山口 瞳 著 『なんじゃもんじゃ』
2017年 04月 07日
この本は図書館で借りた。昭和47年2月の第3版となっている。(初版は昭和46年3月である)ということは、この本は出版されて44年経っていることになる。
写真はこの本をスキャンしたもので、見てもらえればわかると思うが、この本に貼り付けてある「経年による劣化あり」、「染みあり」のラベルその通りの状態である。44年の間図書館で借りられ、読まれ、そして返却されれば、さすがにこうなるだろうな、という見本みたいな本である。
さすがにこれだけ年数が経って、しかもくたびれているので、この本は通常の棚に収まっていない。図書館の閉架書庫にあった。言って取りだしてもらったのである。
表紙を開くと、日付つきのゴム印が二つ押してある。一つは日比谷図書館で、もう一つが多摩図書館のものである。日付は日比谷図書館が「1972.7.25」となっており、多摩図書館の方が「1987.9.1」となっている。日比谷図書館のゴム印の上には赤い判で「消」という文字が押されている。
これから想像するに、この本は最初日比谷図書館で購入され、棚にあった。しかしどういう理由かわからないが、都落ちして、多摩図書館に移され、そして流れ流れて江戸川区の図書館の閉架書庫に余生を送ることになった。まあ、そんなところだろう。そして静かに余生を送っていたのに、私という借り手のために起こされたわけだ。
1冊の図書館の古い本からそんなことを思いはせるのも、一興ではないかと思う。
さてこの本のことである。タイトルの「なんじゃもんじゃ」はどうやらドスト氏が山から採ってきた木のことのようである。
私の家は、ビックリハウスと渾名される奇妙な建物であって、玄関に花壇がある。この花壇は一日中、日の当たることがないにである。
(略)
「山から採ってきたんです。五日市の山の奥まで行ってきたんです。なんじゃもんじゃというのは黒文字のことです。爪楊枝をつくる木です。いい匂いがします。日かげでも成長します。このへんでは黒文字のことを、なんじゃもんじゃというのです」
この紀行文は関保寿さんことドストエフスキーと山口さんが、妻から逃げる旅である。逃げると言っても、「どうやって妻をごまかし、どうやって逃げるか。どうやって妻と一緒でない日をつくるか」なのである。
ここで誤解のないようにつけ加えておく。妻というのは世間である。「世間の良識」である。妻の発言は、常に絶対に正しいのである。私たちが反逆をくわだてるのは、このような正しさである。私たちが妻から逃げるのは世間から逃れるためである。
妻は「世間」であるから妻の言うことは正しい。夫の方はどうやってもかなわない。そういう鬱陶しさから一日でも逃げることが出来れば、というので、二人でスケッチの旅に出るのである。
その逃避行の旅で武田信玄の隠し湯と言われている甲州の下部温泉での話は笑った。温泉は混浴である。湯に浸かりたいので女中に女性が風呂に入っていないか見てくれと頼む。
女中がもどってきた。
「見てきました。いまなら、だいじょうぶです。ヤットウのお婆さんが二人はいっているだけです」
「・・・・・・」
「早く、早く」
「ヤットウってなんだね」
「やっと生きているというお婆さんですよ」
(略)
そのうちに、さらに怖しいことが起った。
婆さん連が、立ちあがって押し寄せてきたのである。私たちは頸まで漬かっている。むこうは立っている。湯はフトモモの高さまでである。するとどうなるか。
怒れる獅子の鬣の如くあり、竜の髭あり、姫菖蒲あり、最新式金属製亀の子束子のごとくあり、カイゼル髭あり、無数の×点をイタズラ書きしたる如くあり、もし一人前餅焼網があったとしたらそいつを貼りつけたようなのあり、巌となりて苔のむしたるあり、火焔太鼓の模様あり、菩薩の光背あり、真実一路の頭あり、千差万別、ジャリジャリ、ヤワヤワ、サヤサヤと迫ってくる。
「ナニ、おそれることあるものか。もとはといえば己の在所ではあるまいか」
私は、耐えていたが、やがて、一声。
「助けて呉れェ!」
そしてさらにオチがある。道端に野木瓜(あけび)が墜ちていたのでドスト氏が採ってきてあげるという。山口さんは危ないからと止めるが、ドスト氏は野木瓜を取りに行く。その時山口さんの言う。
「私は、もう笑み割れた野木瓜の実は結構です。その形は、温泉でたくさん見すぎてしまいました」
さて、山口さんたちは津和野にある鴎外の生誕の地を訪ねる。山口さんが鴎外の遺書に痺れたことが書かれている。
少年の頃、私は、鴎外の遺書を読んでしまった。これがいけなかった。
鴎外の遺書のことは昔聞いたことがある。調べてみると次のようである。
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス 大正十一年七月六日
森 林太郎 言(拇印)
賀古 鶴所 書
森 林太郎
男 於莵
友人
総代 賀古鶴所
以上
この遺書を山口さんは読んで考えたのであった。
鴎外が「テヤンデエ」と尻をまくったように思われた。そうして、鴎外における立身出世も親孝行も、このような虚無思想に裏打ちされていることを知ったのである。ザマアミロと思った。
私の育った時代と環境がいけなかったのかもしれない。官権威力が私に死を迫っていたのであった。これから死ぬんだから放っといておくれという考えは、戦中戦後を通じて、いまにいたるまで私を支配するようになる。
これが私を駄目にした。
(略)
鴎外が私を縛った。
生きるとは何か。死とは何か。しょせん、石見の人森林太郎として死せんと欲すに尽きるのではないか。軍医総監も大文豪も、車夫場丁もドン百姓も同じではないか。
錦を着て故郷に帰るということを嫌悪するとまでいかなくても、逡巡の気持が働いたと思う。死期を覚った鴎外は、帝室博物館長として、上野の坂をよぼよぼと歩くほうが己に似つかわしいと思ったのではないか。私が鴎外にいかれてしまうのは、そういうところである。
私が鴎外の遺書に聞き覚えがあるのも、山口さんが言うのところに共感したからだと思う。いくら立身出世しても、最後は森鴎外ではなく、単に石見の森林太郎として普通の人間として死ぬことを望んだ。そこに出世のむなしさを感じたのではないか、と思ったのである。もっともこの言い分は“キザな奴”というそしりは免れないとも思うが。
山口 瞳 著 『なんじゃもんじゃ』 文藝春秋(1971/03発売)