山口 瞳 著 『なんじゃもんじゃ』

山口 瞳 著 『なんじゃもんじゃ』_d0331556_09363845.jpg まずこの本の内容に関係ないことを書く。
 この本は図書館で借りた。昭和47年2月の第3版となっている。(初版は昭和46年3月である)ということは、この本は出版されて44年経っていることになる。
 写真はこの本をスキャンしたもので、見てもらえればわかると思うが、この本に貼り付けてある「経年による劣化あり」、「染みあり」のラベルその通りの状態である。44年の間図書館で借りられ、読まれ、そして返却されれば、さすがにこうなるだろうな、という見本みたいな本である。
 さすがにこれだけ年数が経って、しかもくたびれているので、この本は通常の棚に収まっていない。図書館の閉架書庫にあった。言って取りだしてもらったのである。
 表紙を開くと、日付つきのゴム印が二つ押してある。一つは日比谷図書館で、もう一つが多摩図書館のものである。日付は日比谷図書館が「1972.7.25」となっており、多摩図書館の方が「1987.9.1」となっている。日比谷図書館のゴム印の上には赤い判で「消」という文字が押されている。
 これから想像するに、この本は最初日比谷図書館で購入され、棚にあった。しかしどういう理由かわからないが、都落ちして、多摩図書館に移され、そして流れ流れて江戸川区の図書館の閉架書庫に余生を送ることになった。まあ、そんなところだろう。そして静かに余生を送っていたのに、私という借り手のために起こされたわけだ。
 1冊の図書館の古い本からそんなことを思いはせるのも、一興ではないかと思う。

 さてこの本のことである。タイトルの「なんじゃもんじゃ」はどうやらドスト氏が山から採ってきた木のことのようである。


 私の家は、ビックリハウスと渾名される奇妙な建物であって、玄関に花壇がある。この花壇は一日中、日の当たることがないにである。

(略)

 「山から採ってきたんです。五日市の山の奥まで行ってきたんです。なんじゃもんじゃというのは黒文字のことです。爪楊枝をつくる木です。いい匂いがします。日かげでも成長します。このへんでは黒文字のことを、なんじゃもんじゃというのです」


 この紀行文は関保寿さんことドストエフスキーと山口さんが、妻から逃げる旅である。逃げると言っても、「どうやって妻をごまかし、どうやって逃げるか。どうやって妻と一緒でない日をつくるか」なのである。


 ここで誤解のないようにつけ加えておく。妻というのは世間である。「世間の良識」である。妻の発言は、常に絶対に正しいのである。私たちが反逆をくわだてるのは、このような正しさである。私たちが妻から逃げるのは世間から逃れるためである。


 妻は「世間」であるから妻の言うことは正しい。夫の方はどうやってもかなわない。そういう鬱陶しさから一日でも逃げることが出来れば、というので、二人でスケッチの旅に出るのである。

 その逃避行の旅で武田信玄の隠し湯と言われている甲州の下部温泉での話は笑った。温泉は混浴である。湯に浸かりたいので女中に女性が風呂に入っていないか見てくれと頼む。


 女中がもどってきた。
 「見てきました。いまなら、だいじょうぶです。ヤットウのお婆さんが二人はいっているだけです」
 「・・・・・・」
 「早く、早く」
 「ヤットウってなんだね」
 「やっと生きているというお婆さんですよ」

 (略)

 そのうちに、さらに怖しいことが起った。
 婆さん連が、立ちあがって押し寄せてきたのである。私たちは頸まで漬かっている。むこうは立っている。湯はフトモモの高さまでである。するとどうなるか。
 怒れる獅子の鬣の如くあり、竜の髭あり、姫菖蒲あり、最新式金属製亀の子束子のごとくあり、カイゼル髭あり、無数の×点をイタズラ書きしたる如くあり、もし一人前餅焼網があったとしたらそいつを貼りつけたようなのあり、巌となりて苔のむしたるあり、火焔太鼓の模様あり、菩薩の光背あり、真実一路の頭あり、千差万別、ジャリジャリ、ヤワヤワ、サヤサヤと迫ってくる。
 「ナニ、おそれることあるものか。もとはといえば己の在所ではあるまいか」
 私は、耐えていたが、やがて、一声。
 「助けて呉れェ!」


 そしてさらにオチがある。道端に野木瓜(あけび)が墜ちていたのでドスト氏が採ってきてあげるという。山口さんは危ないからと止めるが、ドスト氏は野木瓜を取りに行く。その時山口さんの言う。


 「私は、もう笑み割れた野木瓜の実は結構です。その形は、温泉でたくさん見すぎてしまいました」


 さて、山口さんたちは津和野にある鴎外の生誕の地を訪ねる。山口さんが鴎外の遺書に痺れたことが書かれている。


 少年の頃、私は、鴎外の遺書を読んでしまった。これがいけなかった。


 鴎外の遺書のことは昔聞いたことがある。調べてみると次のようである。


余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス  大正十一年七月六日
        森 林太郎 言(拇印)
        賀古 鶴所 書

  森 林太郎
      男     於莵

    友人
      総代   賀古鶴所
            以上


 この遺書を山口さんは読んで考えたのであった。


鴎外が「テヤンデエ」と尻をまくったように思われた。そうして、鴎外における立身出世も親孝行も、このような虚無思想に裏打ちされていることを知ったのである。ザマアミロと思った。
 私の育った時代と環境がいけなかったのかもしれない。官権威力が私に死を迫っていたのであった。これから死ぬんだから放っといておくれという考えは、戦中戦後を通じて、いまにいたるまで私を支配するようになる。
 これが私を駄目にした。


 (略)

 鴎外が私を縛った。
 生きるとは何か。死とは何か。しょせん、石見の人森林太郎として死せんと欲すに尽きるのではないか。軍医総監も大文豪も、車夫場丁もドン百姓も同じではないか。



 錦を着て故郷に帰るということを嫌悪するとまでいかなくても、逡巡の気持が働いたと思う。死期を覚った鴎外は、帝室博物館長として、上野の坂をよぼよぼと歩くほうが己に似つかわしいと思ったのではないか。私が鴎外にいかれてしまうのは、そういうところである。


 私が鴎外の遺書に聞き覚えがあるのも、山口さんが言うのところに共感したからだと思う。いくら立身出世しても、最後は森鴎外ではなく、単に石見の森林太郎として普通の人間として死ぬことを望んだ。そこに出世のむなしさを感じたのではないか、と思ったのである。もっともこの言い分は“キザな奴”というそしりは免れないとも思うが。


山口 瞳 著 『なんじゃもんじゃ』 文藝春秋(1971/03発売)


# by office_kmoto | 2017-04-07 09:39 | Comments(0)

竹鶴政孝という人

 ニッカの創業者竹鶴政孝とはNHKの朝の連続ドラマ「マッサン」である。竹鶴政孝の自伝『ウイスキーと私』によれば、


竹鶴政孝という人_d0331556_06463162.jpg 明治二十七年(一八九四)年六月二十日、私は広島県竹原町(現在竹原市)のつくり酒屋の三男として生まれた。
 家業を継ぐため大阪高等工業(現在の大阪大学)の醸造科に入り、ウイスキーに興味をもってから、ただ一筋にウイスキーづくりだけに生きてきた。
 その意味では一行の履歴でかたづく男である。(ウイスキーと私)



 竹鶴という名は珍しい。同じ本によれば、


 “竹鶴”は私の姓であるとともに“竹鶴”という名の酒を私の家から出していた。酒の名前とその蔵元の名前が同じというのは、数多い全国の酒屋の中で“竹鶴”ただ一つであった。祖母の話によると、明治維新で姓を受けるとき役場が酒の名に気づかないで本名にしてしまったからだそうである。(ウイスキーと私)


 竹鶴政孝は明治27年に生まれた。大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学び、卒業を間近に控えた時、摂津酒精醸造所の常務岩井喜一郎を頼り、社長の阿部喜兵衛と会い、洋酒造りの道に進みたい旨を伝える。政孝は卒業を待たずに摂津酒精醸造所に入社する。


 卒業前のことだから今でいう青田買いであるが、私のは“押しかけ青田売り”であった。(ウイスキーと私)


 その後政孝の仕事ぶりが認められ、社長の阿部から本場のウイスキー造りを学んでこいと、スコットランドに渡ることになる。留学費は会社が出してくれた。当時日本の景気がよかった。


 当時の好況ぶりは、世界大戦のおかげで大変なもので、輸出はどんどんふえ、輸入は殆どふえなかったから、日本のもうけはすばらしかった。歩が金になるいわゆる、“成り金時代”であった。
 そのため洋酒はよく売れた。特に大正七(一九一八)年から九(一九二〇)年にかけては、摂津酒造の黄金時代であった。スコットランドでの私の留学費と、日本に残った永井君たちの賞与の額が、ほぼ同じになったほどの好景気で、今の人には信じられない時代であった。(ウイスキーと私)



 しかし当時日本では本場の洋酒は高級品で、輸入量は微々たるものだった。しかし国産洋酒がすぐ登場するが、それは「模造洋酒」で中性アルコールに砂糖と香料を混ぜたものであった。すなわち“まがい物”、イミテーションであった。阿部は“まがい物”でない、本物のウイスキーを日本で作りたい、そのために勉強してこい、というのであった。
 1918年(大正7年)阿部社長、岩井常務以下摂津酒精醸造所の全社員、政孝の両親、寿屋の鳥井信治郎、山為硝子の山本為三郎(実業家。現アサヒビール社長)に見送られ、スコットランドへ赴いた。
 スコットランドではウイスキーの蒸留所の見学、実習とウイスキー造りの研究の邁進した。スコットランド滞在中には、 ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と1920年結婚する。同年11月リタを連れて帰国。
 政孝は当然摂津酒精醸造所でウイスキー造りをするつもりでいたが、数カ月、半年過ぎても、社長の阿部は本格的なウイスキー造りが出来なかった。第一次世界大戦後の不況が長引きウイスキー造りをする資金的余裕が会社にはなかった。しかも不況は長引く。


 第一次大戦の軍需景気で未曾有の好況とアルコール・ブームを迎えた酒造業界に大正十(一九二一)年から十二(一九二三)年にかけて大きな反動が押し寄せ、同業者の倒産が続出する有様であった。(ウイスキーと私)


 政孝は相変わらず模造ウイスキー造りに明け暮れていた。


 重役会議でも阿部社長は
 「竹鶴君が苦労して勉強してきたのだから、なんとかやらせてみたい」
 と助け船だされたが、ウイスキーのような貯蔵に年数がかかり、そのうえ、ものになるかどうかもわからない道楽事業は、会社の財政面からも、すべきではないと全重役から反対されてしまった。(ウイスキーと私)



 政孝はこれ以上模造ウイスキーを調合するのに堪えきれず、摂津酒精醸造所を退職する。
 そんな時寿屋の鳥井信治郎は、赤玉ポートワインの売上が好調で次の一手を本格的なウイスキーの製造と販売を考え始めていて、竹鶴政孝を招き入れる。


 私が寿屋に入る条件として、ウイスキーづくりを全部まかせる、必要な金は用意する、十年間働く、年俸四千円という約束が二人の間にできた。(ウイスキーと私)


 政孝はウイスキー製造工場をその製造に適した地として、京都の郊外である山崎に作る。しかし巨費の設備投資をしても、ウイスキーは蒸留してもすぐ商品にならない。“寝かせ”なければならない。工場を建てて四年、鳥井はさすがに製品を待てなくなった。資金繰り的にも苦しくなってきている。これ以上待つことが出来ないと言われ、出来た原酒とアルコールブレンドして<白札サントリー>として発売する。しかしこれは売れなかった。鳥井はウイスキー事業を維持するためにビール製造に手を出し、政孝にビール工場長を兼任させる。しかしビールもうまく行かなかった。政孝は本社から指示を受け、横浜にある工場の拡張工事の陣頭指揮を執った。すべてウイスキー製造のためと思いつつ。しかしその工場は売却された。それが会社の戦略とはいえ、工場長の政孝に相談もなく売り払われたことが淋しかった。
 信治郎はやはり経営者であり、政孝は職人だった。自分が一介の技術者にすぎないことを感じ、独立を考え、1934年(昭和9年)寿屋を退社する。
 そしてついに政孝は北海道余市郡余市町でウイスキー製造を開始する。資本を集め、大日本果汁株式会社を設立した。ウイスキーが出来上がるには年数がかかる。その間、リンゴジュースを作ってしのごうとしたが、政孝の本物にこだわる職人肌が禍し、混濁が見られ売れず、返品の山となっていく。一方ウイスキーは蒸留していくが、そこに寝かせが入るので、すぐ商品とならない。会社は瞬く間に資金難になる。


竹鶴政孝という人_d0331556_06473542.jpg こうしてのんびり釣糸を垂れ、リタの朗らかな声を聴いていると、工場経営の苦労も忘れてしまいそうだ。摂津酒造時代の自分だったら、こんな情況でとてものんびり釣などしていられなかっただろう。
 -俺も変わったな。
 竹鶴は奔流に揺れる浮きをみつめながら思った。焦っても仕方がないことだ。ウイスキー原酒が樽のなかで、四年、五年の歳月を眠ってようやく一人前になることを思えば、一年や二年の歳月で一喜一憂しても始まらない。
 なによりも、これから造ろうとしているのは、自分のウイスキーなのだ。独立したいからこそ、青年時代から追い求めてきた理想のウイスキーを造り上げる機会を掴んだ。この喜びにくらべれば、工場経営の苦労など・・・・・・。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 工場の貯蔵庫では原酒が四年目に入った。出来は悪くはないが、もう少し寝かせたい。しかし第二次世界大戦が拡大するのは必至の状況になっていた。価格統制と配給の時代を迎え、今ウイスキーを発売しないと永久に機会を逸してしまう。


 迷い抜いた末、竹鶴は発売に踏み切ることを決意した。
 若い原酒群であったが、竹鶴は慎重に混合を繰り返し、アルコールとブレンドした。ピートの香りをきかせた原酒をたっぷり使い、スコッチと同様、重厚な気品をたたえたウイスキーに仕上げたのである。
 初めて世に送り出す製品を竹鶴は「大日本果汁」を略して「日果」、すなわち<ニッカウヰスキー>と命名した。ラベル文字は<Rare Old NIKKA WHISKY>。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 戦後五年を迎えた昭和二四年、終戦直の混乱を覆った物資不足もインフレもようやく沈静の兆しが見え始めた。


 当時、ウイスキー市場の八割近くは三級ウイスキーで占められていた。現在の二級に相当する三級ウイスキーは、税法上<原酒が五パーセント以下、0パーセントまで入っているもの>と規定されていた。0パーセント、つまりウイスキーの原酒が一滴も入っていなくとも、税金さえ納めればウイスキーとして堂々と適用した。
 経済の復興期とはいえ、ウイスキーはまだ高嶺の花である。現在の特級に当る一級ウイスキーなど、一般庶民の手に届くものではなかった。戦中戦後、軍納や配給ウイスキーでその味に親しんだ者も少なくなかったが、ウイスキーの魅力自体もまだ薄い。自由競争になって、三級ウイスキーは市場を席巻したものも、安い酒であったからにほかならない。じじつ大部分の三級ウイスキーは、アルコールに色と香りをつけたただの粗悪な模造ウイスキーにすぎなかった。
 自由競争の時代に入っても、大日本果汁は以前と変わらぬ一級ウイスキー<ニッカウヰスキー>しか発売していなかった。価格は一本千三百五十円。三級ウイスキーが三百円の時代であった。(ヒゲのウヰスキー誕生す)


 これでは赤字が続くわけである。経営悪化をたどる大日本果汁は、三級ウイスキーを出すしかなくなっていく。資本を出してくれている加賀正太郎は経営を一切政孝に任せていたが、さすがに口を出さずにいられなくなる。政孝はウイスキー職人としてアルコールで薄める模造品を出すには良心が許さなかったが、これ以上どうしようもない。規定いっぱいの五パーセントまで原酒入れて三級ウイスキーを出す。


 全従業員を工場に集めて、いままで本格ウイスキーに命をかけた自分がブレンダーとしての良心に反して、三級ウイスキーをつくらざるをえなくなった苦哀をぶちまけたのは昭和二十五(一九五〇)年の春であった。(ウイスキーと私)


 昭和二十八年、酒税法が改正され、従来の一級から三級までの級分けは、特級、第一級、第二級と呼称が改まったが、第二級が市場の九割近くを占め、第二級の原酒混和率は相変わらず<五パーセント以下、〇パーセントまで>であった。
 社名をニッカウヰスキー株式会社と改めても、先行投資が増えつづけ赤字経営であった。加賀は株主を代表して経営に口を出し、もっと値を下げろと言う。
 そのうち大株主の加賀は、朝日麦酒社長山本為三郎に後事を託し株を売却してしまう。
 昭和三十年代の洋酒ブームも三十四、五年になると陰りが見え、ブームを支えていた二級ウイスキーの伸び悩みが激しかった。消費者は生活に余裕が出来はじめる頃で、高品質のものを求めるようになっていたのである。そこで業界は原酒混和率の引き上げ要望し認められた酒税法が改正された。
 山本は政孝に一つの提案をする。それはニッカでグレイン・ウイスキーの製造をしろというものだった。


 ウイスキーがスコットランドの地酒から世界に通用する酒となったのは、ブレンディド・ウイスキーの誕生を待ってからである。スコットランドでは、大麦を単式蒸留器で蒸留した個性豊かなモルト・ウイスキーと、穀類を連続式蒸留機で蒸留したグレイン・ウイスキーとをブレンドする。ところが日本では、モルト・ウイスキーに薯や糖蜜を精製した中性アルコールをブレンドしているのが現状であった。
 ブレンディド・ウイスキーの香りや味を造るのはモルト・ウイスキーである。が、その個性を生かし、飲みやすくしたのはグレイン・ウイスキーだ。もし、日本でも中性アルコールに代って、スコットランド同様に穀類から蒸留するグレイン・ウイスキーを使えるようになれば・・・・・。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 設備には莫大なお金がかかる。しかし山本はやってみろというのであった。


 兵庫県西宮に念願のグレイン・ウイスキー工場を建設し、カフェ式連続蒸留機のバルブをみずからの手で開けた瞬間、竹鶴の脳裡をかすめたは遠い半世紀の昔、スコットランドの工場で深夜、蒸留主任の老人から手ずから教わった記憶であった。よもやあの老人は生きてはいまい。スコットランドへ遣ってくれた摂津酒造の阿部喜兵衛、山崎工場を任せてくれた寿屋の鳥井信治郎、余市に初めて竹鶴の城を築かせてくれた加賀正太郎、数億円の出資でカフェ式連続蒸留機導入を実現してくれた山本為三郎・・・・・。恩人はみな世を去っている。こうして先人を思い出すたびに、竹鶴はウイスキー一筋に生き、グレイン・ウイスキーまで造れるようになった僥倖を痛いほど感じるのだった。それにくらべたら、企業間の争いなど、所詮コップの中の嵐のようなものではないか
 生きることは、なんと愉しいことだろう。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 私はこれまでサントリーの創業者や佐治啓治の評伝などいくつか読んできた。開高健や山口瞳が書いた社史なども読んできた。しかし、竹鶴政孝と鳥井信治郎の関係がいずれも書かれていなかったと思う。あるいは書かれていたのかもしれないが、詳しく竹鶴政孝に言及した文章は記憶に残っていない。それで川又一英さんの『ヒゲのウヰスキー誕生す』を読み、竹鶴政孝自身が書いた自伝『ウイスキーと私』を読んでみた。これら二冊の本を読んでサントリーとニッカとの関係がよくわかった。


川又 一英 著 『ヒゲのウヰスキー誕生す』新潮社(1982/11発売)

竹鶴 政孝 著 『ウイスキーと私』 NHK出版(2014/08発売)

# by office_kmoto | 2017-04-05 06:52 | Comments(0)

北 康利 著 『西郷隆盛―命もいらず名もいらず』

北 康利 著 『西郷隆盛―命もいらず名もいらず』 _d0331556_05534377.jpg 以前佐治啓治と開高健の人物像を逸話を含め、興味深く読んだ。この人の書く評論は面白い。なのでもう少しこの人の書いた本を読みたくなり、この本を手にした。
 とにかく西郷隆盛の一生を詳しく綴っている。しかも西郷に関わりのあった人物たちの写真や図版がいっぱいあり、その人物が出て来ると、ああ、こんな人だったんだな、と思えるのは楽しかった。
 その上煩わしい作者の感情移入がほとんどなく、淡々と史実を語り続けるので、この本は西郷隆盛をという人物を知るには格好の書であると思った。唯一著者の感情がこもっている場面は江戸無血開城のところで、西郷と勝海舟の思いにはせるところだろうか。


 当時武士の命より誇りを大切にする生き方がわからなければ、彼らのやり方はまどろっこしいだけだろう。物質よりも精神が圧倒的に優位だった時代は、今でははるか遠い幻影になってしまった。それだけに、現代人には感情移入しにくいかもしれない。しかし、生き方に美学を持った彼らの人生が、今はわれわれよりすがすがしいものに思えるのは、おそらく筆者だけではあるまい。


 さて、この本ではいろいろなことを知ることになる。それを書き出してみる。


 西郷は、当時としては人並みはずれた巨軀の持ち主であった。江戸末期の成人男子の平均身長は一五五センチ戦後とされるが、西郷は五寸九尺(約一七九センチ)。晩年には肥満し、体重が二十九貫(約一〇九キロ)だったというから、“土俵の鬼”と呼ばれた名横綱の初代若乃花と同じくらいの体格だ。


 (西郷が生まれ育った)下加治屋町は、維新期に驚くばかりの人材を輩出する。
 西郷の弟である従道(海軍大臣、内務大臣)と従弟の大山巌(陸軍大臣)のほか、東郷平八郎(海軍元帥)、山本権兵衛(首相)、吉井友実(枢密顧問官)、黒木為楨(陸軍大将)、伊地知正治(宮中顧問官)、西郷の右腕であった村田新八(宮内大丞)、篠原国幹(陸軍少将)、井上良馨(海軍大将)と枚挙にいとまがない。
 <いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである>
 司馬遼太郎はそう表現した。



 いわゆる長屋にこれだけの人物がいたのである。しかも明治維新の立役者ばかり。それを一町内でやったというのは、司馬さんはうまいことを言った。


 西郷にとっての近代化は、先進技術を導入して国力をつけることであったが、決して欧米化ではなかった。彼は帝国主義の覇道を否定し、“徳”による王道で国家運営をしようとした。それが“力”で世界を支配しようとする欧米諸国に対してつきつけた、国家とはどうあるべきかという彼の答えだったのである。


 西郷は維新の立役者と言われているが、幕府を倒すこと以上に、実は藩をつぶし、武士階級を解体することのほうが難しかったはず。西郷の最大の功績は、実は倒幕ではなく廃藩置県だったのである。


 篠原(国幹)という男は日頃無口で派手な言辞を弄さないだけに、その言葉には重みがある。千葉の大和田ヶ原で近衛兵の大演習が行われた際、篠原は実に鮮やかな指揮ぶりを見せた。これに感銘を受けた天皇が「篠原に習え」とおっしゃったことから、一帯は“習志野”と呼ばれるようになったのだと言われている。


 さて、この本では歴史「皮肉」が何度も出て来る。読んでいるとまさしくそれは皮肉としか言いようのないものだ。


 一橋派と南紀派が激しく火花を散らせる中、西郷は斉彬の意を受け、必死に慶喜を将軍職に擁立しようと奔走する。その西郷が後に慶喜と対峙し、聡明な彼のために何度も煮え湯を飲まされることになるのは歴史の皮肉というほかない。


 そして実現したのが皇女和宮の将軍家降嫁であった。
 政略結婚の発想であり、戦国時代と変わるところはない。すでに婚約者がいたにもかかわらず婚約を解消させられ、本人の意向をよそに話を進められた。その婚約者の名は有栖川宮熾仁親王。後に彼は東征大総督に就任し、倒幕軍の総大将として江戸に攻め上がってくるという皮肉を歴史は用意する。



 (西郷とは対極にある人格ながら)大村の命を奪った徴兵制は、皮肉にも西郷の手によって実行に移されるのである。


 めったなことで人を褒めず、木戸にさえなかなか胸襟を開かず、西郷を危険視していた大村の下に長くいた彼(山縣有朋)が、生涯にわたって西郷のことだけは繰り返し賞賛し続けた。その山縣が、西南戦争では西郷を追い詰める側に回るのは皮肉なことである。


 (西南戦争勃発に深く関わった政府側の要人川路利良は)戊辰戦争では足軽大隊長を務めた。維新後に東京へ出て、明治四年には東京府大属(現在の課長職)になり、その後とんとん拍子に出世していく。皮肉なことに、川路を最初に引き立てたのは大久保ではなく、西郷その人であった。


 五代(友厚)という人物は大久保や川路利良同様、今でも鹿児島では大変不人気だ。才走ったところにどこか胡散臭いところを感じていた西郷は、登用しながらも距離を置いていた。やがて五代は大久保と密接な関係を築き、政商として頭角を現していく。


 徳川慶喜に対する皮肉はちょっと書いてみたい。この本では慶喜のことを次のように言う。


 後世、徳川慶喜というと、鳥羽・伏見の戦いで単身江戸に逃げ帰った愚かな将軍という印象が強いが、彼は愚将どころか人並み外れた知謀の持ち主であった。さすがは島津斉彬が幕府再興の切り札として擁立しようとした人物だ。皮肉なことだが、彼は西郷や大久保たちの前に巨大な壁となって立ちはだかっていく。


 と書く。鳥羽・伏見の戦いで、数の上では薩摩、長州を上回っていた。それでも最後は慶喜は、戦争放棄みたいな形で江戸へ逃げ帰ってくる。これだけだと「こいつどうしようもないな」と思えてしまうし、実際「情けないな」と思っていた。けれどこの本を読んでいると、慶喜の知将ぶりはなかなかのものであった。西郷たちは何度も慶喜にしてやられた。結局最後は幕府を倒してこの男を除くほかこの国を変革する道はない、と思い始める。大政奉還と王生復古がどういう意図で、その裏にある駆け引きはどんなものであったのか、それを知るとわくわくする。


 絶体絶命の状況の中、彼は窮余の一策を試みる。山内容堂からの建言を奇貨として、十月十四日、大政奉還に踏み切って世間をあっと言わせたのだ。自ら進んで政権を奉還し、倒幕の大義名分をなくしたというわけだ。
 まさか慶喜という男にここまでの度胸があったとは。西郷や岩倉たちは茫然自失である。倒そうとしていた相手を見失い、十月二十一日、朝廷は討幕運動延期を通告せざるをえなくなった。“倒幕の密勅”の効力が失われたのだ。



 慶喜たちは朝廷に政治を行えるわけはないとたかをくくって大政奉還に応じたわけだが、ここで“王政復古”を宣言することにしたのだ。武士政権以前のように再び朝廷が政治を行っていくことを高らかに宣言し、幕府はもう不要だと突き放そうというわけである。


 とにかくこの本は西郷隆盛から明治維新の実状、そして西郷という人物の懐の深さ、その人望の厚さは、彼なしに維新はならなかっただろうし、維新の功労者も彼がいなければ歴史の舞台に立てなかった。それだけに西郷は頼りにされ、また問題があっても西郷が引受け、ひとこと言えば収まる。そういう人物であったことがよくわかった。まさしく“敬天愛人”*もってして人に接していたから、人は西郷を信用し頼りにしたのだ。

 *“敬天愛人”とは<道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛するなり>(南州翁遺訓)という意。
 

北 康利 著 『西郷隆盛―命もいらず名もいらず』 ワック(2013/06発売)


# by office_kmoto | 2017-04-02 05:57 | Comments(0)

平成29年3月日録(下旬)

3月17日 金曜日

 晴れ。

平成29年3月日録(下旬)_d0331556_09582767.jpg いわさゆうこさんの『コロコロどんぐりみゅーじあむ』(アリス館2007/11発売)を読む。読むと言っても、この本、孫にあげようと思っているので、その前に目を通した、というところである。
 でも、はじめて知ったことがある。まずどんぐりの帽子みたなものを「かくと」ということ。そしてどんぐりは1年で出来るものと、2年かけてできるものがあるということ。特にどんぐりは毎年なるものと思っていたので、2年物があるとはちょっと驚きであった。

 佐伯一麦さんの『鉄塔家族』も読み終えたのだが、そこにこんな文章がある。


 手には、さっき男の子に手を貸してやったときに触れた小さく柔らかい感触が残っていた。自分の子供が生まれた頃は仕事が忙しくて、手を引いた記憶がなかった。


 私は孫と会うと必ず一緒に手をつなぐ。歩けるようになってからずっとそうしてきた。それが何の違和感もなく、当たり前のようにしてきた。確かに自分の子供の娘や息子はどうであったろう、と思う。間違いなく手をつないでいるはずだが、その記憶がない。不思議なものである。
 生活することに、仕事に忙しく、余裕がなかったのも事実だが、こうまで記憶がないものかと思ってしまう。
 この絵本の見開きにどんぐりの葉っぱの一覧がある。明日娘と孫が来る予定で、時間があれば孫と散歩がてら、毎年秋にひろってくるどんぐりがどんな種類の木からなるものか葉っぱを採ってきて、一緒にこの本を開いて調べてみようか、と思っている。

 『鉄塔家族』はもう書き出すことはない。というか、ここに書くことより、のんびりと読んで味わいたいと思って読んだ。


 夫と妻が、違う事実を持っている現実を生きており、そして、一人の人間としての相手を見つけることが出来なくなっている、という二人が結婚生活を営むのは無理だった。


 これは斎木が前妻と別れた現実を言っている。文章として淡々と言っているけれど、この事実はきついだろう。


 真新しいものよりも、長く大事に使われてきた物たちに囲まれていたほうが、身の丈に合っているようで、心が安らぐ気が奈穂はした。それに、そういうものには、物語ある。


 いい文章だと思う。


 心配事一つで目の前の風景があっけなく見えなくなる。


 これもまさしくそうで、頭の隅に引っかかっていることが何かあると、そればかり気になるのは仕方がない。私は何十年もそうして会社人生を過ごしてきた結果、会社以外何も見ることが出来なかった。

 この本はまた読みたくなるだろう。


 今日は彼岸の入りなので、義父の墓参りをする。


3月18日 土曜日

 晴れ。

 孫と娘が来る。明日二人は友人とディズニーランドへ行く予定だそうだ。家よりこちらから行った方が楽ということで、この連休泊まることになっている。
 丁度お彼岸なので、家に着いたとき、そのまま義父の墓にも参ってもらう。

平成29年3月日録(下旬)_d0331556_09594427.jpg 吉村昭さんの『街のはなし』(文藝春秋 1996/09発売)を読む。吉村さんのエッセイは久しぶりだ。
 昔、吉村さんが書く日常の出来事をさらっと書くのが好ましく、自分もこのように書ければいいなあ、と思っていたことがある。そんなことを密かに目指しているのだが、いまだにこうした文章は書けない。やっぱり素人では難しいところがある。
 この本を読んでいて、まあそれにしてもよく人を観察するものだ、と感心する。さらにその観察から一人勝手にあれこれ想像する。その想像が大きなお世話みたいなところがあっておかしい。
 たとえば、


 落着かないというのは、その男と女の関係である。お互い交わす短い言葉や仕種で、夫婦でないことはまちがいない。しかし、二人の間には、肉体的な接触が、どうしてもあるとしか思えない。長年の勘で、これは絶対の自信がある。
 また、二人は、他人同士のむすびつきでもない。たとえば、女は、男の妻の妹で、妻はなにかの事情で店に出ず、代りに店で働いている彼女が、姉の夫と結びついた……?
 大きなお世話だと言われるかも知れないが、二人がどのような関係か、あれこれ推測していると落着かないのである。(落着かない店)


 といった感じだ。


 日暮里町は荒川区にぞくし、明治以後、区内で生れて小説家になったのは私だけの由だが、私のことなどだれも眼もくれない。

 家内も小説を書いているが、福井市生れで、彼女に対する故郷の人々の態度は、日暮里町での私の扱われ方とは全くちがう。郷土出身の作家として遇している。
 家内と福井県下に行くと、それを痛感する。県内紙の新聞記者が取材に訪れてくるが、むろん対象は家内で、私に声をかけることすらしない。カメラのレンズは家内に向けられ、私は、写真に入らぬように脇に身を避ける。(内)


 これは笑った。確かに奥さんは芥川賞受賞作家であり、吉村さんは何度か候補になっているものの落選している。芥川賞が作家のステイタスだとすればそうならざるを得ないかもしれない。吉村さんの自伝的エッセイを読んでいると、そんな卑屈さを感じさせるものがあった。もっとも私は吉村昭という作家の方が好きなのだが。


 県の観光課の人が来て名所、旧蹟を案内する場合も、課員は家内のみ説明する。(内)

 イギリスのエリザベス女王の夫君であるエジンバラ公以下だな、と卑屈な思いになる。(内)


 それでも(という言い方失礼か)、荒川区では吉村さんの記念文学館などを備えた区の複合施設「ゆいの森あらかわ」が今月26日にオープンする予定だ。
 実はこれを楽しみにしていて、オープンしたら見に行こうと思っている。


3月20日 月曜日

 晴れ。

 夕方孫たちは帰って行った。孫たちが帰ると、家はとたんに静かになる。さっきまで孫がドタバタと走り回り、騒いでいたのが嘘みたいだ。
 案外寂しいものだな、と思いつつ、今日届いた古本を読み始める。ちょっとこんな気分に読む本じゃなかったかな、と思ったが、まあ読み始めた以上このまま読み進める。


3月21日 火曜日

 雨。

 雨で肌寒い日だったが東京でサクラ開花宣言が出されたそうだ。
 毎月の病院へ行く。もう一ヵ月分花粉症の薬を出してもらう。
 いつものようにヨーカドーへ行き、珈琲館でランチを食べる。食後ここで焼くホットケーキを食べる。前回食べたとき美味しかったので、またリクエストしたのだった。
 その後シマホでダイニングテーブルを見る。今使っているテーブルは結婚する前に揃えたもので、いい加減汚れてきたし、セットの椅子も一つ壊れて他の椅子で代用している。今はもうここで妻と二人で食事することが多くなってきたので、小さめのダイニングテーブルを探そうと妻と話しあっていた。いいものがあったが、もう一度サイズを測ってからにすることにする。


3月22日 水曜日

 晴れ。

平成29年3月日録(下旬)_d0331556_10005125.jpg 南木佳士さんの『阿弥陀堂だより』(文藝春秋1995/06発売)を読む。

 例によって、多くの死者を看取ることで病んでしまった医師の話なのだが、これまではその医師が男性だったのが、今回女医という設定になっている。
 詳しいことは以前に書いているので、これ以上は書かない。

 孝夫は相変わらず机に向かうものの原稿が書けず、美智子をフォローする役に徹している。「阿弥陀堂だより」が掲載されている『谷中村広報』配りを隣の田辺のおばさんに代わって配ったりもする。この田辺のおばさんは田んぼとモーテルで忙しかった。


 「モーテル、ですか」

 「ああ、町のモーテルで布団敷きの仕事してるだよ。広間から来るすけべえがいるから、パートだけど、けっこう忙しいだよ。それじゃ」


 南木さんが描く村の人々は、明け透けで、露骨だけれど、その分素朴でしたたかだ。でもそれがたくましさを感じさせる。
 田辺さんは桜木紫乃さんの『ホテルローヤル』に出てくる従業員みたいでおかしかった。

 南木さんが書くものは、どちらかと言えば「後ろ向き」なことことである。自らもそんな批判があることを書いている。けれど「後ろ向き」にならざるを得ない状況、年齢になってみると、言っていることは至極当たり前のように思えている。
 たとえばここで孝夫たちが、気持ちの良い、うれしい、楽しいなどと気分を浮かせる状況になっても、「いや待てよ、ここで浮かれてはならない」と自制する。美智子の病気がまたぶり返し、あの苦しい状況に戻ってしまうかもしれない、と思うのである。だから素直に喜べない。
 でもよくよく考えてみると、こういう抑制は必要であるし、一度心を落ち着かせる効果はあるように思える。こういう警戒感は持っているべきだと思う。まして人生の復路の半分近くまで来ている身としては、ここでさらに失敗など出来ないはずで、処世術として必要なことと思っている。用心するに越したことはない。


3月23日 木曜日

 曇り。

 永井龍男さんの『わが女房教育』(講談社1984/05発売)を読む。


3月24日 金曜日

 晴れ。

 晴れているのだけれど風が強くて、体感温度はかなり寒い。今週は花粉症がひどい。スギ花粉は今がピークなんだろう。薬を飲んでいても、鼻水、くしゃみ、眼のかゆみがひどい。ゴミ箱はすぐティッシュでいっぱいになる。

 ダイニングテーブルを見に、錦糸町のニトリに行ってみる。まずはコメダ珈琲で食事をする。窓から駅が見える。歩いている人は寒そうだ。

平成29年3月日録(下旬)_d0331556_10032398.jpg

 その後錦糸公園を抜けて、オリナスに行ったのだが、公園の桜はまだ堅いつぼみのままで、東京で桜の開花宣言が出たのが嘘のようだ。あの標準木、狂い咲きしたんじゃないのか。
 結局ニトリには気に入ったダイニングテーブルはなく、シマホで見たテーブルにしようと、妻と決める。

 昨日国会で証人喚問が行われたのだが、あのオヤジと関わった人の意見がことごとく違う。どうもこのオヤジは胡散臭く、こんな男に関わらざるを得なかった人たちは迷惑な話で、放っておけば名前を出された人たちはどんどん悪者にされてしまう。厄介な奴だ。さっさと偽証罪でも、詐欺罪でもいいから捕まえてくれればいい。まあ遅かれ早かれこの男は破産するのだろうから、この男たちはおしまいだ。
 そう分かっていても、昨日はテレビで証人喚問ずっとを見てしまい、夜にはぐったりしてしまった。馬鹿みたいだ。


3月25日 土曜日

 晴れ。

 鹿島茂さんの『神田神保町書肆街』が届いたというので、指定の本屋で購入。この『神田神保町書肆街』はPR誌「ちくま」に長いこと掲載されていた。
 この「ちくま」を在職中読めたのだが、仕事を辞めてから読めなくなってしまった。だから早く書籍化しないかな、と思っていたのである。それがこの本になって、手に入れたので早く読みたい。

 今年初めてさつきに肥料を与える。こうして庭に出てさつきの手入れを始めると、また今年1年庭仕事が始まるんだなあ、と思う。いろいろやらなければならないことがあるが、明日は天気が悪いので、明後日から少しずつ始めようと思う。


3月26日 日曜日

 雨。

 なんだかゾクゾクする。風邪をひいたみたいだ。そのため横になって過ごす。風邪薬を飲んだので、夕方多少落ち着いた。


3月29日 水曜日

 晴れ時々曇り。

 風邪気味だったので、のんびりと本を読んでいた。読んでいた本は先日買った鹿島茂さんの『神田神保町書肆街考』である。この本以前から楽しみにしていた本なのでじっくり読んでみた。なかなか興味深いことがたくさん書かれていて、これをまとめるのは大変だな、と思う。一筋縄ではいかないと思い、ノート1冊を買い、そこで書き込み、考えをまとめてみることにした。

 風邪気味だったので、2日ほど家にじっとしていた。今日はだいぶ良くなってきたので、朝の散歩を再開した。


3月31日 金曜日

 曇りのち雨。

 夕方区の中央図書館へ行ってみる。時間が遅かったこともあり、しかも雨が降っているからか、館内は閑散としている。
 探している神吉拓郎さんの本が棚になく、3階の集密書庫にあるようなので、取ってきてもらう。
 この図書館の3階は資料関係が置いてある。ほとんどが貸し出しできないので、ここで閲覧するために席が設けられている。人も少なく、いい感じに落ち着いているので、席を借り、借りた本を読み始めた。
 『江戸川区の昭和』という古い写真集を眺めてみた。昔子供頃にあった商店街の写真が懐かしい。そこにある店は今もある。
 城東軌道電車の写真がないかな、と思っていたら、その電車の線路で遊んでいる子供たちの写真があった。当時はこんなところで遊んでいられたようだ。電車の本数もそれほどなかったのだろうか?
 2階のDVDコーナーを眺めていたら、南木佳士さん原作の「阿弥陀堂だより」がある。

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 この映画以前から見てみたかったので、すぐ借り、家に帰って見る。
 懐かしい田舎の風景がそこにあった。私は東京生まれなので、こんな田舎の風景に関係ないはずなのだが、何故かここに映し出された似たような風景が記憶にある。子供頃どこかでこんな風景を見ているのだ。今となってはよく思い出せないが、家族でどこか遊びにいった時の記憶かもしれない。
 映画はほぼ原作に忠実に作られている。ただ孝夫の先生の話は原作にはない。


# by office_kmoto | 2017-04-01 10:09 | Comments(0)

村上 春樹 著 『騎士団長殺し 〈第2部 遷ろうメタファー編〉』

村上 春樹 著 『騎士団長殺し 〈第2部 遷ろうメタファー編〉』_d0331556_04593420.jpg

 私は小難しい“村上春樹論”をぶちたいわけではない。単純に村上さんの書く物語そのもの楽しみたいのである。だから今回も物語を追って行こうと思う。ただし少しまとめて、短めに書きたい。

 「白いスバルのフォレスターの男」の絵は途中で止まってしまう。これ以上描けなくなってしまった。


 彼はそれ以上の肉づけを拒否し、色づけを拒否していた。


 絵はこのままにしておけ。これ以上この絵に手を触れるんじゃない。



 私はまりえと叔母を食事に誘う。そして免色が訪ねてくる。まりえは私が描いた免色の肖像画を見てみたいと言い、免色はまりえと叔母を自宅に招くこととなった。

 まりえの肖像画は緩やかに、しかし滞りなく進んでいった。

 私は『騎士団長殺し』をぼんやりと考えながら家の周辺を散歩した。家に戻る途中祠の裏にまわりあの穴の様子を確かめた。


 じっと見ていると、今にもその蓋が持ち上げられ、中から「顔なが」がその細長い茄子のような顔をひょいとのぞかせそうな気配があった。しかしもちろん蓋は持ち上げられなかった。それに「顔なが」潜んでいたのは、四角い形をした穴だ。もっと小さな、もっと個人的な穴だ。そしてこの穴に潜んでいたのは「顔なが」ではなく、騎士団長だった。というか、騎士団長の姿を借用したイデアだった。彼が夜中に鈴を鳴らして私をここに呼び、この穴を開けさせたのだ。
 いずれにせよ、この穴がすべての始まりだった。私と免色が重機を使って穴をこじ開けて以来、私のまわりでわけのわからないことが次々に起こり始めた。それともすべては私が『騎士団長殺し』を屋根裏部屋で見つけ、その包装を解いたことから始まったのかもしれない。ものごとの順番からいえばそうなる。あるいはその二つの出来事は最初から密接に呼応し合っていたのかもしれない。『騎士団長殺し』という一枚の絵が、イデアをこの家に導き入れたのかもしれない。私が『騎士団長殺し』という絵画を解き放ったことへのいわば補償作用として、騎士団長が私の前に現れ出てきたのかもしれない。しかし考えれば考えるほど、何が原因であり何が結果であるのか、判断することができなくなった。


 「ひとつ君に頼みたいことがあるんだ」



 と私は雨田政彦に言う。


 「よかったら、君のお父さんに会ってみたいんだ。その伊豆の施設に行くときに、ぼくを一緒に連れていってもらえないかな?」


 まりえは肖像画のモデルをしたあと、また私のところに来た。まりえは免色の家に招待されたとき、テラスにあった双眼鏡を見つけていた。


 彼女は言った。「わたしはいつも自分が見られているというカンショクがあった。しばらく前から。でもどこから誰が見ているのか、そこまでわからなかった。でも今ではわかる。見ているのはきっとあの人だった」


 まりえは叔母が免色と付きあっていることを相談してきた。

 そのまりえがいなくなった。免色も当然まりえの失踪を心配する。そして私は騎士団長にまりえがどこにいるのか教えて欲しいと頼む。騎士団長は一つのヒントを与える。


 「土曜日の午前中に、つまり今日の昼前に、諸君に電話がひとつかかってくる」

 「そして誰かが諸君を何かに誘うだろう。そしてたとえどのような事情があろうと、諸君はそれを断ってはならん。わかったかね?」



 電話は雨田政彦からだった。これから父親のところへ行くから、一緒にいいかないかと言う。もちろんまりえを探すためにはそれを断ってはならない。騎士団長がそう言っていたからだ。
 眠っているような雨田具彦に屋根裏部屋に上がったことを言うと、彼の目が微かに煌めいたように見えた。
 そのとき政彦に商用電話が掛かってきて、話が長くなるので、別の場所に移っていった。この部屋には私と騎士団長だけだった。
 騎士団長はまりえに会ってきたと言う。私はまりえを取り戻すにはどうすればいいのか、騎士団長に尋ねると、騎士団長は、


 「簡単なことだ。あたしを殺せばよろしい」


 「いや、正確に述べるなら、そうではあらない。諸君がここであたしを殺す。あたしを抹殺する。そのことによって引き起こされる一連のリアクションが、諸君を結果的にその少女の居場所に導くであろうということだ」


 「諸君はあたしをあの穴から出した。そして今、諸君はあたしを殺さなければならない。そうしなければ環は閉じない。開かれた環はどこかで閉じられなければならない。ほかに選択肢はあらないのだ」



 雨田具彦は騎士団長を見ているようであった。騎士団長は雨田具彦に詳しいことを聞いてみろと言う。ただし雨田具彦はそれほど体力はないから急げと言う。私は『騎士団長殺し』という絵で何を描きかっったのか、を聞く。代わりに騎士団長が答える。


 「そうだ。そのようにして雨田具彦は歴史の激しい渦の中で、かけがえのない人々を続けざまに失ってしまった。また自らも心の傷を負った。そこで彼が抱え込んだ怒りや悲しみは、ずいぶん根深いものであっただろう。何をしたところで、世界の大きな流れに逆らうことができないという無力感・絶望感。そしてまたそこには、自分だけが生き残ったという精神的な負い目もあった。だからこそ彼は、もう口を塞ぐものがなくなったにもかかわらず、ウィーンでの出来事についてはひとことも語ろうとはしなかったのだ。いや、語ることができなかったのだ」


 雨田具彦は自分が成し遂げられなかったこと、起こるべき出来事を『騎士団長殺し』という絵の中に寓話として描いた。その絵は彼の生きた魂から純粋に抽出されていた。あまりにも生々しいから彼はその絵を包装して屋根裏に隠した。それが彼のイデアであった。騎士団長は雨田具彦のイデアであった。私はそれを白日の下に晒してしまった。環を開いてしまった。雨田具彦は見てはならないものを見てしまったいるのだ。環を閉じなければならない。そのためには騎士団長を殺さなければならない。騎士団長を殺した後引き起こされるであろうリアクションによってまりえの居場所がわかるなら余計だ。私は騎士団長を刺し殺した。それは『騎士団長殺し』の絵と同じ光景だった。
 そしてそのリアクションは起こった。


 何かがこの部屋の中にいる。何かがそこで動いている。私は血に濡れた鋭い刃物を手にしたまま姿勢を変えることなく、目だけをそっと動かして、その音のする方を見た。そして部屋の奥の隅にいるものの姿を目の端に認めた。
 顔なががそこにいた。
 私は騎士団長を刺殺することによって、顔ながをこの世界に引きずり出したのだ。



 私は顔ながを引きずり出し、後ろ手に縛った。


 「おまえはいったい何ものなのだ?やはりイデアの一種なのか?」
 「いいえ、わたくしどもはイデアなぞではありません。ただのメタファーであります」



 顔ながは言う。私一人で顔なが出てきた穴に入らなければならない、と。かなり暗いところの先に川があり、渡し場から川を渡るしかないと言う。
 顔のない男(まったくこの人の話は“顔なが”“顔なし”とかややっこしい)に舟を出してもらい向こう岸に渡った。森を抜け、洞窟の入口があり、その中を進むとカンテラの光が見える。身長六十センチくらいの小柄な女だ。『騎士団長殺し』の絵にあった、手を口元にやりながら、怯えた目で騎士団長が殺される場面を見ていた女であった。


 モーツァルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』の役に即して言えば、ドンナ・アンナ。ドン・ジョバンニに殺された騎士団長の娘だ。

 「お待ちしておりました」

 「ここからあなたをご案内します」



 とドンナ・アンナは言った。ドンナ・アンナは私を案内したが、途中でここから先は私一人で行かなければならないと言う。横穴を自分を信じて進むが、身体が動かなくなってしまう。ドンナ・アンナの声が聞こえてくる。


 「心を勝手に動かしてはだめ。心をふらふらさせたら、二重メタファーの餌食になってしまう」

 「二重メタファーとは何だ?」

 「それはあなたの中にありながら、あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの、そのようにして肥えて太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からずっと住まっているものなの」
 白いスバルのフォレスターの男だ、と私は直感的に悟った。そうであってほしくなかった。しかしそう思わないわけにはいかなかった。おそらくあの男が私を導いて、女の首を絞めさせたのだ。そうやって私に、私自身の心の暗い深淵を覗き見させたのだ。そして私の行く先々に姿を見せ、私にその暗喩の存在を思い起こさせた。おそらくそれが真実なのだ。
 おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ、彼は私にそう告げていた。もちろん彼には何でもわかっている。なぜなら彼は私自身の中に存在しているのだから。



 私は何も考えず無理矢理身体を前に進めると、狭い横穴を抜け出すことができた。そして雑木林の祠の裏にある穴に出た。私はメタファーの世界から現実の世界に戻ってきたのだ。地面にはあの鈴があった。私はその鈴を鳴らし助けを求めた。免色が私をこの穴から引き上げてくれる。秋川まりえは家に戻ってきていた。
 まりえは免色の家に忍び込み、そこに免色がいることで、家から出られなくなっていたのだ。そして騎士団長の力を借りて家から出て来たのだった。
 私とまりえは『騎士団長殺し』と『白いスバル・フォレスターの男』を梱包し屋根裏部屋に隠した。結局私は秋川まりえの肖像画を完成させなかった。絵は免色に進呈した。雨田具彦は死んだ。私は妻の元に戻り、また肖像画を描く仕事に戻った。
 雨田具彦の家が焼けて、『騎士団長殺し』と『白いスバル・フォレスターの男』も焼けてなくなった。


 しかしそれと同時に私は、それはおそらく失われなくてはならなかった作品だったのかもしれないとも思った。私の見るところ、その絵にはあまりにも強く、あまりにも深く雨田具彦の魂が注ぎ込まれていた。それはもちろん優れた絵ではあったけれど、同時に何かを招き寄せる力を有した絵だった。「危うい力」と言っていいかもしれない。事実、私はその絵を発見することによってひとつの環を開いてしまったのだ。そんなものを明るいところに出して公衆の目に晒すのは、あるいは適切なことではなかったのかもしれない。少なくとも作者である雨田具彦自身はそう感じていたのではあるまいか?だからこそ彼はその絵をあえて公表することなく、屋根裏にしまい込んでいたのではないだろうか?もしそうだとしたら、私は雨田具彦の意思を尊重したことになる。いずれにせよ、それはもう炎の中に失われてしまったのだし、誰にも時間を巻き戻すことはできない。


 この話は結局自分を見失った私の自分探しなのだろう。『騎士団長殺し』と『白いスバル・フォレスターの男』の絵から井戸のような穴の存在。メタファーに惑わされず、私のあるべきイデアを探しもとめる。
 朝日新聞の書評で斉藤美奈子さんが書いていたが、この本はまさしく村上春樹の入門書としてうってつけの本かもしれない。
 言ってしまえば、自分捜しの旅に、村上春樹の得意とする大袈裟な舞台設定をし、さまざまなメタファーを駆使し、思うままに物語を展開していく。既存の舞台設定から自由に自分の得意とする世界を作り上げ、物語を展開していく。それが村上春樹の魅力なのだが、またそれが面白く、読む側も物語に惹きつけられていく。うまいものだ。これだから村上さんの物語は中毒性を持つ。


村上 春樹 著 『騎士団長殺し 〈第2部(遷ろうメタファー編)〉 遷ろうメタファー編』新潮社(2017/02発売)

# by office_kmoto | 2017-03-28 05:05 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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