池袋本店とわたし』で知った。高田さんは今人気の歴史小説家で出す本すべてベストセラーとなっているらしい。だから出版社としてはどんどん書いて欲しいのだが、高田さんはこの本を腰を据えて書き、その間他の小説は書かなかったと書かれていた。
 その内容である。あいは房総九十九里浜の中ほどにある前之内村で父親君塚左衛門とコトの三女として生まれた。一方寛斎は幼名を豊太郎というが、左衛門の兄関俊輔の妻年子の妹幸子が豊太郎を残して夭折しため、養子として引き取った。俊輔と年子の二人には子供がいなかったためである。
 俊輔はこの地で私塾を開き、子弟に読み書きを教えていた。年子はその俊輔を支えていた。その年子からあいは機織りを教わっていた。
 豊太郎は関寛斎と改名し、佐倉順天堂へ進学する。ただ順天堂で学ぶには年に六両のお金がかかる。俊輔と年子はぎりぎりの生活をしていたため、その六両が払えないので玄関脇の一室に寝起きし、屋敷内の掃除や家族の世話など一手に引き受けその合間に医学の手ほどきを受けた。そのため「乞食寛斎」と呼ばれた。
 年子はあいを寛斎の嫁と考えていた。

 「あいは寛斎の嫁に。私は、端からそう決めています」

 あいは寛斎が順天堂から帰って来るまで待つこととなる。その寛斎は師の佐藤泰然に認められ、手術の助手を務めるまでなっていた。しかし寛斎はなかなか帰ってこない。しびれを切らした俊輔は早く帰ってこいと手紙を送り、寛斎は養子と俊輔に恩があるため、帰郷する。そしてすぐあいと結婚するのであった。

 新郎 関寛斎 齢二十三。
 新婦 君塚あい 同十八。

 そして郷里前之内村で開院する。しかし村は病気になると薬草を煎じたり、祈禱したり、昔ながら風習に従って病気に対処していたため患者が来なかった。そこへ佐藤泰然から銚子に医師がいないので、ここで開業してくれるよう懇願する手紙が届き、銚子に移る。
 銚子は醤油の町である。ここであいと寛斎はヤマサ醤油の店主七代目濱口儀兵衛、自らは濱口梧陵と知り合いになる。梧陵は寛斎が長崎のポンペの元に行く資金援助を申し出る。
 寛斎は長崎行きに憧れていた。けれどそれを人の世話で行くとなると考えざるを得ない。寛斎はた世話になれば重すぎる恩を感じる人であった。さらに長崎に行けば、年老いた親の扶養、家族の養育費を人の金で賄うことになり、それは寛斎には出来ないことであった。

 こういう風にしか、私は生きられないのだ。

 しかし梧陵の強い勧めもあり、寛斎は梧陵に支援を受けて長崎に向かうことになる。
 梧陵はあいに言う。

 「人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」

 「目先のことに囚われるのではなく、永遠を見据えることです。関寛斎、という人物は、何時か必ず、彼なりの本分を全うし、永遠の中で生き続ける、と私は信じます」

 その後の寛斎の行動は司馬さんの本から見ることができるので詳しくは書かない。ただ徳島に移ってからも梧陵は醤油や味噌を送り続けた。そんな梧陵が亡くなって、醤油の味が変わったことに気づいた寛斎は梧陵のあと会社経営がうまくいっていないことを知り、その再建を手伝うことにもなる。それもすべて梧陵から受けた恩に報いるためであった。
 そしてついに北海道入植となる。これも先に書き出した司馬さんの文章からその経緯を見ることが出来る。寛斎は最初一人で行くつもりであったが、あいが一緒に行くことを望む。

 百姓の子として生まれ、貧しさのなかで育った。医師を志し、それを存分に叶えた今、また百姓に戻る。土の匂いとともに晩年を過ごすのだ。

 関寛斎、七十三歳
 妻あい、六十三歳。
 徳島で築いた財産全てを整理しての、新たなふたりだけの旅立ちであった。

 しかし北海道での生活は苛酷以上のものであった。あいはなんとかして寛斎が開拓しようと考えている斗満に向かいたかったが、一向に体調が良くならない。倒れてしまう。
 物語はここで終わる。
 思った以上にいい物語であった。また物語以後寛斎を知りたくなった。
 寛斎は北海道で自殺をしてしまうのだが、なぜ自殺をしたのか。それを知りたくなった。

高田 郁 著 『あい―永遠に在り』 角川春樹事務所(2013/01発売)


by office_kmoto | 2019-04-07 06:25 | 本を思う | Comments(0)

憂鬱

 電車の車掌や床屋の職人や、あるいは巡査、といった、いわば「目上」の職業の中に、自分より年下の人があらわれるようになったころから、私は年をとり始めたのだと思う。


 これは伊丹十三さんの本(伊丹 十三 著 /松家 仁之/中村 好文/池内 万平 編 『伊丹十三選集〈2〉好きと嫌い』岩波書店 2019/01発売)の中にあった文章だ。そうなのだ。何時の頃からか、私と関わってくる人たちが、自分より若い人になっている。それが何時の頃からだったのだろう、と思うと、やはり50を超えた頃かもしれない。そして今や私と関係のある人はほとんど年下になりつつある。それだけ自分が歳をとったということだ。だからといって自分より年下の人たちを見下すことは出来ない。お世話になっていれば敬いもするし、感謝もする。ただ出来ればそういう人たちは自分より年上であって欲しいところがある。なぜならそういう人たちが自分より年下であることが、かえって自分の未熟さを思い知ることになってしまうからだ。
 そんな自分より若い先生にかかりつけの歯医者さんがいる。
 今、永井荷風の『断腸亭日乗』を摘まみ読みしているが、そこに風邪をよくひく荷風が描かれる。
 誰でも歳をとると体調不良が多くなるが、荷風も同様だったようで、そんな記述を読むと、身につまされる。まったく厄介なことだよなあ、と同情しつつ読んでいる。特に歯痛に関しては、自分も長いこと悩まされてきたので、深く同情してしまう。そして自分もまた歯に悩まされることになった。

 先日前歯の差し歯が取れてしまった。慌てていつも診てもらう歯医者さんに電話をして着け直してもらった。その時私は自分の歯に長いこと悩まされ来たので、毎日ケアをしているのに、それでも必ずどこかおかしくなる、と先生に愚痴ってしまった。それが自分だけに思えて仕方がなかったのである。だから他人は私みたいに歯で悩まされていないのだろうか、と先生に聞くと、「そんなことはないですよ。皆さん、苦労されています。特に年齢を重ねるとその悩みが大きくなる」と言う。それがどこか同情にも聞こえ、素直に受け取れなかったところがある。
 そして今回は付けてみるけれど、たぶん差し歯にしている土台の歯がかなり痛んできているので、遅かれ早かれこのままでは使えなくなるというおぞましい言葉を聞く。そうなると当時1本10万円かかっている差し歯がおシャカになるというのである。
 そしてそれが無情にも早く来た。土台の歯が痛んでいるものだから、付けてもらった差し歯がぐらつき始めたのだ。そのためまた歯医者さんに行くと、もうダメですと宣告された。 
 結局このまま前歯の抜けた“歯欠けジジイ”になるか、10万円掛けた差し歯を捨ててブリッジを掛けるかの選択を迫られる。さすがにジジイでもまだ“歯欠けジジイ”にはなりたくない。それに前歯の一本がないだけでも、ものを食べるのに苦労する。そのためうまく咀嚼できないまま飲み込むことになり、ただでさえ胃腸が弱いのに、そのままだともっと胃腸に負担をかけることになりそうな気がする。ということは二者選択と言いつつも選択肢はないに等しい。
 差し歯の土台を再来週抜くことになり、抜いた後“歯欠け”のままにしないため、今日は仮歯の型を取った。久々に大がかりなことになる。そして費用もそれなりにかかることになる。いずれのことを思うとかなり憂鬱になる。


by office_kmoto | 2019-04-05 20:59 | 日々を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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